Web版 有鄰

498平成21年5月10日発行

[座談会]太宰治 生誕100年
—明るさと暗さに引き裂かれた作家—

映画評論家 佐藤忠男
映画監督 秋原正俊
ライター・本紙編集委員 青木千恵

左から秋原正俊・佐藤忠男氏・青木千恵の各氏

左から秋原正俊・佐藤忠男氏・青木千恵の各氏

はじめに

青木1909年6月19日に青森県金木村に生まれた作家の太宰治は、今年生誕100年を迎えます。青森県五所川原市での「生誕百年祭式典」や記念フォーラムなど、催しが各地で企画されており、内心の描写が多いためか、これまであまり映像化されなかった太宰作品の映画製作が相次いでいることも話題になっています。

太宰治は1948年6月に玉川上水に入水、38年の生涯を終えましたが、作品は古びることなく、たとえば角川映画が中心となって映画化を進めている『人間失格』は、新潮文庫で夏目漱石『こころ』に次ぐロングセラーで、今なお若い世代の読者が増えています。

太宰作品の映画化では、秋原正俊監督、熱烈な太宰ファンとして知られる佐藤江梨子さんが主演する「斜陽」が5月公開、根岸吉太郎監督、松たか子、浅野忠信主演の「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」、冨永昌敬監督、染谷将太、川上未映子主演の「パンドラの匣」がそれぞれ秋に公開の予定です。

本日は、10代の頃に『津軽』『惜別』『正義と微笑』などの太宰作品に魅了され、くり返し読んでは文章の模写を試みていらしたという映画評論家の佐藤忠男さん、5月公開の「斜陽」の監督で、2006年にも太宰治の『富嶽百景』を映画化されている映画監督の秋原正俊さんにご出席いただきました。

多くの読者を魅了してやまない太宰治について、お話をうかがいたいと思います。

少年の孤独が身にしみる『正義と微笑』

佐藤私の太宰治についての最初の記憶は、16、7歳の学生の頃です。太宰治という作家が心中したことを学生たちが話題にしていて、そういう作家がいることを知り、その後18、9歳の頃に読み始めて夢中になりました。

私の人生で、一人の作家の全集をそろえて読んだのは太宰だけです。1948年に出た八雲書店の全集を読みました。昔、菊池寛の「とにかく広く浅く読め。その中で気に入った作家、気にかかる作家がいたら、それはすみからすみまで全部読め」という簡単明瞭な読書案内があって、そういう考え方はいいなと思い、実行したんです。熱中して読み、読みながらボロボロ涙を流したことをよく覚えています。

青木どんな作品に感動していたのですか。

佐藤一番気に入ったのは『正義と微笑』でした。旧制中学校の生徒の日記という形で、孤独で自意識の強い少年の気持ちをそのまま書いたような小説です。何か自分のような気がしてね。一筋に芝居に励む少年の独白みたいなもので、実に身にしみる。傑作とは言われていませんが、私は大好きなんです。

魯迅が仙台に留学していた頃のことを書いた『惜別』も好きでしたが、一般的には太宰らしくないということで彼の作品の中では評価が低い。

考えてみると、もっぱら青春純情小説として読んでいました。もちろん『人間失格』も読んで、非常に衝撃をうけましたが、主人公が精神を病み、最後は入院するまでの話はショックが大きく、ちょっとグロテスクだなと思いました。『斜陽』は、没落した旧華族の戦後を描いていて、自分とはあまり関係がない世界のような感じがしました。

映画化を決めた40歳過ぎに出会い、涙を流して読む

青木秋原さんはどんな出会いだったんでしょうか。

秋原多分僕は、太宰の評価が一番沈んだときに育ったと思います。『斜陽』が発表されて「斜陽族」が話題になったのは1948年で、僕が生まれるずっと以前です。

国語の教科書に『走れメロス』が載っているという世代で、太宰に突っ込んでみようとすると、作品より彼のプライベート的なものを取り上げて言う時代に育ちました。女性が読むものだとか言われた時期でしたので、あまり接触せずに来ました。

