Web版 有鄰

441平成16年8月10日発行

[座談会]あれから60年 横浜の学童疎開

詩人/大石規子
横浜演劇史研究家/小柴俊雄
読売新聞社社友/鈴木昭三
文芸評論家/ゆりはじめ
有隣堂社長/松信 裕

右から、ゆりはじめ・鈴木昭三・大石規子・小柴俊雄の各氏と松信 裕

右から、ゆりはじめ・鈴木昭三・大石規子・小柴俊雄の各氏と松信 裕

はじめに

疎開先での食事風景

疎開先での食事風景
食べる前に必ず「箸とらば天地御代の御恵み 君と親との御恩味わえ」
という感謝のうたを言わされた。
(老松国民学校・二橋陽子氏提供)

松信昭和19年(1944)の夏、アメリカ軍のB29による本格的な日本本土空襲が始まる直前に、全国13都市の国民学校で、3年生から6年生までの生徒を地方に分散させる学童疎開が始まりました。

横浜市でも77校、約6万7千人の生徒が該当し、多くの子供たちが長期にわたり親元を離れての生活を余儀なくされました。

あれから今年で60年を迎えますが、横浜の学童疎開を体験された方々を中心につくられた「疎開問題研究会」では学童疎開60周年記念「横浜の子どもたちが体験した疎開・空襲・占領」展を8月11日(水)から17日(火)まで、伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催されます。10年前の50周年の折には、『横浜市の学童疎開』も刊行されております。

そこで本日は、学童疎開を体験された方々にお集まりいただき、お話を伺うことにいたしました。50音順で紹介させていただきます。

大石規子様は間門国民学校4年生で箱根に、小柴俊雄様は平沼国民学校6年生で足柄下郡下中村(現・小田原市)に、昭和20年に、それぞれ集団疎開をされました。

鈴木昭三様は戸部国民学校の6年生で水戸市に、ゆりはじめ様は老松国民学校の6年生で秦野に、昭和19年、それぞれ縁故疎開をされました。

77校、67,664人の子供が対象に

4年生が疎開前にお別れの記念撮影

4年生が疎開前にお別れの記念撮影
(老松国民学校わきの階段で。金子紀子氏提供)

松信まず最初に、ゆりさんに、学童疎開がどういう状況のなかで始まったのか、そのなかでの横浜市や神奈川県の特徴などについてお話しいただけますでしょうか。

ゆり学童疎開は、昭和19年6月30日に閣議決定され、これによって法的な根拠が与えられて、その夏から施行されたわけです。

神奈川県では横浜市、川崎市と横須賀市の3市がその対象となり、横浜市の場合は、今紹介がありましたように、110校のうち77校、67,664人が該当し、その子供たちは集団疎開、縁故疎開、疎開残留の3つに分けられます。

基本的には、まず縁故疎開です。田舎のない子もいますから、その子供たちは集団疎開、体の弱い人は疎開残留ということになったわけです。

縁故はそれぞれの親戚を頼ってということなんですが、基本的には子供1人で行くことになっていました。

縁故疎開が34,896人で約52%。集団疎開が25,353人で約37%。疎開残留が7,415人で約11%です。これは昭和19年7月25日の朝日新聞のデータによるものです。

集団疎開は神奈川県の場合は特殊な事情がありまして、当初、文部省の計画では、疎開地として静岡県が予定されていたんです。それが当時の近藤壤太郎県知事の決断といいますか、英断で、とにかく県内で集団疎開を実行しようということになった。結果的には非常によかったと思うんですが、しかし、2万5千人以上の子供たちが動いたわけですから、受け皿は大変だったと思います。それが疎開のおおよその実態です。

都市部の空襲から学童の生命を守る

松信「疎開」という言葉は聞きなれない人もいると思うんです。今の子供たちはほとんど知らないでしょうし、当時の新しい言葉だったそうですね。

鈴木「疎開」は軍隊用語で「まばらに展開する、散開する」という意味なんです。敵を攻める、または退却する場合に、被害を少なくするためにまばらに散開して、戦術を行使するというのがもともとの意味ですが、当時、ドイツとイギリスがそれぞれ児童を田舎に避難させた。そのときに「疎開」という言葉が日本に入ってきて、今のわれわれが使っている意味の言葉になったんです。

