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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成14年6月10日  第415号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜−下町・落語・にぎわい座 (1) (2) (3)
P4 ○新発見の大磯町高来神社の木造神像群  薄井和夫
P5 ○人と作品  三宅孝太郎と『開港ゲーム』        藤田昌司

 座談会

横 浜
下町・落語・にぎわい座 (1)

   落語家   桂 歌丸  
  横浜にぎわい座館長   玉置 宏  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎 
桂歌丸氏
桂歌丸氏
玉置宏氏
玉置宏氏
江戸は三代住んで初めて江戸っ子、横浜は三日住めばハマっ子だと言われています。横浜は安政六年(一八五九)に開港して、ことしで百四十三年になります。全国各地から多くの人たちがやってきて発展した、歴史の新し い町です。

幕末のころ、関所がちょうど今の伊勢佐木町の入り口の吉田橋にあり、その北側は、いわゆるお役所や貿易商などが集まる関内(かんない)地区、吉田橋から南側が関外(かんがい)と呼ばれる伊勢佐木町に代表される下町が形成されました。

そして明治十三年に伊勢佐木町が「観世物興行場」に指定され、数多くの芝居小屋や寄席など、大衆の娯楽場が開業しました。

きょうは、横浜の下町の生活や横浜と落語の関わり、そして四月に、野毛にオープンしました「横浜にぎわい座」について、ご紹介をいただきたいと思います。

ご出席いただきました桂歌丸師匠は、横浜市南区真金(まがね)町のお生まれです。テレビ番組の「笑点」でもおなじみで、落語芸術協会副会長もお務めです。地元横浜のことになると、本気で一肌もふた肌も脱いでくださる方とうかがっております。また、横浜市ふるさと歴史財団の評議員としてもご活躍です。

玉置宏先生は、昭和三十一年に文化放送に入社され、その後、歌謡番組などの司会者として活躍、日本司会芸能協会の会長をお務めです。NHKの「ラジオ名人寄席」などにも出演され、「横浜にぎわい座」の初代館長に就任されました。川崎市にお生まれになり、横浜市青葉区にお住まいです。


真金町の遊郭に生まれ育つ

篠崎  横浜の下町はどの辺りをさすかについては、諸説あるそうですが、横浜市が誕生した明治二十二年当時、関外の中でも浪花町(現在の羽衣町)など の三十四ケ町を下町と呼んでいいそうです。言い換えれば旧吉田新田の辺りになります。野毛や元町も低い所は下町ですが、野毛の丘には、原善三郎や茂木惣兵衛といった 横浜を代表する貿易商の別荘がありましたし、元町は裕福な商店が多いということもあって、少し性格が違うようです。ですから、伊勢佐木町より南側、江戸時代に吉田勘兵衛が 完成させた新田の一帯に商人や職人が多く住んでいたので、その辺りを下町と呼んでいるようです。

歌丸  横浜の地図を見ますと、釣り鐘の形をした所が吉田新田の埋立地ですね。すると、私が住んでる真金町は横浜の下町のど真ん中ですね。

篠崎  そうですね。古い写真を見ますと、真金町あたりは明治三十年頃まではまだ水田なども多く残っている感じですが、震災前の伊勢佐木町は真金町・永楽町の遊廓(永真遊廓街)や賑町の芝居小屋があって繁栄したようです。

 

  賑町と呼ばれていた現在の伊勢佐木町三・四丁目

歌丸  あたしたちは子供のころも、戦後も、たまに今でもハッと出ちゃうんですが、伊勢佐木町を賑町、賑町と言っていて、伊勢佐木町とはあんまり言わなかったんです。

篠崎  そう呼ばれていた時期が長くあったからでしょうね。吉田橋のほうから言いますと、今の伊勢佐木町の一丁目の所が、もともとの伊勢佐木町で、今の二丁目は松ケ枝町、三・四丁目は賑町だったんです。それが昭和三年の町名整理で、その先の長島町なども含めて、通り全体を伊勢佐木町と呼ぶようになったんです。もとは違う町名があったんです。東京でもそういうことがあるようですね。

歌丸  これは噺の中に出てくるんですが、人形町から江戸橋のほうへ抜ける所に親父橋という所があった。そこはもとの町名がわからない。通称で照降町。照っても降っても役に立つ、げた屋と傘屋が並んでいた。これは髪結新三という噺に出てくるんです。回り髪結の新三といって大変な悪人です。 楽太郎みたいなやつで。(笑)

クリックすると拡大画像が見られます
大正時代の伊勢佐木町周辺
(『横浜三街物語』 有隣堂刊から)
玉置  長い噺なんですが、歌丸さんが人情噺という形で復活させて。

歌丸  はい。でも、地名って面白いですね。

 

  真金町で女郎屋を営んでいた祖母

篠崎  歌丸師匠は、真金町のお生まれなんですね。

歌丸  そうです。今も、ずっと住んでるんです。

篠崎  お酉さま(大鷲神社)のすぐそばですか。

歌丸 
大鷲神社(明治後期)
大鷲神社(明治後期)
はい。昔、あの中で女郎屋をやっていたから、ど真ん中にいたんです。祖母がやっていたんですが、もう面倒も見切れないというので、廃止になる前に人に譲って、手を引いたんです。それで二丁目から一丁目の今の所へ引っ越したんです。

篠崎  昭和三十三年に、売春防止法によって遊廓はなくなりますが、その前に廃業されたんですね。

  終戦後間もなく、お酉さまのときに通ったことがありますが、格子の窓のような所にきれいな女性が何人もポーズをとって並んでいるんです。きれいだなあと思ったのを覚えてます。

歌丸  戦前は古風に、大店だと、張り店もありました。

篠崎  張り店というのは?

玉置  今言われた、女性が並んでいる所、つまり、ショーウィンドウですよ。お女郎さんが、お客さんから見える所にずうっと並んでる。

歌丸  うちを例にとりますと、入って左手に、仕切りみたいな朱の欄干が張りめぐらしてあって、抱えの女の子が五人、六人とそこで店を張っているわけです。

で、初回のお客さまは、それをごらんになってから上がるんです。なじみの客はもう相方が決まっているから、正面から上がる。

真金町の中でもそういううちは何軒もありました。で、和風と洋風とに分かれてましたね。「イロハ」なんていううちは洋風でした。

 

  “真金町の三大ばばあ”と言われた女傑

篠崎  何という屋号だったのですか。

歌丸  うちの店は、「冨士楼」と言った。祖母は“真金町の三大ばばあ”って言われていた。(笑)

玉置  牛耳ってたんだ。

歌丸  冨士楼、ローマ、イロハ、この“三大ばばあ”はやくざもよけて通ったと。

篠崎  女傑ですね。お店を始められたのはいつごろからなのですか。

歌丸  多分、大正の初めだと思います。途中から来た人なんですよ。伊勢(三重県)の出身で、一時、有楽町で食堂をやっていたそうです。その時分に、蒋介石をお世話したことがあるんですって。蒋介石の色紙みたいのが残っていたんですが、空襲で全部焼けちゃって。これが残念だと祖母は随分言ってましたね。

それから二・二六事件のときに何かの用で横浜から出かけて行って、ひどい目に遭ったというのを随分ぼやいて、あたしたちに聞かせてくれたことがありましたね。



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