Web版 有鄰

437平成16年4月10日発行

田辺聖子と『残花亭日録』 – 人と作品

夫婦の愛と別れを書いた日記文学

田辺聖子
田辺聖子

“カモカのおっちゃん”の死までの日々

『残花亭日暦』は、「俳句」平成13年9月号-15年12月号に連載された、田辺聖子さん初の日記文学だ。

「生活について、粉飾のない文章で客観的に書いてみるのも面白そう、と思った。それだけの抱負で始めたんですけれどね」と、振り返る。

面白そうと始めたら、激動の日々が到来した。“カモカのおっちゃん”の愛称で知られる夫、川野純夫さんが、がんで入院したのだ。

「日記を始めたとたんおっちゃんの病気が重くなり、とうとう死んで喪主になり、納骨。そんな日々を日記にして、お約束した2年と少しで連載がぴたりと終わったの。こんな不思議なこと、物書き40年して初めて。やっぱり、“超越者”が書かせてくれたのかしらと、思っている」

日記文学は幾多もある。妻が夫の不実を責め、怨みを書きつらねる『蜻蛉日記』を反面教師にし、田辺さんは56歳のとき、「よいことばかり あるように日記」を私的につけはじめていた。

一方、日記文学として公の場で初めて書くことになった『残花亭日暦』は、『蜻蛉日記』風でも「よいことばかり あるように日記」風にもしなかった。人間サマたちのほか、名前と性格を持った大小のぬいぐるみ、愛犬とおしゃべりしつつ書く、という楽しさ。重病の夫を見舞うリアルを書いているのに、空想とユーモア、美しい言葉に満ちた文学になっている。

「超多忙で、あちこち飛び回り、そして病院へ、の日々でした。おっちゃんは数年来車いす生活で、そのうえ、がんになってしまい、しょうがない、と思っていましたね。元々泣き言いうような男じゃないから、余命が残されている範囲で人生楽しめたの。お互いを笑わせてた…」と、微笑みの表情で振り返る。

うれしい大事件。全集刊行の話が持ち込まれ、早速病院へ報告に行った。

『報告を聞き、表情を和ませて、/〈当然じゃっ〉/小さいが明瞭な声。(略)/〈遅すぎるくらいやっ〉/私、ミドちゃんと笑ってしまう。健康なときと同じように、反応の早い彼が嬉しい。』――平成13年10月30日(火)

笑いあった翌日、“ボクはもうあかんワ。えらいお世話になりましたなあ”と、夫が知人に話していたことを知り涙で顔が歪んだ。

そのとき、〈かわいそに。ワシはあんたの。味方やで。〉と、おっちゃんがいった。涙が引っ込む。

『みかた。/味方。/護符のことなのかな。(略)“ワシはあんたの味方や”というのが、彼流のせい一ぱいの、手持ちのセリフなのだろう。』――11月1日(水)

北朝鮮のコメ問題、テロの話題、戦争の記憶なども

「昭和41年に結婚して、たくさんおしゃべりしました。けんかもよくした。仕事が終わらずに外出をキャンセルしたら、“裏切られた”と怒ってきたりね。でも、4人の子持ちのやもめ男だったのに、苦労が身についてない素直な人で、面白かった。女の才能を認める人で、私のいうことをへー、ほー、はー、とよく聞いてくれた。男女というのは、年齢は関係ない。それはもう、相手に対する興味と好奇心よ」

身辺のことだけでなく、北朝鮮のコメ問題、米中枢同時テロの話題、戦争の記憶も書かれている。作家の目は、みるもの聞くものをがっちりとらえたうえで、こだわりのある美しい言葉で、日記文学を書き付けていく。愛する夫が去っていく日々は、2人が生きた日々に支えられて、ばら色の読み心地だ。

「連れ合いに先立たれると男はガクッとくるけど、女は“やっぱり、あなたみたいな人はいなかったわ”なんて、うまいこといいながら元気なものです。意気消沈せず、あらまほしき(ありたい)自分というのを文章にしてみるといいかもしれない。おっちゃん、きっと見ていてくれてる、って思っているんです」

昭和3年、大阪生まれ。39年に芥川賞受賞。2年後、4人の子持ちの川野氏と結婚。そして今に至るまで、仕事と家庭を両立して多忙、女流作家の第一線で活躍し続けている。数えられただけで540あるという短編小説の1つ、「ジョゼと虎と魚たち」が映画化、公開され、若者たちの共感を得て、現在ロングラン中だ。

「時代がようやく、私に追いついたのよ。へへへ」

悪戯っぽい笑い、カモカのおっちゃんは、どこかから見てくれているはず。なにしろ永遠の味方なんだから。

(C)

『残花亭日録』・表紙

残花亭日録
田辺聖子/角川書店/1,300円+税

※「有鄰」437号本紙では5ページに掲載されています。

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