Web版 有鄰

428平成15年7月10日発行

[座談会]ファンタジーと現代

白百合女子大学文学部助教授/井辻朱美
絵本作家/木村裕一
文芸評論家・本紙編集委員/藤田昌司

右から木村裕一氏、井辻朱美さん、藤田昌司氏

右から木村裕一氏、井辻朱美さん、藤田昌司氏

座談会「ファンタジーと現代」書籍リスト(新しいウインドウで開きます)

はじめに

『ハリ−・ポッタ−と賢者の石』・表紙

J.K.ローリング作
『ハリ−・ポッタ−と賢者の石』
静山社

藤田『ハリー・ポッター』シリーズが空前のブームになっていますが、一方、トールキンの『指輪物語』全6巻もロングランとして今なお話題になっています。『指輪物語』はファンタジーの原点といわれる作品として愛読されているわけですし、『ハリー・ポッター』は、いうまでもなく現代のファンタジーです。

また、いわゆるファンタジーには入らないかもしれませんが、『あらしのよるに』という6部作の絵物語が大ベストセラーになり、国内のみならず外国語にも翻訳されて評判になっています。これまたファンタジックな物語です。

そこできょうは、ファンタジー作品の翻訳や評論を数多く手がけておられる井辻朱美先生と、『あらしのよるに』をおかきになった作家の木村裕一先生に、ファンタジーの世界の魅力について、いろいろお話し合いをしていただきたいと思います。

トールキンに始まるモダン・ファンタジー

藤田ファンタジーの世界というと、幻想小説をすぐ頭に描いて、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とか『星の王子さま』とか『指輪物語』、また最近では『ハリー・ポッター』が頭に浮かんでくるんですが、井辻さん、ファンタジーとはどういうものをいうんでしょうか。

井辻トールキン以降はモダン・ファンタジーといわれています。それ以前にも、児童文学の中にずっとファンタジーはあったので、宮沢賢治なども童話として書いているわけですね。ですから、子供の本のファンタジーが一つのルーツ。

もう一つのファンタジーの流れは大人の幻想小説です。これは現実の中に変なもの、たとえば幽霊が出てきたりとか、あるいは不思議なものが侵入してきて混乱するとか、妖精がいるとかいないとか、その信憑性や驚きを主題にしていたんですけれども、今のファンタジーは、とにかく不思議な世界をつくってしまって、それが本当とか、本当でないとかいうことは問わないで、そこで遊ぼうという感じのものです。トールキン以降の現代ファンタジーの流れですね。

ゲームで遊ぶ感覚で世界探険を楽しむ

井辻今のファンタジー作品は現実は置いておいて、別の世界がある。それは現実と接合していようが何しようが関係ない。子供にとっては割とゲームで遊ぶ感覚なのではないかと思うんです。ドラゴンクエストとか、ポケモンとかと近い感じで、世界探険を楽しんでいるのではないでしょうか。

藤田そういう意味での原点と言うと、やはりトールキンになるわけですか。

井辻架空の世界なのに、あそこまで極端につくり込んでしまって、遊んだのはあの人が最初だと思います。歴史から何から全部つくった。

藤田しかも、大人の読書にたえる世界をつくったということですね。

井辻そうですね。今で言うとゲームの設定マニアでもあり、彼の小説から今の「ゲーム」がはじまったんです。

最初は1巻で終わる予定だった『あらしのよるに』

『あらしのよるに』・表紙

木村裕一/作・あべ弘士/絵
『あらしのよるに』
講談社

藤田『あらしのよるに』は大変話題になっていますけれども、これは最初から全6巻という長い構想でお始めになったんですか。

木村いや、これは最初の1巻で終わる予定でした。

井辻そうですね。1巻を読んだときは、この落ちが、朝になって、明るいところで出会った2人が「ぎゃっ!!」と言って逃げて終わるのかと思ったんです。そういう含みではなかったんですか。

木村というか、ここまで盛り上げて、本当に正体がばれたら、どうなんだ、どうなんだと言って、後は考えなさいと、読んだ人に任せるのもいいかなと思ったんです。そういう話ってないから。でも結局、全6巻になってしまいましたけれど。

