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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成15年2月10日  第423号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜みなとみらい21 (1) (2) (3)
P4 ○たましいのこと  早川義夫
P5 ○人と作品  山本一力と『深川黄表紙掛取り帖』        藤田昌司

 座談会

横浜みなとみらい21 (1)
—着工から20年—

横浜みなとみらいホール館長   渡壁 煇
株式会社横浜みなとみらい21代表取締役専務   高橋 正宏
東京大学助教授・横浜市参与   北沢 猛
  有隣堂会長     篠崎 孝子
        

はじめに

篠崎
横浜みなとみらい全景
横浜みなとみらい全景
左からランドマークタワー、クイーンズスクエア(中央の3棟)、手前は汽車道
(株) 横浜みなとみらい21提供

座談会出席者
左から高橋正宏氏、渡壁煇氏、北沢猛氏と篠崎孝子

みなとみらい21の事業が昭和58年(1983)11月に着工されてから、今年は20年を迎えます。横浜の都心臨海部、ウォーターフロントの開発として注目を集め、ランドマークタワーなどを始め、国際会議場や美術館などが建ち並ぶ横浜の新しい“顔”として、多くの人々が集まる都市空間に成長しました。本日は「みなとみらい21」をめぐって、都市計画やそこに根づいた文化などさまざまな角度からお話をいただきたいと存じます。

ご出席いただきました渡壁煇様は、横浜みなとみらいホールの館長でいらっしゃいます。NHKのプロデューサーとして音楽番組を制作、その後サントリーホールの総支配人、制作監督を経て、平成十年(1998)4月に横浜みなとみらいホール館長に就任されました。

高橋正宏様は株式会社横浜みなとみらい21代表取締役専務でいらっしゃいます。横浜市がこの事業を計画する段階から関係されており、先ごろ出版された、『横浜みなとみらい21−創造実験都市』を編集されました。

北沢猛様は東京大学助教授で、都市工学をご専攻です。横浜市都市計画局都市デザイン室長を務められたご経験もあり横浜の街づくりの歴史にもたいへん詳しくていらっしゃいます。


港ヨコハマは夢が運ばれ、夢を運び出すところ
 
篠崎 渡壁さんはNHKに何年間いらしたのですか。

渡壁 26年間です。最初が「夢であいましょう」という番組でした。日本の場合は、26年勤めたら終身で定年を迎えればいいじゃないかという感じですが、私の人生には非常にいい出会いがあり、 その中のお一人が芥川也寸志さんでした。

黒柳徹子さんと芥川さんの司会で7年間続いた「音楽の広場」という番組があったんです。その「音楽の広場」が最盛期を迎え、人気絶頂のときに、この番組は、今やめるべきだと私は決心しました。

というのは、NHKのような大きな組織の中では、番組が軌道に乗り出すと、大抵、担当者が替えられるんです。次の新しい番組をつくってほしいと。そうすると、「音楽の広場」のような個性的な番組は、大抵だめになってしまう。後にNHKの会長になられた川口幹夫さんが当時、放送総局長だったのですが、川口さんに「来年はどうする」と言われたので、一番いい時期にやめたいと。

その後、テレビの世界に、ものを創るという雰囲気がなくなり、私自身、限界を感じる時期を迎えました。そういう時期に、芥川さんがサントリーの佐治敬三さんに会わせてくださったのですが、佐治さんにほれ込んで、87年にNHKをやめ、88年4月からサントリーホールへ行きました。

横浜みなとみらいホール
横浜みなとみらいホール
[2002-2003 ジルヴェスターコンサート 横田敦史(C)]

サントリーホールで副支配人、総支配人、制作監督を務め、そこで、当時の高秀秀信横浜市長から、「横浜へ来てくださいませんか」とお声をかけていただきました。 そのときに、印象にあるのは、98年3月に港北区の横浜国際総合競技場が7万人集めてオープンの試合をやりました。それがまず、新聞に出ました。それから最後の決心をした後に、横浜港に世界一周の豪華客船クイーン・エリザベスと飛鳥とオリアナ、その3隻が白い船体を並べている写真が出たんです。