大学を出て、テレビ局のプロデューサーを経て映画監督になりました。文学作品の映画化を考え、最近の作品を何作かやり、もっと深いものをやりたいと思ったとき、太宰治が出てきました。

いくつか作品を読んで『富嶽百景』の映画化を決めた時に、他の作品も含め、初めてじっくり読みました。ですから、出会いとしては40歳過ぎてからです。涙を流して読むようになったのは、まさにここ数年ですね。

心理劇のように映画化した『富嶽百景』

山梨県御坂峠の天下茶屋

山梨県御坂峠の天下茶屋
©カエルカフェ

青木『富嶽百景』を選んだのは、どんな理由からですか。

秋原短編を映画化したいと思った中で、これはおもしろいと感じました。作品の舞台となった、御坂峠の天下茶屋に行って、ここに太宰が滞在したんだとか、ドキュメンタリーをさらうようなイメージが強くありました。ロケもやりやすいので選んだことを覚えています。

佐藤『富嶽百景』は、およそ派手なストーリーではないですよね。

秋原時代を描写していくと若い人にはわかりにくくなってしまう。そこで、テーマを生かして、時代を現代に置きかえました。売れない作家と彼のところに来る女性との関係をとらえ、心理劇のようにつくりました。

はっきりしない状態で動いていく人間の心の動きを、主人公の太宰を彷彿とさせる男と周りの人との関係論でつくっていったんです。結果として天下茶屋のおかみや、その娘とか、女性もたくさん出てきて、誰もが自分に気があるような、ないような不思議な関係になります。それをあえて同じ人に何役もやらせ、これは夢なのか、本当なのかわからないというようにつくりました。太宰役には結構難しそうな感じの人が出てくるのを、塚本高史さんという若い役者さんを使って、やんちゃなお兄ちゃんのようにやってもらいました。

どこにねらいがあるのかをあえて見せずにつくっていこうと思ったんですが、やってみると映画が淡々と終わってしまうんです。よく言えばフランス映画風、悪く言えば何が言いたいのかわからない。やればやるほど、何で深みが出ないんだろうと思いましたし、反響も賛否ありという感じでした。

岩木山と同じ角度で見える富士山が郷愁を感じさせる

上:御坂峠から望む富士山
 下:岩木山

上:御坂峠から望む富士山
下:岩木山
©カエルカフェ

秋原深みが出なかったのは、こういう小説だからなんだろうと思ったんですが、作品の冒頭に「富士という山があって、大した山じゃない」というくだりがあります。この部分は、太宰の郷里の岩木山(津軽富士)がベースにあるんです。映像化するときにこれをわからずにやると、本当に平坦な話になります。

東京から大阪方面へ行くのに東名高速を走っていくと、右側に富士が出てくる。実は五所川原から弘前を抜けるタイミングに、岩木山が同じ角度で見えるんです。これが津軽の人の心をつかんでいる。富士山を見ると郷愁を感じるんでしょう。そこまで映像化しないと映画にはならないだろうと思いました。

佐藤富士山と岩木山の関係は、私も気がつきませんでした。非常にいいことを聞きました。

秋原「富嶽百景」は、もう一回編集し直したいと公開してからも思いました。スッと終わっているようでいくつかひっかかりがある。そこが映像化できたら映画としてすごくおもしろくなると思いました。自分としては勉強させられた作品です。

太宰の内面と戦争中という時代が絡み合った作品

『富嶽百景/走れメロス』・表紙

『富嶽百景/走れメロス』
岩波文庫

佐藤私は、『富嶽百景』を戦争と切り離しては考えられません。太宰がデカダンな生活をやめて、堅気のような生き方をしなければと思っているのは、あの時代だからなんです。

それは太宰の人生で、一つの嵐の時期を何とか切り抜けたことによる、内面的な動機であると同時に、戦争の時代はデカダンであることが許されないので、やむを得ずそうなったという面もある。そうしなければと思う面と、時代が微妙に絡み合っている。なおかつ、そこのところを太宰はうまく解決しなかった。あるいは解決する必要を感じなかったのでしょうか。作家として一筋に貫こうとすれば、何かまじめになろうとする。しかし同時に時代のせいでそうなってもいる。この時代というのもある意味ではありがたいと思っていたのか。

