Web版 有鄰

558平成30年9月10日発行

1冊の本のように懐かしい寺山さん – 1面

萩原朔美

寺山夫妻との至福の思い出

皇居前の劇団創立記念写真 後列左から2人目が執筆者、5人目が寺山修司

皇居前の劇団創立記念写真
後列左から2人目が執筆者、5人目が寺山修司
前橋文学館提供

知り合いの詩人から、

「今度寺山修司が劇団を旗揚げする。君も参加しないか」

というお誘いを受けた。

わたしの演劇体験と言ったら、小学1年の時「浦島太郎物語」で亀になったことぐらいだ。画用紙にクレヨンで描いた甲羅を背中に括り付けて、

「浦島さん、助けてくれてありがとう」

と言うセリフを発した。それだけ。

わたしが、

「芝居はよく分からないから」

と躊躇すると、

「とにかく、1度寺山さんに会ってみないか」

と言われて尋ねることになった。

寺山夫婦の住居は、東横線の祐天寺駅から歩いて数分のところにあった。

駅舎からなだらかに傾斜するアスファルトの道。その両側は民家がびっしり建ち並ぶ山の手の住宅街だ。

突き当りの路地を入ると、当時としては珍しいコンクリート打ちっ放しのモダンなコンドミニアムのマンションが出現した。

凄いところに来たなあ、と思った。20歳のわたしは、マンションというものにそれまで入ったことがなかった。奥さんは映画女優だし、有名夫婦は住む所が違う、と感心したのを覚えている。

わたしは、1階の居間に通された。

「好きな作家は?」

「最近見た映画は?」

「劇作家では誰が好き?」

「美術に興味ある?」

寺山さんの少し東北なまりの早口な質問に、わたしは何1つまともに答えられない。隣で九條今日子さんがニコニコと笑っている。

当時のわたしは、本嫌い、出不精、映画館嫌い、芝居など観たことも聞いたこともない。そういう面白味のない世間知らずの若者だった。興味があったのはモダンジャズだけ。10代からジャズドラマーに憧れていた。

寺山さんが

「モダンジャズなんか聞く?」と言った。

嬉しかった。やっと話が出来る。

わたしは、1日中巨大スピーカーでジャズを聞かせる、ビザールという新宿のジャズ喫茶でボーイのバイトをしていた。ボーイの先輩が後の映画監督北野武。同僚はみんな大学教授や写真家になった。

わたしは、せき込むように、好きなモダンジャズのプレイヤーについて話した。 

なんと、趣味が同じなのだ。コールマン、マル、コルトレーン、マイルス、ドルフィー。一気に話が盛り上がった。

後年、寺山さんと一緒にニューヨークへ行った時も、夜になるとビレッジバンガードなどのライブハウスに通った。

あれはジャズビレッジだったか。九條さんと3人で店に入ったら、床がバリバリと音を立てる。何だろうと思ったら、食べて捨てたピーナツの殻が店中散乱しているのである。床掃除などしないのだ。さすが自由の国だと思った。その日は、確かサン・ラのライブだったと思う。聞いている間、3人でわざと子供のように、床を踏みつけて演奏を楽しんだ。演奏が終わると、サン・ラたちも、バリバリ音を立てながら行進し、後ろのドアーから外に出て行った。なんだか無性におかしくて、お互いの顔を覗きながら笑った。思い出すだけで涙が出てくる至福の思い出である。寺山さんの葬儀の時も、九條さんの時も、わたしはこの日のことを、繰り返し思い出していた。

寺山修司の演技のダメ出し

マンションの面接の翌日から、いきなり毎日が戦場のように忙しい劇団生活が始まった。人生なにが起こるか分からない。  

なにしろ、演劇実験室・天井棧敷は、寺山さんの書き下ろし新作を年に数本上演するというハード・スケジュール。その合間に、資金稼ぎの、イベントもある。1ヶ月稽古して本番。再演が決まって稽古して本番。すぐ次の芝居の準備。また稽古して本番。ほとんど、休日というものがない芝居漬けの毎日である。

「青森県のせむし男」舞台

「青森県のせむし男」舞台
前橋文学館提供

わたしの劇団での最初の体験は役者だ。役者と言ってもセリフはなく、ただ大正時代の水着を着てマグロのように寝ころんでいるだけ。演目は旗揚げ公演の「青森県のせむし男」という一幕劇。会場は青山の草月会館ホールだった。

