Web版 有鄰

422平成15年1月1日発行

[座談会]ベストセラーは世相の鏡

出版評論家/塩澤実信
出版ニュース社/清田義昭
文芸評論家・本紙編集委員/藤田昌司

左から清田義昭・塩澤実信・藤田昌司の各氏

左から清田義昭・塩澤実信・藤田昌司の各氏

はじめに

ベストセラー1

藤田「ベストセラーは世相の鏡」と、よく言われますが、そのときは気がつかなくても、後で、なぜこの本がこんなにベストセラーになったんだろうと考えてみると、やはり、この7、80年の世相を映していたということがわかります。

そこで本日は、昭和の初めから、現代までのベストセラーについて、当時の世相と関連させながら、お話し合いいただきたいと思います。

ご出席いただきました塩澤実信様は、週刊誌編集長、双葉社取締役編集局長を経て、現在は出版評論家として健筆をふるっておられます。

清田義昭様は、出版ニュース社の代表でいらっしゃいます。出版人、読書人のための情報誌『出版ニュース』を発行されております。

大不況下――「円本ブーム」にわいた出版界
(昭和初期)

円本の内容案内と新聞広告(清田義昭氏蔵)

円本の内容案内と新聞広告(清田義昭氏蔵)

一説に60万部ともいわれた改造社版『全集』

藤田昭和初期の大不況の時代は、まさに現代と似通った時代ですが、この辺りからお願いします。

塩澤昭和初期、改造社から『現代日本文学全集』全63巻が出ます。単行本4、5冊分の量が入った5~600ページの厚さのものが、菊判で、各巻わずか1円でした。単行本は1冊、2円から2円50銭ぐらいしていたころです。当時、東京市内のタクシーはメーター制ではなく、隅から隅まで1円で乗れた。そこから“円タク”という言葉ができ、1円本を“円本”と言うようになったわけです。

これがすさまじい売れ行きで、27、8万部売れた。一説には60万とか。これに続けと、新潮社が『世界文学全集』全38巻を出して、57、8万部売れた。平凡社は『現代大衆文学全集』全60巻。枕になるような厚い本で、これも売れた。当時、力のある出版社は円本を出して競い、そのなかの三大成功が以上の3つです。

『改造』は、『中央公論』に対抗して大正の途中から出た非常にラジカルな雑誌でしたが、全然売れなくなって、いつつぶれてもおかしくなかった。改造社の山本實彦さんは興行師的な才のある人で、この円本に一か八かで賭けて、それが当たった。当たった理由の一つは、予約制にして前金で1円もらった。27、8万の人々が予約したということは、前金が27、8万入ってきた。それで次々に出せたんです。

全産業平均賃金が、大正末期を10とすると、昭和5、6年の不況で7にダウンしました。今の比じゃなかった。そんな大不況なのに円本は昭和5年ごろまでブームになり、円本を出さない出版社のほうが少ないとぐらい言われた。

春陽堂の『明治大正文学全集』、第一書房の戯曲の『近代劇全集』。平凡社は一社で30種類以上のものを出している。一番当たったのは『現代大衆文学全集』で、『世界美術全集』はしっかりしたものでした。それから『世界猟奇全集』『囲碁大衆講座』『新興文学全集』『社会思想全集』『菊池寛全集』『伊藤痴遊全集』『怪奇探偵ルパン全集』『少年冒険小説全集』『渋沢栄一全集』『吉川英治全集』『江戸川乱歩全集』とか、ものすごく出たんです。

藤田新潮社の『世界文学全集』も平凡社のものより出たそうですね。

塩澤はい。新潮社の創業者の佐藤義亮さんが全巻の校正をしたというのは有名な話です。それから新潮社は見開きの大広告を打った。新聞の大広告も、このあたりから始まるわけです。

清田それともう一点、印刷技術、製本技術の水準もその時代に高まった。そうでなければマス・プロ、マス・セールはできない。

朝日新聞の一面は題字以外は全部出版広告

清田当時はラジオが出てきましたが、今で言うNHKしかありませんから、宣伝媒体としては新聞しかない。新聞は、大正から昭和にかけて普及しています。大正時代から昭和7、8年ぐらいまでは朝日新聞は一面の題字以外は全部、出版広告なんです。