人生を肯定しなければと思っているが、心から肯定しているわけじゃない。だから、そこは落ちついた美しい状況というものを文章の技巧でつくり出している。太宰自身が助かったと思っているのか、困ったと思っているのかわからないような微妙なところを感じます。『富嶽百景』の独特なところだと思います。

原作の文章のうまさ、展開のよさは脚本になっても残る

秋原太宰の小説はまじめなのかコミカルなのかというのがぶれるじゃないですか。映像になったときに、その部分をどう見せたらいいのかということは常に考えました。「富嶽百景」もまじめにやればやるほどこっけいになってくるんです。それを意識して撮るか撮らないかというのがすごく違うなと思いました。

佐藤映画の時代背景は戦争中という設定ではないですね。

秋原現代にしました。原作の文章のうまさや、展開のよさというのは脚本になっても残ります。時代設定を変えても、抑揚とか、動きはいけるんじゃないかと、何とか現代に持ってこようとしました。正直なところ消化し切れなかったところがありました。

サーッと読むと私小説のようにしか見えない点がありますが、映像をつくろうと思って読み、一回撮って、もう一回読んでというようにしている中で、彼の文章にはまっていきました。

生誕100年にあわせ『斜陽』を映画に

『斜陽』・表紙

『斜陽』
新潮文庫

青木『富嶽百景』に続いて『斜陽』を映画の原作に選ばれたのはどういうところから。

秋原太宰に引っ張られると言っています。「富嶽百景」のとき、東北で上映すれば観客は入るんじゃないかと、よこしまな思いがありました。津軽の五所川原の人たちに、地元の映画の興行師さんに頼めば地元と密着できるのではないかと言われたりして、つながりができたんです。

津軽の人たちと話していて、太宰治生誕100年で太宰は話題になる、津軽も応援するよと言われました。「富嶽百景」がもっといい映画になったはずだという思いもあり、再度、太宰をやろうという話になって、2009年、生誕100年の「桜桃忌」にあわせて公開という計画になりました。有名な作品がいいだろうと考え、ストレートに『斜陽』じゃないかなと思いました。

佐藤太宰の作品の映画化は、これまではそれほどないですね。1947年に『パンドラの匣』を原作にした「看護婦の日記」、亡くなって間もない1949年には『グッド・バイ』が映画になっていますが、話題になるような作品ではなかった。

1978年、「新・人間失格」という作品がありましたが、『人間失格』にモチーフを置き、同じような話を別につくったような映画でした。

関連した作品として1967年に「斜陽のおもかげ」があります。これは太宰の娘である太田治子さんの原作で、吉永小百合主演ですが、割とよくできた作品でした。

脚本つくりは、ぬかるみに入っていく感覚

佐藤秋原さんは『斜陽』によく挑んだと思いました。あれだけの作品をいろんな人がねらわないわけはないんですが、どうして映画にならなかったんだろうね。

秋原『斜陽』は、脚本をつくっているうちに迷宮に入ってしまうからだと思います。淡々と進み過ぎると抑揚がないので、踏んでいけば踏んでいくほどぬかるみに入っていく感じです。

佐藤ぬかるみというのは何ですか。

秋原太宰治という作家が書いている作品は、実際には本名の津島修治が書いています。それで、津島修治みたいな人が出てくる。太宰治が書いていると思って読むと、いろいろなものが飛び交ってきて、結果的にはストレートに読めなくなるんです。それは絶対彼のねらいだと思うので、本当に言いたいことは何だろうかというのをクリアにしていくのがすごく難しい。だから迷宮に入ってしまい、気がつくと自分なりの太宰ドキュメンタリーを書いてしまったりする。小説の『斜陽』に戻していくのが結構大変ですね。

