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有鄰


平成15年5月10日  第426号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 予告されていたペリー来航 (1) (2) (3)
P4 ○横浜大空襲の頃  赤塚行雄
P5 ○人と作品  中村美繪と『杉村春子』        藤田昌司

 座談会

予告されていたペリー来航 (3)
神奈川県立歴史博物館「150周年記念 黒船」展に寄せて


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交渉に使われた言葉は漢文とオランダ語

編集部 ペリーが浦賀に来て交渉するときの言葉の問題がありましたね。

嶋村 幕府の西洋言語はオランダ語で、ペリー艦隊が来たとき、オランダ通詞の堀達之助と与力の中島三郎助が一緒に船に乗りこむ。当時日本人は、外交言語は漢文を中心としていたので、 二回目の来航では羅森という中国人も通訳官として来る。

それで双方がわかりあえた言葉はオランダ語と漢文だった。日本語→オランダ語→英語にして、英語→オランダ語→日本語にする。あるいは日本語→漢文→英語ということで、非常に複雑な通訳をしているので誤解も生じたと思います。

三谷 ペリー艦隊には、ウェルズ・ウィリアムズという中国に滞在し、ある程度、日本語ができた宣教師がいたけれど、番船で日本の役人が近づいてきたときに、 日本語で話そうとして通じなかったので、すぐあきらめた。そうすると、オランダ語を交渉言語にせざるを得ない。日本のオランダ通詞は非常に上手だったので、オランダ語で通したんじゃないですか。

 
  オランダ語版と漢文版で内容が違う日米和親条約

三谷 それで、これは翌年にペリーが二度目に来たときですが、日米和親条約を結ぶ前日に大問題が起きます。

横浜で日本側の交渉の主役となったのは、役人ではなくて通訳の森山栄之助ですが、ペリー側とやりあっているうちにだんだん譲歩して、アメリカ領事を下田に駐在させることまで認めてしまった。それが宿舎に帰ってから大問題になり、日本側は、それをどうやって断ろうかということになった。

背景をちょっと説明しますと、アメリカ領事を下田に駐在させるということは、アメリカと国交ができたことになる。当時、幕府は、アメリカ船の一時寄港は認めるが、国交や貿易は取り決めないという方針をとっていたので、それは認められないわけです。

それで、森山が譲歩した駐在をどうやってひっくり返すかを林大学頭をはじめ全権団は考えたんです。どうしたかというと、3月3日の調印の前日、平山敬忠という役人が別の通訳を連れて日本側がつくった漢文版の条約を持って行った。 その内容はオランダ語版とは書きかえてあった。

 
  日本側は漢文版を正文として幕府に提出

三谷 オランダ語で交渉していたときは、駐在の条件として、双方の国のいずれか一方が望んだときに置けると書いてあった。ですからアメリカが望んだら置ける。ところが漢文版のほうは、両国が同意したら置けると書いてある。日本側がノーと言えば置けない。そういうふうに書きかえたんです。

このときはウィリアムズが中心になって漢文をチェックしましたが、そういうペテンに気がつかず、これでいいと言ってしまった。それで翌日には内容の違う二つの条約が調印されてしまった。

日本側はあくまでも漢文版が正文であると。林大学頭は漢文を正文として、その日本語訳を添えて、これが条約ですよと幕府に提出した。老中のほうもさるもので、漢文版とオランダ語版と両方の日本語訳を集めて比較検討した。 その過程で、オランダ語版の日本語訳と、漢文版の日本語訳が食い違っていることがわかったんです。

そこで3月末、これから漢文は交渉に使うなという達しが出ています。そして、その後の彼らの態度を見ると、一貫して漢文版が正文であると言い張ろうとしている。しかし、実際は漢文版がにせものだと知っているから、交渉については、これからはオランダ語だけでやれ、と命じたのです。


ペリーの「白旗書簡」をめぐる論争

編集部 ペリーが浦賀にきたときに日本側に渡したとされる「白旗書簡」問題が、今、論争になっていますね。

岩下 事実関係を申しますと、松本健一氏の著作『白旗伝説』などをもとに、『新しい歴史教科書』がコラム「ペリーが渡した白旗」を掲載しました。それにはペリーが降伏用に白旗二本を幕府に渡して、それに、「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になれば必勝するのは アメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しよう」との手紙が添えられていた、と書かれている。これらも含めて、21の研究団体が教科書の記述が間違っていると異議を唱えたのです。

三谷 『白旗伝説』を支えている史料(『大日本古文書』の「幕末外国関係文書」一一九文書)は、にせものだとはっきり言えると思います。その中に、アメリカ船が寄越した文書の中に「皇朝古体文辞」で書かれたものがあるとありますが、恐らく日本列島の外に、当時、立派な古典日本文が書ける人はいなかった。こいう史料はありえません。

それから、この史料はあちこちから発見されると宮地正人さんは書かれていますが、政権の中枢にいた阿部正弘や徳川斉昭のもとからは出てこない。これが宮地さんが偽文書であると主張された論点で一番大事な部分です。