たとえば新潮社の広告は、佐藤義亮さん自身が書いたと言われる。ですから新潮社独自の文字があって、それは全部佐藤義亮さんの書いた書き文字といわれているんです。

それから、たとえば『現代日本文学全集』の場合、2面、3面の全面に広告を出すんです。何月何日発売、予約募集が毎日のように出てくる。1ページ全面に「あした締め切り」と載り、発売当日は「本日締め切り」という広告を出しています。ですから、広告は博報堂ですが、広告とも相まって、それだけ売れたということです。とにかく当時の朝日新聞は、出版広告がメインで、すごい量です。

印税が入る喜びを書いた藤村の『分配』

塩澤この円本によって出版社はよみがえります。と同時に、作家たちにも印税が入ってくるようになる。作家たちは印税だけでは絶対食べていけなかったので、たいへん喜んだ。

当時、文壇の大御所だった菊池寛は大変なリアリストですから、円本によってどれほどみんなが助かったかわからないということを、きっちりと言っています。それから島崎藤村も、円本の印税を子供たちに分配して大喜びさせる『分配』という小説を書いています(笑)。

清田私は円本の内容見本を収集していまして、約300種もってます。内容は文学、思想宗教から、それこそ犯罪物から艶本、春本のたぐいの全集まであります。大体16ページか、32ページの薄っぺらいものですが、判型は全部A5判です。それを見ますと、いろいろなアイデアの原点が円本時代にあることがわかります。

とくに推薦文の中には興味深いものがあります。個人文学全集などでは、誰がどのようなものを書いているかが内容見本でわかるし、競合した企画で推薦者の立場も明らかになる。円本の内容見本の分析は文学史的にも、一つのテーマになるぐらい面白い。

庶民的な新しい知識層がターゲット

清田それから、どうして3、40万部も売れたのかというと、安かったということのほかに、大正デモクラシーの時代は経済的にも少し豊かになってきて、第一次大衆社会化状況と言われ、庶民的な新しい勢力が出てくる。中学や女学校に入る人たちがふえて、教育水準も上がり、ある種の知識層が中間層として目覚めてくる。昭和の初期にサラリーマンという言葉が生まれ、昭和2年に『サラリーマン』という雑誌が出ますが、これも新中間層の出現だろうと思います。

そういう中間層へ向けての円本全集だった。ですから、個々に出ていたのをまとめてセットで売るという、それまでなかった全集の発想が出てくる。新中間層は、それを読むために書架に並べておく。戦後の百科事典ブームの装飾用とは違っていた。

昭和2年に円本に対抗する形で岩波文庫を発刊

塩澤今、いわれたような知的レベルが高まるなかで、講談社が子ども向けの雑誌や100万部雑誌の『キング』とかをつくっていきます。

藤田『少年倶楽部』も、そのころ出ていましたね。

塩澤そうですね。要するに講談社の9大雑誌が全部そろうんです。それで当時は総ルビですから、全部読めるんです。

清田『現代日本文学全集』も総ルビです。

藤田あのころは新聞も総ルビでしたからね。

塩澤円本以外では左翼思想の『戦旗』とかの雑誌が出て、小林多喜二の『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』が載った。藤森成吉の『何が彼女をそうさせたか』とか、九条武子の『無憂華』は実業之日本社から出して売れた。

不景気だったり、思想的弾圧もあったけど、のらくろの漫画が出たり、大衆小説の代表的な『丹下左膳』が出たりした時代です。

清田円本ブームの中で、昭和2年には岩波文庫が出ます。円本が成功したのは、前金でもらって、それを運転資金としたからです。そういうまとめ買いをさせるやり方を批判して出したということが“岩波文庫発刊に際して”という辞に書かれている。三木清が書いたと言われてます。

だから古典、名著などを選択し、しかも安く買えるという趣旨で円本に対抗する格好で岩波文庫が出たわけです。ついで改造社文庫、春陽堂文庫が出て文庫ブームがおこった。これもやはり印刷技術や製本技術で安く提供できるようになった。そういう意味で昭和の初期はいろんなものの原点があります。

