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有鄰


平成15年5月10日  第426号  P2

 目次
P1 P2 P3 座談会 予告されていたペリー来航 (1) (2) (3)
P4 ○横浜大空襲の頃  赤塚行雄
P5 ○人と作品  中村美繪と『杉村春子』        藤田昌司

 座談会

予告されていたペリー来航 (2)
神奈川県立歴史博物館「150周年記念 黒船」展に寄せて


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西欧の世界制覇の動きが及ぶことを予測

三谷 19世紀の前半、特に定信以降、将来、西洋諸国の世界制覇の運動が日本に及ぶだろうという見通しは幕府の首脳や、その周辺の知識人には共有されていたと思います。これはいつ深刻になるかわからないというタイプの危機です。 そうすると普通の人は、くよくよしないで今を楽しく生きようと考えますが、そうでない人もいます。

アヘン戦争 中国軍艦を攻撃する鋼鉄戦艦ネメシス号
アヘン戦争 中国軍艦を攻撃する鋼鉄戦艦ネメシス号
(財)東洋文庫蔵
その典型的な例が水戸・徳川家の徳川斉昭や会沢正志斎、藤田東湖という人たちです。彼らの攘夷論は、わざと西洋と戦争を起こし日本人全体を戦場の中にたたき込んで、性根を鍛え直そうというもので、ものすごく過激なんです。

異国船打払令を1825年に出しますが、これは決して日本が好戦的になったのではなくて、どんな手荒な措置を外国船にやっても戦争にはならないという確信のもとに行われたことだと思うんです。 ところが、1840年にアヘン戦争が起きた。たった15年です。幕府の役人が、ロシアとの戦争は起きるはずがないと判断したのは、それまでの経験から言うと極めて合理的でした。ところがこの時、水戸の突飛な考えをしている人の予想が、むしろ当たってしまうというどんでん返しが起きる。それで彼らはスターになっていくわけです。

 
  嘉永五年の別段風説書でペリーの来航を把握

編集部 アメリカが日本に来るのを、幕府は知っていたんですか。

岩下 幕府は1年前の嘉永五年の阿蘭陀別段風説書によって、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸湾にやって来ること、軍艦派遣の目的は通商要求にあること、上陸して城を攻める軍隊を連れていることなどを把握していた。

その前にアヘン戦争情報という形で南京条約の内容が幕府に提示されたり、弘化元年(1844)にオランダの軍艦パレンバン号が国王ウイレム二世の開国勧告の国書を携えて長崎に来航し、 西洋諸国のアジア進出などの状況とアヘン戦争での清の敗北を強調しながら、鎖国体制の変革を促している。

さらに、アメリカ議会で北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって、日本を開国しろという議論が沸騰しているというのが嘉永3年(1850)の別段風説書でわかっています。

 
  別段風説書は阿蘭陀風説書のスペシャルニュース

編集部 別段風説書というのは、阿蘭陀風説書とどう違うんですか。

岩下
徳川慶勝 「阿蘭陀機密風説書」
徳川慶勝 「阿蘭陀機密風説書」
徳川林政史研究所蔵
阿蘭陀風説書の別仕立て、スペシャルニュースということです。通常の阿蘭陀風説書は、多くて十か条ぐらいのニュースで、オランダの拠点であるジャワのバタビアから長崎まで、ポルトガル船を見たとか見ないとか、大したことのない情報を載せています。

それとは別に、アヘン戦争などは幕府にとって大変重要な情報で、量も多いので、そのため別仕立てで百条ぐらいの別段風説書が幕府に出された。それ以前も、オランダ商館は幕府への忠誠として情報を提供していて、レザノフの来航予告情報も、別段風説書に当てはまるのではないかと言われています。

三谷 多分、ドゥーフがいろいろ隠していたことがばれて、オランダは幕府に相当きついことを言われた。そこで商館長が代わったときに、その名誉挽回のためにオランダ側から始めたのではないかと僕は思っているんですが。

