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有鄰


平成13年5月10日  第402号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 海軍の町 横須賀 (1) (2) (3)
P4 ○明治天皇の肖像  横田洋一
P5 ○人と作品  佐藤愛子と『血 脈』        藤田昌司

 座談会

海軍の町 横須賀 (2)



海軍工廠で軍艦の艤装作業に従事

篠崎 猪狩さんはいつ、横須賀にいらしたんですか。

猪狩 郷里の福島から横須賀に来たのは昭和九年、十六歳でした。その頃はすごく不況で、横須賀の海軍工廠に見習教習所があるから、 その試験を受けないかと言われました。東北で、貧乏だったので洋服なんて着たことがなくて、着物と下駄・ぞうりで試験を受けに出てきた。そうしたら何の拍子か合格してね。試験は四日間で、学科試験が二日、あと体格検査と面接でした。志願者が千人ぐらいいて、百人採ったんです。

篠崎 教習所はどの地域の人が受験したんですか。 
猪狩
震災前の横須賀海軍鎮守府
震災前の横須賀海軍鎮守府
横須賀市・久保木実氏蔵
横須賀鎮守府管轄だから、だいたい静岡から北海道までです。横須賀の人が一番多かったけど。

汐入の「三笠」という旅館に泊まりました。一緒に来た仲間は最初の日は合格したけど、二日目に落ちて私一人だけ残った。 北海道から一人、岩手県から一人、静岡県からも一人いました。

 

  三年間は見習工として学科を勉強

篠崎 どんなお仕事から始められたんですか。

猪狩 三年間は見習工として、たとえば数学、歴史、英語、国語、物理、化学などを専門の先生が教えてくれ、中学卒業と 同程度の学力をつけてもらった。教習所は、まだ池上にできる前で、工廠の中にありました。

篠崎 給料も出ましたか。

猪狩 ええ。一か月に十円ぐらい出ました。海軍工廠の宿舎に入っていて、食費だけ払えばよかったので、二円ぐらい残った。 大福が一つ十銭ぐらいだったから、二円残れば何とか暮らせましたね。

篠崎 横須賀の市民も海軍工廠の工員さんというとみんな信頼していたんじゃないですか。

猪狩 教習所を卒業すると割合もてたと言うとおかしいけど(笑)、横須賀の家庭で「ぜひうちに婿に来てくれ」と いう時代でしたね。(笑)

 

  教習所を卒業後一年間、海兵団に入団させられる

篠崎 教習所を卒業されたあと、すぐお仕事に就かれたわけですか。

猪狩 いいえ。当時は、二十歳になると徴兵検査が来るんですが、徴兵検査に合格すると、その頃は十人に九人は陸軍なんです。 海軍でせっかく教育したのに陸軍にとられてしまうと困るというので、私たちは卒業するとみんな、海兵団に行けと言われた。 そこで簡単な身体検査をして、工作科予備補習生として横須賀海兵団に入団し、海軍の兵隊になったんです。それが昭和十三年です。 陸軍は相当反対したらしいですね。

篠崎 海兵団に入られて、やはり船に乗って訓練もされたんですか。

猪狩 海兵団に一年間いましたが、三か月は艦隊勤務をやり「長門」という戦艦の配属になりました。 

山本 「長門」というのは横須賀の主みたいな船です。

猪狩 その後、海軍工廠に帰ってきたんです。

篠崎 工廠ではどういう仕事をされていたのですか。

猪狩 造船部第三艤装(ぎそう)工場に配属されました。

船体ができ上がった状態というのは、家の建築にたとえると母屋ができたということなんです。その後に、床の間をつくったり、 襖をつけたりする。船の場合、就航に必要な、さまざまな装備を船に施すことを艤装と言うんです。エンジンを積んだり、各部屋を つくったり。

山本 軍艦だと、砲塔や上部構造物をつけるんです。一度進水させて、それからまたドックに入れて、上に大砲をつけたりするわけです。

篠崎 普通、一隻の船ができ上がるまでにはどのくらいかかったのですか。

猪狩 当時、艤装を終えて艦隊に渡すまで、早くて大体三年、大きな船だと五年ぐらいかかります。

篠崎 横須賀の海軍工廠ではどんな船がつくられたのですか。 

田中 最初の国産戦艦である「薩摩」が明治四十二年に竣工しています。大正時代になると戦艦「比叡」「山城」「陸奥」などが つくられていますが、大正十一年のワシントン軍縮条約で大きい軍艦はつくれなくなります。昭和に入ってからは、潜水母艦 「大鯨」や航空母艦「飛龍」「翔鶴」「信濃」などですね。


