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有鄰


平成12年6月10日  第391号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜はダンスのメッカ (1) (2) (3)
P4 ○装丁にみる出版文化  臼田捷治
P5 ○人と作品  垣根涼介と『午前三時のルースター』        藤田昌司

 座談会

横浜はダンスのメッカ (3)



チャブ屋でもダンスが踊れた

もりた 横浜に関係のあるエピソードで、本牧のチャブ屋のキヨホテルの隣に谷崎潤一郎のうちがあって、大正十年秋に小田原から引っ越して、翌年に山手に移るまで住んでいたんです。そこに久保田万太郎、花柳章太郎、若い川口松太郎が行くんです。キヨホテルは遊廓みたいなものなんですか。

藤田 チャブ屋は一階でダンスが踊れたんです。谷崎は『本牧夜話』という戯曲も書いています。

もりた
本牧十二天
本牧十二天中央の樹叢のあたりにキヨホテルがあった
(横浜開港資料館蔵)
それで新派でやるので取材に行ったのかもしれません。そこに泊り込んで、川口松太郎さんが二、三日、キヨホテルに居続けるという話がある。これは戦後の『人情馬鹿物語』という小説の中に「月夜あかるければ」という本牧が舞台の短編があるんです。

チャブ屋の女性が川口松太郎にほれ込むんです。あなたは出世する人だから、こんな所に来るな。お金も使うだろうからというので、女のほうが川口さんの下宿へ通う。これだと安上がりだからね。あなたは勉強しなさいと。

その後、川口松太郎が従軍作家で中国戦線に行く。それで、慰安所に将校が連れて行くと、川口さんの面倒を見てくれた人が、おばさんになって取り締まりでいるんです。それで二人でお酒を飲み、月が窓から……。これは名作だと思うんです。

川崎長太郎は、徳田秋声のお弟子で、秋声は親子でダンスに凝るんです。秋声は神田の近くのダンスホールに通い続け、川崎長太郎はげたをはいて着流しでくっついて歩いていた。そうしたら、ああいう男が好きというダンサーが出てくる。川崎長太郎が同棲した女性は、唯一そのダンサーだけなんです。

藤田 今東光の『十二階崩壊』という自伝的な小説にも大正活映時代の葉山三千子とかトーマス・栗原夫人とかがやはり谷崎に心酔して本牧に遊びに来て、鶴見や関内のダンスホールに行ったことが書かれています。

 

  チャブ屋ではビールを頼めば、女性と踊ることができた

藤田 戦前からダンスをなさっていた広瀬始親さんに、戦前の横浜の様子を編集部で聞いてきましたので、それをご紹介します。

広瀬さんは横浜の生糸関係の貿易商で、大正四年のお生まれです。昭和十五年に中区の住吉町の教習所でダンスを習い始めて、戦前は中華街の元町寄りにあったフロリダ、弁天通りのメトロ、住吉町のオリエンタル、尾上町のカルトン、伊勢佐木町の喜楽煎餅の四階の金港や日ノ出町の新世界などに通ったそうです。

それから、先程お話にでましたが本牧のチャブ屋街でもダンスをしたそうです。本牧にはキヨホテル、スターホテル、文ノ家ホテルなど三十軒以上のチャブ屋がありましたが、そのあたりは全部、空襲で焼け、その跡は米軍に接収され、跡形もないそうです。

チャブ屋は本牧のほかに、石川町の大丸谷にもあって、ナンバーナインというネオンが光っていたそうです。

チャブ屋では、当時ビールが一円で、そこへ行ってビールを飲めば、女性と踊ることができた。そこの女性と気が合って話がまとまれば、二階の部屋に上がって一夜をともにすることもできた。話がまとまらなければ、踊るのはタダですから、踊って帰ってくればよかったそうです。

一般のダンスホールでは女性が五十人から百人近く椅子に座っていて、男性はチケットを買って相手の女性にそれを渡す。一回で一枚のチケットを渡すんですが、十枚つづりで一円のチケットを買って五、六回踊って帰るのが粋だったそうです。一回行くと一円ではすまなかったそうで、チャブ屋で踊る方が安上がりだったそうです。

ダンスホールはバンドでしたが、チャブ屋は電蓄にレコードでした。チャブ屋の女性はあちこち仕事場を変えていますから、ダンスホールの女性よりもダンスがうまい人が多かったということです。

 