編集部 今度の展示にも風説書がでますね。

嶋村 はい。ペリー来航時に老中だった阿部正弘の子孫に伝わっていたもので、阿蘭陀別段風説書の嘉永3年、4年、5年という、ちょうどペリーが来る前の風説書です。現在は古文書類は当館が所蔵しています。

 
  ペリー来航の情報を阿部正弘が海防役の大名に伝達

編集部 長州の浪人だった吉田松陰は、アメリカ船が浦賀に来ることを知っていたそうですね。

岩下 吉田松陰はペリー艦隊を目の当たりにして、アメリカ船が来ることは半年前からわかっていたので、非常に悔しい、と手紙を書いています。恐らく浦賀奉行所のなかで噂されていたことを、そこに出張していた与力の小笠原甫三郎から佐久間象山が聞いて、象山から松陰も聞いていたのでないか。大もとの出所は老中の阿部正弘になるわけです。

三谷 阿部がそういうところへ漏らすことは絶対ないと思う。阿部は海防役の大名にはちゃんと伝えていますが、吉田松陰らへ漏れたのは長崎通詞からだと思う。

岩下 阿部正弘は、今、三谷先生が言われたように、長崎と琉球の警備を担当している外様大名の薩摩藩主島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正、福岡藩主黒田長溥に風説書のペリー来航予告情報の部分だけを提供しています。正確には嘉永5年の11月末です。

また阿部は、年末には、御三家、江戸湾防備の四大名、浦賀奉行には情報を伝達しています。

嶋村 今回の展覧会に出ます島津家文書(国宝)の中で言うと、長崎から得ている情報が3通あり、阿部からもらったものも1通あります。

 
  外様大名の黒田長溥は海軍建設の建白書を幕府に提出

岩下 風説書を受け取った長崎防備担当の黒田は、焦って、嘉永5年12月に走り書きの対外建白書「阿風説」を提出する。

三谷 黒田の幕政批判が、ペリーが来る前に堂々と行われているのを見たときには仰天しました。これは岩下さんが発見されたんです。

岩下 黒田は、結局このままでは戦争が起きたら犬死にするしかないと。じゃ、どうするか。例えばアメリカ帰りの中浜万次郎を呼び、海軍をつくったらどうだろうかなどと建白している。

しかし、建白書の中には幕府の役人を批判するような文言がかなりあるので、結局それは無視された。その黒田の上書が残っていたのは尾張の徳川慶勝の所なんです。

徳川斉昭、徳川慶勝や島津斉彬も黒田の上書がどうなるのか相当心配していて、ある程度応援したようなところがある。それに対して勘定所の役人たちが、外様大名や御三家が幕政に口出しするのをきらって、建白書を無視した。

三谷 前だったら、おとがめをこうむるところを、おとがめなしで幕府側が黙っていたのは、相当こたえたんだと思いますね。

黒田の批判の一番のポイントは、もうペリーが来ることはわかっているんだから、今から海防をちゃんとやって、相手の通商要求を断る準備をしなさいと。

ただ、そう言われても責任を負う立場からすると、やはりそこまでは踏み切れない。ペリーが来ると言っていても来ない可能性だってあり、実際にイギリスの使節はそうだったのだから、幕府側が無策だったとは必ずしも言い切れない。

 
  「泰平のねむり・・・・・・」の落首は明治になってから

編集部 よく、「泰平のねむりをさます蒸気船」と言われていますが、来航の情報を幕府はすでにつかんでいたわけですね。

岩下 斎藤月岑の『武江(ぶこう)年表』の嘉永6年6月3日条に「泰平のねむりをさますじやうきせんたつた四はいで夜も寝られず」と出てきます。ただ、この部分ができ上がったのは明治十年なんです。ペリー来航のことが書いてありながら、同じ日付の部分に安政の五カ国条約とか後のことまで書いてある。

ですから、この落首は、明治10年代ぐらいまでにはさかのぼれるけれども、それ以上はさかのぼれないんです。

三谷 『側面観幕末史』には別の狂歌が入っています。例えば「毛唐人呼の茶にした蒸氣船(正喜撰)たつた四はひで夜もねられず」と書いてある。「泰平のねむり」というのは、明らかに江戸時代の人は眠っていたと見ているわけで、これは後の人しか言えないことです。


