Web版 有鄰

508平成22年5月10日発行

竜馬の妻 お龍――晩年をすごした横須賀に眠る – 2面

植松三十里

恋多き龍馬が妻と認めたのはお龍だけ

新宮馬之助という美男の海援隊士がいた。坂本龍馬は彼に向かって、こう言った。

「君は男振りが好いから女が惚れる。僕は男振りは悪いが矢っ張り惚れる」

ちょっと自惚れではあるが事実だったのだろう。龍馬は恋多き男だ。

幼なじみの平井加尾は、龍馬が寄せ書きした袱紗を、生涯、大事に持っていたし、江戸で出会った千葉佐那とは、婚約までしていた。

佐那は明治29年に亡くなったが、その墓には「坂本龍馬室」という文字が彫られている。「室」というからには、婚約者というよりも、実質的な妻だったのだろう。

しかし龍馬自身が妻と認めたのは、京女のお龍だけだった。お龍は、もともと京都の勤王医者の娘。父の楢崎将作は、朝廷の流れを汲む名刹で侍医を務めていたが、安政の大獄で投獄され、それがもとで体をこわしたか、放免後、まもなく亡くなっている。

お龍はお茶やお花をたしなむ、お嬢さま育ち。しかし父が亡くなった後には、世間知らずの母と、お龍、それに幼い弟妹たちが残された。

母が人に騙されて、妹が女衒に売られかけたこともあった。その時、お龍は刃物を片手に遊女屋に乗り込み、命がけで妹を取り返してきたという。

「坂本龍馬未亡人 龍子」

「坂本龍馬未亡人 龍子」(64歳)
復刻版『東京二十六新聞』(不二出版刊)
明治37年12月15日付

お龍は家族を守るために、気丈にならざるをえなかった。龍馬は、そんなお龍に魅かれた。そして家族それぞれの身の振り方を世話し、お龍の身柄は、京都郊外の寺田屋という船宿に預けた。

だが薩長同盟成立の夜、寺田屋は大勢の捕り手に踏み込まれた。この時、入浴中だったお龍が、裸同然の姿で、いちはやく2階に知らせて、龍馬を逃がした。

その後、2人は西郷隆盛の媒酌で杯を交わし、鹿児島に潜伏した。温泉に逗留したり、霧島に登ったり。それが日本初のハネムーンとして知られている。

ただお龍は勝気が過ぎて、人に嫌われる一面もあった。土佐藩の重役だった佐々木高行は、お龍を「有名なる美人なれど、賢婦人や否かは知らず」と評している。海援隊の男たちにも持て余されたらしい。

当時の「賢婦人」とは、三つ指ついて男を立てて、夫に浮気されても耐え、外に子供ができたら引き取って、我が子として育てるような女性だ。お龍は、そんなタイプではなかったし、龍馬も「賢婦人」など好まなかった。

龍馬は長崎や下関に家を借りて、お龍を住まわせ、自分は各地を飛びまわって、倒幕に向けて活動。忙しい旅先から「ちょっとなりとも帰り申し候。お待ち申されたく候」と、優しい手紙を書き送っている。2人には、2人にしかわからない愛の形があったのだ。

龍馬の死後、身を寄せた坂本家を数か月で飛び出す

大政奉還が成った1か月後、龍馬は何者かに襲われて落命した。たいがいの物語は、ここで終わり、その後、残されたお龍が、どうなったかは語られない。だが、彼女の波乱の生涯は、若後家になってからも続く。

龍馬は常に身の危険を感じていただけに、自分が死んだら、お龍を高知の実家に引き取ってもらえるように準備していた。その遺志の通り、お龍は、まず土佐におもむき、坂本家に身を寄せた。

ただお龍としては、龍馬個人と一緒になっただけで、家に嫁いだという意識はない。一方、迎える坂本家にしてみれば、あくまでも嫁だ。その辺りの意識のずれもあっただろう。

それに坂本家には、だれよりも龍馬を可愛がった姉、乙女がいた。乙女は土佐で「はちきん」と呼ばれる男勝り。何ごともストレートで、言葉に裏表がない。一方、京女は、やんわりしていながら筋を曲げない。まさに水と油で、お龍はほんの数か月で、坂本家を飛び出してしまった。