  進駐軍が伝えた“ハマジル”が全国を風靡

もりた 戦後はやったハマジルというのも、横浜からのものですが、ヨコハマジルバということですね。あれは進駐軍が持ってきたのかな。

そうです。そのころは僕は石田先生の所へ勤めていたんです。当時、伊勢佐木町の裏に進駐軍の飛行場があったんです。その端に、火陽とゴールドスターというダンスホールが二つ並んであった。そこへ外国人がきて、ジルバを教え出した。それがハマジルです。

もりた ハマジルは全国を風靡しましたね。

僕はジルバを知らなかったんです。それで、石田先生に「うちでも教えなきゃならないから、おまえ、習いに行ってこい」と言われて行った。それがハマジルだった。だから僕が最初に教室で教えたのはハマジルで、そのうちにだんだんわかってきて、普通のジルバを教えられるようになったんです。

藤田 そのころの横浜の印象はどんなでしたか。

吉田橋のたもとに松屋があって、高島町のほうまでずうっと川が続いていた。今の松坂屋がPXで、伊勢佐木町は進駐軍の町でしたね。

掃部山の上の、今の県立音楽堂の真向かいの崖っぷちの所に紅葉館という料理屋があって、掃部山の下が花柳界だったんです。その紅葉館の隣にダンスホールがあった。あんな高い所にあったわけですから、いかにダンスがブームかということですね。そのダンスホールの名前が「サクラポート」。でも、親は大反対で、僕は勘当です。(笑)

藤田 社会的な偏見ばかりでなく、親の偏見もあったわけですね。

杉浦 目賀田男爵は鎌倉〜南北朝時代からの戦国武将の流れをくむ五十四代の嫡男ですが、ダンスにほれ込んで家系を途絶えさせてしまった。つまり、生涯独身を通した。ダンスばかり踊っていて、ダンスと結婚したような人だった。大正から昭和初期にかけてダンスは真に道楽だったんでしょうね。

 

  横浜の中心部で市電の停留所前はどこもダンス教室

藤田 競技ダンスは日本独特のものですか。

杉浦 いいえ。欧州の宮廷舞踏と中南米のラテン系ダンスがイギリスで体系化されたものです。競技ダンスの一番の伝統はイギリスのブラックプールダンスフェスティバルで、八十年の歴史を持っています。日本での本格的な競技会は昭和二十六年からですから、まだ五十年です。

それで、平成十年に法律が改正されて、ダンススクールは風営法の適用対象除外となりました。

結局、今までは風俗営業としての扱いのダンスだったのが、今は文部省扱いのダンスになってきています。

石田 それまでは警察の許可がないと教授所は開けなかったんです。しかも幼稚園や学校や病院がそばにあると許可が下りなかった。

風営法に対するダンス界の反発は強かったですね。僕が初めて石田先生のところに、技術が欲しくてアルバイトで潜り込んだのが大学二年の昭和二十五年ころですが、そのころ、横浜の中心部は市電が通っていて、停留所の前で、教室がない所はなかったぐらいです。そのくらいダンスの教授所が多かった。

どの教授所でも真剣にダンスを教えていた。一つのステップを十人一遍にやらせておいて、同時に他の十人を教える。レッスンが終わってからも、いくら長時間いても文句は言われない。


オリンピック種目候補にもなる現代のブーム

藤田 元町のクリフサイドとか馬車道のオリンピックの雰囲気はどうでしたか。

クリフサイドは、一番最初は戦後、ダンスホールから始まり、それからキャバレーになったんです。

杉浦 その後にまたホールになったのよね。

あそこは建て直しがきかない場所で立地条件が難しいんです。我々もだんだん行かなくなって、ダンス競技はホテルや体育館を使うようになった。

藤田 ああいうところは、例えば男性が一人で行くと、相手をしてくれる女性がいるんですか。

昔はダンサーが百人ぐらいいても驚かないだけのお客さんが来ていたけど、いまはそれほどでもない。クリフサイド自身が悪いんじゃなくて、ダンスがそういうものに対応できなくなってきた。ですから、山下町や本町通のいいダンスホールやナイトクラブもつぶれてしまった。

藤田 結局、今のダンスブームを支えているのはダンスホールじゃなくて、ダンス教室のほうですね。

そうです。

杉浦 教室とホールと練習場です。

だけど、今の横浜はダンスホールが成り立ちにくい所です。繁盛して残っているのは白馬車ぐらいです。ダンスホールが盛んなのは大阪なんです。南から入ると、北に抜けるのに大変だというくらい大きいのがある。ホールに限っていえば、大阪は商売になりますが、神奈川はどうもね。東京には三つあります。日比谷に一つ、あとは新宿と鶯谷。

