Web版 有鄰

441平成16年8月10日発行

熊谷達也と『邂逅の森』 – 人と作品

昭和初期の山の狩猟民「マタギ」を主人公に描く

熊谷達也
熊谷達也

山本周五郎賞と直木賞をダブル受賞

山の狩猟民「マタギ」を主役にした『邂逅の森』は、人と熊が動物同士として対する熱い場面で読ませる。『別冊文藝春秋』平成14年1月〜15年7月号に連載され、今年1月に刊行、6月に山本周五郎賞、7月に直木賞を受賞した。2つの大きな賞を同じ作品でダブル受賞するのは初の快挙。

「隔月連載で枚数の縛りもゆるく、書くこと自体が楽しかったですね。今の時点で書けるだけのものを力を余さずに書いた」と、振り返る。

大正から昭和初期、日本が近代化し、マタギの世界も大きく変わった時代が描かれる。明治23年、秋田に生まれた主人公、松橋富治は、16歳から出稼ぎ猟(旅マタギ)で暮らし、地主の娘・文枝との恋に破れて流転。娼婦のイクと夫婦になり、17年後、最後の狩りをするため山に入り、ヌシと崇められる巨大熊と格闘、重傷を負う――。

「あまのじゃくな性格のせいか、事前にプロット(構想)をたてるより、進むに任せて物語を書く方がむいているようです。富治の生まれた年を決めて1行目を書いた。最初はそれだけでした」

 <獣を殺す旅だった>。大正3年冬、狩りの場面から物語は始まる。富治は、近代化の大波に洗われるままの無骨な男だが、山に入ると人が変わる。<山の神様を信じない俄か猟師たちが、目の色を変えて山里へと殺到している今の光景は、薄気味悪くさえある>と、毛皮価格の高騰で山が荒れるようすを苦い思いでみるが、自らの内部に鬼のような獣性が潜んでいることを、流転しながら自覚する。守るべき幸福は何かを知っていく、男の成長物語なのだ。

「人間をただの動物として書きたい気持ちがあって、今回、苦手な性描写もてらわずに書いてみました。文枝やイクら女たちに主人公が育てられる展開になり、面白かったです。僕はもともと理科系で、学生時代に自然科学系の書棚でみつけたR・ドーキンスの影響を受けています。人間は進化した猿に過ぎないと考えている」

動物や、東北に伝わる伝承をベースにした小説を

昭和33年、仙台市生まれ。東京電機大学卒業後、千葉県で公立中学の教諭を8年勤め、宮城県に帰り、保険会社に転職した。営業を3年学び、損害保険代理店を興してから小説を書き始めた。平成9年、『ウエンカムイの爪』で第10回小説すばる新人賞を受賞。熊の小説だった。

「たまたま昼寝をして、熊にあう夢をみたんです。動物好きではありましたが、単なる偶然…」。学生時代、S・レム『ソラリスの陽のもとに』などSFを読みふけり、漠然と、小説家を志した。書き始めたのは30代半ばをすぎてから。冗談めかして、自分の小説を“ニッチ小説”と形容する。

「動物同様、“すきま”を狙ってテリトリーを確保するわけですね。デビューすると、動物ものを書いている人が他にいませんでした。12年に『漂泊の牙』で新田次郎賞を受け、動物や、東北に伝わる伝承をベースに書く方向でしばらく頑張ってみようと思った。そして山本賞をいただいたので、僕の地味な小説が必要とされていた、と実感できて嬉しかったですね」

現場を歩き、書く対象に迫る。小説家としての取材のツボを独学している。『邂逅の森』ではマタギを取材、狩りに同行した。積雪がゆるんだ春山を直登していくマタギの《山の技術》に舌を巻き、必死で後を追った。

「村ではただの飲んだくれだった人たちが、山に入るとまったく別の顔になる。厳しい寒さで狩りをする、狩猟民としての経験と知恵が知らずに蓄積されているんですね。マタギが山でひときわ変貌する様子を描きたかったので、富治は日常ではごく普通の性格にしました。山に入ると、何か、神のようなもの、お天道様のようなものに《見られている》感覚が強くなる。一言でいえば《畏敬の念》という感覚で、昔の人はごく自然に持っていたが、今の人は忘れてしまっている。そんな感覚を現代人の中に取り戻せるといい、と考えています」

仙台市在住。趣味は、オートバイ、スキー、スノーボード、ギター……で、日常も外見も現代的だ。バイクでツーリングをしているときは小説のことは意識下に潜り、特に考えていないという。

「マタギと同じで、《山の神》の存在は山に入ったときに感じていられればいい。仙台は、山や海などの自然や伝承、感性がまだ近くに残っていて、取材にも便利。今のところ、僕にあう土地は仙台以外に見あたらない」

(C)

『邂逅の森』・表紙

邂逅の森
熊谷達也/文藝春秋/2,000円+税

※「有鄰」441号本紙では5ページに掲載されています。

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