津軽では太宰治は地元の名士、スターです。プライベートのネガティブ感を入れ込んでいくと、津軽の人たちには受け入れられない部分があります。太宰治のドキュメンタリーにするのはやめよう。あくまでも小説『斜陽』の映画化として考えました。

『斜陽』にどっぷりはまった半年間

秋原正俊監督「斜陽」

秋原正俊監督「斜陽」
©カエルカフェ

秋原この小説は途中で話はぶれて、主人公の気持ちが揺れます。脚本も何度も練り直しをしました。一言で言えば、「シングルマザーが強くなっていく話」ということですが、そんな一筋縄ではいかないものです。

それと、ここがまじめで、ここがコミカルだと思ったらひっくり返ったりという部分が「斜陽」にもいくつかあります。脚本や構成をしっかりつくり、キャストに伝えていかないと、現場に入ってもぶれてしまう。ここまで変わってしまうとか、違うなと思ったりして、それが自分の中ではどれがOKで、どれがNGかがだんだんわからなくなってしまうんです。

また、「太宰フリーク」を自認する佐藤江梨子さんが主演で、彼女にも自分の太宰観があり、「これは違う」とか言ってきます。そんなやりとりをしながらつくったので、半年間、本当にどっぷりはまっていたという感じでした。

『斜陽』の映画化は、プロデューサーが「生誕100年だから」と強力に進めるとか、若い監督が「とにかく撮ってみよう」という軽い気持ちから動かないと難しいのではないかと思います。

重いテーマをポップに書く太宰の二面性

青木『斜陽』は、重いテーマの作品ですね。

秋原今回の映画では、お母さんが亡くなるまでは結構コミカルに動かしています。最初は淡々とやろうと思っていましたが、音楽がコミカルなんです。

20代の、太宰が好きな女の子のミュージシャンのユニットに、好きに音楽を書かせてみたら、次から次へとコミカルな曲を書いてくる。今の若い子はこういうふうにとらえるのかと思いました。それを映像に当ててみると、小倉一郎さんや高橋ひとみさんの芝居は、どちらかというとコミカルという程度なんですが、佐藤江梨子さんは一生懸命やればやるほどかえってコミカルに見えるんです。

『斜陽』はテーマや内容は確かに重いですが、それを彼はポップにしようとしているんじゃないか。しかも読む側が重く読むこともわかったうえで、重いことも軽く書いていたりするんじゃないかなと思います。意識してか、無意識かはわかりませんが、そういう二面性は常に本人にもあると感じます。軽いものを映像化しようとしてやってみたら、実は重いものがどこかに出てくるんじゃないか。

日本人の基本的な人間関係を描いた『津軽』

太宰治記念館「斜陽館」

太宰治記念館「斜陽館」
©カエルカフェ

秋原ここ数年、太宰の故郷の金木でロケをやり、地元の人とつき合っているんですが、切迫感というのがあまりないんですよ。青森は所得が低いと言われますが、食べ物などはとても豊かです。ここにいるとずっと生きていける仕組みが回っている。その状況下では、人のことは気にしなくても普通に生きていけるのかなと思わされます。そういう土地で太宰は育った。

金木の人たちは、悪い意味ではなく、あまり周りのことは気にしない方が多いと思います。媚びる感じがない。一生懸命一緒にやってくれて、常に同等という感じです。ああいう気質は昔とそう変わらないでしょう。

その中で太宰一人だけが、人のことが気になってしまったのかもしれない。

そこから青森に行き、弘前に行ってみた。そして、ある意味では間違ったのかもしれませんが、東京まで行ってしまった。故郷にいれば、気がついたら80歳、90歳になっていたところを自分で打破した。

佐藤屈託のない人間関係で、しかし、ごく自然にお互いを気にしていて、アグレッシブな形をとらない。そういう世界を純粋に描いたのが、『津軽』だと思います。日本人の一番基本的な人間関係の、お互い同士が気にし合う気にし合い方、それが最も自然に動いている状態というものを活字化した作品です。