その後は、妹のところに身を寄せたり、京都に舞い戻ったり。しかし女ひとりでは食べていかれなかった。特に明治初期の京都は、都という立場を失って、人々が東京に移ってしまい、不況のまっただ中。後家を通すのは、特に難しい時期だった。

お龍は龍馬以外の男に、頼らざるを得なかった。それが西村松兵衛といった。上背があり、大坂の呉服屋の若旦那で、寺田屋の客だったと言われているが、はっきりした素性はわからない。

ともかく不況で苦しかったのだろう。お龍は松兵衛と一緒になって、東京に出た。陸軍大将になっていた西郷隆盛を頼っていったのだ。しかし西郷は、新政府内で征韓論がもつれ鹿児島に下野する直前だった。それでも、お龍の身の上を気の毒がり、20円を包んでくれたという。

まもなく、お龍は神奈川宿にある田中家という旅籠料理屋で、中居として働き始めた。この時、32歳だったが、はるかに若く見えたし、外国人が来ても上手にあしらい、客受けはよかったらしい。ただ性格が災いしたか、あまり長く勤めた様子はない。

横須賀の裏長屋で暮らし、信楽寺に残る墓

その後は松兵衛とともに、横須賀に流れていった。横須賀は幕末から本格的な造船所の建設が始まり、この頃は新政府の海軍基地として、急速に発展していた。

お龍の妹は、幕末に千屋寅之助という海援隊の隊士に嫁いだ。千屋は龍馬亡き後、アメリカ留学を経て、新政府海軍に入り、横須賀に赴任した。ほかにも横須賀には、元海援隊士たちが集まり、お龍は彼らを頼っていったのだろう。

当初、松兵衛とお龍は、横須賀近郊の大津に住んだが、晩年は、現在の米が浜通り2丁目の、裏長屋で暮らした。

松兵衛は大道商をして、お龍を養った。水兵や子供相手に、「どっこいどっこい」というルーレットのような賭けをさせ、日銭を稼いだのだ。ただ雨が続くと、収入がなくなる暮らしだった。

晩年のお龍のもとには、取材が相次いだ。龍馬をモデルにした小説『汗血千里駒』がベストセラーになり、その妻として注目されたのだ。

酒を持って訪ねて行くと、お龍は機嫌よく話に応じたという。この頃の談話が、肉声に近い形で残っているが、酔いにまかせてか、時に話が大きくなり、他愛ない嘘も混じる。

そのためにお龍は嘘つきと言われ、歴史的評価は低い。龍馬に浮気されても、仕方ないような女とみなされる。裏長屋暮らしに落ちぶれたのも自業自得と思われがちだ。

お龍の墓

お龍の墓
横須賀市・信楽寺

ただ33歳で命を奪われた龍馬を、お龍が忘れられなかったのは事実だろう。お龍は明治39年に、66歳で亡くなったが、今も大津の信楽寺に残る墓には、大きく「阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。

墓を建立したのは松兵衛だが、この行為も理解されにくい。墓を建てる口実で、実は金集めが目的だったと、憶測されたりもする。事実、どうだったのかは、わからない。

でも夫婦のことは、その夫婦にしかわからないこともある。おそらくお龍は龍馬の妻だったことを、生涯、誇りにし、松兵衛は傍らで、それを見守り続けたのだろう。そして龍馬の妻として見送ったのだ。それもまた、この2人だけの愛の形だったのかもしれない。

お龍が働いた田中家は、今も横浜駅西口近くで料亭を続けている。また横須賀の米が浜通りには「おりょう会館」という斎場があり、フロアにお龍の胸像が飾られている。松兵衛とお龍が暮らした長屋は、そのすぐ裏手にあったという。

植松三十里  (うえまつ みどり)

1954年静岡市出身。
作家。著書『お龍』新人物往来社 714円+税、『群青−日本海軍の礎を築いた男!』文藝春秋 1,524円+税、『咸臨丸、サンフランシスコにて』角川書店 600円+税

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