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有鄰


平成14年6月10日  第415号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜−下町・落語・にぎわい座 (1) (2) (3)
P4 ○新発見の大磯町高来神社の木造神像群  薄井和夫
P5 ○人と作品  三宅孝太郎と『開港ゲーム』        藤田昌司

 座談会

下町・落語・にぎわい座 (3)


篠崎  真面目なお方なんですね。

歌丸  だって、噺をやるよりほかに、能がないんですもの。落語家なんですから。

篠崎  新作をやっておられたら、もっと気楽におできになるんでしょうね。

歌丸  いえいえ。

玉置  逆に新作は新作で大変なんです。これはある種使い捨ての料簡でいかないと、世の中、めまぐるしく変わりますから。綿密な計算をして笑いの構築をしていきませんとね。だから、見方によっちゃ、古典をきちっと身につけるのと同じか、もしかしたらそれ以上に苦労が。

歌丸  難しいかもわからないです。だから、あたしの師匠の米丸なんか新作一辺倒ですから、ずっと長年聞いていると得るものも多いですが、捨てるもんも多いですね。

玉置  多い。それでウケたものほど、やっぱりその時流で、その時点でウケたわけです。そうすると、繰り返す部分はごく少ない。もうどんどん新しいものへ。例えば流行語だけだってえらい違いが出てくるわけですから、新作は新作で大変ですよ。だから、みんな漫談になっちゃう。

歌丸  地噺ですね。

玉置  対話で進めていくのが、落語の本筋です。ですから、対話で進めていくように構成するのが落語なんです。

歌丸  それでほんとの落語というのは一対一で、八ッつァんと隠居さん、あるいは八ッつァんと熊さんだけの会話がほんとの落語、これが原点なんです。そんなのはほんとにもう数えるほどしかない。

玉置  結局、その中でどんどん自分を出していくと、登場人物が多くなっていく。すると、人物の描写を使い分けなきゃならない。でも、落語の基本は対話なんですね。


横浜にぎわい座−大衆芸能の拠点に

篠崎  四月に横浜にぎわい座が、歌丸師匠の熱意もあって開館し、横浜の大衆芸能の拠点がようやくできたということですが、何年越しになりますか。

歌丸  一番先は昭和五十九年の十二月、細郷市長さんのときです。「みなとみらいにかかったんでちょっと待っててくれ」というご返事だったんです。その後、高秀市長さんになって、高秀さんに最初にお会いしたとき、 「細郷さんからよく伺ってますから、歌丸さん、安心してください。ただし、みなとみらいがまだ落ちつかないんで」と。それで全部落ちついて、こういうふうになったんです。

玉置  口火を切ってくれたのは歌丸さん。東京に国立の演芸場ができたんだから、横浜に市立の寄席ができないもんだろうかという発想から、動き出してくだすった。

歌丸  なぜそんなことをしたかといいますと、落語を残すのは落語家の責任、落語のお客さまを残すのも落語家の責任、しかし、場所がなかったらどうにもしようがない。

 

  みなとみらいに来る若者をいかに野毛へ引っ張ってくるか

篠崎  伊勢佐木町一帯には震災前は新富亭など何軒も寄席があったそうですからね。

歌丸  大昔は、それこそ一町内に一軒も二軒も寄席があったのが、もう全部なくなってしまって、我々がしゃべる所がない。そんな思いが頭の中を駆けめぐってお願いをしたんです。

玉置  経過をうかがうと、みなとみらいも結構だけど、野毛地域も忘れないでもらいたいという地元の強力なアピールがあったみたいね。

歌丸  野毛の活性化につなげるために、寄席も必要じゃないかと。にぎわい座ができて、これからの課題は、みなとみらいに来るたくさんの若い人たちをいかに野毛の方へ引っ張ってくるかということです。

玉置  それで恐らく、立地条件からいって、今までの常識でない雰囲気がここで生まれそうです。というのは、今までの演芸、寄席物というと昼間、お年寄り向きにみたいなイメージができている。若い人たちの独演会や企画物は夜と。しかし、にぎわい座に関しては普通の寄席形式も、夜席の方がお客さんが来るというデータをつかみたいんですよ。

でも、落語協会、落語芸術協会の両協会が金・土以外は昼席でいきたいというんで、とにかく立ち上げました。でも、やっているうちに、夜、にぎわい座にお客さまが来るという実績ができれば、また検討してもらえる材料になりますからね。

 