ゆりヨーロッパのほうが先に戦闘状態が進んでいまして、都市の壊滅的な被害を例にとって、都会が集中攻撃に遭ったときに、学童の生命を守るということだったんでしょうね。

全国で13都市100万人ぐらいの子供たちが移動

松信学童疎開は、横浜だけではなくて、全国軌を一にして行われたわけですね。

ゆりそうです。13都市が初めに指定されるわけですが、昭和20年になると各地が攻撃されて、地方都市でも疎開をしたので、もっとふえていますね。全国で100万人ぐらいは子供たちの移動があったんじゃないかと思います。

われわれ当事者にとっては大変ショッキングな出来事でして、戦況は苦しくなっているという実感はかすかにはあったんですが、学校がなくなるほどの窮状になっているとは思わなかった。

たまたま私は6年生だったものですから、翌年に受験を控えていて、それまでの流れを変えてまで田舎に行かなくてはいけないのかという思いがありました。

松信小柴さんは、横浜の空襲を記録する会のメンバーでもいらっしゃるんですが、学童疎開が閣議決定された昭和19年ころの横浜はどんな状況だったんでしょうか。

小柴4月から給食が雑炊になりましたが、家庭生活は普通でしたね。

鈴木食糧事情が非常に悪くなって、食べ物が少なくなってきたという実態はありましたけれど、まだ戦争は身近なものに感じられなかったですね。

松信B29による本格的な空襲は、まだ始まっていない時期ですよね。

小柴そうですね。B29による横浜市への初爆撃は昭和19年12月25日で、3機による焼夷弾爆撃です。実際に空襲が激しくなるのは、翌昭和20年からですね。

松信その前に疎開させよう、ということになったわけですね。

ゆりサイパンなどのマリアナ諸島をとられると日本本土がB29の射程距離に入るので、疎開させたわけです。

対人関係で苦労した縁故疎開

松信ゆりさんと鈴木さんは、疎開されたのは6年生だったんですね。

ゆりそうです。私は秦野に縁故疎開しました。私が通っていた老松国民学校は、野毛山の山の上にあった古い学校でした。疎開の話は急でしたが、学校単位で移りますし、行くところは箱根湯本だと聞いていましたから、遠足気分もあるし、集団疎開に行きたかったんです。

しかし、まず縁故ということで、私の場合は、毎年夏休みになると秦野の母の実家に行っていましたので、親戚がないとも言えずに、自発的に秦野に行ったんです。

松信秦野へは1人で行かれたんですか。

ゆり基本的に単身で行くことがうたわれていたので、1人で電車で参りました。今では通勤圏ですけれど、大変遠かったですね。

松信当時の秦野はどんなところでしたか。

ゆり市制前の秦野町で、国民学校は1つだけでした。母の実家は農家で、広くて家族も多かったんですが、主人は母の弟なのですが、3回目の出征をしていまして、残っていたのは、そこのおばさんと、老人と子供たちですね。それまで夏休みに遊びに行っていたのとは、環境ががらっと変わっていた。

松信そこから学校に通っておられたわけですね。当時は、男性がみんな戦地に行ってしまって、労働力が不足していたそうですね。

ゆりそうなんです。あのころは二毛作で、麦をまいていましたから、ちょうど冬にかかるときには、農作業の手伝いもずいぶんしましたね。庭先の防空壕は、私も掘りましたよ。

松信いじめにあったりしませんでしたか。

ゆりそれが一番いやでしたね。当時の子供たちはやっぱり荒れていて、向こうの悪がきどもに「学校の帰りに裏道のお寺で待っているから」なんて言われました。対人関係ではいろいろありましたね。

鈴木都会の子と田舎の子では文化が違いますから、それでいじめられる。単身で行った縁故疎開の方は、皆さんそういう経験を持っているようですね。

親元を離れた寂しさや我慢がプレッシャーに

松信鈴木さんは茨城県の水戸に行かれたんですね。

鈴木水戸は母の実家でして、そこへ小学校3年の弟と2人で疎開して、そこから三の丸小学校に通いました。

私は体が大きくて剣道も強かったせいか、いじめは受けなかったですね。ところが、3つ違いの弟は、後で聞きましたら相当いじめられたみたいです。兄弟で、同じ家にいて、同じ物を食べていても、いじめられた子とそうでない子がいる。疎開体験は、それぞれ個人によって本当に違うんですね。