追浜海軍航空隊で飛行機魚雷を専門に

篠崎 山本さんは昭和十六年に横須賀に来られる前は……。

山本
追浜海軍航空隊本部
追浜海軍航空隊本部
横浜開港資料館蔵
私は海軍に十年いましたが、初めから終わりまで全部魚雷関係です。兵学校を卒業して昭和十四年に連合艦隊の巡洋艦に乗っていた 時は九三式魚雷という酸素魚雷で、のちに九一式の飛行機魚雷が専門になりました。

昭和十四年暮に肺結核にかかって一年間療養し、十六年に退院して横須賀に勤めました。最初は猿島や、金沢文庫の小柴崎という山の頂上 の砲台の防備隊にいました。横須賀の周りには砲台が九か所あったんです。

篠崎 昭和十六年十二月の日米開戦の頃はどこにいらしたんですか。

山本 猿島の砲台です。病み上がりで身体検査は乙ですから、戦地には行かされなかったんです。

当時、飛行機魚雷は上空から沈度二、三十メートルで落とし、それから攻撃する船によって違いますが、だいたい深度七、八メートルで走って 敵艦に当てていた。それが昭和十六年春から浅い湾などでも使えるように沈度を十二メートルにしろということで、航空技術廠の技手が苦心して 安定器や框板(きょうはん)をつくり、実際に九一式魚雷にそれらをつけて実験した。

沈度を浅くして、魚雷のローリング(横揺れ)とピッチング(上下動)とヨーイング(偏揺れ)の三つを規制するためには、こういうものが必要だったんです。その実験をやったのが猿島の射場です。

 

  昭和十七年四月の本土初空襲では「大鯨」が被弾

田中 三浦半島には陸軍の砲台がずっと並んでありましたよね。

山本 猿島も二十センチぐらいの砲台の台座が残っていました。

田中 東京湾要塞地帯は陸軍の所轄ですが、その中にまた海軍の砲台もあったわけですか。

山本 はい。砲台といっても、八センチの高角砲が四門あるだけです。

それで、昭和十七年四月十八日に初めてアメリカのB25双発爆撃機が飛んできたとき、私はちょうど小柴崎の砲台にいたんです。警戒警報があったので山の上で見張っていましたが、B25とは気がつかなかった。すぐ防備隊の砲術長に「敵味方不明の双発機一機、横須賀に向かう」と 電話で報告したんです。そうしたら、「双発の飛行機が来るはずがない。よく見ろ」と言われた。(笑)

田中 この日、七百マイル(一一二〇キロ)離れたアメリカの航空母艦ホーネットから飛び立ったB25十六機が、京浜地方を中心に日本本土を 爆撃したんです。これがドゥリットル空襲といわれる米軍機による本土初空襲です。爆撃機の大半は品川から横浜にかけての京浜工業地帯を 爆撃し、ほとんど全部が中国本土まで行ってます。このとき横須賀も爆撃を受けています。

山本 指揮官がドゥリットル陸軍中佐です。海軍の母艦から陸軍の爆撃機を飛ばしたというのは、アメリカの柔軟なところなんでしょうね。

篠崎 そのとき、猪狩さんは海軍工廠にいらしたのですか。

猪狩 はい。昼休みで外の空気を吸うために、みんなでゴロゴロしていた。そうしたら突然に飛んできたんです。空襲警報も鳴らない。 「あれ、あの飛行機は違うな」なんて言ってたら、五号ドックに入っていた潜水母艦の「大鯨」が爆撃された。だけど大した損害ではなかった。

 

  鎮守府の近くに間借りし食事は水交社で

篠崎 山本さんは、その後追浜の横須賀海軍航空隊へ行かれたのですか。

山本
追浜の横須賀海軍航空隊(昭和20
年9月)
追浜の横須賀海軍航空隊(昭和20年9月)
米国防総省蔵、寺崎弘康氏提供
そうです。横須賀航空隊で特修科航空兵器専修の学生として七か月教育を受けた後、今度は、航空魚雷について原理から扱い方、雷撃までを練習生に教えました。

篠崎 当時、滑走路はどこにあったんですか。

田中 日産の追浜工場の敷地の外れあたりになります。

篠崎 当時はどこに住んでいらしたのですか。

山本 鎮守府の近くの池田町に十畳間を十円で借りていました。私はその頃、中尉で、給料は二十円ぐらい。食事は水交社でするので、 家賃以外はお金は要らないんです。

田中 水交社というのは、東京や各軍港の所在地におかれていた海軍士官の親睦施設です。


「信濃」を戦艦から航空母艦に改造

篠崎 猪狩さんは「信濃」の建造に立ち会われたそうですね。

猪狩 「信濃」という六万二千トンの航空母艦をつくったんです。最初は戦艦でしたが、ミッドウェー海戦で日本の一番いい空母が四隻沈められたので、 途中で航空母艦に改造したんです。「信濃」が私の海軍工廠での大半の仕事でした。