  東京の寄席では見られない両協会の合同

歌丸  それで、両協会といわれましたが、にぎわい座は東京の寄席では、絶対に見られない合同なんです。

玉置  東京の場合、落語芸術協会の方はそこだけのメンバーで十日間ないし五日間。落語協会は落語協会だけで。

歌丸  いつからかそういうふうに分かれたそうですが、うちのほうの落語芸術協会は昭和五年に発足したという記録があります。それでうちの協会をこしらえた一番のもとは、柳家金語楼先生ですから新作畑が多かったんです。

玉置  金語楼さんは、子供のころから噺家で始まり、昭和五年に初代会長の柳橋さんと金語楼さんが新しい会をつくって始まった。ところが、金語楼さんが間もなく抜け、 その時点で別の会派を持っていた小文治さんが合同して、今の芸協のもとができる。

歌丸  とにかく今のところは、理屈抜きにお客さまに来ていただきたいというのが館側の要望でもあり、我々出演者側の要望でもある。

篠崎  にぎわい座の名前は大正初期まであった賑座に由来しているんですか。

玉置  これは歌丸さんたちとも話し合って、公募という形で候補を上げて。で、賑町という町があり、賑座という芝居小屋もあったから、委員会の中ではもうこれだと。

歌丸  随分全国から来たそうですね。

賑町にあった賑座(明治後期)
賑町にあった賑座(明治後期)
玉置  横浜市民よりも県のほうが多かったし、それこそ全国から約五千件来ました。

 

  横浜の寄席の客はおっかない

玉置  お客さんは待っててくれたんです。笑いたいけれども、心底笑う場がなかった、というのはわかりますね。

この間、桂三枝さんに出てもらった日も、新幹線の帰りの時間が決まっているのに、前に出る方がウケるもんだから、どんどん押してきて、出る前に、三枝さんは、「三十分のつもりで組んでいたけど、三十分できねえな」と言いながら、三十五分やった。 そして二分前に新幹線に飛び込んだ。出しなに三枝さんが、「客がおろさせてくれない」と。座側としてはこれはうれしい言葉でしたね。

篠崎  横浜の人の気質もあるんでしょか。すごく素直で変に目が肥えてないというのか……。

歌丸  いや、横浜はおっかないですよ。三吉で独演会をやっててわかったんです。下手をすれば、東京の寄席の客よりおっかない。

玉置  これと思うものをみっちりけいこして、初めて高座でやるのをネタおろしと言うんですが、歌丸さんは、ほとんどネタおろしのつもりで三吉の独演会はやっておられるから。

歌丸 
横浜にぎわい座
横浜にぎわい座
これはもう一つわけがあるんです。あれだけ売れた先代の柳橋師匠が、年に一、二回は横浜に来て、「横浜はやりいいけど、怖いな」とおっしゃった。手を抜くと、スーッとそれていく。だから、その覚悟で上がらないと。

ごまかしと言っちゃ大変失礼な言い方なんですが、みんなもうやらないような落語を変えて、下げを変え、あるいは中身を変え、あるいはばらばらに一遍しておいて、ないまぜにして発表した落語も随分あるんですよ。

それは三吉の「おすわどん」とか、「後生うなぎ」なんていうのも。短い噺なんです。ところが下げができないんです。赤ん坊を川の中に放り込むという噺で、そんなことは今はとんでもない話です。じゃ、赤ん坊ではなく、 うなぎ屋のかみさんを放り込めばいいじゃないか、とふと思ってそういうふうに下げた。

そういうネタが随分あります。人はやっているネタでもおれだったらこうやるな、こうしよう、といってやったネタも随分あります。

玉置  つまり落語は、それこそさっきも言った対話が基本で、必ず最後に下げ、落ちがある。

人情噺に関しては、とりあえず下げはつけなくても、それが許される。そのかわり連続「今夜はここまで」と、もう、ウッというところで切る。 この続きはまた明晩、というね。これで十五日引っ張るわけです。

 

  古典復活をやるのは残したいため

玉置  それと、無理を承知で、それは十五日間、続き読みするために出す。そうすると、今、自分は仮に十日間でやろうとすれば、ここは要らない。でも、こういう今風の自分流のこれを入れたいとかそういう工夫をやりながら古典復活を歌丸さんはやっているわけですよ。

歌丸  なぜやるかというと残したいためなんですよね。もしも、あたしがいなくなったら、誰かがやってくれるだろうという、その望みを。だって誰もやらなかったら、絶対できないという噺もあります。

