Web版 有鄰

『有鄰』最新号 『有鄰』バックナンバーインデックス  


有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成14年8月10日  第417号  P1

 目次
P1 ○私にとっての戦争文学  伊藤桂一
P2 P3 P4 ○座談会 清水次郎長 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  中谷そらと『ゆらゆら』        藤田昌司



私にとっての戦争文学
伊藤桂一




  兵士たちの生き方、戦い方、死に方を同類の立場で書く

伊藤桂一氏
伊藤桂一氏
 十年一日という言葉があるけれども、私の場合は、五十年一日といっていいくらい、戦記作品執筆に重点を置いて暮らしてきている。このごろは、ノンフィクション物を軍事雑誌『丸』に連載していて、一年経つと本にまとめる。書き下ろし戦記も予定にあるのだが、世間的な雑事も多く、なかなかゆとりが出ない。死ぬまでには、と考えている。といっても私は今年八十五歳になる。

 ノンフィクションにかかわるのは、つとめて取材をしておかないと、証言者が死去してしまうからである。私の戦記は、兵士たちの生き方戦い方を書くので、いわゆる軍事史や作戦事情には、捉われ過ぎない。動き廻っている兵士たちの動静を書き遺したい。 かれらがいかによき生き方、戦い方、死に方をしたかを、かれらと同類の立場で「わかった、これでよい、よく書いてくれた」といわれるために書いている。

 たぶん、戦中世代は、戦後の社会からは黙殺されてしまっているのだから、私の戦記にしても、読者はほとんど戦中世代に限られている。それでいい。私はただ、日本と日本民族のこころを、もっともよく実践的に知っている戦中世代が、このまま、なんらかえりみられることなくほろんでゆくのは、日本及び日本民族の、とり返しのつかない大きな負の遺産になるだろう、 とは思う。しかし、そのことについて、ことあげはしない。時の流れである。戦後植えつけられた自虐史観を抱き込んでいる流れに、なにをいってみてもむなしいからである。


  死ぬのも人民のためという教育が徹底していた八路軍

 このところ私は、中国北辺で八路軍(共産軍)と戦った各兵団(独立混成旅団が多かったが)の様相と取り組んできた。主として苦戦の事情を、聞き歩き、資料を貰い歩きしてきている。おかげで、八路軍と戦った経験のない私も、対八路戦に明け暮れてきた兵士諸兄との一体感を、この上なく身近に持つことが できた。ありがたいことである。私は対重慶軍戦の経験しかない。

 八路軍は、盧溝橋で日中戦争を発起させて以来、日本軍と戦い、重慶軍と戦い、日本の敗戦後は国共内戦を戦い抜き、中華人民共和国を確立している。八路軍はなぜ国つくりに成功したのか、その過程のもっとも重要な部分は、対日本軍戦にあった、その事実が、絵巻物をひもとくように、戦記執筆をしているとわかってくるのである。

 昭和二十年になると、日本軍はずっと兵員の補充がないのに、八路軍は限りもなく補充が出来、特に若い八路兵(ほとんど少年である)は、戦闘そのものを一種のゲームのようにさえ考えていた。数が多いのと、死ぬのも人民のため、という教育が徹底していた。日本軍は訓練によって兵員を教育したが、八路軍は思想上の同志として、肩を抱き合うようにして若者を説得した。日本軍討伐隊と、わずかな距離を置いて撃ち合っていても、八路の少年兵たちは笑声をまじえて雑談しあっている。

 対八路戦に鍛え上げられた不撓不屈の少数の日本兵は、少数ながら連戦連勝はするが、八路軍の巧みな戦法(押せば退き、引けば寄せてくる)に、どうしても誘い込まれ、一人二人と得難い歴戦者を失って行き、遂にはいくたの守備地を奪われて、終戦を迎える。つまり、兵数の物理的減少は防ぎようがなかったのである。

 戦記作者の私は、死者への鎮魂とか、生者を激励するためとか、そのようなことは今はいわない。ただ、死者を含め、生者の兵士たちの喜んでくれるであろう世代の心意気を確認強調するために、拙文を綴っているのだといいたい。私は、兵士たちの戦いへの潔さ、戦いぶり、かれらが織ってゆく想像を絶する劇的な行動の構図その様相を、これほど忠実に再現しているのに、一般の人たちはなぜ読もうとしてくれないのか、と、そのことをふしぎに思うのである。むしろ、読んでほしくない、読ませたくない、といった閉鎖的な気分もあったりする。

 ただ、時に、戦中世代とは直接の関係のない若い女性読者が、なにかで、戦記戦話のもつ異様な滋味か滋養に惹かれて、戦記に読み耽っている、といった報告を、しばしば私は受ける。つまり、その読者たちは、ここに書かれている真実こそは真実なのだ、という、歴史の現実に目覚めてくれたのである。