田中 昭和十七年六月のミッドウェー海戦の直後に急遽、戦艦「信濃」を空母に設計変更したんですが、その頃は「信濃」はどのぐらいまでできていたんですか。

猪狩
空から見た横須賀海軍工廠(昭和18年)
空から見た横須賀海軍工廠(昭和18年)
上方、6号ドックで建造中の「信濃」が見える
横須賀市・関口勇氏蔵
艦橋などを取りつけるばかりの段階で、船体はできていたんです。設計変更に半年ぐらいかかった。航空母艦にするとなると上を平らにしなければならないんです。

日本の航空母艦が次から次に沈められるでしょ。爆撃でやられている。飛行甲板もみんなやられてしまう。それで「信濃」の飛行甲板には鋼鉄が使用された。 一枚の鋼板に穴をあけ、穴の周りをぐるっと溶接して取りつけた。ふつう甲板は木ですが、爆撃でやられるからと、艦隊からの要望で鋼板で張ったんです。

ところが、飛行機を飛ばすのに今度は穴が邪魔だから、そこにコンクリを打って完成させた。全部手作業でした。 山本 海軍の常識としては例えば戦艦対戦艦で砲戦を する場合、四十センチの大砲で攻撃されたら、四十センチの鋼板でないと突き抜けてやられる。だから駆逐艦は歩くとカンカンと音がするけど戦艦はゴンゴンという音がする。

猪狩 「信濃」はエンジン部分の機関室周辺だけは鋼板が特に厚かったですね。エンジンさえやられなければ船は走りますからね。

 

  「信濃」の進水式で大きな事故

田中 当時のことで記憶に残っていることは?

猪狩 船は、普通は船台でつくりますが、「信濃」は初めてドックの中でつくったんです。

田中 昭和十五年五月に完成した六号ドックですね。

猪狩 進水式は昭和十九年の十月でしたが、そのときに大きな事故があったんです。

ドックの中に水を入れて、満杯にするのに四時間ぐらいかかるんですが、あと一時間ぐらいで満杯というときに、急にドックの扉が外れて、海水がドック内に一度に入ってきた。 それで、船と岸壁を繋いでいたワイヤーが次々に切れ、船体は押されて、船首がドックのコンクリートにドーンと当たって後退し、またドックの端に当たる。前後に行ったり来たりを繰り返して、 おさまるのに三時間ぐらいかかった。なにしろ全長二百五十六メートル、全幅約四十メートルという大きな船ですからね。

田中 またドックの水を抜いて、船台に乗せて修理したんですか。

猪狩 そうです。十日ぐらいかかりました。船は余り傷まなかった。普通の船は先端がU型ですが、戦闘艦船は先がV型に出っ張っているのでドックのほうが壊れた。大砲がなくなったとき、先端で敵艦を やっつけようという構造をとっているんです。

田中 バウになっているんです。水の抵抗を防ぐという発想なんですね。

 

  魚雷で傷ついた巡洋艦「高雄」を昼夜兼行で修理

篠崎 その頃、海軍工廠とか海軍の施設を、市民は見ることができないのですか。

猪狩 入れないです。進水式も秘密でやっていました。

田中 今の横須賀駅あたりには「信濃」のために、電車から見えないようにずうっと高い塀をつくるんです。

猪狩 逸見とか汐入辺りの山の上からは六号ドックに入っている「信濃」が見えるんです。それで、一日に二回ぐらいは憲兵隊や海軍の人がその辺りのうちを見て歩いた。 それで、見える所は、見えないようにみんなムシロを張った。そのぐらい秘密にしたんだけど、みんな知っていましたね。

田中 戦争中、どこかの海戦で傷ついた船が横須賀に入ってきて、それを昼夜兼行で直したことはないですか。

猪狩 ありますね。傷ついた船が、何隻か帰ってきた。「高雄」という一万トン級の巡洋艦が魚雷かなんかで傷ついて、観音崎から入ってきたときは、 もう海面がデッキすれすれの状態で、遠くから見たらマストだけしか見えない。

それで四号ドックに入れたら直径三十センチくらいの穴があいていて、だんだん水が引けてきたら、兵隊が五、六十人、その穴の中から出てきた。 中で溺死していたわけです。そのことはわかっていたから、海軍病院の人が来て運び出したんです。日本の船は魚雷を受けるでしょ。例えば右舷なら右舷の何番と。 そうすると、バランスをとるために、その反対舷の区画の中に水を入れるんです。



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