 
  ウィリアムズの日記には「白旗があがるまでは訪問休止」と

三谷 もう一つ、宮地さんが指摘されていることで、ペリー側の船が測量するときに白旗を掲げたということは、いろんな史料に出てくる。これは要するに争う意思はないという表現として白旗を使っている。だけど降伏の印として使えとは言ってないんです。 争う意思がないということと降伏の印とは全然違うんですね。

徳川斉昭の『海防愚存』に「此度渡来のアメリカ夷、重き御禁制を心得ながら、浦賀へ乗入、和睦合図の白旗差出し・・・・・・」とあります。戦争をする意思はないという表現です。斉昭は怒っていますが、それは、そもそも日本当局に交際を申し込んだのがけしからんということで、降伏の印として出せということが日本への侮辱であるとは書いてない。ペリー自身が日記に書いているように、外交は砲艦外交に違いありませんが、その証拠に白旗を持ち出すのは誤りです。

岩下 もっとも軽い不快として白旗が『海防愚存』に最初に出てくる。

ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』の嘉永六年の六月四日には、「彼らには、白旗がどういう意味のものかがはっきり教えられ、朝、白旗があがるまでは訪問休止であると伝えられた」とあります。

この時、白旗がどういう意味をもつのか、はっきり教えられたのです。ここでは、多分三つあると思うんです。いわゆる降伏の合図としての白旗、それから使者・軍使としての白旗。けれどここで言う白旗は、アメリカ側の意図としては、白旗が揚がったら訪問していい。そういう意味なんだということを教えただけだと思うんです。つまりペリーが教えた白旗は、この時かぎりのごく特殊なものだった可能性があるのです。なぜそれが大問題になるのかは、充分な説明が必要になるので、県博セミナー(5月17日)でお話しします。


大名間のネットワークがわかる絵巻などを展示

編集部 今回の博物館での展覧会の主な資料をご紹介いただきたいと思います。

嶋村
谷文晁 「公余探勝図 武州神奈川一」
谷文晁 「公余探勝図 武州神奈川一」
東京国立博物館蔵
この展覧会も松平定信に関する資料からスタートします。一つは、松平定信が、前年にラクスマンが来航し、初めての海防掛ということで防備関係の役職につき、江戸湾の海防の実態調査に乗り出すんです。そのときに 谷文晁という絵師を同行させます。

谷文晁が描いた「公余探勝図」は美術的にも非常に評価が高くて、現在は東京国立博物館が所蔵していて重要文化財になっています。今まで美術史のほうでは風景画として評価されていますが、歴史家は余り着目せず、谷文晁については余り研究されていません。この展覧会で出品した絵画で一つのキーワードとなるのが谷文晁と、それに続く門下の高川文筌です。

谷文晁が描いた絵は、神奈川から三浦半島を通り、そして房総半島に渡る一連の風景画ですが、それは調査の実態を記録しているわけです。

もう一つ、谷文晁が宝船に模した絵を描いていて、それに常に、外国船に対して危機感を持たねばならないという定信の歌が入っている。これを通して、どんな時でも外敵を忘れてはならないということを庶民へ広めようとしていたのです。そういう状況が刷り物として残っています。今回の調査で、その版木が長野の松代の真田宝物館から出てきました。

 
  谷文晁の弟子高川文筌や鍬形惠斎らが黒船来航を描く

嶋村 谷文晁の弟子である高川文筌がペリー関係のものを非常に多く残しています。それがわかるのが早稲田大学が所蔵している、大槻玄沢の次男である仙台藩の大槻磐溪がつくらせた「金海奇観」という絵巻です。それからもう一人、津山藩のお抱え絵師だった鍬形赤子(号は惠斎)も。

文筌の絵は阿部家にも残っていますし、絵のほうから見ても大名間でのネットワークがわかる資料です。高川文筌が描いた絵は、ほかに二回目の来航時の宮中でのパーティーの様子や、幕府がアメリカの使節団を呼び寄せて饗応する絵もあります。

編集部 「黒船来航絵巻」と称されるものは数としては何十種類もありますね。

嶋村
黒船見物の人々 (「黒船来航風俗絵巻」)
黒船見物の人々 (「黒船来航風俗絵巻」)
埼玉県立博物館蔵
はい。全く同じことが描かれている絵巻は一つとしてないんです。つまり、何場面かをいろいろなバージョンでつなぎ合わせてつくられています。

東京大学史料編纂所が所蔵している「米国使節ペリー渡来絵図写生帖」には高川文筌や鍬形惠斎の下絵がいろんな形で写されています。

恐らくそういった写生帖みたいなものを、いろんな絵師が自分で複写して、さらに絵巻に仕上げていった。

編集部 ペリーの『日本遠征記』には日本人の絵師が黒船のそばに来てスケッチをしていると書かれていますね。

嶋村 当時の横浜付近は真田藩の佐久間象山が警備に来ています。それからこれは記録として残っていますが、岡山津山藩の下屋敷が高輪にあり、まず第一回目のペリー来航が報知されると、津山藩は相州を警備していた彦根藩と川越藩に、異国船の状況を教えてくれとお願いをする。そうすると、川越藩のほうから逐一情報が入ってきて、江戸日記と呼ばれる下屋敷の日記に記録されています。