藤田『あらしのよるに』の内容をかいつまんで申し上げますと、嵐の夜、ようやくたどりついた小屋の真っ暗闇のなかで、オオカミのガブとヤギのメイが出会って、ホッとする。お互い正体がわからないまま、この2匹が肌を寄せ合って2匹の間に友情が芽生える。

ところが、翌朝になって顔をあわせたら、不倶戴天の敵同士であった。オオカミにとってヤギは御馳走だし、ヤギにとっては怖い、怖い存在ですから逃げなきゃならない。

その矛盾を乗り越えた、そういうかなり意欲的なテーマを展開なさった。

無心になれずに苦労した2巻と完結編

木村読者から、どこがドキドキしたとか、よかったとかという感想文がすごく来るんです。それで、子供たちそれぞれが自分で考えた続きが書いてある。次の日に2人が出会ったら、すぐオオカミがヤギを食べちゃったとか、仲良くなったとか、それがすごくおもしろかったんですね。僕の本の中でも珍しい。それで、続きを書こうかなと、本が出てから思ったんです。

藤田2巻目が「あるはれたひに」、3「くものきれまに」、4「きりのなかで」、5「どしゃぶりのひに」、そして6の完結編が「ふぶきのあした」ですね。

木村正直言うと、2巻目と6巻目が大変だったんです。1巻目が出て非常に評判になって、続きを書く前に賞を2つももらった。

藤田講談社出版文化賞絵本賞と産経児童出版文化賞JR賞ですね。

木村僕はほとんどファミレスで書いているんです。

井辻えっ!

木村ファミレスの片すみでニタニタしながら書いていたんだけど、2巻目が書けないんです。つまり、1巻目を書くときは、これで賞を取ろうとか、ベストセラーになるなんて余計なことは考えないで無心に書いていたわけじゃないですか。

だから、「さあ、次はどうなんだ」とみんなに会うたびに聞かれるとか、いろんな外的要素をいっぱい与えられてしまって、無心になるのがとても大変で書けなかった。2巻目がでるまで1年9か月かかったんです。

それと、6巻目の「ふぶきのあした」が実は同じで、すごくつまらなく終わったら、今までの5巻は何だったのかと。せっかく8年間かけて評判をつくってきたものが、全部地に落ちちゃうわけですから、すごいプレッシャーで、終わったらホッとして肩の力が抜けました。

読み聞かせなどでヒタヒタと広がっていたのが一気に噴出

藤田1巻目の「あらしのよるに」は1994年に出ていますが、去年の2月までにトータルで14万部だった。今、120万部ですから、この1年間に100万部以上売れているわけですね。

木村苦節8年、演歌の世界、歌い続けてついに大ヒット、みたいな。

井辻完結編が出たので、みんな、1巻からまた買おうと思ったのではないでしょうか。

木村そうですね。完結編が出てから、わっと来たんです。それまでは読み聞かせなどでヒタヒタ、ヒタヒタと地下に広がっていたのが、一気に水が噴き出してきたような感じでしたね。

緊張感いっぱいの天敵同士オオカミとヤギの友情

『100万回生きたねこ』・表紙

佐野洋子/作・絵
『100万回生きたねこ』
講談社

藤田どうしてそれだけ熱狂的な感動を呼んだんでしょう。井辻さんのお立場からは、どう思われますか。

井辻佐野洋子さんの『100万回生きたねこ』ってありますね。100万回死んで、100万回生きたねこの話。そのねこは100万人の飼い主がみんな嫌いで、1回も泣かなかった。そして、のらねことして生まれたときに白いねこを好きになり、その白いねこが死んではじめて泣き、死んでしまったという話ですが、『あらし』を読んだときに匹敵する衝撃だったんです。

どこが似ているのか。『100万回』は、輪廻転生という、乗り越えられない掟を使っていますよね。『あらし』も、ものすごくせっぱ詰まった状況の中で、必死に自分を抑える。会話も命がけのぎりぎり。ヤギはヤギで一生懸命だし、オオカミはすごく切実に食べたい。でもだめだという、何か業のようなものをしょっている感じがいいのかもしれないですね。それを2人が相手を思う愛で乗り越えるみたいなところに、むしろ、大人が感動する。オオカミとヤギのキャラクターと、その会話がいいんですね。オオカミの「〜でやんす」という。

