Web版 有鄰

427平成15年6月10日発行

[座談会]小島烏水と版画コレクション
登山・文学・美術に遺した多彩な足跡

評論家・『小島烏水全集』編集委員/近藤信行
東京大学大学院教授/河野元昭
横浜美術館学芸員/沼田英子
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から沼田英子・近藤信行・河野元昭の各氏と篠﨑孝子

右から沼田英子・近藤信行・河野元昭の各氏と篠﨑孝子

※印の写真は横浜美術館蔵

はじめに

フィンセント・ファン・ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホ
「医師ガジェの肖像(パイプを持つ男)」
1890年 エッチング※

篠﨑小島烏水は横浜商業学校(Y校)を卒業し、横浜正金銀行に勤務するかたわら文筆家、登山家、そして浮世絵のコレクター、また浮世絵研究者として、多彩な活躍をした人として知られています。

当社は、横浜美術館叢書の1冊として『小島烏水−西洋版画コレクション』を刊行の予定です。烏水が西洋版画を収集したことは余り知られていませんが、現在は横浜美術館にその半数が収蔵されております。このコレクションには幅広い画家たちの作品が含まれており、この本で初めてまとめて紹介されるものです。

本日は、横浜にかかわりの深い烏水についてさまざまな角度からお話をいただきたいと思います。

きょうご出席いただきました近藤信行様は、『小島烏水全集』(大修館書店)の編集委員のお一人で、烏水の伝記『小島烏水−山の風流使者伝』をご執筆になりました。近藤様はご自身も山登りがお好きで、烏水との出会いは山岳雑誌だったと伺っております。

河野元昭様は東京大学大学院人文社会研究科教授です。日本美術史をご専攻で、美術雑誌『国華』の編集委員でいらっしゃいます。

沼田英子様は横浜美術館学芸員で西洋美術史をご専攻です。烏水の西洋版画コレクションの整理と調査をされ、このほどその成果を本にまとめられました。

なお、本紙では1978年に近藤様が烏水の伝記を出版された際、串田孫一先生と烏水の山と文学に焦点をあて、紹介したことがあります。

滞米中に400点の西洋版画を収集

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ポール・ゴーギャン
「ノアノア(かぐわしい)」
1893-94年 多色木版※

篠﨑烏水は、登山家、山岳紀行文家として有名ですが、西洋版画のコレクターとしては余り知られていませんね。

沼田横浜美術館に収蔵されている烏水旧蔵の西洋版画コレクションについてご紹介しますと、烏水は大正4年に横浜正金銀行のアメリカの支店に転勤になり、昭和2年までの約11年間アメリカ西海岸に滞在します。

その滞米中に西洋版画を収集します。その総点が400点余りと言われていますが、昭和2年に帰国した折に、それを日本に持ち帰ります。その400点のうちの175点が横浜美術館に収蔵されています。

烏水のコレクションは、西洋版画の黎明期から20世紀のものまでが含まれていました。早いものは16世紀のデューラーや、もう少し時代を下ってレンブランド、ゴヤとか。20世紀ではゴーギャンやピカソなどがありました。

横浜美術館で最初に収集したのは1991年、それから3年間かけて少しずつ収集していって整理をしました。

烏水は持ち帰った西洋版画のうちの356点を昭和3年に朝日新聞社開催の「泰西創作版画展覧会」に出しますが、そのときに『目録』をつくり、それだけが手がかりでした。残された版画と『目録』を照合して、どれがどの作品かを見分けるところから始めました。

烏水に興味を持ったのは雑誌『山岳』を買い集めてから

篠﨑近藤様の烏水との出会いは、烏水の山の雑誌を買われたことですか。

近藤私は中学3年のとき勤労動員の工場で終戦です。それで昭和21年、中学4年のとき、山好きの元軍事教官に声をかけられて、富士山に行ったんです。24年に北アルプス、25年から南アルプスに入って、山気違いになっていた。そのころ、山の本にいいものがある、文学がある、と気づき、それから山の本を読み始め『山岳』という雑誌を買い集めた。

しかし、初期のものが集まらない。昭和32年に悠久堂という本屋に聞いたら戦前分のそろいがあるというので思い切って買いました。そのとき新婚早々で、ボーナス33,000円を全部はたいて怒られてね(笑)。烏水と取り組んだのは、それからです。