せむし男役は、増岡弘さん。今もテレビの「サザエさん」で、マスオさんの声を担当している。

主演は演劇は初体験だという美輪明宏さん。当時はシャンソン歌手の丸山明宏。美輪さんは稽古初日から堂々としていて、セリフは全部頭に入っている。自分がどこから登場してどこで座るのか、すでに決めている。驚いてしまった。わたしはただただ美輪さんの圧倒的な存在感と、独特のビブラートのかかったセリフまわしを、稽古場の隅っこで観察していた。自分は役者には向いていない、と思った。

ところが、まさかの事が起こった。数ヶ月後、寺山さんに呼ばれて、第3回公演の「毛皮のマリー」に美輪さんの息子役をやれという指令が下ったのである。

寺山さんは、

「萩原、演じなくてもいい、普段どおりでいい」

と言った。

緊張感をほぐしてくれるのだけど、言われれば言われるほど緊張するものである。当然だ。美輪さんとの共演を素人が出来るのだろうか。

結局わたしの初舞台で、寺山さんから演技のダメ出しは1度もなかった。本当に、普段どおりでいいと思っていたのかも知れない。 

代わりにといっては変だけれど、三島由紀夫さんから、何度もダメが出た。三島さんも、新宿アートシアターの地下で「三原色」をやっていたからだろうか。あるいは美輪さんを観に来ていたのかも知れない。楽屋に通じる裏階段でしょっちゅう出会うのだ。「今日の演技は昨日よりセリフがよく聞こえていい」「今日のは、少し感情が希薄」今から思うと、何という優しいダメ出しだろうか。気の毒に思ったのだろう。素人が傷つかないように初歩的な事を言っているのである。

この公演の後、わたしは役者を断念して演出を担当することにした。裏方の方が自分には合っていると思った。有難いことに寺山さんも賛成してくれた。

スタッフにかわったら、直ぐに寺山さんから劇団の新聞、カタログ、雑誌に文章を書くようにと言われた。それまで、1度も文など書いたことなどなかった。文字を書き連ねる作業が苦手だった。

しかし、書いて見ると案外にスラスラと筆が進む。自分でも書くことが少しだけ好きになった。

その後、

「萩原、書くことだけは続けた方がいいぞ」

と寺山さんから言われた。「書を捨てよ街へ出よう」という、私が演出した芝居の名古屋の公演が終わって、つぎの大阪公演に乗り込む時だった。寺山さんだけが仕事で東京に戻らなければならない。見送りの新幹線のホームで、急に寺山さんがぼそっと言ったのだ。どんな意図があったのかは分からない。その時何と返事したのかは覚えていない。

数年後、劇団を退団してから急にその時の言葉を思い出した。もしかしたら、ホームでの寺山さんは、わたしが退団を考えているのではないだろうか、と感じたのかも知れない。

書き続けて良かったと思えることはたくさんある。本を何冊も書けたこと。書くことで自分自身が救われたこと。父親が亡くなった時、1冊書き下ろした。母親が亡くなった時も、やはり1冊書き下ろした。そのことで、親不孝だった自分を許せた。これは寺山さんの忠告のおかげである。

忘れられない寺山からの助言

もう1つ、忘れられない寺山さんからの助言がある。

「萩原、『僕』から『わたし』に変える時が大きな転機だぞ」

というものだ。

文章の中の自分をどう表現するかの問題である。何時どこで言われたのかは思い出せない。ただ、寺山さんが誰かからの大事な伝言のように言ったのを覚えている。

わたしが、「僕」を卒業し「わたし」に変えたのは、30代の時だった。どうも書いていて、「僕」に違和感を感じたのである。

ある時、思い切って「わたしは」と書いてみた。そうすると、もう1人の自分が出現して、スムーズに文章が進む。自分と文字列表現との距離がいいのだ。自由を獲得したような爽快感である。この事を寺山さんは言っていたのか、と思った。表現の根本的な問題である。だからなのか、以後何度も思い出した。僅か47歳の若さで逝った寺山さんの言葉は、ピーナツの殻を踏みつけるような快感と共に、70歳を過ぎたわたしの心を今も揺らし続けているのである。

萩原 朔美氏
萩原 朔美 (はぎわら さくみ)

1946年東京都生まれ。多摩美術大学名誉教授。前橋文学館館長。著書『思い出のなかの寺山修司』筑摩書房(品切)他多数。

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