軍需工場があった日立が近いので、水戸もしょっちゅう空襲がありました。あるときすぐそばの那珂川の上空で、グラマンの戦闘機と日本の戦闘機の空中戦があった。われわれ子供はすごいと言って見ていたんですが、あっという間に日本の飛行機が落とされて、那珂川にボチャンと入っちゃった。するとグラマンがこちらに向かってきて、機銃掃射をしたんです。あわてて防空壕に入ったんですが、何人かけがをしたようで、血を流して倒れている人がいるという光景を、そのときに初めて見ましたね。そういうふうにしてだんだん戦争というものが、身近なものに感じられるようになった。

またあるとき、母が面会に来たんです。そしたらわけもなく、母の胸でワンワン泣いた。私はがき大将で、それまで1回も泣いたことがなかったんですけれども。祖母もおばも大変大事にしてくれて、何の不自由もない疎開生活だったけれど、やはり親元を離れるということは、どんな子供でも寂しくて、ふだん我慢しているというのがプレッシャーになっていたんですね。それで母の顔を見た途端に涙が出てきたんじゃないかと今は思っています。

集団疎開は箱根・湯河原方面へ

松信小柴さんは集団疎開ですね。

小柴平沼国民学校は、集団疎開は3回行われました。第一次が昭和19年8月17日、第二次が12月3日で、私は第三次の昭和20年4月3日に、20人で疎開しました。6年生になっていました。

疎開先は足柄下郡下中村で、東海道線の二宮駅から、バスは通っていたと思うんですけれども、私たちは歩かされまして、子供の足で50分ぐらいかかったかと思います。そして着いたところが小船集会所という場所でした。当時は青年の集会所だったんじゃないかと思います。

当時、私の父は36歳で召集されて中国戦線にいました。家には母と私と弟、それに4歳の妹だけでしたから、恐らく最初の疎開は母親が、長男の私を離したくなかったんではないかと思うんです。とうとう三次で疎開することになって、身を切られるような思いで私を送り出したのではないかと思っています。

私が行った日の夜中過ぎ、横浜市が初めて米軍による本格的な爆弾攻撃を受けて、私の家も焼けてしまいましたけれども、幸い母と4歳の妹は無事でした。

うれしかった風呂の帰りにもらう落花生

疎開先から両親に宛てたハガキ

疎開先から両親に宛てたハガキ
(小柴俊雄氏蔵)

小柴疎開先では、小さい子供ながら、やはり社会の縮図のようで、いろんなことがありました。2つほど思い出すことがあるんです。

毎朝、当番制で、近くの農協から2、3人で、宿舎まで牛乳をバケツで運ぶ仕事があったんです。それをこぼさないように運ぶのは、子供ですから大変に緊張しましたし、責任感を感じました。その牛乳を寮母さんが沸かしてくれまして、朝の食事のときに飲むんです。たしかおわん1杯でしたが、そのうまさは、今でも本当に鮮明に覚えています。

もう1つ、集会所にはお風呂場がなかったので、週に2回、近くの農家にもらい風呂に行くんです。それが唯一の楽しみでした。私が行ったところは大体いいお宅だったようで、今でも二宮は落花生の名産地ですけれども、帰りに必ず落花生を持たせてくれたんです。そのうれしさは格別で、お風呂の日を指折り数えたものでした。

学校も閉鎖され最後の集団疎開で奈良屋旅館へ

疎開先の旅館玄関前を掃除

疎開先の旅館玄関前を掃除
(間門国民学校・奈良屋旅館。 新井陽一氏提供)

松信大石さんも小柴さんと同じように集団疎開だったのですね。

大石私は間門国民学校で最初は残留でした。間門も3回行っていて、最初は19年の8月16日にかなりの人が疎開してます。第二次は19年の12月、第三次は20年の4月15日です。私も小柴さんと同じで、親戚も知り合いも地方になかったのです。父が、家族に恵まれないで育ったものですから、とても家族を大事にしていまして、いつまでも一緒にいようって、「死ぬときも一緒だ」と言われた言葉は今でもとても焼きついています。

