Web版 有鄰

508平成22年5月10日発行

長屋と港の江戸学 – 海辺の創造力

田中優子

私にとっての横浜には2つの顔がある。生まれ育った長屋と、歩き回った港から野毛までの範囲だ。前者は久保山の下にある久保町のことなので、山をはさんでずいぶん遠い。その距離を、小学校の6年間バスで通った。学校は花咲町にある本町小学校である。ここの生徒は、近くは野毛や掃部山に暮らし、遠くは中華街や港から来ていたので、それが私の活動範囲だった。港まで歩くこともあり、学校から山を越えて徒歩で家に帰ることもあった。ちなみに6年間、安全に関する親の配慮で一緒にバスで通っていた近所の男の子がいた。彼は今、横浜中央病院の院長になっている。横浜で働けることがうらやましい。

長屋と港という組み合わせは、私に多大な影響を与えた。私の江戸文化論は最初からその両方を抱え込んでいたのである。長屋の人間関係を基礎にした生活の足下を見る方法と、江戸文化を海外との関係で解析しようとする方法と、その両方が大事だと考えているのだ。江戸時代の海外文化は港から入ってくる。たとえば着物の生地に使う「縞柄」は海を感じさせる。「しま」とは海の向こうの「島」のことで、江戸時代では「島」の柄であった。インドや東南アジアから入ってくるものを「島もの」と呼んだのである。『仮名手本忠臣蔵』の討ち入りの場面で着る火消し羽織の袖口についている鋸歯文様は「トゥンパル」と言い、これも島ものである。道で客の呼び込みをしている「めがね絵」は、遠近法絵画をレンズで見る立体画像のエンターテイメントで、同時代のヨーロッパの街角にもあった。メガネも江戸にはありふれている。

このように庶民生活を見つめると、江戸文化は港から入ってくる海外のものの刺激でできあがっていて、閉鎖的などころか広大な世界だったことがわかる。長屋と港はこのようにして、私の中でつながっている。

中学高校は大船のカトリックの学校だったが、その在学中に写真部というものを作った。学校の雑誌に使う写真も撮っていたが、私が最初に自分で撮影、現像、焼付けをしたのは港の写真だった。夜明けの港に行き、港が目覚めてゆくところを撮ったのである。船上に人が動きはじめ、汽笛が鳴り、小さな曳舟がゆっくりと動き、積み荷や荷おろしが始まる。明け行く白さの中に目覚める港は、美しいだけでなく、外に向かって開こうとする力をみなぎらせていた。

小学校のころは、港の周辺に港湾労働者の住まいが立ち並び、船上生活者もいて、港は観光資源などではなく暮らしと仕事の場だった。私はその横浜港が好きだったのである。高校生になって写真を撮っていたころの港も、人が働く港だった。全世界をまわっている、日本語のたどたどしい船員たちと知り合ったりもした。

江戸文化の中に私は、生きて働く、外に開かれた生命力を探しているのかも知れない。それは子供のころに横浜港とその周辺の町、そして長屋の人々の中に見ていたものなのである。

(法政大学教授・江戸文化)

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