山男だった父親から勧められた名著『日本アルプス』

篠﨑河野先生の、烏水との出会いは……。

河野私が最初に烏水の名前を知ったのは父親を通してです。父親は山男と言ってもいわゆる低山登山、神谷恭さんが提唱した低い山に登って楽しむという山男でした。

小さいときから、小島烏水の書いた『日本アルプス』は名著だから読め、読めと言われました。手にとると、大下藤次郎、丸山晩霞のすばらしい口絵があって、そのころから絵は好きでしたから、「ああ、いい絵だな」と思って、小島烏水、丸山晩霞、大下藤次郎の名前だけを覚えて、山になんか登りもしませんでした。

大学で日本美術史を専攻して、小島烏水は浮世絵の研究のほうでもパイオニアであることを初めて知ったのです。『浮世絵と風景画』『江戸末期の浮世絵』の二大著書を読んで本当に驚きました。浮世絵研究の黎明期に、ああいった仕事をした人が、また同時にすごい山男でもあったということで大変な驚きでした。その後、私も健康法の一つとして、毎年一つぐらい山に登ることを始めました。

父は町医者でして、もっぱら「本日休診」にして、山登りをやっていました。それで死んだときに、近所の俳句が趣味の人が「賜りし命を生きて夏山へ」という一句をたむけてくれたんです。私は感動したのと同時に、近所の人もおやじを医者ではなくて山男として見ていたんだなと思いました。

Y高(横浜商業高校)から横浜正金銀行へ

Y校(横浜商業学校)時代の烏水

Y校(横浜商業学校)時代の烏水
(中央が校長の美沢進、後列中央が烏水、その左一人おいて原田久太郎)
横浜市立横浜商業高校提供 明治25年

篠﨑烏水は横浜の野毛に近い西戸部、現在の西区に住んでいましたね。

近藤烏水が開港地の横浜で育ったということに意味があると思うんです。父親は旧高松藩士ですが、上京して東京の神田辺りにいて、その後、横浜の税関に勤めることになった。これが一つのきっかけですね。横浜にいたことが彼の生涯の精神的な意味で大きな力になっている気がします。老松(おいまつ)小学校から今のY校に入学します。

篠﨑Y校は明治15年の創立ですから、120年になるんですね。

河野Y校の第4期生と書いてありましたね。

沼田Y校でも、校長の美沢進からとても強い影響を受けたようですね。Y校を卒業後、横浜居留地のアイザック商会に勤めて、横浜正金銀行に入ったようです。Y校から横浜正金銀行に入る人は結構多かったと聞いていますが、優秀だったんでしょうね。

近藤と思いますね。初めは税関官舎に住んでいます。父親は実直な方で、烏水を始め、随分と子供を連れ回したりした。例えば当時の税関長は有島三兄弟の父親の武。税関の運動会なんかでそういうのを見ていて、後で思い出しています。それから、西洋文化を取り入れた馬車道や弁天通、西のほうに行けば江戸の名残を残した東海道の道筋。そういうふうにつながっていきますね。

もう一つは、いい友だちがいたと思います。例えば久保天随(得二)は老松小学校の同級生、あと歌舞伎の脚本家になった山崎紫紅。そういった意味ではかなり刺激しあっている。沢田牛磨(紫瀾)も後に北海道長官になる。

篠﨑野毛山には立派な人たちが住んでいらしたから、老松小学校は超エリートの子供たちが通っていたわけですね。

近藤ですから、旅心といいますか、絵心、文学心、そういうところからかなり刺激を受けていますね。

雑誌『文庫』に投稿の『一葉女史』で評価される

篠﨑烏水は文学と登山、どちらが早いんでしょうか。

近藤文学だと思います。横浜の文献を調べたんですが例えばY校時代に『学燈』という雑誌を出しています。全集に入れてあります。中学生ですから、勝手なことをいろいろ書いている。旅の記があり、歴史の文章があり、社会評論あり。やはり物を書くという姿勢があったんでしょうね。

篠﨑雑誌『学燈』は印刷人は原田久太郎、編集人は小島久太、発行人は今井幸吉と書いてありますね。小島久太というのが小島烏水ですね。文学で注目されるのは、正金銀行に入ってから書いた『一葉女史』ですか。