藤田どうしてオオカミとヤギにされたのですか。

井辻ほかの絵本にもあるし、オオカミがお好きなんですね。

木村基本的に言うと、オオカミが好きなんです。

主人公同士が真実を知らない緊迫感

木村講演で、ヤギの気持ちになって読んだか、オオカミの気持ちだったのか、その2匹を物陰から見ている者の気持ちか、手を挙げてもらうと同じぐらいいるんです。

普通は、すべて物語には主人公がいて、主人公に感情移入するものなんですね。

井辻普通は、誰か一人の人物に焦点が絞られる。

木村ところが、これはヤギになるか、オオカミになるか難しい。主人公同士が真実を知らないんですよ。

井辻離れたところからそれを見ている。

木村こっちから見ている読者しか知らないという構造がおもしろいので、それでやろうかなと。

それとお互いが天敵であることを知らないというのが浮かんだんです。オオカミが好きだからすぐにオオカミ。でも、天敵は、ぼんやりとでも見えたときにウサギじゃ小さいし、ブタじゃ丸い。ヤギだったら、大きさ的にも形も近いかな、と。ヒツジだと体を寄せ合ったら毛むくじゃらだし(笑)。それだけの理由でこの2匹がでてきたんです。

井辻すごく緊迫感がありますね。会話が刃の上に立ってる見たいな。

木村もうばれるんじゃないか、ばれるんじゃないかという緊張感がすごくある。

もう一つは、悪役はいないということなんです。ドキドキハラハラするのはほとんど悪役がいるんです。だけど、これは立場が違うだけなんです。食物連鎖の中で、この2匹は草食動物と肉食動物と、単に立場が違うだけで、悪くはないわけです。そこが書きたかったんです。悪いやつを出せば楽なんです。

井辻グリムなどはオオカミは必ず悪いということになっていて、現実に、牧畜をやっている人がそう感じることはあるにせよ、オオカミは悪の象徴動物になっていますね。そのオオカミものでも、木村さんの本は、本当に動物そのものを見つめているところが新しいですね。

オス同士だけれど描いているのはオスとメスの関係

英文版『あらしのよるに』・表紙

英文版『あらしのよるに』
講談社インターナショナル

井辻ガブとメイは異性なんですか。ちょっとわからない。恋愛ものとして読んでいる方もいるみたいですね。

木村メイはオスだと思いますか、メスだと思いますかというのも、手を挙げてもらうと半々なんです。

井辻私はオスだと思っていたので、どうしてこれ恋愛ものなんだろうと。丁寧だけど、何かしゃべり方に芯があって、オスっぽいなと思ったんです。

木村オス同士なんですけど、オスとメスの関係を書いているんです。食欲と同じ本能ですから、ある意味でここのやりとりがすごく近くなる。食べたい物を我慢しながら、いろいろしてみたりするところがちょっと近いので、そういうものも計算しているんですけれども、でも、ヤギをメスにすると、何だ、恋愛ものを動物にしただけかとなっちゃうんですよ。

井辻露骨になる。

木村オスにすることによって、見方がたくさん出てくると思って、あえてオスにしたんです。にもかかわらず、どっちとも書かなかったんです。イタリア語版でも、女性名詞・男性名詞があるから、どちらにもならないように翻訳してもらった。

それから、聞いただけで、どちらが話しているのか、わかるように「〜でやんす」とか「なんとかっすね」とか、オオカミのイメージに合わせた言葉をつくったんです。

井辻ちょっとやさぐれた感じというか、それが格好いい。

木村今度、英語版がでたんですが、そのニュアンスを何とか英語で出してくれと、何度もやり直してもらった。

井辻6巻の先は、もうないんですか(笑)。全部読み終わったときに、うっ、先が欲しいとか思いました。実は生きていたとか。

木村実を言うと、続編を書けというのがすごくてね。

井辻でしょう。ガブは生きていましたと。この終わり方は、ちょっと子供には痛過ぎますね。大人だったら、これでズーンとかいって耐えられるし、この余韻がいいかなって、ちょっと思わないでもないけど、子供は耐えられないと思う。

