Web版 有鄰

558平成30年9月10日発行

ハマっ子の武田先生 – 海辺の創造力

森下典子

20歳の時から、茶道の稽古に通って、もう40年が過ぎた……。「お茶」に興味があったわけではない。私はむしろ、古い決まりごとに反発を感じていた。

「なぜお前は、なんでも斜に見るの。親が、1番いい道を、真っすぐ歩かせてやりたいと思っているのに、お前はまっすぐ歩かないで、わざわざ斜めに入る」

と、母に言われたことがある。どうしてなのか自分でもわからない。素直にまっすぐ進めば楽かもしれないのに、それができない。私はいつも何かに抵抗する娘だった。

そんな私が、母の勧めに従って「お茶」に通い始めたのは、教えてくれるのが武田先生だったからだ。武田先生は、弟の同級生のお母さんで、柔和な雰囲気の、羽二重餅のようなおばさんだった。生まれも育ちも横浜の下町。しゃべる口調がいかにもハマっ子らしく、さばさばしていた。

武田先生は、男性にも女性にも、子供にも大人にも、同じ視線、同じ声色で話しかけた。権威に対して敬意は表するけれど、臆したり、おもねったりすることがなかった。そして、誰の前でも、「私はこう思う」と、自分の考えをはっきり口にする人だった。

まわりとのお付き合いは上手だけれど、べたべたとつるむのは嫌いらしく、いつもサーっと1人で引き上げていく……。

武田先生は、私が初めて出会った本当の「おとな」だった。

毎週1回、お稽古場に通った。行けば、見たことのないお茶碗や茶器、掛け軸や茶花がそこにあった。行くたびに季節に合わせて道具が変わり、私はその季節の中に五感を使ってゆっくりと浸った。

お茶とは、五感と心のすべてで生きることだと思った。その気づきを『日日是好日』という本に書いた時、いつもお点前のこと以外、何も言わなかった先生が、初めて、

「こんなふうに感じてくれていたのかと思ったら、涙が出そうになっちゃった」

と、言った。不意に、胸が熱くなった。

その『日日是好日』の映画化のお話をいただいたのは、私が60歳、武田先生が84歳になった年だ。

主演は黒木華さん、先生役は樹木希林さんとうかがった時、最高の配役に跳びあがりながら、ふと、不思議な、温かい縁を感じた。

樹木希林さんのご実家のある野毛は、武田先生の生まれ育った場所から近く、それだけでなく、樹木さんもまた、誰に対してもオープンで、自分を変えることなく接する人柄だからだ……。

撮影の準備が進んで、お茶室のセットは、なんと武田先生の地元から、ほんの一駅隣りにある町の、一軒家の敷地内に建てられた。

カメラが回り始め、先生役の樹木さんが着物姿でお茶室に入っていらした。その佇まいには、お茶人の雰囲気と、ハマっ子の気風がないまぜになって見えた。

(エッセイスト)

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