近藤あれは明治29年で、発表は樋口一葉が亡くなった直後です。それ以前に、『文庫』の前身の『少年文庫』というのがあって、これは岡山出身の山縣悌三郎という教育者が発行した少年向けの投書雑誌です。それが明治28年に『文庫』と改題され、河井酔茗(青嵐)、滝沢秋暁(残星)という優秀な物書きたちが投書を続けていく。それで今言われた『一葉女史』は、その中の一つとして大変評価を得たようです。

篠﨑烏水が登山を始めるのは何年ぐらいからですか。

近藤明治20年代の半ばにはもう丹沢に行っている。特に大事なのは、父親がよく箱根に静養に行くので、それについて行ったということ。それから逗子、鎌倉に散歩に行き、そんなときの旅の記が残っています。

篠﨑Y校のころからなんですね。

近藤そうですね。Y校のころに近所を歩いて、山水旅行趣味というか。

アルピニスト — 山水旅行趣味と文学趣味

アメリカで登山の仲間たちと

アメリカで登山の仲間たちと
個人蔵 大修館書店提供

篠﨑アルピニストとしての烏水はいかがですか。

近藤烏水はまず第一に旅好き。ですから、街道筋を歩くことが本当に面白かったのか、中山道、木曽街道など、とにかくよく歩く。旅の第一歩はやはり東海道だったと晩年に書いています。そういう意味では横浜という場所柄、交通がまだ未発達の時代に古い街道筋を歩いて風景を楽しむというのが随分多かったと思うんです。

例えば、明治30年に青梅街道を歩いています。立川から大菩薩峠を越え、塩山を下りて甲府に出る。そして昇仙峡を訪ねて、富士川を下る。もちろん鰍沢から船に乗って東海道へ出ますが、それで横浜に帰る。自分の趣味を本当に増幅させてきた方だと思いますね。文章を見ると目が非常に確かです。

先覚者としては、烏水の好きな幸田露伴がいます。露半は、『枕頭山水』なんかを読むと、北海道から歩いて帰って来ています。北海道へ電信技手として就職しますが、いやになって、まだ東北線ができていないころ歩いて帰ってくる。「突貫紀行」というのがそれです。

だから、文学趣味と山水旅行趣味とが一緒になって、その次に、高い山に向かうという基礎があったと思います。

篠﨑文学とブレンドしているのがすごくいいですね。

近藤これが面白いです。

槍ケ岳に登る途中、ウェストンの噂を聞き、横浜で会う

篠﨑明治36年には、横浜でウェストンにも会っていますね。

近藤ええ、これは本当に偶然です。明治30年以降、妙義山、浅間山、飛騨、乗鞍に行ったりしていますが、35年に岡野金次郎という人と一緒に白骨温泉に行き、そこから霞沢に登り、明神池に下る。これは一般ルートではなく、猟師の道です。それで槍沢をさかのぼって槍ヶ岳に行く。その途中の赤沢の岩小屋で外国人が来ていたということを聞くんですね。

それで、その帰りは飛騨のほうに下り、富山方面に抜けるんですが、そんなことが一つの奇縁になってウェストンと知り合う。これもやっぱり横浜だったからでしょうか。

ウェストンは1回目の来日は、熊本・神戸といて、2回目が横浜になります。それで友人の岡野金次郎はアメリカの商社にいて、たまたまそこでウェストンの本を見て、それを借り出して、烏水は短時日のうちに要点を翻訳して、山の写真を筆写します。そういうふうにして勉強していった。それが明治35年、槍ヶ岳に登って帰ってきてからですね。

篠﨑河野先生も、烏水の『鎗ケ嶽探険記』をお読みになってますね。

河野はい。最初は『日本アルプス』の口絵だけをもっぱら見ていましたが、名古屋大学に勤めたときに、近藤先生が編集された烏水全集をめくったら、その中に『鎗ケ嶽探険記』が入っていて、読んだら矢も楯もたまらず、その夜に槍ヶ岳に出かけました。松本まで行きましたが、朝の3時半ぐらいで、まだ島島電鉄は動いていないので相乗りのタクシーで上高地まで行って登り出したのです。