木村完結してほっとしたら、すぐ7巻目の構想ができちゃったんです。(笑)

井辻外伝をつくればいいかもしれない。ある日のガブとメイとかいって。(笑)

木村でも、完結編と書いちゃったから(笑)。それにやはり、ここから先はそれぞれの人が想像するのがいい。

『ハリー・ポッター』までは『指輪物語』がバイブル

『指輪物語』・表紙

J.R.Rトールキン作『指輪物語』
評論社文庫

藤田『指輪物語』が、映画化の影響などで最近また注目されていますが、どうしてこんなにロングセラーになったんでしょうか。

井辻本が出た1950年代からしばらく、イギリスでは、学者が書いた割としち面倒臭くて長い話という感じで、そんなに評判にはならなかったらしいんです。それがアメリカで火がついた。アメリカは、ちょうどベトナム戦争などの時期です。

藤田恐ろしい闇の力を秘めている黄金の指輪。はめれば姿が隠せるけれど、しだいに持ち主をむしばみ、虜にしてゆくこの指輪をめぐって小さいホビット族や魔法使い、妖精族たちの冒険と遍歴が始まるという話ですが、確かに導入部はちょっと難しい話ですね。

井辻ちょっと変な小説として入ってきたのを学生たちが、自分たちの新しい文学ジャンルを見つけたと思った。

世界を支配する野望に燃えて戦争を始める冥王サウロンにベトナム侵略している米国や、あるいは指輪に核兵器を見たり、のどかに暮らしているホビットはヒッピーやフラワーチルドレンとか。若者たちのカルト的作品だった。それに加えて、アメリカ人は神話とか伝承とかを持っていないので、実はすごく好きで飢えているんですよね。

自由な発想とキャラクターのアメリカ、世界観に凝るイギリス

井辻アメリカオリジナルのファンタジーは、1900年にF・ボームが書いた『オズの魔法使い』シリーズですが、これはほとんどメカニカルな、機械仕掛けみたいなファンタジーランドです。それまではみんなイギリスなどからの借り物だったんです。

で、トールキンが憧れのイギリスの伝承を持ってきたので、すごく喜んだと思うんです。しかも、作者が第二世界をつくっていいんだということにしたので、アメリカ人は自分たちにはないけど、つくればいいんだと思って、それで一気に亜流の異世界ファンタジーが出たわけです。

アメリカだとアドベンチャー志向が強いのですが、例えばル=グウィンの『ゲド戦記』は魔法や魔法使いを主題にして地道に世界の構造を問いかけた作品をつくった。

アメリカは伝承を持っていないだけに、いろいろ気楽につくるし、実験作もやる。あと、おもしろければいいじゃないかが徹底しているので、テンポが速い。

イギリスはトールキンだけでなく、伝統的に世界設定や背景にうるさい。アメリカでは、たとえば同じケルトを下敷きにしていても、キャラクターでしっかり引っ張る。世界設定もしているんですけれども、すごくわかりやすいアドベンチャー・ファンタジーになっている。それでも『指輪物語』は世界造りの原点というか、バイブルとしてずうっとあるみたいですね。

エピック・ファンタジーの原点として紹介された『指輪物語』

藤田『指輪物語』は読者の範囲が広いですね。

井辻カルト的だった時代は、読者は一部だけれど、もっと熱狂的だった。今は、ファンタジーが結構認知されてしまったので、割といろんな人が読んでいますね。

藤田今のファンタジーブームの原点と言っていいんでしょうね。

井辻そうですね。あれだけの長さと密度と強度で世界をつくったのはすばらしい。そういう感じで見られているところがあるんじゃないでしょうか。

藤田どのくらいの国で翻訳されているんですか。

井辻80何か国かな。100まではいっていないかもしれない。日本で翻訳が出たのは73年ぐらいで、最初は荒俣宏さんがエピック・ファンタジーの原点と紹介した。それでSF系のオタクの人たちが飛びついたんです。