それで家に残っていたんですが、20年の3月には学校も閉鎖されて授業がなくなり、もうどうしようもない、子供たちを横浜に置いたのでは危険だというお達しで、最後の集団疎開で箱根の宮ノ下の奈良屋旅館へ行きました。今はもうない、老舗のいい旅館でしたけれども、それは大人になってから知ったので、そのときは温泉にも入りましたけれども、あんまりありがたみも感じずに過ごしておりました。

私は、皆さんが集団生活をしている後から行ったものですから、いじめというほどではないんですけれども、みんなでお食事するときに並びますね。そうすると、ちらっちらっと、お茶わんに入っているご飯の分量を見て、あちらが多いとか、こちらが多いとかいうささやき声が聞こえたりしまして、なじむまでに随分時間がかかりました。

5時半起床、朝礼では必ず宮城遥拝と体操を

戦勝を祈って神社参拝

戦勝を祈って神社参拝
(間門国民学校・箱根宮ノ下の熊野神社で。 新井陽一氏提供)

松信集団疎開先では、どういう生活だったんですか。

小柴5時半に起床、6時に朝礼で宮城遙拝と体操をやる。それから、御製奉唱といいまして、天皇のつくった和歌を復唱する。宮城遙拝は必ずやりました。それから掃除。6時半に朝食でした。

授業は近くの学校に行くこともあったようです。12時に昼食で、午後も少し勉強しています。3時ぐらいから、遊びの時間があって、6時に夕食です。8時半の寝るまでの間に自由時間がある。そして3日に1回入浴があるわけです。これが集団疎開の1日の生活ぶりです。

大石私たちは太鼓の音で起床でした。そして庭に出て点呼を受けまして、体操や、乾布摩擦をしましたね。勉強というのは余りなくて、旅館ですから、お部屋に長い机を置きまして、そこで先生が何か教えてくださったり、たまには近所の温泉村の学校を借りまして、そこで授業をしたこともありました。

散髪

散髪
(田沼菊江氏提供・平楽国民学校昭和15年入学の同窓記念アルバム「平楽の丘」から)

薪をとりに山に行ったり、行軍といって体を鍛えるために歩いたり、お洗濯や食事の手伝い、ちょっとした時間には、かわいそうな話なんですが、みんなですき櫛でシラミをすくんです。すると、パラパラパラッてシラミが落ちるんです。それが自由時間にお互いにすることでした。シラミは大変な思い出ですね。

鈴木横浜は港がありますから、昔からナンキン虫とかシラミは非常に多かった。だけど、疎開地でそれにたかられた思い出は、みんな共通して持っていますね。

松信でも、田舎が特別に衛生状態が悪かったというわけではないでしょう。

ゆり総体的に非衛生的だったということはあると思います。

ひもじくてカキの種をしゃぶりミカンの皮も食べる

疎開先でお菓子を食べる

疎開先でお菓子を食べる
(老松国民学校 ゆりはじめ氏提供)

松信学校の先生は付き添っていかないんですか。

大石引率の先生がいらっしゃいます。それと寮母さんと言って、こちらから誰かのお母さんとか、お姉さんが一緒についてきてくださる。

小柴一応は、児童100人に対して教師2人、寮母4人というのが建前なんです。当初は多分守られていたと思いますが、先生でも出征する人がいますから、最後のほうは恐らく守られていなかったと思います。私の場合でも生徒が三十何人だったと思うんですけど、先生1人に、寮母さんは2人ぐらいいたかな。

大石男の子はひもじいものですから、賄い場に行って何か盗んでみたり、それからカキの種をしゃぶって、それをしゃぶり回すとか、ミカンの皮を食べるとか、男子はとてもひもじい思い出があると思います。

鈴木集団疎開はとくに、後半になると、非常に食糧事情が悪くなってみんなおなかを空かしていた。ところが、一部の先生たちは隠れて銀しゃり(白い御飯)を食べていたという話があるんです。生徒には雑炊を食べさせた。そういうケースも集団疎開ではあったみたいですね。

ゆり私は縁故疎開先が秦野で、老松国民学校の集団疎開先が箱根湯本で近かったので、みんなに会いに行こうかということで、2度ほど集団疎開の宿に行ったことがあるんです。クラスの仲間に食べてもらおうと、落花生とか、サツマイモなんか持って行くんですが、全部先生が預かってしまうんですよ。それがどう処理されたかわかりませんけれども、うわさとしては、そのような話は大いにあったと思いますね。