そういった情報を得ると、今度は下屋敷にいた箕作秋坪(みつくりしゅうへい)を実際に浦賀に派遣した。秋坪と同行した絵師は小舟に乗って黒船に非常に接近して描いたようですね。

三谷 津山藩は、川越藩と同じく越前松平の分家なんです。この姻戚関係が背景にある。

それから、箕作家というのは大事で、秋坪の舅の箕作阮甫(げんぽ)という人は、後に蕃書調所(幕府が洋学教授や洋書・外交文書の翻訳などのために設けた機関)の中心人物になりますが、当時、日本で一番蘭学ができた人です。つまり当時の日本で最も優秀な蘭学者グループの一員が、黒船のそばまで行っているということです。

 
  献上品として横浜で陸揚げされた電信機などを展示

編集部 それからペリーの献上品は横浜で陸揚げされていますね。

嶋村 いろんな物を持ってきています。ペリーの『日本遠征記』の中にその絵があります。蒸気車の四分の一の模型も持ってきていますが、これは現存していません。

逓信総合博物館が所蔵しているエンボッシング・モールス電信機は、平成9年に重要文化財になりました。 それから電信機が入れてあった箱にフォア・エンペラーという銘板がついていて、それ自体も重要文化財で、五月五日まで展示しました。

幕府への贈り物 (ペリー提督『日本遠征記』)
幕府への贈り物 (ペリー提督『日本遠征記』)
神奈川県立歴史博物館蔵
 
  庶民も持ち始めた異国への関心

編集部 ペリー来航は日本にとってどのような意味があったのでしょうか。

三谷 明治維新の発端はペリー来航だというのは多分誰も疑わないと思う。それがどういうウエイトを持っていたかというのは、かなり議論できると思うんですが。

岩下 ペリー来航以前から国学和歌、漢詩でも地方と中央との情報の交流はあったわけですが、黒船とかペリーの天狗顔とかの情報は桁違いに多く、異国世界の情報に多くの人が関心を持ち、それに対して幕府はどうするんだろうか、日本はどうなるんだろうかと、多くの人たちが考えるようになったのではないでしょうか。

三谷 それは大事なポイントですね。それまでは、ごく一部の幕府の役人と、ごく一部の知識人だけが、ものすごく気にして悩んでいた。ペリーの来航をきっかけに庶民に至るまで気にするようになった。 一方では政府の側が変わり始める。 それまで「鎖国」をだんだん強めていたのを逆転させる。そういう点では大きなインパクトがあった。

岩下 吉田松陰なんかは日本の武士が褌(ふんどし)を締め直すのはこの時期しかないということを言ってます。

三谷 特に攘夷論の人たちは、こういう機会を待っていて、わざと西洋と戦争を起こしたいと言っていたぐらいですから。

岩下 それで徳川慶喜を擁立しようとする一橋派がだんだん形成されてくるような気がします。幕府にどんどん働きかけていく。そして一橋派が非常に先鋭化していき、安政の大獄に至る始まりの一つでもあるかなと思います。

 
  いろんなタイプの政策パッケージが全部そろっていた

三谷 ちょっとさかのぼって、ごく少数の役人と知識人の世界だけについて言うと、もう十分に準備ができ過ぎるほどできていた。一方では極端な攘夷論を使って体制の改革をやろうという人たちもいたけれど、他方では相手側の圧力が強ければ譲歩して貿易をやってもいいという人もいた。また、西洋の到来を機会に積極的に貿易をやり、それで得た利益を使って海防をやって、西洋に支配されないようにしようという人もいた。

そういういろんなタイプの政策パッケージは既に一そろい全部あったんです。それをつくったのは18世紀末から50年以上の経験だった。当時の幕府の役人たちはものすごく真剣に考えていて、考えたんだけれども、ペリーが来る前は、抜本的な対策はできないと言っている。長い時間をかけた蓄積は、ペリー以後に生きてくるんです。

編集部 どうもありがとうございました。




 
三谷 博 (みたに ひろし)
1950年広島県生れ。
著書『明治維新とナショナリズム』山川出版社 6,935円(5%税込)、『19世紀日本の歴史』(共著)日本放送出版協会 2,310円(5%税込)ほか。
 
岩下 哲典 (いわした てつのり)
1962年長野県生れ。
著書『幕末日本の情報活動』雄山閣出版(品切)、『江戸のナポレオン伝説』中公新書 735円(5%税込)ほか。
 
嶋村 元宏 (しまむら もとひろ)
1965年埼玉県生れ。






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