そのあと2〜30年、1回、エンデの『はてしない物語』のブレークがありましたが、『ハリー・ポッター』が出るまでは『指輪物語』がバイブル。で、世界設定に凝るファンタジーが続いていたところへ『ハリー・ポッター』でキャラクター優位が復活した。そしてトールキンも原点として読み返されるようになった。

架空のなかにも日常との接点を常に意識して創作

木村そういうふうなファンタジーが、一過性ではなく長く読まれるというのはどういうところなんでしょうね。

井辻風俗などとは関係ないから、時代によって古くならないというのが一つあるんです。当時の風俗や社会の倫理とかを知らないとわからない話だと、その時だけは売れるんですけど、ファンタジーはそうではないわけです。

木村物語の世界が抽象的だからこそ、逆に古くならない。そういう意味で、長く続くのかな。

藤田それに、子供は大きくなって、どんどん読者が新しくなりますからね。

木村僕もそう思っていたんです。でも、『100万回生きたねこ』の読者はほとんど大人なんです。いまだにベストテンに入っている。本質的というのかな、古くならない要素というのがあるからなんでしょうかね。

井辻それが非常に普遍的なものを射抜いていればずっともつんです。

木村僕は、ファンタジーが全く架空というより、話に身近な日常の部分との接点がないとおもしろくないと思っているんです。全部架空になると、それはいろんな意味での接点がなくなり、何か勝手にやればみたいな感じになっちゃうから、常に日常とのつながりというのを意識する。

『あらしのよるに』は日常とはもちろんつながらないんですが、架空なんだけど、この2人の中のあるところに日常を感じるものを常に入れようとすることを、僕は原点に考えているんです。

井辻オオカミの鼻が詰まっていたから、においがわからなかったとか、すごくリアルですね。ファンタジーこそ世界の手ざわりは必要。

普通の暮らしから異世界に行くパターンが多いファンタジー

『はてしない物語』・表紙

ミヒャエル・エンデ作
『はてしない物語』
岩波少年文庫

藤田ファンタジーのツールというのは、そういうことも考えられるわけですか。

井辻最初に現実を書いておいて、そこから異世界に行くというパターンにするのが割と多いですね。小野不由美さんの『十二国記』でもそうなんです。

『十二国記』・表紙

小野不由美/作
『十二国記』
講談社X文庫

『十二国記』というのは、平凡な女子高生が、12人の王と12頭の麒麟が治める12の国々からなる、おとぎ話のような不思議な世界に連れて行かれる。そこは地球上ではなくて、「蝕」と呼ばれる現象によってのみ日本とつながっている。彼女は数々の疑問を抱えたまま、そこで生き延びるため見知らぬ世界での厳しい戦いを始めるという内容です。つまり、最初から異世界に行くと読者がその国になじむのに時間がかかるので、現実の高校生が行くことになっていたりするわけです。

木村普通に暮らしている人が、ある日突然に何かのきっかけで行っちゃうとかね。

井辻エンデの『はてしない物語』もそうです。いじめられっ子の男の子が、本を読んでいるうち、本の中の、正体不明の〈虚無〉におかされ滅亡寸前のファンタージエン国にすいこまれ、この国の滅亡と再生を体験する。一応、普通の暮らしという枠をつくっておくというのが確かに多いですね。

木村『ハリー・ポッター』もそうですね。

井辻あれは完全に半分っこですね。魔法界と、マグル(人間)の世界を行ったり来たりする。

木村『あらしのよるに』はオオカミとヤギの世界なんだけれど、現実の小学生がヤギになるわけじゃないから、この話の中に接点をつくる。

藤田読者が自分の心情を託して読むことができるということですね。

木村そうですね。

井辻オオカミとヤギが仲よくなることは現実にはあり得ないことだけど、寓話でなく、何かドライブする感情のドラマみたいなもので読ませてしまうので、ものすごくパワーがある。また、それを説得できるようにオオカミの仲間が出てきたりとか、いろいろリアリズムで固めてある。

それに『あらしのよるに』のような絵本の世界は、読者は、最初から現実そのままとは思わないで読みますよね。読む側の意識が、最初から現実から一つ転換して入って読んでいると思うんです。