玉置  今の人たちに説明ばっかりになっちゃう。人情噺であれ、落語であれ、さっき言った対話が基本ですから。

古いものの復活の中で、なぜ今まで、速記でもこの部分が残ってないのかというと、ウケないからです。でも、ウケないのを承知でどう復活するかだから、歌丸さんのご苦労は大変だと思う。ウケないからカットになっていたんですから。

歌丸  あるいは今で言うとそれ全体が禁止用語とか差別用語のもの。これはもうできないと、捨てなきゃならない噺も随分あります。今やったって絶対だめだという。だから、それをやらなきゃならないんですよ。


若い人から「にぎわい座でやらせて」と

篠崎  野毛地区の持っている何かが、にぎわい座とうまく結び付くと、魅力がふえますね。

玉置 
終戦直後の野毛
終戦直後の野毛
先程も出たみなとみらいへ来る若い人たちの足を野毛のほうに向ける出し物を。夜ですね。昼間は学校があったりでだめ。

この世代にリサーチしてみると、本来は千五百円というクラスらしいですね、ライブハウスなんかではね。それをもうぎりぎり二千両。開演も七時という格好で。

若い人たちのファンクラブみたいなものも、小さいながらできているんです。ビラ配りも、自分たちでコピーでつくって配るから、印刷していただかなくて結構ですと。

ここで配ったものは、まず一割は来てくれるとか、そういう場所をぼくらは知っていますから、と言うんですね。

とにかくにぎわい座でやらせてほしいという声が出たんで、待ってました、ということでいきました。

歌丸  いいことですね。

 

  極端に言えば横浜全部が下町

篠崎  ご年輩の方はご承知のように、野毛は戦後は闇市で大繁盛でした。

玉置  その闇市がそっくり都橋の川のほとりへ、そのまんま、げたばき長屋で残っているわけ。

篠崎  ご記憶かもしれませんが、有隣堂も伊勢佐木町が占領軍に接収されたので、昭和三十一年まで野毛で店をやっていました。横浜市の中心部が接収されている間に、お客さまはほとんど野毛のあたりに集まったんです。

歌丸  当時、野毛の闇市へ買いに来た覚えがあります。何を買ったか忘れましたが。

篠崎  あそこに行くと、いろいろな食べ物がたくさん並んでいるんで、びっくりしましたね。

歌丸  あの当時 お金さえ出せば何でもあったのが、野毛と今の中華街の裏口です。表から行くと何もないんですね。裏の通りにある。

篠崎  近ごろの横浜は全体が都市化されてしまった感じですね。そういう中で、にぎわい座は、市民がホッとひと息つく所というか、本来の元気を取り戻すオアシスというか、とても大切な役割を果たす拠点になるんじゃないかと思います。まさに新しい下町の誕生ですね。

歌丸  極端に言えば、あたしは横浜全部が下町だと思っていますもんね。

篠崎  実は私もそう思っています。ハイカラなんていうのはほんのちょこっとで、ほとんどが下町の顔だと思っています。

歌丸  だから、よく言うんですけど、横浜に奥様は住めない。かみさんであり、おっかあであり、山のかみでありね(笑)。そういう人でないと横浜は無理じゃないかと、よく言うんですけどね。

あたしがすごい言葉になるのは、かかあとけんかしたときです(笑)。すげえから、もうねえ。かみさんも横浜、もとは黄金町の駅前の人間ですから、荒いのなんのって。空襲で焼け出されて、 うちのはす向かいへ越してきたんです。だから、あたしが越してきたときよりも先輩は先輩なんです。

玉置  冨士楼のせがれの奥さんが冨士子さん。しょうがねえ、これは。

歌丸  どういう因縁なんだか。(笑)

 

  にぎわい座の場所にあった中税務署から二人の総理が誕生

歌丸  それで最後にお願いしておきたいことは、にぎわい座は上は寄席ですが、地下には、大道芸の方が練習したり、若い方々のちょっとした芝居をやる所もできていますので、大いに利用していただきたいと思っています。

玉置  今回、にぎわい座の館長を引き受けるにあたって町のことも知らなきゃいけないと思い、自分流にいろんな取材をしたんですが、つまらないことを発見しました。

にぎわい座は中税務署の跡でしょ。あそこで署長を務めた方の中から二人総理が出ているんです。大平正芳さんと福田赳夫さん。中税務署の署長を、大変若いときにやられた。これはちょっとした話になりますよ。

歌丸  じゃ、にぎわい座から大看板が出ますよ。(笑)

篠崎  どうもありがとうございました。



 
かつら うたまる
一九三六年横浜生まれ。
 
たまおき ひろし
一九三四年川崎生まれ。
 




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