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有鄰


平成13年7月10日  第404号  P4

 目次
P1 ○鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介  佐江衆一
P2 P3 P4 ○座談会 熊田千佳慕の世界 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  桐原良光と『井上ひさし伝』        藤田昌司

 座談会

熊田千佳慕の世界 (3)



「見て、見つめて、見極める」

篠崎 先生の描き方はどういうところから生まれたのですか。

熊田 一番のもとは戦災で焼けたということなんです。これが僕にはとても福になったんです。

熊田夫人 五月二十九日の空襲は朝でしたから、物を防空壕へ非難させる暇がなかったんです。朝起きない人で、普通は早く起きてきても十時ですから、まだ寝ていたんです。

熊田 きれいさっぱり焼けてしまったので、師匠の山名文夫先生の所に行ったら、全部道具を集めてくださったのです。いつもなら素直にいただいてくるのに、何か抵抗があるんですね。「鉛筆一本で結構です」と言うと「えっ!」とびっくりされた。消しゴムも要らない。鉛筆一本と紙をいただいて帰ってきたんです。

そしたら一本の線を引くにも、普通の方は何本も引いて要らないところは消して一本の線を引く。それができないから、物を見るときによく見るんですね。見て、もう一つは見つめるんです。そして最後に、あっ、これだと見極める。見て、見つめて、見極める。このプロセスを神から授かったんですね。

それで、あっ、この線だなと思うときにスッと引く。こういうスケッチがそれから始まったんです。そこまでいかないといけない。そうすると頭に入りますね。そういう環境にならなかったら、今の絵はなかったわけですよ。

 

  低い目線で描くのは軍事教練で腹這いになったときから

篠崎 先生のお描きになる特に虫の絵は、低い目線で描かれていますが、これもこの頃からなんですか。

熊田 それはもっと前になります。神奈川工業での軍事教練のときに、みんな腹這いになって、どんどん撃つんです。僕は撃つのがきらいなので、あごに手をやって見ていたら、草むらからコオロギが出てきたりする。これが虫の世界だなと思いました。

ウスバカマキリ
ウスバカマキリ『ファーブル昆虫記』
(コーキ出版)から
それまでは、上から見ていた。あっ、これが虫の本当の世界だと思って、もう顔を地面にくっつけるようにして見ていた。静かになったなと思ったら、もうみんな向こうに行っていた。そのときにまた芝居が役に立ったのですが、片足を引きずりながら出ていったんです。

教官が怒ろうとしたので、「実戦では、こういう負傷した兵隊もいるんじゃないですか」と言ったら、「そうか、よくやった」ってほめられました。

そのときに初めて、虫の世界は、自分の目をそこまで下げないと見えないということがわかったんです。

篠崎 それが、そういう視点で見るようになられた原点ですか。

熊田 はい。

 

  道路に腹這いになって虫などを観察し家に帰って描く

篠崎 先生は今でも道路などに腹這いになって観察されるそうですね。

熊田 行き倒れだと、すぐ思われる。

篠崎 お住まいの三ツ沢の周りですか。

熊田 うちの周りでもやりますし、あと豊顕寺(ぶげんじ)のほうとか。

今の人は、十メートルぐらいの所に来ると、立ち止まってこっちをうかがいますね。僕だったらサッと飛んで行って、「どうしました?」と言いますけど。それで何か観察しているなと分かるとそばに来ます。それを観察するのも面白いですね。(笑)

篠崎 主に虫ですか。

熊田 ええ。虫がたくさんおりますから。僕は現地では決してスケッチはしないんです。ただ、観察している。虫は四六時中動いていますから、一々描いていたら本当のものが描けないんです。

皆さんはよくスケッチしていらっしゃるけど本当のものは描けないと思いますね。それより、一緒になって見て、頭に焼きつける。それでうちに帰ってきて、頭の中に入っているものを描いていくんです。

 

  描く前に座禅を組んで花と対話

篠崎 花も外で観察なさって、自宅にもどられてから描かれるんですか。

熊田 ええ。それから切って持ってきたり、持ってこられるものは、机に持ってきます。

まず初めに座禅を組むんです。花なら花との対話です。これは本当に口はばったい言い方ですが、神との対話みたいな感じになるんですね。

そういう雰囲気になって見ていくと、ここはこう描くんだよ、と教えてくれるようなことがよくあります。不思議ですが。

 