これは、それがどんなに貴重なものかということを自覚した人でないと書けない。貴重だということを、特別になつかしがるわけではないが、行動でなつかしさを示すという描写がいろいろ出てくる。お互いに美辞麗句は言わないが、非常に親しい感じ、相手のことを心配する気持ちが次から次へ書き込まれていて、太宰でないと書けなかった傑作だと思います。

それが社会とか文明、進歩ということになると、そういう人間関係が危機にさらされてとげとげしくなって、お互いの気持ちをほんの片言隻句が刺し合う関係になるということを描いているのかな。

『津軽』は、太宰の名作の一つとして定評があり、完成度の高さという点では最高だと思います。戦争中のことを正確に書いている文学作品はあまりないんですよ。あの時代の記録としても重要な作品です。

津軽出身の作家は自分を戯画化するのがうまい

佐藤津軽という土地でなくても日本人は大体そうだったと思います。太宰は自分が一番よく知っている世界だから書けたんでしょうね。そして日本の中ではある程度辺境の地だから、純粋に精錬されて残っていて、それを保守することが自分の任務だという意識があったと思います。

それは、東京での芥川賞に憧れる暮らしとは激しく対立する世界です。どうして太宰はその世界に安住できなかったのかといつも考える。それは芥川賞に憧れたから、混乱していったという単純なものじゃないんでしょう。東京へ出て行ったせいかな。

青木東京出身者からは太宰治は生まれなかったかもしれない。地方の郷愁を感じさせ、それが読者の心を打つところもあるんでしょうか。

佐藤私は新潟出身で、距離的には津軽よりは東京に近い。しかし、東京の人間は油断がならない、俺たちは愚直なんだと固く思い込んでいましたね。

田舎と言ってもどこでも同じではなくて、新潟は平野が多いので大地主制が発達していた。ということは封建的だということなんです。大地主がいて、黙って働く小作がいて、その格差が非常にはっきりしていて、それぞれが別な世界に住んでいる。

隣の長野は、山また山で所有する土地が小さい。そこで、元気のいい者は東京に行って頑張ろうと思う。

山間僻地の中で野心的な小地主などの発想は、一人一人が自分の主張を持ち、東京に行って成功してやるというようなものです。この成功とは金持ちになるというよりは、文化的に一かどの人間になってみせるというところがあって、長野の人間はやたらと議論するんですね。

寺山修司は弘前生まれですが、やたらと自分を戯画化することがうまい。石坂洋次郎もそうです。津軽出身の作家はそういう人が多い。基本にあるのは、俺は田舎者だという考えです。

しかし、あなた方の知らない世界をちゃんと持っているんだ、ということを誇示する才気煥発な人が多い。長野の議論好きとはまた違います。それぞれの地域ごとに田舎者としての自覚はありますが、津軽では独特なユーモアで語られている。

自分をばかにしながら、津軽のすばらしさを描く

秋原テレビの普及などで日本中どこでも言葉もあまり変わらなくなっていますが、僕らの世代でも、青森から来た人は何を言っているかわからないという話にまずなります。方言をからかわれるところからスタートする。言葉の問題で一歩下がったところから始めなくてはならない。

太宰は自分をばかにしながら、場所として津軽はすばらしいと考えている。東京に出てきて、そこでかなりのショックはあった思います。

そのショックがさらに大きくなったり、自分を守るためにエンジンがすごくかかったり、そのバランスが崩れたのかもしれません。

佐藤むしろ、伝統的な世界の温かさに安住して、東京に対して津軽ナショナリズムを主張するような方向に行けば、安泰だったんでしょう。石坂洋次郎や寺山修司は巧みにそれを自分でつくり出しました。しかし、太宰の時代ではそれを主張する根拠はまだなかったのかと思います。それともマルクス主義に触れたために、普遍思想の前では、津軽ナショナリズムは何ものでもないと思ったのかな。

