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有鄰


平成14年5月10日  第414号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜港大さん橋 (1) (2) (3)
P4 ○横浜・野毛−大道芸人がやって来る街  森直実
P5 ○人と作品  阿川佐和子と『いい歳 旅立ち』        金田浩一呂



横浜・野毛−大道芸人がやって来る街
森直実





  観客が芸に値段をつける面白さ

森 直実氏
森 直実氏
 演劇や、映画、コンサートその他芸能全般、まだ見ぬうちに劇場入り口で入場料として代金を取られる。確立された当然のシステムだ。後で高すぎると思う事がしばしばあるが、お代(料金)は返してくれない。ところが、大道芸では、お代は見た後で支払うのである。実際は、お代は支払わずに立ち去る人のほうが多数である。たとえ十分楽しんだ後でも払わないのだ。 よほど観客を満足させないと商売にならない。だから真剣勝負、大道芸で金を集めるということは大変な事なのだ。

 品物の値は、売り手が付けるのが普通である。ところがこの場合、芸を見た観客が面白さに感じてそれに見合ったご祝儀を出すわけで、見物人が芸の審査員でもある。芸に値段をつけるのが、観客(買い手)であるという面白さ。大道芸の面白さの一つはここにあると思う。

 JR桜木町の駅を降り、ランドマークタワーを背に山側へ五分ほど歩くと、小さな飲み屋や風俗店が立ち並ぶ街、そこが「野毛」である。

 戦後、野毛は闇市によって活気に溢れかえる街だった。それは横浜市の中心部が占領軍によって接収されていたからだが、昭和二十年代後半に接収がほぼ解除され、またその後の高度経済成長に伴い、野毛の街はだんだんと勢いを失ってゆく一方であった。そんな「野毛」をもう一度、庶民の街によみがえらせようと地元の人が一体となって、一九八六年、大道芸による街おこしイベントが生まれた。

  国内外のパフォーマーが年一回、野毛に結集

フェイスメイクをするブリジット・デュフレンヌ
フェイスメイクをするブリジット・デュフレンヌ
(カナダ)
 「野毛大道芸」は、町中の道路を歩行者天国として、ストリートパフォーマーたちが所狭しと妙技を競い合う。今や動員数六十万人を超える、横浜を代表するイベントの一つに発展したことは間違いない。国内だけでなく海外からもたくさんのパフォーマーが結集する。普段は世界を股にかけて活動するパフォーマーたちが、年に一回、仲間たちと会えることを楽しみに、春になると野毛の町に帰って来てくれるのだ。

 野毛大道芸は、アジアの大道芸の紹介にも力を入れている。近年では、インドネシア、中国、韓国、モンゴルから芸人さんに来てもらった。その一環として今年は、韓国の飴売り大道芸「ヨッチャンス」を招聘した。公演は大好評で、中区福富町の在日大韓民国民団の方には大変にお世話になり感謝している。

 飴を売るための人集めに大道芸をするやり方は、日本の大道芸も同様であった。韓国の大道芸は日本の大道芸のルーツの一つであろう。日本でも芸で人を集め、その後物品を売った。多くの方がご存知の、「がまの油売り」や「バナナのたたき売り」などがその典型である。江戸期における大道での太神楽などは芸を売ったが、多くは物売りでもあった。

  西洋型のハットマネーを目指す

 「大道芸は物売り」というのが定着したために、日本では芸そのものにお金を支払う習慣がなかなか育たなかった。西洋では、政治的宣伝のためなど、人集めの手段としての大道芸もあったが、多くは演じられる芸に対して観客は金を払った。芸人は演じる舞台である大道に帽子を置いた。その帽子に観客はお金を入れるので、いわゆるこの投げ銭のことをハットマネーと呼ぶ。

 野毛大道芸は初めから西洋型を目指した。しかし観客はハットマネーの習慣がないのでみんなタダ見して帰ってしまうのである。また、日本の芸人さんも大道で金をもらうのに抵抗があったようだ。 地元商店街の人たちで構成される「野毛大道芸実行委員会」では、ハットマネーの理解と指導をすることから始めなければならなかった。

  「野毛大道芸ふぇすてぃばる」として出発

 街おこしで何かしようという企画が持ち上がったとき、野毛には資金がなかった。この頃、フランスのサーカスで十年活躍したイクオ三橋氏が帰国し、野毛の街でパントマイムなどのスタジオを開いていた。三橋氏は時々、野毛の路上で大道芸なども試みていた。予算がなくてもできそうな大道芸、街は、この三橋氏に企画を相談し、始まったのが「野毛大道芸ふぇすてぃばる」である。規模も小さく、フェスティバルと言うほどでもないので「ふぇすてぃばる」と洒落たのだった。その後、 固有名詞化を考え「ふぇすてぃばる」の文字を取り去り、「野毛大道芸」とした。第一回目は、参加の芸人さんも少数で、観客も延べで三千人に満たなかった。六十万人となる、今日の「野毛大道芸」からは想像できない。