大石でも、旅館の方や先生たちも、子供たちに何を食べさせようかと、とても心を砕いてくださってね。小田原とか、三浦半島のほうまで買い出しに行ってくださったという話も聞いています。

ゆりもちろん良心的なところは、ほんとによくしてくれたようですね。上級生が、箱根の入り口からリヤカーを押して帰ってきたという話もありますしね。

大石私も宮ノ下の駅に、タマネギの配給があって、それを取りに行ったことがあるんですけれども、もう腐っていて臭うんですよ。ですから、タマネギを見るとそれを思い出して、しばらくはシチューも、カレーライスも食べたくなかったです。

鈴木食糧の恨みは一生続きますね。私はこの年になっても、サツマイモとカボチャが食べられない(笑)。戦後の食糧事情の悪いときは、それを食べないと生きていけなかったのですから。一生分のサツマイモとカボチャはそのときに食べちゃったわけです。

集団疎開でも別々に預けられるケースも

松信疎開には、縁故と集団と、やむなく残留という3つのパターンがあったということですけれども、当時はどれが一番よかったとか楽だったとか、そういうことはあったんですか。

大石どのかたちでも、また世代によっても、それぞれの体験は違いますね。

ゆり食糧で言えば集団は厳しかったですね。集団疎開の先生方は随分苦労されていたらしいです。

縁故疎開は食糧は割といいんですよ。私の場合も、母の実家でしたから、自由はききました。

松信両親の実家だったらいいけれども、かなり遠縁に預けられることもあったんじゃないですか。そこで邪魔者扱いされるとか。

鈴木親戚のおじさん、おばさんのうちに行った人たちは困ったみたいですね。1日や2日、遊びに行ったのならお客様ですけれども、ずっといるわけですからね。

ゆりあと集団疎開でも、出先というか、市町村に預けられた先で分けられちゃう。山北の奥でそういうことがあったんですよ。集団生活じゃなくて、1人1人が別々の農家に割り当てられる。

松信集団で行っても1人1人にされたんですか。

鈴木西潮田国民学校は、それぞれが個々の農家に預けられたんです。これは非常に珍しいケースですね。ほとんどの学校は旅館とか集会所、会館、お寺とかいうところにみんなで行って、集団生活をした。

ただ、1つの旅館では全員は入らないというところが多くて、たとえば私が通っていた戸部国民学校は、箱根の駒ケ岳ホテルと橋本旅館の2つに半々ぐらいずつに分かれたんです。

ゆり間門国民学校は、奈良屋で全員一緒でしたね。

大石一緒でした。日枝国民学校は、男子と女子が、芦ノ湯の紀乃国屋と松坂屋の2つの旅館に分かれていたそうです。

小柴平沼国民学校も、下中村のいくつかのお寺などに分かれていました。私が行った小船地区にはお寺も旅館もなかったので、集会所で生活したんです。

学童の生命を救うことは「人的資源の確保」

松信残留した7,415名のなかには空襲で亡くなられた方もずいぶんいらしたんでしょうね。

大石私の友だちは亡くなりました。

松信苦しい思いをしたけれども、疎開をして命拾いをされたんですね。

小柴それは言えますね。

鈴木たまたま、きょうの2人は空襲にも遭っているんですが、疎開した時期によっても違うんです。普通は、受験のために横浜に戻ってきたわれわれ6年生より下の学年で疎開していた人は、空襲は知らないはずです。

松信疎開先でニュースを知るということになるんですね。

ゆり遠くから煙を見るとかね。

松信人命を救うという意味では、疎開は効果的だったということですね。

大石でも、違う見方もあるんですね。将来の戦闘要員を確保するため、という目的もあったと聞いています。

小柴「人的資源の確保」ですね。それは疎開の1つの要因ですから。

ゆりあの当時は、軍部が動かなかったら何もできないみたいなところがあって、説得の材料として、人員を確保するために疎開をさせるんだというのがあったわけですよ。「人的資源」は、当時は普通の言葉だったんです。