純粋ユーモア小説的なお伽草紙の世界の『かちかち山』のようなものを主として書いていれば、健康でよかったのではと思います。

しかし太宰だけが特にそういう悩みにぶつかったわけではなく、日本の田舎者はみんなそれを実感した。そこを乗り越えるのは大変だったんでしょう。

度外れの生まじめさで女性と付き合う

青木太宰はどうしてあれほど死にたがったのか。昭和5年(1930年)の最初の心中未遂がかなりきいたような気がしますが。

秋原心中未遂は偶然ではないと思います。天真爛漫にずっと育っている人なので、もともと歪んでいるということはないと思う。そこで心中未遂のような事件が起きると、トラウマがかなり大きい感じはします。

東京では、いろいろな評価が大きく崩れたり変わったりしますが、地方では基本的にそれが決まっていて、悪いことをしたら周りがすぐ怒る。時代もそういう時代だったと思います。軽い気持ちだったのかどうかわかりませんが、心中のような人の道に外れたことを起こしたときに、それは自分にすごく刺さったと思う。

それを逆手にとって、それが太宰治であると組み上げていこうとすればするほど、津島修治である自分に当たることになる。僕は「名プロデューサー」と呼んでいるんですが、太宰治という人をうまく使っている津島修治というプロデューサーがいる。

最初は作品をつくるための太宰治プロジェクトであったのが、実際にいろいろなことを起こしていくうちに、自分自身がどんどんおかしくなってきているという感じです。推論ですけれど、そのうちトラウマが必然になってしまったりして、バランスが崩れていったのかなと思ったことがあります。

佐藤昔は、文学青年は女を知らなきゃ一人前の物書きにはなれないという言い方がありました。女を知るといっても単純で、女遊びをどれだけ経験したかぐらいの次元のことでしかなかった。

大抵の文学青年は昔の男の気質のままで、若気の至りぐらいで済ませる。そういう風潮には流されたかもしれないが、太宰には、それを若気の至りで済ませる図太さはなかったんでしょう。そういう意味では真剣だった。何か女性に対する度外れの生まじめさというのがある。この女は遊び、この人はまじめに付き合うというような割り切り方ができなかったのかな。

「死のう」と言われたら死なないとまずい

青木心中は演技じゃないかという考えもありますが。

佐藤演技という面も多少はあったかもしれませんが、相手が演技として受け取らずに、大まじめに応られてしまうと、それに殉じないと悪いという気がしてしまうんじゃないでしょうかね。それも純情過ぎるせいなのかもしれません。

適当にごまかすことができないから、相手が「死のう」と言ったら、死なないとまずいという気がするのではないかな。肉体的に疲労していたこともあるかもしれないが、純情はやはり怖いです。

太宰は最後まで純情だったと思います。つまり、ごまかすことができなかった。俺はごまかさないということを、自分の看板に掲げてしまったからまずかったんだな。

青木太宰は大地主の家に生まれて、自殺や心中を試みたりしていることの後ろめたさを感じているようなところがあったのではないかと思いますが。

佐藤本当に後ろめたいんですかね。太宰でわからないのはその辺ですね。作品が表現している世界は、どう考えても実に健全な世界ですよ。しかし、この健全さというはうそなんだということを、どこかで言わないといけないと思っている。その衝動がどこから来るのか、ということが私にはよくわからない。私はそういう後ろめたさを感じなくてよかったなと思っているんです(笑)。

青木読めば読むほどにわからなくなるところもあります。

戦争中、太宰は多くの作品を発表

青木やはり戦争という時代状況は切り離せないと思います。戦争の時期に太宰治だけたくさん小説を発表して活躍していたというところもありますね。

佐藤戦争中はみんなが、何をやっていいのかわからなくなっていた。自分が今までやってきた世界と違うことをやらなきゃいけない。

例えば、小津安二郎は戦争映画は撮れない。溝口健二も、男と女のほれたはれたの映画ばかりつくっていたから戦争映画は撮れない。そういう人たちは悩んでいた。戦争中に張り切っていたのは黒澤明です(笑)。「姿三四郎」は戦争映画ではないが、男らしいとはどういうことかを描いているということで、検閲の立場から見ても「好ましい」映画をつくっていました。そのことは黒澤明の友だちでシナリオ作家の植草圭之助が書いています。黒澤明は戦争に積極的に協力をしたわけではないですが、時代の空気に合った。社会全体がどこに行くかわからない騒然としているときだからこそ、方向を決められるという人はいるんですね。