文学として烏水を読むようになったのは、それが契機ですね。その前に健康のために上高地から西穂高にも登っていたのですが、そのときは烏水とともに上高地へ戻ってきたといった、何かとても懐かしい感情にとらわれたことを覚えています。そして烏水の書いているとおりのルートをほとんど通って大槍に登ったのです。夏山でラッシュでしたが、頂上に立って本当に感動しました。もし『鎗ケ嶽探険記』を読んでいなかったら、あれほどの感動を味わえたかどうか疑問だと思っています。

ウェストンの助言で山岳会を発足し「設立主旨書」を書く

篠﨑烏水はウェストンと出会い、日本山岳会の前身の山岳会を創設するんですね。

近藤明治35年に槍ヶ岳から帰って、先ほどお話ししたマリー社から出た本を見て、そしてその人物が近くにいるとわかり、山手のウェストンと西戸部の烏水とでつき合いができる。ウェストンは聖職者ですが、やはり旅行好きで、烏水は英語を使えたでしょうから、親しい行き来が始まった。

そしていろいろな本、特に『アルパイン・ジャーナル』を借りた。その上で、日本の若者たちも山の会を起こしたらどうかという話があるんです。これが一つ。

もう一つは当時、東京の府立一中に博物学の先生に帰山信順という方がいて、そこに集まった連中がいるんです。例えばイギリスの外交官アーネスト・サトウの次男の武田久吉。

それから後の英文学者の市河三喜という人たちが、明治30年代に博物学同志会というのをつくる。自分たちの山歩きを中心として植物、昔で言うと本草学の延長ですか、同時に、新しい未知の分野に足を入れていこうという一群の若者たちがいた。

私は「『甲斐の白峰』をめぐって」という一章を書きました。ウェストンの紀行を土台にした「甲斐の白峰」は、『太陽』という一流雑誌に出たものですから、その人たちの目のつくところになり、訪ねてくる。そこで博物学同志会の人たちと縁ができる。これも横浜です。

もう一つは越後です。高頭仁兵衛という豪農が、日本の古来の地誌類、紀行文を集めています。この人が『日本山嶽志』の草稿をつくり、これを見てくれと言って烏水の住む横浜の山王山に持ってくるわけです。

そういう縁があって、それじゃひとつ山のグループをつくろうじゃないかと。

ですから、明治35年の秋から36、7年にかけて親密な交流がありますね。

それで明治38年10月に飯田町の停車場、昔の甲武鉄道(中央線)の発着駅ですが、そこの駅前の料理屋に集まり越後の高頭さんの援助で会誌も出すということになり、山岳会が発足した。「山岳会設立の主旨書」を烏水が書いていますが、その中に、『アルパイン・ジャーナル』にならって、山の研究、登山路の紹介をやるのもいい。それからもっと文学、芸術、科学に力を入れる。これ国民的事業と書いています。本当に若者たちの盛んな意気込みを教えられるような文章です。特に日露戦争後ですから、その時代性もありますね。

篠﨑Y校が英語教育に熱心だったから英語も話せて、ウェストンと交流ができたんでしょうね。

近藤それはあります。特に美沢先生が、スマイルズの『自助論』を教えたという話はいいですね。

烏水ら青年登山家を狂喜させた志賀重昻の『日本風景論』

篠﨑近代日本における烏水の山岳紀行文はどうなんでしょうか。

近藤これは大きなテーマです。明治初期からの鉄道の発達と同時に、新しい未知の部分に興味を持ち始める。もう一つは、明治27年の刊行以来、版を重ねている志賀重昻の『日本風景論』は日本の風土についての概説書ですが、あの中に「登山の氣風を興作すべし」という啓蒙的な文章がある。あの力強い文章に相当若者は啓発されたようですね。

これは木暮理太郎らも語っていますが、当時の若者に大自然に向かう気持ちをいやおうなくかき立てさせたんじゃないかと思います。

篠﨑岩波文庫に『日本風景論』が収められるとき、烏水がその解説を書いていますが、その中で「我々青年登山家を、狂喜させたもの」といっていますね。

近藤そうですね。もう一つ、烏水の仕事の大きな動機づけになったのは、自分の発表の舞台をつねに持っていたことじゃないでしょうか。先程出ました山縣悌三郎の『文庫』に記者として採用されます。送られてきた原稿を選別して、選評を書いて送り返すという仕事です。