中学受験で横浜に帰り、入学直後に大空襲に遭う

松信5月29日の横浜大空襲のときはどうされていたのですか。

ゆり疎開時6年生でしたから、2月半ばに帰ってきて3月に受験。入学した途端に空襲でした。ちょっとしんどい目に遭っています。

5月25日に東京がやられて、野毛山の高台から、東京が赤くなっているのを見て、「きれいだな」などと思っていたんですが、そのわずか数日後に横浜に来たわけです。すぐそばの野毛山公園が高射砲の陣地になっていたんですよ。だから集中的にねらわれて、すごい量の焼夷弾が来ました。初めは周りから燃えてきて、燃えるに従って海からの風が強くなり、我が家があった高台に煙がバーッと吹き上がってきて、強制疎開の空き地に逃げ込んで、周りが焼け落ちるまでいたんですが、この空襲で父親が亡くなったものですから、そういう意味で大変な痛手でした。

松信お父様はどこで亡くなられたのですか。

ゆり一緒にいたんです。一酸化炭素中毒で息ができなくなったんです。

鈴木あのへんは崖が多いんです。そこに横穴防空壕を掘った。横穴防空壕に逃げ込むと、そこへ煙が来て、それを吸い込んで窒息死というのが随分起こっていますね。

12歳にはショックだった死んだ人々の姿

鈴木私のうちは西戸部国民学校のすぐ裏手で、空襲がはじまり、周りが燃えはじめた。中学1年生はもう大人扱いで、消防団に入れられまして、火を消しに行くんです。コンクリート製の四角い防火用水器から、鉄兜ごとざぶっと水をかぶって、バケツを2つ持って燃え盛る現場まで行って、ジャアーとかける。帰ってくると、さっきかぶった水が全部乾いているくらい火勢が強いんです。

結局、風向きが変わったこともあって我が家と近所の10軒ほどが奇跡的に焼け残ったんです。家族がみんな無事を確かめ合ったあと、泥のように寝て、翌朝起きたら、我が家に見知らない、焼け出された人が大勢寝ていたんです。びっくりしました。そして、母がまさかのときにと土の中に埋めていたお米を取り出して、炊き出しをし、その3、40人の人におにぎりを振る舞ったんです。みんな逃げまどって前日から何も食べていなかったんですよね。

学校の帰りに、藤棚商店街で焼け死んだ人をたくさん見ました。電信柱みたいに黒い棒がいっぱいあると思ったら、人間なんです。12歳でそういう光景を見るのは大変なショックです。負けるわけだと思いましたね。

燃えている横浜を見て、家族を心配

松信小柴さんと大石さんは疎開先におられたんですね。

小柴ええ。私は疎開先から見ていました。小船に白髭神社というのがちょっと小高い丘の上にあるんです。横浜が空襲されているということが、多分、情報として入ったと思うんです。それで、そこから横浜が燃えているさまをじーっと眺めていました。恐らくその下にはたくさんの人が、私の母と妹もいたわけですけれども、ほんとに心配で見ていたんです。

そして、その夜だったか翌日だったか、仲間の中に両親が死んだ知らせを受けた子がいた。がき大将みたいな男の子で、それまで元気だったのが、恐らく奈落の底に突き落とされたんでしょう。急におとなしくなってしまったんです。私はそれを目の前で見て戦争の惨禍というのを初めて強く感じました。

私の疎開生活は、実際には3か月ぐらいではなかったかと思います。5月29日の横浜大空襲で2度目のうちも焼かれてしまって、母と妹は生き残りましたけれど、横浜は焼け野原になりましたし、もう爆弾は落ちてこないのだから、どうせ死ぬなら、やはりお母さんのそばで死んだほうがいい、と母親が思って、横浜に早く連れ帰ってきたんではないかと思っております。

それで、焼け跡でラジオから天皇の終戦の詔勅を聞いたことは覚えています。夜中に米軍の伝単と言いましたか、ビラを拾ったこともあります。

集団疎開からの引き揚げは昭和20年の秋

大石私は箱根にいましたので、大惨事に遭うことなく過ごせました。家族の者は、町内会でつくった横穴式の防空壕で、火も煙も入ってきたりで大変だったようですけれども、元気でおりました。