太宰は、戦争中にみんなが書けなくなっているときに書いた。太宰のいい作品は、大体戦争中に書かれているという気がします。

自分が鮮やかに見え、澄み切った精神で書かれている

『津軽』・表紙

『津軽』
岩波文庫

青木『津軽』も戦争中の作品ですね。

佐藤太宰は、みんなが自分を見失い、混乱している時代だからこそ、俺は俺に徹することができると、ある意味で張り切っていたような気がします。張り切るというのは必ずしも戦争に協力するという意味ではありません。

そういう時代だからこそ、ますます自分というものが鮮やかに見える。自分が今何をしなければいけないかということがくっきりとわかる。そういう澄み切った精神なんです。太宰が戦争中に書いた作品は、そういう点で澄み切っていると思いますね。

青木終戦を迎えた時に、太宰は自分の時代が終わったというように感じたのでしょうか。

佐藤戦後、今こそ自分が先頭を走らなければいけないと思っていたと思います。みんなは混乱しているが、その混乱が一番身にしみているのは俺だ。

つまり、大抵の人は状況が変わったから混乱している。だけど、自分はこれまでもずっと自覚的にその混乱を生きてきた。だから俺が頑張らなきゃという気はあったと思います。

だからこそいいかげんにできなかったんじゃないですかね。いいかげんにできないというのは、「死のう」と言われれば、死なないわけにいかないような。

いつの時代も変わらない人間の本質を描く

秋原正俊監督「斜陽」

秋原正俊監督「斜陽」
©カエルカフェ

青木古びずに、いまだに読み継がれている作家は、夏目漱石か太宰治とも言われます。なぜこんなに読まれているんでしょうか。

秋原人間の本質、いつの時代でも変わらないところをモチーフにしているからだと思います。夏目漱石、芥川龍之介もそうです。本質をちゃんと書いていて「簡単に言えばこういう話です」と一言で言える。いつの時代でも、人間の本質はそんなに大きく変わるわけではないと思います。

佐藤太宰ほど、純情ということを体現している作家はいないと思います。私は、それをむき出しにした作品ほど好きなので、最初にお話した『正義と微笑』は純情で大好きです。

『パンドラの匣』(『正義と微笑』収録)・表紙

『パンドラの匣』
(『正義と微笑』収録)
新潮文庫

そういう作家が、破滅型という世界にどういうふうにして入っていくのか。

破滅はよくないというようなことではなくて、こんなに純情で、人間はこうあるべきだということをきちんと書ける作家が、どうしてそれに安心できないのか。これは謎ですね。

青木安心できず本当に不安なんですね。自分を喪失しています。

秋原周りが気になっていることは確かですね。気にしながら、自分はどう動けばいいかを客観視しているつもりなのに、間違った選択に走ったりすることはあったのではと思います。例えば、周りを気にして、思っていたのとは違うことを言ってしまう。

太宰自身が「道化」と呼んだ軽やかな文章

佐藤太宰の文章は非常に軽やかです。こういう文章を書く作家はちょっと類がないと思いますね。私が太宰から受けた影響ではっきりしているのは、文章は軽やかに書かなければいけないということです。これだけは思いとめている。自分の文章を推敲するときに、一生懸命センテンスを割って短くしたり、客観的な記述の間にジョークを入れたり、いろいろ努力するんですが、なかなか軽やかにならない。

太宰はそれを「道化」と言いますが、少し言い過ぎで、むしろ正しい礼儀ではないかと思います。私はそこから、文章における他人とのつき合い方の基本を教えてもらったような気がする。

しかし、冷静に文章を書いているかと思うと、『如是我聞』のようなヒステリーみたいな作品がある。俺をけなすやつはやっつけてやるみたいな文章は、自分をもてあましているんだなと思う瞬間、何か感動します。

