【Book】河野裕「彗星を追うヴァンパイア」に寄せて
河野裕「彗星を追うヴァンパイア」に寄せて
この小説は、いわゆる怪奇小説ではない。それは読み進めていくうちに、ヴァンパイアが「未知なるもの」の象徴であることがわかるだろう。
物語は、学問を信奉する青年と、ひとりの「怪物」が出会うことから始まる。舞台は17世紀末、魔術から科学へ、混沌から秩序へと、世界が転換期を迎えつつあるイングランド。学徒オスカー・ウェルズは、ヴァンパイアにして友人となったアズ・テイルズという「現象」を解き明かすためにその人生をささげる。
同時代に生きた、二人の天才、ニュートン(万有引力の法則の発見やプリンキピアの編纂)とオルデンバーグ(英王立協会の初代事務総長にして近代科学情報のネットワークの礎を築いた)との邂逅を経ながら、オスカーとアズの奇妙な道程はやがて最後を迎える。
オスカーはその最後に、ひとつの結論にたどり着く。ニュートンのプリンキピア(自然哲学の数理的諸原理)は、確率のフィルターを通して微小な粒子の振る舞いという現象から無限の可能性を切り捨てていき、人の目に見える秩序として切り取ったものであり、ヴァンパイアとは、そのプリンキピアの「余白」つまり、確率によってふるい落とされない微小な粒子の混沌とした振る舞いそのものであり、無限の可能性の発露なのだ、ということに。
もちろん、そういった現象(存在)としての「ヴァンパイア」は本作のフィクションである。しかし、人類が科学によって証明できていない、認識できていない現象はまだまだこの世界にあふれている。生命の定義すら、不確かなのだから。
アメリカの生化学者、シェーンハイマーによれば、生命現象とは「動的平衡」にある流れなのだという。(日本では、福岡伸一の「動的平衡」「生物と無生物のあいだ」などの著書を読むとわかりやすい。)つまり、生命とは「エントロピー増大の法則」(物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない)にあらがうようにして、自らを積極的に壊し続けることから始まり、作り直していくことで補完され、動的な平衡状態を保っている=生きているということなのだ。つまり鴨長明の方丈記の冒頭、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」がまさに「生命の定義」そのものだという。
話がすこしそれたが、人を人たらしめるもの、人類という生命現象にとっての「知」というものもまた、動的平衡の流れなのではないか、と思い至った。個としての人が滅びても、総体としての人類の「知」が失われることはない。連綿と受け継がれていく知性の集合が人類そのものなのではないか。パスカルのいう「考える葦」である。個と時間を超越して思考しつづける存在としての偉大さこそが我々人類を生化学とは別の側面から定義するものなのではないだろうか。この小説はその壮大なテーマを私たちに提示しているように感じたとき、思わず感動の鳥肌が立った。75年周期でやってくるハレー彗星も、繰り返される人類の営みを象徴しているようだった。
第一章の最後、オスカーは空高く飛翔を続けるアズの腕の中で、暮れゆく西の空に太陽が昇るのを目撃して熱い涙を流す。それは丸い地球だからこその、観るものの位置が変わったことで起こったかんたんな物理現象に過ぎなかったが、彼の人生観を大きく変えた。
世界の秘密を解き明かすこと。未知を追求し、知を繋いでいくこと、その「確信」が人類であり、生きる喜びなのだということにオスカーは目覚めてゆく。天文学も物理学も、様々な自然哲学(科学)は、「我々は何者で、何処へ行くのか」という永遠の謎を追い求めることにつながっているように思う。そして、文学もまた、人類とはなにかを問い続ける学問なのだとこの小説は例示しているように思えてならない。そしてなにより、この小説は本当に美しい人間賛歌だ。
最後に、最終章からの印象に残った一節を引用したい。
「ヴァンパイアは決して、ニュートンの力学を飲み干す者ではない。
なぜなら巨視的な世界において自然は美しい秩序に従っており、微視的な世界において物質は魅力的な可能性に満ち溢れているのだから。
より巨大なこの世界の原理の中で、ふたつは矛盾なく共存している。
—ああ。この想像がいくらかでも正しいなら。
世界はなんて美しいのだろう。
—この想像の、なにもかもが間違っていたなら。
世界はなんて、魅力的なんだろう。
学ぶことは、考えることは、読み解くことは、間違えることは。
なんて、喜びに溢れているんだろう。」
参考:
福岡伸一
「ゆく川の流れは、動的平衡」朝日新聞出版
「動的平衡」木楽舎
「生物と部生物のあいだ」講談社
「生命観を問い直す」(academyhills.com)
STORY STORY YOKOHAMA
店長 名智理