  戦記は同世代のための呼応の文学

『黄河を渡って・表紙画像』
『黄河を渡って』
光人社
 八路軍と悪戦してきた独立混成第三旅団[造(つくる)兵団]の昭和十九年五月の「西北河南作戦」をまとめて『黄河を渡って』という題で光人社から出したが、この中に、日本軍に追われて西安方面に逃げる胡宗南軍の一将軍が、山道を、妻妾を連れて、美麗な輿に乗って行く場面がある。あまりに異様な光景なので、日本軍は発砲を躊躇する。といっても戦争だから、発砲しないわけにはいかない。結局、戦闘となり、将軍も部下も妻妾も捕虜にされてしまうが、私は、この場面を書きながら、日清戦争の場面を書いているのではないか、と、首をひねったりしている。逃げる敵を背後からは撃たない、という原則をこの部隊は持していて、立派だな、と思う。

 この作戦間、通信隊が、三方を山に囲まれた小さな村を通った時、少数の住民が残っていて、兵士たちにお茶の接待をしてくれた。その時、住民のひとりが、こんな話をした。「——この付近には、昔、長い白い髯を生やした長老がいて、百年後に、太陽の印の旗を持った神様の軍隊が来て、悪者を征伐してくれ、平和が訪れる、といういいつたえがあります」「あなた方の軍隊がそうではないか」

 ——といわれた、と、この話を私にしてくれた通信隊長は、複雑な表情で私をみた。「アジアの諸国を、白人の桎梏から解放しなければ、という一念だけは、日本軍だれもの心の底にはあったはずですよ。従って、村人の言葉も、すべて伝説だといってしまいたくはないですね」と、私は通信隊長に答えたが、正直なところ、壮乎とした志がなければ、戦記の筆は一行も進まない。

 戦記は、同世代のための呼応の文学なのである。そうでもなければ、この、現代の荒涼のさまをみるには、たえがたいからである。


  戦記も一般の日本史の中に繰り入れられそうに

『南京城外にて・表紙画像』
『南京城外にて』
光人社
 戦後五十年を越えている。私はこのごろ、戦記というのは、歴史小説ではないか、と思ったりしている。戦中世代は、書かれている事象に、自身の体験や感情を重ねて読んでいるのだが、他世代の人にとっては、過去の時代の歴史に思えるのではないだろうか。さきごろ私は、第五師団の「南寧(なんねい)作戦」をまとめたが(『南京城外にて』所集)、まだ生き残りの人がいて、昭和十四年暮の、崑崙(こんろん)関での激戦の模様を、しっかりと耳にすることができて、嬉しかった。「南寧作戦」の中の「崑崙関の戦い」は、第五師団中の約四千の部隊が、南寧から柳州方面へ向かう途中の関所、崑崙関の山中に布陣した時、広西軍閥の白崇禧、李宗仁軍は、実に十万の軍兵を集めてこれを包囲し、日本軍はいかに善戦しても及ばず、年末に山を棄てて撤退する。この時、日本軍は山砲三門を地中に埋め、中国軍はその山砲を掘り出し、年明けの元日、山上からの放送で「日本軍のみなさん、お年玉に山砲三門をいただきどうもありがとう」などと揶揄し、撤退部隊を口惜しがらせた。師団は態勢を整えて、報復作戦を発起し、中国軍を駆逐している。

 私は、この崑崙関の戦闘と、たとえば日本史の中の、武田勝頼軍と織田・徳川連合軍が戦った長篠戦とは、時代は違っていても、戦いぶり、兵数の大差、武器の相違等、なにかと似通っていると思う。つまり、崑崙関戦は、長篠戦に似た興味で、第三者には読まれるのである。 第五師団は、報復戦で、中国軍を叩くことができたが、勝頼軍は、この戦いが大きく原因して、やがてほろぶ。主立った武将もこの戦いで多く死んだ。第五師団にしても旅団長が戦死し、兵員の死傷も多い。いわば、戦記も、一般の日本史の中に繰り入れられそうになっている。ただ、 私のかかわる戦記には、まだ、証言者や、証言を代弁する新鮮な資料類が残されている。

 第五師団が、南寧作戦を発起したのは、南寧から鎮南関へ軍を進め、いずれは北部仏印(今のベトナム)を占領して、援蒋ルートを覆滅するためだった。第五師団は、のちに南方へ転出して、惨憺たる苦戦の末、孤島で終戦を迎える。しかし、第五師団が抱懐した南進の意図は、第三十七師団(冬兵団)に引きつがれ、昭和二十年三月に、第三十七師団は鎮南関を越えて北部仏印に進駐し、仏印軍と戦って、ドンダン、ランソン他の要塞群を占領し、安南人に独立の機運を植えつけている。

 私の戦記はいま、北部仏印の対要塞戦に明け暮れている。私の仕事は、いつ終わるともつかず、いまはただ、つとめて攝生して、少しでも多く、戦記をまとめておきたいと願うばかりである。


 

いとう けいいち
一九一七年三重県生れ。詩人・作家。

著書『螢の河』講談社文庫1,260円(5%税込)、『大浜軍曹の体験』光人社1,995円(5%税込)、ほか多数。






ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.