平凡社は『大百科事典』で大成功

塩澤平凡社の百科事典も昭和6、7年頃ですね。『キング』の向こうを張って出した『平凡』という雑誌で大失敗するんです。一度つぶれかかり、下中彌三郎さんは債権者を会議に集めて「今、借金を待ってくれ。そしたら立ち上げる」と言って『大百科事典』を刊行して、それで大成功する。大変な時代にやっぱりアイデアで成功した。どういうことかと言うと、組み置きしておいたら活字は大変な量になりますが、オフセット印刷にしたんです。一か八かの勝負をしたわけですが、勇気があったから、出版全体をワーッと押し上げていったのでしょう。

強まる戦時色――軍部による買い占めや発禁処分も
(昭和10年代)

出征兵士を送る

出征兵士を送る

混迷の時代に出てくる『宮本武蔵』

藤田日中戦争が昭和12年に始まりますが、11年に吉川英治が『宮本武蔵』を書いています。これは出たときもベストセラーになりましたし、戦後も、それから今年またブームになるという、非常に息の長いベストセラーですね。日本の混迷の時代に出てくる小説という感じがします。日中戦争が始まり、武蔵もそういう流れに乗ったということがありますね。

これが書かれた経緯は、直木三十五との論争で、直木は、宮本武蔵はそれほど強くない、弱い人間ばかりを相手にして勝っていた、と言ったら、吉川英治は、そんなことはない、じゃ書いてみるというので調べて書いたんです。

塩澤朝日新聞の連載でしたが、朝日の部数がどんどん伸びていったそうです。とにかく植字工がワクワクしながら待っていたといいます。しばらく後に徳川夢声がラジオで、「そのときー武蔵は」とやって評判になった(笑)。間のとり方が見事なんです。また吉川英治は、耳から入ってくるのにものすごく響きのいい言葉を使う。それで文章で読むと、きざなんですが、彼はそれを照れないで、えらい教訓をたれたり。

火野葦平の『麦と兵隊』3部作はいずれも100万部

塩澤昭和13、14年ごろになると、石川達三の『生きてゐる兵隊』、火野葦平の『麦と兵隊』が出た。その後に、『土と兵隊』『花と兵隊』という3部作が出て全部100万部売れた。全部改造社からです。100万部も売れたというのは、一つは軍部で買い占めてあちこちに送ったんです。

その中に書かれていることは、勇ましく戦っているばかりじゃなくて、ノミやシラミに苦しめられたり、今夜どういうふうに泊まるかとか、ロバの鳴き声で起こされたとか軍隊での日常生活の話が出てくるんです。『生きてゐる兵隊』のように発禁になってはまずいので、負け戦とかは出てこないで、自分たちが頑張っているのは祖国の家族を守るためとか、そういうことが切々と書いてあるわけです。

藤田『生きてゐる兵隊』はすぐ発禁になりましたね。『生きてゐる兵隊』の削られた所を読めるようにしたものを中央公論新社が新しくして出しましたが、何でこんなことまで削らなきゃならないのかなと思いました。昭和10年代に入るとプロレタリア文学は完全にだめになりましたね。弾圧もあったし、時代の雰囲気にもマッチしなくなってきた。

塩澤昭和15年は紀元2600年が盛大に喧伝され、ヒットラーの『我が闘争(マイン・カンプ)』(第一書房)がすさまじい売れ行きで、36万9千部にもなった。同じ第一書房からの大川周明の『日本二千六百年史』もベストセラーになった。

清田第一書房の戦時体制版のシリーズですね。

藤田私が夢中になって読んだのは「のらくろ」や『敵中横断三百里』とかの戦記文学。

塩澤あれは講談社で出しましたね。日露戦争の戦記ですが、日中戦争になる前に既に大陸に目を向ける工作をしている。つまり日本の生命線の満州(現在の中国東北部)をとられてたまるかという気持ちを山中峯太郎が書いているのです。樺島勝一の挿絵もすごかった。一木一草まで克明に描く。月夜に馬に乗って密偵が敵中を横断する挿絵など見事だった。

作家も徴用され丹羽文雄は旗艦に乗り『海戦』を書く

藤田昭和16年12月8日の日米開戦で急速に戦時色が強くなってきます。作家もみんな軍に徴用されて、たとえば獅子文六(岩田豊雄)が『海軍』を書いた。

塩澤あれは真珠湾攻撃の横山正治中尉をモデルにして朝日新聞に連載し、すごく部数を伸ばした作品です。

丹羽文雄も旗艦鳥海に乗って『海戦』を書き、これもすごく売れた。彼はそれまで情痴作家としてものすごく軍部ににらまれていた。その丹羽が180度転回して『海戦』を書いたと。しかし同じ丹羽の『報道班員の手記』は発禁処分になっている。