1週間ぐらいして父が面会に、横浜の様子を知らせようと思って来たんでしょう。でも、私の顔を見たとき、目が真っ赤でね、それは空襲のせいだったかもしれないんですけれど、「一緒に帰ろう」と言うものですから、その足で横浜に帰ってきてしまったんです。そして焼け跡を見せられました。家があったところは、本当に真っ黒で何にもなくて、ただレコードの塊が蓄音機があったあたりに少しあったり、欠けたお茶わんがころがっているような状態でした。

その跡に米軍がきれいなハウスをつくってしまって、長い間接収から解除されませんでした。

松信集団疎開からの引き揚げは、一般にはいつごろなんですか。

ゆり学校によって違うんですが、大体、20年の秋、10月の半ば過ぎから11月にかけて、横浜へ帰ってきたようですね。

わずかの間に疎開、空襲、占領を体験

疎開先のお寺の本堂の前で遊ぶ

疎開先のお寺の本堂の前で遊ぶ
(根岸国民学校・浄円寺。石川栄子氏提供)

鈴木私たちにとって、疎開、空襲、占領の3つはセットなんです。わずか1年ちょっとの間にそれぞれをみんな体験させられている。なかでも疎開は、これらのひどい体験の始まりなんです。

ゆりたしかに、最悪の始まりでしたね。疎開は自分で望んで行ったわけじゃなくて、国の施策に沿って行った。それがどういうことだったのか、何か大変重いものがあります。

鈴木ただ、その後の人生でそれをバネにして生きている人が随分多い。それは感じます。あれがあったから今の人生があると言う人もいるくらいで、ほかの人とは違う体験をしたという意味では、プラス志向に考えている人も多いようですね。

小柴いやおうなしに親から引き離されてしまうわけですから、つらかった思いと同時に、独立心が芽生えたと思います。何事にも辛抱する、耐えるという心を養わされたような気がします。今でもそれが、尾を引いているんじゃないかと思うんですが。

大石言われてみれば、我慢強いというか、そういうことが私にも備わったかもしれません。また、あきらめとか。でも、そういうことはそんな体験なんかなくたって、子供たちは知っていかなければならないことだから、あれがあってよかったという話には、私は反発したくなるんです。

小柴そうですね。それは確かにありますね。

大石あのころの経験で一番のショックは、疎開先で隣で勉強していた子が、病気で横浜に帰されたその日に亡くなってしまったことです。

それから疎開の前、毎晩のように警戒警報が鳴って、夜中でも身支度をして防空壕に行き、解除になるとまた帰るという、いつ寝ていたのかと思うような生活が長く続いたのも大きかった。

大人に見えた6年生も泣いていた

疎開先での授業

疎開先での授業
(本町国民学校・湯本万寿福旅館。 加藤英男氏提供)

鈴木私たちの世代は、4年ぐらいの区切りで体験が違うんです。昭和元年ごろまでに生まれた人は、戦争に行った世代。昭和2年から6年生まれぐらいまでは勤労動員世代なんです。それから私たちが疎開世代だとすると、昭和11年以降生まれは、疎開は知らないけれど、空襲は知っている。空襲世代と言うんですかね。「十年一昔」と言いますが、あのころは非常に小分けされているんです。

松信大石さんは、「学童疎開」という詩集をつくられていますね。何か1つご紹介いただけますか。

大石当時、私たちからすると6年生はとても大人に見えて、たしかに尊敬しているんですけれども、こういうこともあったんだよというのが「六年生」という詩です。

低学年の頃
六年生は おじさんおばさんに見えた
疎開しても
六年生は威張っていて
先生の次に恐かった

けれど
だれかが オカアサン と
寝言のようにつぶやくと
オカアサン おかあさん
お母さん……
あちらこちらで
すすり泣きが始まり

ふっと顔を上げると
薄闇の中で
六年生も泣いていた

鈴木ほんとですよ。6年生だって、やっぱり子供ですからね。

疎開は「子供たちのたたかい」だった

松信疎開問題研究会ついて、ご紹介いただけますか。

ゆり疎開問題を皆さんに提起して、10年前に横浜市教育委員会とタイアップして『横浜市の学童疎開』という本をつくりました。それと毎年8月15日前後に、横浜の各場所をお借りして、市民に疎開の問題を中心に戦時下の実態を紹介したいということで10年以上やってきたわけです。