中国航路のために補給基地がほしかったアメリカ

三谷 アメリカの来航の事情ですが、実は、これを研究した日本人は今まで一人もいない。だから、これについて我々が知る手がかりは、アメリカ海軍史の大家モリソンが書いたものの翻訳が二種類。それと今から10年ぐらい前のワイリー・ピーター著『Yankees in the land of the gods』の翻訳(『黒船が見た幕末日本』TBSブリタニカ刊)、この二つぐらいしかないんです。

最初に嶋村さんが言われたように、大統領の国書が求めてきたのは、書かれた順では、第一番目が通商問題、二番目に石炭補給のための開港の問題、三番目に漂流民を手厚く保護してほしいという問題です。しかし、ワイリーらの本を見ると、通商よりも港を開くことが重要だった。

中国との間に蒸気船航路を開設するのに、水と石炭を積んでアメリカ大陸から中国まで行くと、それだけで一杯になり、積み荷は積めない。ですから、石炭や水を補給するための寄港地がほしいわけです。日本には石炭も出るそうだし、と。

先走りすると、ペリーはあれほど脅しに成功したわけですから、通商をもぎ取るのは簡単だったはずだし、日本側も通商は覚悟していたのに、彼らは要求しなかった。どちらもお互いの思惑は全然知らなくて、実は同じことを考えていたんです。

 
  中国のお茶や陶磁器の輸入が目的

三谷 もう一つ大事なポイントは、アヘン戦争によって欧米の国々が東アジアに関心を持つようになった。

それまでは、中国とお茶の貿易をやっている程度だったのが、中国の港をいくつか開いて、香港を手に入れて、通商の拠点と軍事的拠点をつくった。それで腰を据えて、そこからどんどん次の関係を北太平洋につくっていこうと。 そういう変化が起きたというのはかなり決定的ですね。一度、イギリスがそれを開くとあとのヨーロッパの国が群がり寄ってきた。

「亜墨利加船渡来横浜之真図」
「亜墨利加船渡来横浜之真図」
神奈川県立歴史博物館蔵
もう一つは、蒸気船の問題があります。帆船の方がスピードは速いし、積載能力もあるけれど、蒸気船のよさは向かい風でも走れるということです。

そのときイギリスとアメリカは、中国との関係で蒸気郵船、メールのスピード競争をやっていた。ちょっとでも速いほうが商売に勝つ。

ちょっと話を先に飛ばしますと、蒸気船が導入されたことで時間距離が縮まり、このことが日本が世界に巻き込まれてしまう大きな要因になった。

よくものの本には、イギリスで産業革命が起きて、工業力が増して、製品の売り場に困り、それらを無理やり押しつけるために日本をこじあけたという説がありますが、これは逆なんです。

実は、中国からはお茶、陶磁器を買いたい。ですから、西洋から見た輸入の問題であって、中国市場に工業製品を売り込むことは考えてない。後のハリスも、日本市場から買うことばかり日記に書いています。条約を見てもそうです。

ですから、産業革命の中の繊維産業の観点からはペリーの行動は説明できない。産業革命との関連では蒸気船という技術革新のほうに決定的な意味があった。

 
  太平洋横断航路もペリーの立案

岩下 ペリーは郵船総監として、平時には郵船の配置などを決める役職についていたことがありました。それが、有事には海軍になる。

三谷 太平洋横断航路もペリーの立案なんです。郵船というのは太平洋だけじゃなく、一番のメインルートはヨーロッパと北アメリカの間です。 ペリーはこれら全部の中心にいた。

それで、海軍の軍人ですから、戦時には軍艦として使えるような船をつくって、平時にはそれを郵船として使う。

当時のアメリカはゴールドラッシュで大もうけをしていたので、その金を専ら郵船につぎ込んでいた。

それをやっていたところ、中国航路を開設しようと別の人が言い出し、ペリーに立案を頼んだんです。彼は日本に来る気は全然なかったんですが、行くはずだった人が、途中でだめになったので自分で行くことになった。



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