  細密な色の画法の始まりも窮乏生活から

篠崎 色の付け方はどういうところから生まれたのでしょうか。

熊田
カラ類とメジロ
カラ類とメジロ
大概の色は頭で覚えました。そのために何回も何回も見ました。だけど中間色のところは覚えられません。それで、弱ったなと思っていたところ、避難していたうちの縁の下に、空襲で焼け残ったコチコチの絵の具が固まって捨ててあるのを見つけたんです。 見たらフランスのル・フランの絵の具で、ちょっと水をつけたら美しい紫が出たんです。

それでコチコチの絵の具をお皿にくっつけて溶いたのですが、量が少なくて、一筆で線を引くことはできないんです。そうだ、一つの面というのも細かい線が固まってできるんだ、と思って、それで筆先に少しつけて、鉛筆描きのようにして描いていったんです。そうやって色を 使いました。それが僕の画法の始まりなんです。

篠崎 絵の具の量が少なかったために、細く細く、一本ずつ描かれたわけですか。まさに糸ですね。

熊田 そうなんです。ちょうど日本刺繍と同じで、下の色が上に出てくるわけです。それを皆さんがご覧になると非常にやわらかで、立体的に見える。こういう描き方も、やっぱりそういう境遇じゃなかったら生まれなかったと思いますね。

篠崎 先生が発見されたわけですね。

熊田 発見というより神様が教えてくださったんです。それで、全部神様から教わった技法だから、こんなものを売ったら大変なことになるという気持ちになり、絵は一枚も手放さないんです。

篠崎 先生の絵を欲しいという方は大勢いらしゃいますでしょう?

熊田 一枚でも二枚でも、少し売ればもっと生活が楽になるのにと、よく友だちに言われたのですが、やはり売れませんね。

篠崎 おうちできちんと保存なさるのは、大変でしょうね。

熊田夫人 空気が遮られているようなうちでしたら、湿気や暖房で困るでしょうが、うちはすき間のあいている家で、年じゅう空気の出入りがありますから、保たれてきたんだろうと思うんです。今はもう入りきれなくなって、半分ぐらいは外部に預けてあります。

篠崎 先生の作品は全部でどのくらいあるんですか。

熊田 僕は一枚一枚に相当時間がかかるので、数は割と少ないんですが、八百点ぐらいはあるんじゃないかと思いますが。

 

  「千人の佳人から慕われる」意の千佳慕に

篠崎 先生はどうして千佳慕さんというお名前にされたのですか。

熊田 僕は五番目の子どもでしたので、五郎とつけられたんです。ほかの兄弟はみんな凝った名前なのに、僕だけ単純に五郎なんです。

僕は小さい頃から熊田五郎という名前が嫌いだったんです。幼稚園や小学校でも、よく出席をとりますね。僕は、「熊田五郎」って呼ばれるのが、ほんとにいやでしようがなかったんです。

それでもずっと熊田五郎で仕事をしていたんですが、四十歳前ぐらいの頃でしたか、あるとき、あるおじいさんが手紙をくださったんです。孫に絵本を買ってきて、見ていたら、この絵はすごくいいと思われた。ところが、その絵に書いてあった「ごろう」というサインを見て、 この名前はよくない、病気になって、すぐ死んでしまうと。だから私の言ったとおりの名前にすぐ変えなさいと書いてあったんです。

熊田夫人 学研の幼稚園雑誌の『おともだち』に描いていた頃です。

熊田 その人に「千佳慕」という名前にしなさいと言われたんです。三か月たつと財政が少し豊かになり、名声も出てくる。三年たてば、あなたの前途は洋々たるものだと言われました。しかし、名前を変えて三か月たっても何も変わらないんです(笑)。 三年たっても同じなんです。

篠崎 何年目からよくなりました?