文章について影響は受けましたが、誰も似ているなんて言わない(笑)。ただ、いつも意識して、重々しい文章はよくない、文章で威張ってはいけないと考えています。私は人にサービスする気はあまりありませんが、太宰は「サービスしている」ということをしきりに言います。

青木太宰治の文章は、何か語りかけられるような文章ですね。

佐藤そうですね。ちゃんと相手が目の前にいるような文章を書きますね。

明るさと暗さに引き裂かれているところに惹かれる

青木軽く明るい太宰と重く暗い太宰とがあると思いますが、今、読まれているのはどちらなのでしょうか。

佐藤それは、明るさと暗さに引き裂かれている太宰です。両方あるから太宰なんだと思います。

単純に「私は理想主義的なことを信じています」と言ったらばかにされる。かといって、暗さに徹することはなかなかできない。だから、その両方に引き裂かれる。人生をごまかす方法を会得するまではみんなそうなんです。まだごまかす方法を知らない若いうちは、そういうものに惹かれると思いますよ。

秋原僕の見る限り、団塊の世代ジュニアから少し下ぐらいの世代は、すごく周りを気にする人が多い。人の数がだんだん減っていく中では、協調感が増してくるので、そういう世代のバイブルに太宰はなりやすいという感じはします。「斜陽」でヒロインを演じた佐藤江梨子さんは20代後半で、多分、今の太宰の読者を形成している中心の世代だと思うんです。

純粋であることがいかに難しく恥ずかしいことか

佐藤これだけぬけぬけと理想を語れた人がいたんだなと思いますね。太宰ほど純粋な理想主義者はいないという気がします。ただそれを保つことは容易ではない。自分はより良い社会を夢見た。しかし自分には一体何ができるだろうか。何かやろうとするとそれはうそになり、卑小なものになる。できることといったら、自分の誠実さを証明することぐらいでした。

そういう自覚の上で彼は悩んでいた。そこでもがいている自分を描いている。現実の自分と自分が本当に求めているものとの格差が、これほどむき出しになっている作家も珍しい。その点でも引きつけられるんだと思います。

彼は、逆説的に理想を語っているんです。人間は純粋でなければいかん。それだけは決して揺らいでいない。純粋であるということがどんなに難しく、いかに恥ずかしいことであるか。

今の若い人が周りを気にするとすれば、その恥ずかしさに耐えられないんですね。太宰は必死に恥ずかしさに耐えたんだから、大したものだと思いますね。

太宰を愛読する若い人に言うとすれば、友だちができないとか、もてないとかいう次元の問題ではない。そんなことで悩むな(笑)。太宰は強烈な理想主義者だったということを言いたい。

人間は、自分の理想がどれだけのものかという迷いは常にある。自信を持って理想を語る人は大抵怪しい。太宰の場合は気の弱さみたいな形で表現されていて、自分が語る理想に脅えている。もしかしたら俺は大うそつきなのかもしれないと思っている。そういうところに打たれますね。

秋原理想を組み上げることができるかどうか。いいかげんに組むのは結構簡単で、そういう人が多い。しかし、太宰は理想をきっちり組み上げてしまった。それを虚構にしないために、そこの上を歩かななければならなくなってしまった。それは一番の不幸かもしれないし、逆にいい作品を生み出したのかもしれないと思います。

それが結果的には、自分の生命を絶つことになったという感じがします。肉親たちからしてみれば、不幸な話かもしれないですが、それが作品をつくるということじゃないか。一概にはどっちがいい悪いというわけではない。やっぱり理想をつくることができてしまった幸運であり、それが不幸であったということだと思いますね。

青木もし心中せずに生きていたら、と想像なさいますか。

佐藤希望を言えば、名人芸をきわめるような作家になっていたかもしれないね。

青木ありがとうございました。

佐藤忠男 (さとう ただお)

1930年新潟生れ。
著書『映画監督たちの肖像』 日本放送出版協会 760円+税、『12歳からの映画ガイド』 小学館 1,400円+税、ほか多数。

秋原正俊 (あきはら まさとし)

1963年東京都生れ。

※「有鄰」498号本紙では1~3ページに掲載されています。

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