 

  プロのランキングとアマチュアのサークル活動

藤田 『ダンスビュウ』を見ましても、ダンス教室が各地にたくさんありますね。プロの資格というのは、協会とかが認定するわけですか。

杉浦 ダンスを教えるのに、資格が要るのかどうかを考える必要があります。つまり、社交ダンスですから、楽しく踊れればいい、何も正しくなくてもいいという人も多いわけです。

一方、日本ボールルームダンス連盟という文部省認可の財団法人は、五級から一級までの指導員資格を設けて、きちっと指導法を身につけた先生を認定しています。社会の偏見に対する対応の一つでもあるわけです。

それとはまた別に、楽しければいいじゃないかという視点から、上手なアマチュアがサークルで指導しています。これがやたらに多く、要するに登録も認定も何にもない。

だから、ダンスの先生のステータスは、昔より落ちている面はあるけれど、ダンスが普及していくためにはアマチュアの人がいなきゃ商売にならないという面もある。

杉浦 それともう一つ。実はダンスには競技選手のランキングがある。これは日本独自のもので、藤村浩作先生らがつくりあげたABCDというクラスですが、競技会で勝って、その規定をクリアしながら順番に上がっていくシステムなんです。営業が万全だといわれるぐらい、このランキング制度は権威がある。アマチュアの七級からプロのDからAまでというヒエラルキーがしっかりと確立されています。

石田 でも、プロとアマとの格差が大きいですね。

杉浦 しかし、勤勉で向上心の強い日本人のメンタリティにあった優れた制度だと思います。

 

  コンピュータ社会になるほど、心が触れ合うダンスが必要に

藤田 現在、大変なダンスブームで、女性のシルバー世代が非常に多いけれど、男性が少ないと聞きますが。

今は半数近く男がいますから昔よりはよくなった。特に高年齢では男性が増えてきました。

石田 結構いい運動になりますからね。

もりた
クリフサイドでのダンスパーティー
クリフサイドでのダンスパーティー
昭和30年頃(広瀬始親氏提供)
ダンスというのは波がありまして、戦前は別として、終戦後は、労働組合のパーティー、娯楽は映画とダンスしかないんです。しかしこの人たちが家庭に入って、冬の季節が来る。そして子育てが終わって、熟年になってダンスをやりたいなと。

これはこれでいいんですがダンス業界としては、若者を呼び込まなきゃいけない。若者を呼び込むためには、競技ダンス、ステージダンスだけでは来ないかもしれない。今、非常に瀬戸際なんですよね。

杉浦
フォーメーション競技会
クリフサイドでの全神奈川
フォーメーション競技会

昭和55年頃(堀 英夫氏提供)
ただ、ダンスというのはナイトの精神が必要で、男性が非常につらい。つまり女性を美しく踊らせるのがうまいダンサーなんです。勉強も練習もしなきゃいけない。それで男性がなかなか入りにくい面がある。

若い人は、そんな努力はいやだと言う。だけど、コンピュータ社会になっていくと、人と人の触れ合いがどんどん減っていく。コンピュータ化が進めば進むほど、人との触れ合いを求めていくだろうと思う。その究極は、肌と肌が触れ合うダンスですよ。ここに集約してくると私は見ているんです。

IOCのサマランチ会長がダンスをオリンピックに入れようと言った。最初の発言は「ダンスは映像になる」と。二○○八年のオリンピックには、ダンスが必ず入ります。「オリンピックに出たい」「オリンピックで金メダルを取るんだ」というチビッ子ダンサーが年々ふえています。

石田 今、多くのダンス教師が学校に教えに行き始めてますからね。

我々のやっているダンスは、二人いなければできない。多くの若者が今やっているダンスは一人でもできる。二人だから大変は大変なんですよ。でも、だからこそオリンピックを契機に、若い人がダンスに戻ってきてほしいなと思います。

藤田 大変いい結論を出していただきまして、ありがとうございました。




 
もりた なるお
一九二六年東京生れ。
著書『千人同心』講談社2,940円(5%税込)、『鎮魂「二・二六」』講談社591円(5%税込) ほか。
 
ほり ひでお
一九三〇年横浜生れ。
 
いしだ みさお
一九一六年小田原生れ。
 
すぎうら きよし
一九四八年東京生れ。




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