熊田 何年たっても全然だめですね。(笑)

篠崎 その方は面白いお名前を選ばれましたね。

熊田夫人 「千人の佳人から慕われる」という意味だそうです。皆さんに名前を知っていただいたから、それだけは当たりましたけどね。それから体が丈夫になったことも。財政だけが豊かになりませんでしたけど。(笑)


70歳のルネサンス−「私は虫であり、虫は私である」

熊田 自分でも本当に不思議なんですが、七十歳になったときに展覧会を開いていただき、初めて、「私は虫であり、虫は私である」ということが夢の中で聞こえたんです。そうか、自然は自分のためにあって、僕は自然のためにあるんだなという気持ちになりました。 ですから七十歳は僕のルネサンスなんです。それまでは水面下のヘドロの所で、ずっと生活をしてきましたので。

篠崎 水面下のときがおありだったから、七十歳で画期的なものが出てきたんでしょうね。

熊田 詩人だった一番上の兄から「リルケが言った言葉に、七十、八十になって初めて一行の詩が書けるんだというのがある。五郎、決してあわてちゃいけないよ」と、よく言われていたんです。それで七十歳になったとき、兄はヘレン・トローベルというピンクのバラが好きだったんですが、「ヘレン・トローベルを描いてくれないか」と初めて兄が僕に言った。僕の絵を 認めてくれたんです。

 

  生涯の中で八十歳が一番輝いていた

篠崎 七十歳ぐらいになると、もう一度若いときに返りたいとか、よく聞きますが、お年をだんだん積んでいかれることを、先生はどういうふうに考えておられますか。

熊田
セイヨウタンポポ
セイヨウタンポポ
僕は単に新しいところに行かれるな、と思っているんです。七十になって、目が覚めたんだから、まだ大丈夫だろうと思いました。

八十歳のときは、まだまだ何かあるなと思いました。そうしたらNHKのドキュメンタリー番組「プライム10−私は虫である」という大きな仕事が来ました。これをやり始めたら、もううれしくてうれしくて夢中になってやった。それで、あっ、これだけまだ力があるんだなと思いました。それから次々に新しい仕事が来たんです。

だから、生涯の中で八十歳が一番輝いていました。いろんなことをしました。ところが、九十歳というのは、もう先が見えているんですよ。

篠崎 だけど、また別なご心境が開けるのではないかなと思うんですが。

熊田 そうも思ったりもするのですが……。二十年前に有隣堂で展覧会をやって、七十歳からいろいろ仕事が増えましたから、また今度、有隣堂で展覧会ができることは、本当に僕にとってうれしいことで、これをつかんだら、また少しは何かが出てくるかなと思っています。

今はそういう心境ですが、去年はちょっと病気をしたりして、仕事ができなくなってしまっていたんです。

篠崎 これからのお仕事はどんなことを考えていらっしゃいますか。

熊田 先ほども言いましたように昆虫記の仕事が永久にあります。小学館から一枚でも多く描いてくれと言われているんです。今は、一年に三枚のペースなんです。

篠崎 あとは何か新しいことはお考えですか。

熊田 まだ別に考えておりません。描きたいものはたくさんあるのですが。それともう一つ。ファーブル先生の一人芝居をやりたいこと。

 

  展覧会では代表作五十数点を展示

篠崎 今回、伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催させていただく「熊田千佳慕の世界」展では、『ファーブル昆虫記』をはじめ『ふしぎの国のアリス』『ライオンめがね』『みつばちマーヤの冒険』の原画や今年四月に小学館から出された『花を愛して』の原画、その他、先生が今までお描きになった虫や動物など、 代表的な作品を約五十数点展示させていただきます。それから、会期中に先生が読み聞かせもやってくださいます。

熊田 七月二十二日です。初めてなんです。兄の詩を読まされたことが一度ありますけど。

篠崎 二十日には先生のトークショーとサイン会も予定しております。

熊田 伊勢佐木町のお店は僕が小さいときから行っているから、なつかしくてね。

篠崎 きょうは本当にどうもありがとうございました。




 
くまだ ちかぼ
一九一一年横浜生まれ。
著書『ファーブル昆虫記の虫たち』1〜4 小学館各1,995円(5%税込) ほか多数。
 




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