最初からいろんなことを受け入れる状態になっていて、不思議なことはありだろうなとか、動物がしゃべるのもありだろうなとか、読者がファンタジーモードになって入るので、そのモードを利用しつつ、現実では描けないナマなドラマを入れる。これを「絵本」ジャンルでやったのはすごいと思いました。

作者を超える読者のキャラクターへの感情移入

井辻『あらしのよるに』はキャラクターですごく読ませてますよね。しかもどちらも大人なので大人にも読める。容貌とかは何も書いてないんだけど、オオカミのガブは格好いい、という話は来ませんか。

木村いっぱい来ます。ホームページや読者からのお便りに「理想の男性です」とか。それから、「ガブを死なせないで」とか、まるで生きている人間のことのように書いてある。またそれが生々しいんです。みんなが泣いたとか、「ガブ、カムバック」と唱和したとか、いろんなのが来ると、不思議な感じがするんですね。「ガブとメイの会」とか「オオカミを温かく見守る会」とかも勝手につくられている。

井辻キャラクターが立っているんですね。読者のほうが、作者を超えて感情移入がすごいんですね。

文字という記号の羅列を読者が想像力で生き返らせている

木村裕一氏

木村裕一氏

木村本を書くことは、僕が命を吹き込んで、生きた世界をつくることだと思うんですが、実際には文字という記号の羅列に置き換えていく作業です。その記号を読者の想像力で生き返らせる。

昔、シーモンキーというペットがいましたね。乾燥させてたのを水に入れると、また生き返るんです。生物です。本、特にファンタジーというのは、それを読者が水を入れてもう1回生き返らせているみたいなものかなと。

井辻その人なりの内的宇宙で生きちゃってる。

木村生き返ったのがみんな同じ動物とは限らない。人によって、みんな違って生き返る。

井辻全然、作者の思惑を超えてということですね。

木村いろんなお便りを見ていると、100人が100人全部違うんです。ファンタジーの架空の世界のすべてを、自分の頭の中でもう1回つくっているんですね。だから、皆さんからの生々しいお便りが来たときに僕は不思議な感じがするんです。

藤田読者の喜びというのは、まさにそこにあると思いますね。

木村読者が一人一人演出家になって、心の中でその世界を映像化して創っている。記号の羅列を生き返らせてるんだ。だから読書はクリエイティブなことなんです。

絵は動物園の飼育係だったあべ弘士さんに

『あらしのよるに』から

『あらしのよるに』から

藤田お書きになるときはイメージとして絵を想定されたんですか。木村さんは絵がご専門ですよね。

木村そうです。だから、絵は浮かぶんです。

藤田絵本作家で好きな作家はいらっしゃいますか。

木村田島征三さんなんか好きですね。最初のころはそういう絵本をつくりたいなと思ったんです。でも途中からそういう人と組めばいいや、というふうに変わった。(笑)

『あらしのよるに』を書いたときには、あっ、俺が絵描きとして描きたかった絵はこの話なんだと思ったんです。こういうのに絵をつけるのが望みだったので、ほんとのことを言うと、どっちにしようかなって随分悩んだんです。でも、欲張らないで、今回は文章だけでいこうと思ったんです。最終的に、あべ弘士さんに頼んでよかったと思っています。

藤田文章と絵のイメージとが、ぴったり合っていますね。

木村その当時は、あべさんは旭川市の旭山動物園の飼育係でしたが、すぐに仕事を引き受けてくれなかった。でも、原稿を読んだら、すぐにイメージが浮かんだらしいんです。それですぐやることになったのですが、でもなぜか毎回、絵が全部違うんです。

井辻それが気にならないというのは不思議ですね。

木村みんなちゃんとガブとメイに見えるところが、この人のすごさなんですね。だから、そこの違いがまたよくて、違うから余計みんな頭の中に勝手につくり上げた世界にしやすいのかな。

井辻でも、この2匹の声は、すごくよく聞こえてきますもの。

木村この不親切さがいいのかな。

世界のあり方を探求していく『ゲド戦記』

『ファンタジ−の魔法空間』・表紙

井辻朱美著
『ファンタジ−の魔法空間』
岩波書店

藤田井辻さんは『ファンタジーの魔法空間』で、ファンタジーのすぐれた作品をいろいろご紹介なさっていらっしゃいますが、これはというものを挙げていただけませんか。

井辻『ハリー・ポッター』は、ある程度の年の男の人はすごく入りづらいみたいですね。最初からリアリズムをまるで捨てているので、ついていけない。でもオカルト好きならOKかもしれませんよ。