33年には与謝野鉄幹が『明星』を出し、『新聲』(現『新潮』)という投書雑誌もありました。そういう若者の発表舞台があったことは大きいと思いますね。

篠﨑烏水というペンネームは、いつから使いはじめたんですか。

近藤これは割と早い時期です。『一葉女史』は小島久太で出ています。30年に記者になってからで、滝沢秋暁が名づけ親です。

中国の戦史にある烏江の戦いから。それとは別に滝沢秋暁が言うには、おまえさんは人のまねばかりする。そして勝手なことも書いている。だから、「鵜の真似をする烏水に溺る」ということを手紙に書いているんです。戒めの言葉、そこからとったと。

後で弁解しまして、実は違う。烏江からとったんだと言っていますけれど、本当は鵜のまねなんですよ。(笑)

浮世絵研究者 — 日本のパイオニア

小島烏水著『浮世絵と風景画』

小島烏水著『浮世絵と風景画』
大正3年

篠﨑烏水は浮世絵にも興味を持ち、収集したり、本も書いていますね。

河野浮世絵研究者として烏水は日本のパイオニアであると言っていいと思います。彼の著作『浮世絵と風景画』が出たのは大正3年、日本の浮世絵研究の草創期という時代ですね。今度の本で沼田さんも書いているように、浮世絵の芸術的な評価は欧米から始められ、それに日本人が目を見開かされた面が大変強いのです。

ゴンクールが有名な青楼の画家として『歌麿』を書いたのは明治24年です。そういったものから日本人が影響を受けるわけです。

飯島虚心の名著『葛飾北斎伝』は明治26年に出版されています。最近、鈴木重三先生の解説をつけて岩波文庫に収められて利用しやすくなりました。しかし、文字通り伝記資料といった趣が強いですね。

それ以外だと『浮世絵類考』ですね。一種のディクショナリーのようなもので、最初は大田南畝がつくり、それをたくさんの人が増補を重ねました。あのころは恐らく、斉藤月岑の最終的にまとめた『増補浮世絵類考』をみんな利用していたと思います。

そんな時代に小島烏水は自分でコレクションをして、自分で研究をして大著をまとめました。その後、長い間、烏水の仕事を超える業績は出なかったわけですから、本当に孤高の高山みたいなもので、あの時代の浮世絵研究の中では、飛び抜けていますし、現在でも烏水の業績は学問的に輝いていると言えます。

漢文を基調とした文学性豊かな烏水の浮世絵研究

河野それから烏水の浮世絵研究は、一つに、文学性が豊かであることが大きな特徴です。漢文を基調にした格調の高い日本語で、文章として読んでも美しい。漢文と英文学の素養が根底にあるんだと思います。両方とも主語・述語・目的語と、構造が非常にしっかりしている言語ですから。烏水も晩年は口語文に移っていきますが、やはり初期の文章がすばらしいですね。

近藤文章のことで言うと烏水も過渡期の方でしょう。漢文学で育った人が口語文に移るという非常に難しい時期なんです。露伴がそうだったし。徳田秋声、泉鏡花はいいんですが、随分脱落した人もいます。烏水も『山水美論』『雲表』あたりから口語文に移るんですが、かなり文章の書き方で苦労している。

河野烏水の浮世絵研究で文章が支えている部分を無視することはできないと思います。

広重の菩提寺を訪ね、生い立ちを調べる強い実証性

河野それからもう一つは極めて強い実証性です。広重の生い立ちを調べるときでも一つ一つ、菩提寺を訪ね、まだ生きていて広重を知っているような人を訪ねて、得るところは余りなかったと書いていますが、単なる印象や批評には終わらせない。もちろん作品研究も同様です。

彼の美文をもってすれば、印象批評風にさらっと書き流すことはやさしかったと思いますが、彼は決してそれをやらない。我々は「歌川廣重年譜」を基本にして全部やっているわけです。今でも基本とすべき、また我々後輩が見習うべき研究態度なんです。時期が非常に早いということ、文学性と実証性の三位一体、これが烏水の浮世絵研究を支えていると思います。