野毛大通りでジャグリングするミスター・ハム
野毛大通りでジャグリングするミスター・ハム(イギリス)
 サッカーリーグが日本でも盛んになり、フェイスメイクが理解されるようになったが、野毛の大道芸が始まった当初、遊び心で顔に何か描く習慣は日本にはなかった。西洋の会場では、楽しいフェイスメイクを観客がして、場を盛り上げる。まず日本では、このフェイスメイクをするプロのアーティストすらいなかった。いなければ野毛で養成するしかなかった。

 道化師(クラウン)の問題もあった。日本では道化というとピエロしかイメージできない。ピエロも道化(クラウン)の一人だが、西洋にはいろいろなキャラクターの道化がある。「道化」は「クラウン」の訳だが、ピエロだけが道化 ではないのだ。

 ピエロのキャラクターを説明すると戦慄する。ピエロはチビで、デブで、ハゲ(これじゃ三重苦)である。そして、赤鼻で、どんぐり眼、頬も赤く、おお口で、頭が おかしく、変な模様で体に合わないダブダブの服にブカブカの靴を履き、おまけにヘマばかりして他のクラウンにいじめられる。それを観客が見て嘲笑するわけである。

 これが疑問を持たずに楽しい時代もあったのだが、ここで人権問題を持ち出すまでもなく私は楽しくない。もっと魅力的で楽しいクラウンもあるのである。だが、多くの実行委員ですら無理解であり、いまだにピエロの呪縛から脱出したとはいえない。

 楽しい催しを生み出すのには、すべて手作りで行なわねばならなかった。野毛大道芸はすべてが早すぎたのかもしれない。

  自由な精神の人が多い大道芸人

 海外から多数の芸人(パフォーマー)が、野毛にやって来る。付き合ってみるとインテリジェンスが高く、進歩的な考えの人が多いのに驚いた。

 準備で遅くなって、ベルギーの芸人さんとバスを利用して帰ったことがある。停留所の数で六つほどの道のりであったが、バスから降りると、非常に悲しそうなのである。理由を問うと、「この短い距離でバスを利用し排気ガスを撒き散らした自分がつらい、歩いて帰りたかった」というのである。また、この人は自然食品しか口にしない。その後、私は時間に余裕があればバスを使わずに、歩くことが多くなった。

 オランダから来た女性ジャグラーは、生後三か月の乳飲み子を抱いて来日した。環境破壊につながる使い捨ての紙オムツは使わず、汚れたオムツを入れたバケツを片手に、赤子を抱いて堂々と成田空港ロビーに立つ姿は、美しい人だけに神々しく見えた。その夜、バーのカウンターで酔っ払いの男たちの目前で堂々と乳房を露出し、母乳を与える姿に男たちは完全に負けた。

 大道芸人には、つまらない呪縛から逃れ、自由な精神の人が多い。お金とか物欲、社会的地位などに執着しないで、自分の心の自由のために生きる事を最優先している感じがする。そう、哲学がある。このような精神、哲学が日本人には最も不足しているのではないか。典型的な日本人の精神構造を持つ私は反省する。

 野毛大道芸をボランティアで手伝っている私は、このような人々に会えたことが収穫であったと思っている。「野毛大道芸」の始まりは、ちょっとしたキッカケであった。あまり難しい理屈はなかった。なぜ発展したかは正直なところ分からない。「芸人さんをはじめ、スタッフや催しを支える人々がいた」ということに尽きる。  

  野毛だけではなく赤レンガ倉庫や伊勢佐木町でも開催

 野毛の街で始まった「野毛大道芸」は、年々発展・拡張して開催エリアが広がっている。今年は、赤レンガ倉庫と伊勢佐木モールでも行なわれた。汽車道、ワールドポーターズ、ランドマークとその周辺、吉田町、そして赤レンガ倉庫に伊勢佐木町と、大道芸のエリアが広がり「野毛大道芸」と呼ぶより、すでに「横浜大道芸」といったほうが適切であるような状況にまで発展している。

 しかし、ボランティアスタッフ約百人に支えられた、野毛の街の手作り「野毛大道芸」の精神を失わないようにしたいものだ。精神を生かしながらもイベントの規模を広げる難しさを感じている。この問題をどのようにクリアしたら良いか、今後の大きな課題でもある。




 

もり なおみ
一九四八年栃木県生れ。野毛大道芸アートディレクター。
編著書『大道芸人』ビレッジセンター、『野毛大道芸—森直実写真集』かなしん出版(いずれも品切)。





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