それで、こんなにすばらしい横浜に迎えられるんだと思ったら、本当にぞくぞくする思いだったというのが、そのときの実感ですね。

 
  海から横浜を見て強烈な印象を受ける
 
渡壁 NHK時代に、芥川さんと一緒に「あゝ荒城の月滝廉太郎生誕百年」という番組を創りました。ライプチヒまで取材に行きましたが、そのときに横浜のゲーテ座跡なども取材に来たんです。

滝廉太郎は上野の音楽学校に入って、ゲーテ座に通っていたんですね。横浜に楽譜を買いに来たり、演奏を聴きに来たり。東京にはなかったわけです。あの時代のいろんな音楽家たちはみんな横浜へと来たようで、これも何かの縁かなと思いました。

それで、海から横浜を見たことがないので、ぜひ見せてほしいと言いましたら、市の船を出してくださいました。船から見ると、クレーンもいっぱいある、立派なベイブリッジはある。

海から見るとまず、クレーンがよく似合う都市だなと思いました。それからハングル文字などもありましたが、船籍もわからないようないろいろな国の船が夢を運んできて、横浜から夢をまた運び出すんだなと。

ここで、このホールの責任を持たされるというのは非常に重い気持ちもしましたが、夢も持ちましたね。海から横浜を見ることができたのは強烈な印象でした。

 
  プランニングにエネルギーを投入できる会社、横浜MM21
 
篠崎 みなとみらい21という会社は第三セクターということですが、具体的にはどのようなお仕事をなさっているのでしょうか。

高橋 私どものような会社は全国で割と少ないんです。例えば東京臨海副都心ですと土地を造成して、その造成した土地を売りながら町をつくっていくデベロッパーの役割を持っているので、経済不況になったりすると、会社が行き詰まるという問題が発生するわけです。

でも、私どもの会社は、そういう意味ではソフトだけの会社で、不動産は一切持っていないんです。不動産を持っているのは、例えば埋立事業をやった横浜市港湾局とか、昔の地主さんであるJR、横浜市、三菱地所、区画整理事業をやった都市基盤整備公団などです。その土地にどういう街をつくったらいいか工夫し、誘導するのが私どもの会社です。

仕事としては、三つあります。一つは、企業を誘致して街づくりを促進すること。

二つ目は、これは北沢さんの専門の分野ですが、都市デザインという手法を使って、美しく活力のある街をつくっていく。街づくりを誘導していくということです。ビルをくる場合、市民が楽しんで使え、見ても美しく、街全体としては、気持ちよく機能的であるように。

三つ目は、例えば動く歩道などの公共施設を管理して、街を快適、円滑に維持管理していくこと。

私どもの会社の一番大きな特徴は、今言いましたように土地を持っていないということです。昨今はやりのTMO(タウン・マネジメント・オーガニゼーション)のはしりみたいな組織です。

ですから、プランニングにエネルギーを投入できるのです。そのため、横浜市と都市基盤整備公団と三菱地所、横浜商工会議所の四本柱でつくった会社です。

篠崎 横浜にまた一つ、美しい街ができあがる。とっても楽しみなんです。

 
  全国に先駆けてアーバンデザインを採り入れた横浜へ
 
北沢 私は生まれたのは信州ですが、育ったのは会津の喜多方で、中学三年までおりました。修学旅行が横浜だったんです。当時、氷川丸がユースホステルになっていて、そこに泊まったのですが、そのとき生まれて初めて港というものを見たんです。それは先ほどの渡壁先生の話ではないですけど、非常に強烈な印象でした。その後、父の転勤で横浜に引っ越してくることになり、横浜に住んだわけです。中学、高校は横浜です。

大学では、都市計画と都市デザインを勉強していましたが、研究テーマとして喜多方と同じように蔵づくりの町並みが残る川越のことを随分調べました。歴史的な町の魅力に引かれていたのだと思います。

横浜に就職したのは、これもまったく偶然で、都市づくりの中でもデザインをやりたいと思っていたら、横浜市はアーバンデザインを全国に先駆けてやっているということで、横浜市に入ることになったんです。



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