近藤フェノロサの本を出した古美術商の小林文七さんのことも書いていますね。

河野両者から多くのことを勉強していると思います。

小林文七とフェノロサは大変親しくて、小林が中心になって日本で最初の浮世絵の展覧会が明治25年に行われました。そして、一番有名な『浮世絵展覧会目録』は明治31年に小林がつくって、それにフェノロサが1点1点解説をつけていますが、烏水自ら述べているように、両者からの影響は大変強いと思います。

海外流出を防ごうと『浮世絵と風景画』を執筆

ロサンゼルスの自室での烏水

ロサンゼルスの自室での烏水
個人蔵 大修館書店提供

近藤小林さんは浅草の駒形におられたんですが、烏水は随分通っているんです。烏水が小林さんに感動したのは浮世絵の海外流出を憂えたという話。

河野烏水が『浮世絵と風景画』を執筆した動機に、海外流出を防ごうという意思があると書いていますね。

浮世絵の場合は、ジャポニズムで有名な話があります。ブラックモンが、伊万里かなんかの陶器の包み紙に使われた北斎漫画に感動して、北斎漫画を探しに探して、2年後にようやく刊本を手に入れて狂喜したという有名な話があります。浮世絵の場合には、ジャポニズムが西欧人の関心を引く大きな契機になった。そして浮世絵は安いから外国人は一種のスーベニアみたいな感覚で買った面もあるでしょう。

もちろん芸術として評価したんでしょうが、それと同時に高い掛け軸などよりも、浮世絵はリプロダクション芸術ですから数があるわけです。それはちょうど、烏水が西洋で、欧米のエッチングとか版画、プリントを買ったのと同じですね。ちゃんとした油絵よりは安い。

海外流出では、日本では明治の初めのころ起こった廃仏毀釈と、太平洋戦争後、たくさんのものが流出しました。

浮世絵を含めてそういった古美術、文化財の流出ということは功罪相半ばというか、2つの面があると思います。一つは、烏水が嘆いているように、いい浮世絵を見ようと思うと外国に行かないと見られない。これは嘆かわしい。しかし同時に、すぐれたものが外国に渡り、そこで一種の親善大使の役割を果たし、日本文化のすぐれたところを理解してもらえるよう頑張ってくれるという面、これは功のほうですね。

もう一つの面は浮世絵は基本的に植物染料を使って刷るから退色しやすい。江戸時代の人もみんな、生活の中でそれを鑑賞し、あるいは壁に張り、そして、やがては捨ててしまう。一種の生活文化で、日本人の一つの美術の鑑賞の仕方ですが、失われてしまうわけですね。

ところが、欧米の人たちは慎重に万全を尽くして保管してくれている。中には絶対人には見せないというのが欧米の浮世絵のコレクションにはある。これは次の世代の人に刷られた状態のままに伝えることが任務であるから一切人には見せない。門外不出というコレクションもあります。

これは美術あるいは保存に対する思考が違うからやむを得ない。そういった功も非常にあると思います。

ラスキンの影響 — 水彩画の普及に尽力

木下藤次郎「春の山」 水彩 個人蔵

木下藤次郎「春の山」 水彩 個人蔵

篠﨑烏水が風景画などに関心をもったのは、19世紀に活躍したイギリスの美術評論家であり思想家であるラスキンの影響もあるそうですね。

沼田ラスキンの影響はとても強かったと思います。当時の文学者とか芸術家たちはかなりラスキンの影響を受けた。夏目漱石や島崎藤村の小説の中にも、登場人物たちがラスキンの本を持って歩いたりとか、ラスキンの影響で自然の観察をするとか、そういうエピソードがたくさん出てきます。

恐らく今までの日本人にとっての自然と、ラスキンが知らせてくれた欧米の自然というのは違っていた。目に見えたとおりの自然を表現していくとか、もっと広い意味で自然をとらえるとか、とても新鮮だったと思います。

あと、ラスキンが芸術家のパトロンであり、コレクターでもありましたから、恐らく烏水もラスキンのようになりたいという考えもあって、芸術家を育てていくようなことも始めたと思うんです。特に『みづゑ』の作家たちとのかかわり方は、ラスキンの影響があるんじゃないかと思います。

先ほどお話のあった、大下藤次郎とか、丸山晩霞とか、当時、水彩画が急に広まっていくんです。水彩画は、イギリスでは19世紀、大変盛んだったんです。それが明治時代に日本に伝えられたのですが、新しい水彩画の動きとうまく連動していったんじゃないかと思います。