ニュージーランドの作家マーガレット・マーヒーの『危険な空間』(91年)はヤングアダルト向けの現代的なファンタジーです。古いステレオ写真を見つけた少女が、その写真が作り出す立体空間へ入り込んでいくという、新しいヴァーチャル・リアリティのメディア体験を描いているものです。

古代的なアースシー世界を舞台にした作品

『ゲド戦記』・表紙

ル・グウィン作
『ゲド戦記』
岩波書店

藤田『ゲド戦記』はさきほどもちょっとでましたが、いかがですか。

井辻1巻目は、魔法の修行中に、禁じられた呪文を唱え、死の国の影を呼び出してしまった若者が、その影との戦いを通して、真の自己を見出し、世界のあり方を探求してゆくもので、古代的なアースシー(多島海)世界を舞台にした作品なんです。

最初の3巻目までが60年代後半から70年の最初に書かれていて、一つの世界をつくっている。ここでは、魔法で世界を支配するのが、本当に世界をテクノロジーが支配するのと同じような構造なんだなというのを見せてくれておもしろかった。さすがSF作家というか。

最終巻の5巻が今度出ましたが、4巻が20年ぐらいおいて出たとき、それまでの、男性と、知的な魔法の支配する秩序だった世界が突然崩壊して、女性の本能と直感が支配する世界になっているのでみんなびっくりした。

科学やテクノロジーで世界が明快に説き明かされて透明になるという信仰が現実にも崩れちゃったので、混沌に戻って終わっちゃったんです。

主人公のゲドが非常に立派な魔法使いとして成長していたのに没落して、どうしようもない存在として終わってゆく。だから、あの続編がいいという人と、一貫しないという人とあるみたいです。

現実設定を取り払ったところで愛・世界などの本質を描く

井辻朱美さん

井辻朱美さん

木村世界そのものは現実的だけれども、その使う道具の一点が不思議なものなら、ファンタジーなんですか。

井辻そうですね。『ゲド戦記』の世界は、地中海みたいなところで、そこには魔法使いがいて、まことの名前を知ることで世界を支配している。書き方はリアルなんですが、設定そのものに非現実的の約束事がワンポイント入っている。

木村ワンポイントでも入っていれば、ファンタジーになり得る。

井辻そうですね。しかもそれが世界を動かす原理になっていれば。

それから不信の停止。信じられない気持ちをいったん棚上げにしなければいけない。これはロマン派のころからの古いお題目ですね。(笑)

藤田そのほかには?

井辻「外へ抜けでる」。つまり心理や日常ベッタリから抜け出し、外からとらえ直す。このへんはエンデも言っているんですけど、自分の内面を見ようと思っても、余りはっきりわからないけど、外の世界はそれを反映しているので、外の世界にそれを見ていく。

ファンタジーは、別世界とそこで起こるドラマを描くんですけど、それが何か内面のドラマ、象徴的できごとであるというふうになっている。

藤田荒唐無稽ではファンタジーにならないということですね。

井辻設定は荒唐無稽でもいいのですが、いったん現実設定をとっぱらったところに真の成長とか愛とか、世界とは何か、とかの本質を描くわけです。

ファンタジーは不確実な時代の中で確実なもの

藤田『あらしのよるに』は内面のリアリティーという面では、今の子供たちにぴったりくるものがあるんじゃないかと思いますね。

つまり、今の子供たちは非常に孤独で、一人ぼっちになっているから、全く相性が悪いと思われているオオカミとヤギの間ですら友情が成立すると言われると、そうかということで、感動するのではないかと思いますね。

木村確かに周りを見渡すとお父さんとお母さんが、いつまで一緒にいるかわからないとか。でも、大人でも別の意味での不信時代で、銀行に預けておいたお金が返ってこないかもしれない。スーパーの表示もうそかもしれない。

