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烏水に興味を持ったのは雑誌『山岳』を買い集めてから
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篠崎 |
近藤様の烏水との出会いは、烏水の山の雑誌を買われたことですか。
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近藤 |
私は中学3年のとき勤労動員の工場で終戦です。それで昭和21年、中学4年のとき、山好きの元軍事教官に声をかけられて、富士山に行ったんです。24年に北アルプス、25年から南アルプスに入って、山気違いになっていた。そのころ、山の本にいいものがある、文学がある、と気づき、それから山の本を読み始め『山岳』という雑誌を買い集めた。
しかし、初期のものが集まらない。昭和32年に悠久堂という本屋に聞いたら戦前分のそろいがあるというので思い切って買いました。そのとき新婚早々で、ボーナス33,000円を全部はたいて怒られてね(笑)。烏水と取り組んだのは、それからです。
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山男だった父親から勧められた名著『日本アルプス』
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篠崎 |
河野先生の、烏水との出会いは……。
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河野 |
私が最初に烏水の名前を知ったのは父親を通してです。父親は山男と言ってもいわゆる低山登山、神谷恭さんが提唱した低い山に登って楽しむという山男でした。
小さいときから、小島烏水の書いた(『日本アルプス』 岩波文庫)は名著だから読め、読めと言われました。手にとると、大下藤次郎、丸山晩霞のすばらしい口絵があって、そのころから絵は好きでしたから、「ああ、いい絵だな」と思って、小島烏水、丸山晩霞、大下藤次郎の名前だけを覚えて、山になんか登りもしませんでした。
大学で日本美術史を専攻して、小島烏水は浮世絵の研究のほうでもパイオニアであることを初めて知ったのです。『浮世絵と風景画』『江戸末期の浮世絵』の二大著書を読んで本当に驚きました。浮世絵研究の黎明期に、ああいった仕事をした人が、また同時にすごい山男でもあったということで大変な驚きでした。その後、私も健康法の一つとして、毎年一つぐらい山に登ることを始めました。
父は町医者でして、もっぱら「本日休診」にして、山登りをやっていました。それで死んだときに、近所の俳句が趣味の人が「賜りし命を生きて夏山へ」という一句をたむけてくれたんです。私は感動したのと同時に、近所の人もおやじを医者ではなくて山男として見ていたんだなと思いました。
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Y高(横浜商業高校)から横浜正金銀行へ
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篠崎 |
烏水は横浜の野毛に近い西戸部、現在の西区に住んでいましたね。
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近藤 |
烏水が開港地の横浜で育ったということに意味があると思うんです。 父親は旧高松藩士ですが、上京して東京の神田辺りにいて、その後、横浜の税関に勤めることになった。これが一つのきっかけですね。横浜にいたことが彼の生涯の精神的な意味で大きな力になっている気がします。老松(おいまつ)小学校から今のY校に入学します。
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近藤 |
と思いますね。初めは税関官舎に住んでいます。父親は実直な方で、烏水を始め、随分と子供を連れ回したりした。例えば当時の税関長は有島三兄弟の父親の武。税関の運動会なんかでそういうのを見ていて、後で思い出しています。それから、西洋文化を取り入れた馬車道や弁天通、西のほうに行けば江戸の名残を残した東海道の道筋。
そういうふうにつながっていきますね。
もう一つは、いい友だちがいたと思います。例えば久保天随(得二)は老松小学校の同級生、あと歌舞伎の脚本家になった山崎紫紅。そういった意味ではかなり刺激しあっている。沢田牛磨(紫瀾)も後に北海道長官になる。
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篠崎 |
野毛山には立派な人たちが住んでいらしたから、老松小学校は超エリートの子供たちが通っていたわけですね。
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近藤 |
ですから、旅心といいますか、絵心、文学心、そういうところからかなり刺激を受けていますね。
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雑誌『文庫』に投稿の『一葉女史』で評価される
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篠崎 |
烏水は文学と登山、どちらが早いんでしょうか。
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近藤 |
文学だと思います。横浜の文献を調べたんですが例えばY校時代に『学燈』という雑誌を出しています。全集に入れてあります。中学生ですから、勝手なことをいろいろ書いている。旅の記があり、歴史の文章があり、社会評論あり。やはり物を書くという姿勢があったんでしょうね。
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篠崎 |
雑誌『学燈』は印刷人は原田久太郎、編集人は小島久太、発行人は今井幸吉と書いてありますね。小島久太というのが小島烏水ですね。文学で注目されるのは、正金銀行に入ってから書いた『一葉女史』ですか。
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近藤 |
あれは明治29年で、発表は樋口一葉が亡くなった直後です。それ以前に、『文庫』の前身の『少年文庫』というのがあって、これは岡山出身の山縣悌三郎という教育者が発行した少年向けの投書雑誌です。それが明治28年に『文庫』と改題され、河井酔茗(青嵐)、滝沢秋暁(残星)という優秀な物書きたちが投書を続けていく。それで今言われた『一葉女史』は、その中の一つとして大変評価を得たようです。
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篠崎 |
烏水が登山を始めるのは何年ぐらいからですか。
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近藤 |
明治20年代の半ばにはもう丹沢に行っている。特に大事なのは、父親がよく箱根に静養に行くので、それについて行ったということ。それから逗子、鎌倉に散歩に行き、そんなときの旅の記が残っています。
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篠崎 |
Y校のころからなんですね。
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近藤 |
そうですね。Y校のころに近所を歩いて、山水旅行趣味というか。
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