あと『みづゑ』との関係でいくと、水彩画は、今まで芸術のジャンルとして認められていなかったのを、独立したジャンルとして認めてほしいと、文部省あてに要望書を出したりしているんですが、そういう社会的な活動は、恐らくラスキンの社会主義的な立場から影響を受けていたんじゃないかなと思います。

もう一つ、烏水は社会的な発言もしています。例えば昭和10年、富士山にケーブルカーを通すのに反対しました。

近藤『山岳』の早い時期に、すでにラスキンのことを書き出していますね。いい文章があります。

衝撃的だった西洋版画との出会い

ウルス・グラーフ「キリスト磔刑」

ウルス・グラーフ「キリスト磔刑」
1509年 木口木版※

篠﨑烏水はアメリカに転勤して、どういう形で西洋版画を集めたのでしょうか。

沼田西洋版画を集めるきっかけになったのは、アメリカのある美術館で烏水が持っていた浮世絵を展示する機会があったそうです。

アメリカの美術館での浮世絵の展示は、最初訪れたとき余りにもひどかった。それで自分が持っている浮世絵を展示したらどうかと持ちかけたら喜ばれて、展示してくれ、そのときに向かいの壁に西洋版画を展示してくれたそうです。日本と西洋が出会い、東西比較がとても面白く、そこで西洋版画に目を向けるようになったと言われています。

烏水にとって、東西比較は一つの大きなテーマだったのかなと思うんですが、それもまた横浜的ですね。幼いころから恐らく日本的なものと西洋的なものをいつも身近に感じていた。それがアメリカに行って、自分が専門にしていた浮世絵と、初めてきちんと見た西洋版画との出会いは、とても衝撃的だった。

それから、西洋版画の研究方法はアメリカでは確立されていた。日本人は浮世絵をちゃんと理解していなかったために、すべて貴重なものが外国に流れてしまった。外国では日本の浮世絵もちゃんと理解してくれたということで、烏水は西洋版画も日本でちゃんと紹介して、いかに版画自体が価値があるとみなされているかを紹介しなくてはいけない。そうすることによって浮世絵も日本人から理解されるんではないか、と考えたと書いてありました。

西洋版画史を網羅したコレクション

ジャン=フランソワ・ミレー「落ち穂拾い」

ジャン=フランソワ・ミレー「落ち穂拾い」
1855年 エッチング※

篠﨑烏水のコレクションの代表作品をご紹介いただけますか。

沼田今はどこに行ってしまったかわからないんですが、デューラーの作品などはいいものだったと思います。烏水はミレーが好きだったようで、ミレーについては丹念に研究をしていて、代表的なものはかなり収集したと聞いています。「落ち穂拾い」「乳酪を作る女」「羊毛を梳く女」「羊飼いの女」。当時の『白樺』などで日本でも評価の高い作家だったんです。

近藤烏水は、収集の目的を3つに分けていますね。

沼田オールド・マスターと、バルビゾン派を中心とした19世紀と、あとは20世紀の新しいもの。ですから、それだけ網羅的に西洋版画史を勉強することだけでも大変だったと思うんですが、実際それをまた買っていくというのは、誰にでもできることではないと思います。

河野網羅的という考え自体、西洋的、もしくはフェノロサ的な影響が強くあらわれていると思います。フェノロサの美術史の考え方は、美術は系統を追って発展をし、系統を離れて滅びるというのが基本的な考え方なんです。

数年にわたって、ボストン美術館のフェノロサが中心になって集めた絵画の悉皆調査をやったんです。例えば江戸絵画だけについても何千点というものが残っている。つまり、全部を体系的に集めなければ物の本質はわからないというわけです。それに対して日本人はつまみ食い方式で、いいものだけを選択して鑑賞するというのが大変強い性向だと思います。

烏水はアカデミックな意味でのベースが非常に強い人だと思います。ですから今でも浮世絵の烏水の研究は学問的な意味を失っていない。

肖像画や自筆原稿など資料的な集め方

エドゥワール・マネ「ポリチネッラ」

エドゥワール・マネ「ポリチネッラ」
1876年 カラーリトグラフ※

篠﨑烏水の版画のコレクションで何か特徴として言えることはありませんか。

沼田一つ最近気がついたのは、肖像画が不思議と多いのです。収集していた作家ごとに『目録』ができていますが、その収集している作家のポートレートをかなり積極的に集めていっています。