鈴木本の刊行の後は、毎年2回、会報を出しています。

松信『横浜市の学童疎開』には、326篇の手記が載っていますね。

小柴疎開した全校が入っているんです。他の自治体の本ではないことです。横浜だけです。

鈴木77校(市立73校、県立1校、私立3校)全部です。そのほか中華学校とか、横浜訓盲院、横浜市立ろう学校も載せています。

いろんな手記を寄せていただいて、私の場合の疎開は恵まれていたんですけれども、大変な思いをした人がたくさんいるというのを、編集しながらつくづく感じました。

松信その中で一番印象に残っているのは……。

鈴木疎開先にお母さんが持ってきてくれた海苔巻に、妹が「おかあちゃん」と呼びかける幸ヶ谷国民学校の生徒の話や、太田国民学校の3年生の男の子の、5月29日の大空襲でお母さんと次女のお姉さん、2人の幼い妹を亡くした話など、読んでいて涙がとまりませんでしたね。

小柴公的資料の中に幾つか新しい資料も発掘したんです。1つは、空襲で両親を失った学童、いわゆる戦災孤児の近況報告です。もう1つは温泉場に疎開した女子児童が当時性病に感染したことが巷間言われていたんですが、それが確実にあったことが証明できたんです。

鈴木われわれの年代の人たちにとって、疎開は大きな体験だったと思うんです。それは子供たちのたたかいであったと、本当にそう思いますね。そういうことが第二次世界大戦中にあったということを伝える、歴史の一里塚というつもりで、この本をつくったんです。

伝えなければならない戦争体験

大石みじめなことは思い出したくない、嫌なことは忘れたいと思って、ずっと未来志向で生きてきたんですが、このお仕事をお手伝いしようと思ったのは、私にとって2つの事件があったからです。

1つは、関東学院で25年間教職についていまして、昭和50年ごろだったと思いますが、中学1年生に戦争の話をしましたら、「先生、その話は第一次世界大戦のことですか、第二次世界大戦のことですか」って真顔で質問するわけです。これは大変だ、何とか伝えることをしていかなければと思いました。

それからつい最近、江戸東京博物館の戦争のことを扱っているコーナーで、私の後ろのほうで若い男女が手をつないで、「昔、戦争があったんだって!」と言うんですよ。それで「そんなにみんなにとっては遠いことなんだ。これは伝えなきゃいけない」と思いました。伝えると言っても結局、私ができることは記録していくことしかないんだと思ったんです。

鈴木私たちが小学生だった昭和14、5年ころの40年前が日露戦争なんですよ。そのとき乃木将軍とか東郷元帥は、もう歴史上の人物だった。今は2004年ですね。1945年に戦争は終わっていますから、60年前なんですね。つまりわれわれが子供のころ、歴史上の事件としてとらえた日露戦争、日清戦争よりも時間がたっている。

ですから、われわれはついこの間のことと考えていますけれども、現在の人口の大多数を占める人たちが知らないのは当たり前なんです。その中でこういうものを残していくのは、われわれの務めじゃないかというのが、偽らない気持ちです。

松信今回のギャラリーについて、ご紹介いただけますか。

ゆり今回は展示とトークの2本立てです。展示では、疎開の世代のイメージをいっぱい盛り込んだジオラマを、会員がつくりました。トークは、会員の他、学徒勤労動員世代の赤塚行雄氏に最新刊のご著書『昭和二十年の青空』関連のお話しを伺います。終戦記念日を挟んでの期間には皆さんにご家族でおいでいただきたいと思います。

松信貴重なお話をありがとうございました。

大石規子 (おおいし のりこ)

1935年横浜生まれ。
詩集『学童疎開』 横浜詩人会(品切)ほか。

小柴俊雄 (こしば としお)

1933年横浜生まれ。
著書『横浜演劇百四十年』(私家版)

鈴木昭三 (すずき しょうぞう)

1932年横浜生まれ。
著書『不思議な縁』 西田書店 1,400円+税、ほか。

ゆり はじめ

1932年横浜生まれ。
著書『疎開の思想』 マルジュ社 2,427円+税、ほか。

※「有鄰」441号本紙では2~4ページに掲載されています。

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