井辻頼れると思っていたものがそうじゃなくなってきた。

木村そうですね。大会社に勤めていても、リストラとか倒産とか、ニューヨークのツインタワービルがまさに一瞬にして崩れるとか、今までの信じるもの、周りを取り囲んでいるものが全部崩れてきた。信じられる、頼りになるものを探すと何でしょうねというぐらいで。

井辻現実がすごく確固としていて、安全で、ここにいて、ここでちゃんとやれば大丈夫という時代でなくなってしまった。

最も信じないもの同士が信じあう努力をする

木村オオカミとヤギは天敵で、地球上で最も信じないもの同士が、お互いを信じる努力をする話ですから、今の子供たちが、これを手がかりにして、何か求めている状況なんでしょうね。

井辻でも、寓意とか象徴に流れるのでなく、2人の間に流れる、やばいんだけど、何か一緒にいたいみたいなリアリティーが、すごく切ない感じがする。

木村そういえばそうですね。やばいんだけど、一緒にいたいというのが原点かなという気もしなくはない。

井辻仲間に対しては裏切りですね。

木村いけないことをちょっとすること。常に、やってはいけないことを守りながら社会生活をしている人は、そのきわどいところを求めているのかもしれないと思うことがあるんです。

何かやばいための緊張感、緊迫感というのがすごくて、そこでぎりぎりのところで言葉を発せられているといった場合の、そのすごい立ち上がり方というか。

藤田非常に緊迫した関係の中から人間関係が生まれ、会話が生まれているということ、それが、読者に対してのアピールになっていると思いますね。

そんなところに、ファンタジーがブームになっている要素があるんでしょうかね。

井辻木村さんが言われたように、時代というか、地球全体が安定したところじゃなくなっていって、環境も危ないし、政治体制も、経済も、そういうまさに不確実な時代の中でステイブル(確実)なものというと、実はフィクションの世界は逆に安定しているということもありますね。

ファンタジーと現実の世界を近づけるテクノロジー

井辻あと、テクノロジーの進化によって、現実と夢の世界の境を結構、消すことができたということじゃないでしょうか。

木村テクノロジーの発達は、例えば、ここ20年ぐらいでものすごいじゃないですか。これってもしかすると、非常に魔法に近づいているような……。

井辻インターネットでもしくみが全然わからないブラックボックスですものね。

木村昔、ポットのことを魔法びんと言った。お湯が冷めないだけで魔法だったんですよね。それを考えたら、ボタン一つで違う世界が見れたり、今の現実は魔法だらけなわけです。

藤田本当にそうですね。

木村僕は子供のころは、うちにテレビがなかった。洗濯機もなかった時代が、ほんのわずかの間に魔法だらけになってきている。そういう意味で言うと、ファンタジーはどんどん近づいている。

井辻魔法って完全にバリアフリーになっちゃいましたね。今、みんなが遠くの人と話しながら歩いているなんていうのは、魔法としか言いようがない。そういう意味では魔法だらけになってしまったこの現実の中で、魔法が改めて注目されているという感じがする。もうそれ自体が不思議じゃないですね。

木村不思議にする必要はないぐらい、ちょっとの違いで魔法ができちゃう。

井辻「アトム」に携帯電話みたいなのが出てきていたという話がありますね。そういうものが90何パーセント実現している。あのころは、SFとか、まさに夢の世界とか、あり得ないと思っていたことが。

木村不信の停止をしなくても、かなり近いものがあるのかな。

井辻そのままですね。かなり追いついちゃった。

木村別世界をつくるというのは、あまり書いたことがないから、書いてみたいなという気にはなりましたね。

藤田大変いいお話をありがとうございました。

井辻朱美(いつじ あけみ)

1955年東京生まれ。
著書『魔法のほうき』 廣済堂出版 1,600円+税、『ファンタジーの魔法空間』岩波書店 2,200円+税、ほか多数。

木村裕一(きむら ゆういち)

1948年東京生まれ。
著書『あらしのよるに』全6巻 講談社 各1,400円+税、「木村裕一しかけ絵本」シリーズ 偕成社、ほか多数。

※「有鄰」428号本紙では1~3ページに掲載されています。

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