例えばシャバンヌのポートレートやロダンなども。作品だけでなくその作者自身にも興味があったのでしょうね。

同時に、版画コレクション以外にオトグラフというか、自筆の原稿のコレクションもしていたようです。オトグラフには手書きの筆跡から、その人の個性がわかるという面白さがあると思うんです。またミレーの住んでいた家を描いた作品を収集するとか、ほかのコレクションにはないですね。

河野そういう意味でもやっぱり実証主義的ですね。

沼田そうですね。資料的な集め方という視点があるのかなと思っています。

勉強には恰好の時期だった1915年のアメリカ

近藤私は昭和51年に会社をやめて、すぐアメリカの西海岸に行ったんです。烏水滞在当時の新聞を調べるのが目的でした。そのときに気づいたんですが、烏水が行った大正4年は1915年で、第一次世界大戦2年目です。あのころ、アメリカの知識階級が東のほうからどんどんカリフォルニアに入っているんです。それでサンフランシスコがどんどん膨脹していく。それと、その人たちが自分の国、ヨーロッパから持ってきたものがアメリカの古物商に出始めている時期のようなんです。そういう面で烏水は勉強のためにいい時期にアメリカに行ったという感じがしますね。

沼田大戦で、ヨーロッパから貴重な美術品とか芸術家たちが避難するようにアメリカに来ていましたから、美術品が入手しやすいとか、新しい情報が入ってくる。

近藤よく歩いています。西海岸の各書店、美術商。ボストンに行ったのは1回、ニューヨークにも1回だけなんですが、非常に精力的に、かつ大っぴらに集めている。山登りは、銀行の部下の手前、大っぴらにはできませんが。

紀行文、山岳活動、美術の研究と収集がリンクして展開

篠﨑仕事と登山、そして収集や研究が烏水という一人の人間の中でどう結びついていたのでしょうか。

沼田なかなか一人の人間がなし遂げられる仕事の量ではないですよね。恐らく昼間は銀行員としてなすべき仕事をやり、夜、家に帰ってから美術の研究や執筆活動、山には有給休暇を使って登っていたと思うので、一つのことをするのにすごく集中力があったんだと思います。

それから全体が彼の中で何かしらリンクして展開していたんだと思います。紀行文にしても、山岳活動にしても、美術の研究と収集にしても、一つ一つの達成度はとても高く、そしてそれがつながっていたから、これだけのことができたと思います。

けれども、烏水のコレクションは松方幸次郎とか大原孫三郎など、当時の富豪のコレクションとは規模が違うのも事実です。烏水は、あまり高額な版画は自分には買えないとも言っています。自分は小品でも自分にとって興味があるし、集めておもしろいものをコレクションしていくんだと言っています。

大正ロマンチシズムの中にいた烏水

河野最後に一つ、烏水はやはり大正ロマンチシズムの中にいたと思います。烏水は「一日の労働を終へて、(中略)侘しい住居に立ち帰り、自分に許された僅かの時間を割いて、江戸時代の古錦絵を出して見るのが」楽しい生活の一部だとか、「古錦絵は私のためには、夢を哺ぐくむ土地である」と言っている。永井荷風は烏水より6歳年下ですが、『江戸芸術論』のなかで、浮世絵を「あたかも娼婦が啜り泣きする忍び音を聞く如き」と言っています。どこか通じ合うものがある。2人は一つの時代を表しているのではないかと思います。

篠﨑どうもありがとうございました。

近藤信行 (こんどう のぶゆき)

1931年東京生れ。
著書『小島烏水−山の風流使者伝』 創文社(品切)、ほか。

河野元昭 (こうの もとあき)

1943年秋田県生れ。
著書『北斎と葛飾派』 至文堂 1,553円+税、ほか。

沼田英子 (ぬまた ひでこ)

東京生まれ。
著書『小島烏水−西洋版画コレクション』 有隣堂 2,400円+税。

※「有鄰」427号本紙では1~3ページに掲載されています。

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