【Book】喜多嶋隆「潮風マルシェ」に寄せて
場所
STORY STORY YOKOHAMA
「潮風マルシェが運んでくるもの」
2020年から、夏がまた僕にとって楽しみな季節になっていた。
たいていは大人になると、何をするにも暑くてダルくて億劫でじっと我慢してやり過ごす季節になってしまうものだろう。子供の頃のように、入道雲を見て、強烈な太陽と木陰のコントラストを見て、夕方のひぐらしの声を聞いて、いちいち心揺さぶられることもなくなったりする。
でも、2020年の夏。
僕がストヨコに来てから、喜多嶋さんとご縁が出来てから、9月の新刊の原稿がいちはやく届く楽しみな季節に変わったのだった。僕の中に、あの夏のときめきが帰ってきたようだった。
潮風キッチンからスタートした物語も4作目。今回はツボ屋のとなりの庭先でマルシェを開くことになる海果と愛たち。これまでの3作同様、フードロスや、子供たちの貧困などをテーマに据えている。
現在、喜多嶋さんは、ふたつのシリーズを並行して発表している。ひとつは光文社文庫のしおさい楽器店シリーズ。そしてもうひとつがこの潮風キッチンシリーズ。ふたつは血の繋がった姉妹作といってもいい。
舞台は、方や真名瀬海岸近くの楽器店。潮風キッチンのツボ屋は森戸海岸の近く。どちらも目と鼻の先程の距離だ。それぞれの登場人物が街中ですれ違ったり、顔見知りだとしてもまったく違和感がない。テーマも大きな括りでいえば、「本当の幸せとはなにか」という共通したものを、別の切り口から物語に書き起こしたものだ。
しおさい楽器店が流葉のゲスト出演あたりから、動的なエンタメ性が出てきたのに対し、潮風キッチンシリーズは、ストーリー展開自体にはそれほど大きな変化はない。
それは、ひとつのテーマを少しずつ展開させながら、じっくり聴かせる壮大な変奏曲のようだ。とても丁寧に、料理、食材、貧困、諦めきれない夢…そういった主題を奏でている。過剰なアレンジではなく、シンプルなアコースティックによる変奏曲だ。「本当の幸せとはなにか」というフレーズが繰り返し繰り返し胸に寄せては静かに沁みていく。
最近、テレビやメディアで注目され、この時代の寵児であるかのように持て囃されているご意見番、コメンテーターや、論客たち。彼らには共通した空気がある。それは地に足が付いていない感じ。「生活者」としての匂いが、まるでしない。そこに居るのに、虚構の存在のように、影がない。しかしながら、そんなものを多くの人は求めている。
25章に、ヴェトナムの言葉で「地面に近いほど食事は幸せ」という表現があった。とても深い言葉だと思う。日本に視点を移すと、それを食材のこととして考えれば、地産地消、余計なものを使わずに自然に従ってシンプルにつくられたものたちが美味しい、ということでもあるかもしれないし、都心に林立する高層マンションの土から離れた味気ない生活に果たして本当の幸せがあるのか?という問いかけのようでもある。
喜多嶋さんの小説は、時代の流行り廃りに流されることなく、本当の幸せ、生活者のリアルな幸せについて、ずっと読者に語りかけてきたように思う。その眼差しは優しく温かく、心地よい。たとえば葉山の太陽と潮風のように。
今回、それほど多くの音樂は登場しなかったか、ベット・ミドラーのThe Roseがとても印象的だった。愛ゆえの痛みや苦しみがあるけれど、それはいつか来る春の芽吹きのための時間だということ。小さな港町で暮らす愛しい人々のためのテーマ曲そのもののように感じて、胸が震えた。
思い出してみて 冬の間にも
過酷な厚い雪の下で
太陽の愛と共に眠る種子は
春になると薔薇を咲かすのだから
(意訳 名智 理)
ご予約、ご注文はお電話かオンラインショップ
045-225-8391
https://story-yokohama.com/items/66c3273bf0a6af066464b4cf
STORY STORY YOKOHAMA 名智理
真名瀬漁港 撮影:名智理