戦争に迎合して、日本は必勝の信念でやるということを言わないと紙の配給がないんです。だから朝日新聞などは一番太鼓をたたいた。朝日新聞の出版局史を見ると、屈折したことが書いてあります。

新潮社なんかも一生懸命迎合したようなことを書くし、富田常雄の『姿三四郎』などが売れていく。そういうものしか出せない時代でした。

『改造』も『中央公論』も廃刊に追い込まれる

塩澤『改造』も『中央公論』も昭和19年に廃刊に追い込まれる。総合雑誌は一番にらまれ、そこでつぶされてしまった。

そんな時代にもかかわらず谷崎潤一郎は悠々と『細雪』を書いている。これは中央公論の嶋中雄作さんが生活の面倒をを見ているんです。パトロンだった。そして敗戦になる。

清田その背景を少し申しますと、とにかくすべてが戦時体制に入っていくと、出版物も国の方針に従ったものが多く刊行されて、流通するものもでてきた。当然検閲もあるし、出版社と取締当局との対決もある。いわゆる言論抑圧時代でもあるわけです。

また、戦時体制ですから経済的にも効率化しなくてはならない。その一つでもある会社として昭和16年に、明治から続いていた東京堂、大東館、北隆館などの取次会社が一本化されて日本出版配給株式会社(日配)という国策会社ができ、一手に流通を引き受けて全国に配本することになる。これは、流通の合理化と言えば合理化ですが、国策での合理化ですから賛否がありました。現在の取次は、この日配時代に得たノウハウを使っていると言われてます。

紙が配給制になっていくなかで、出版界も、ちゃんとできる所とそうじゃない所と、内部でのいろいろな動きがあります。たとえば、三木清の『人生論ノート』が昭和16年に創元社から出る。18年には山本有三の『米百俵』(新潮社)が出る。小泉首相が言った本です。『米百俵』の精神は、厳しくなっていく状況を見据えたときの発想なんです。

出版社も雑誌も統合されて生き残る

塩澤昭和18年に、3,743社あった出版社を203社に絞ることになる。それで紙やなんかを買って統合しながら、旺文社とどこかが一緒になるとか、平凡社が幾つか買い集めるとか、7つも8つも一緒になってやっと生き残るわけです。

雑誌も統合されて、『キング』が『富士』という名前になったり、『サンデー毎日』が『週刊毎日』に、旺文社は「欧」だったのが、「旺」の旺文社に変わるのはそのときなんです。

清田私の出版ニュース社は、昭和16年の日配時代の機関誌、『新刊弘報』がルーツなんです。24年9月に東販(現トーハン)、日販、大阪屋が新しくできたときと同じ10月の創立で、出版ニュース社は独立しました。株主に朝日新聞、読売新聞、博報堂、出版社も数社入っています。今、朝日新聞や読売新聞が株主という出版社は他にないと思いますよ。

創立直後、業界の共通の業界誌がなくて、『出版ニュース』が共通の業界誌だった。新刊の案内の記事があるんです。それで昭和24年というと、活字がよく読まれる時代ですから、図書館や一般読書人からの要望があって、『出版ニュース』を市販することになります。また、戦前は東京堂が出していた『出版年鑑』は業界共通の資料だからということで、出版ニュース社が出すことになったという経緯があるんです。

敗戦から立ち直る――性の解放、時代小説・探偵小説も復活
(昭和20年代)

ホテル・ニューグランドを出るマッカーサー

ホテル・ニューグランドを出るマッカーサー
(米国防総省蔵)

玉音放送を聞いてひらめいたという『日米會話手帳』

藤田そして昭和20年8月15日の敗戦。

塩澤もう伝説になりました誠文堂新光社の小川菊松さんが、千葉の出張先で天皇の玉音放送を聞いて『日米會話手帳』を企画した。それが360万部も売れたんです。9月15日に出て暮まで、つまり3か月でです。これが、昭和56年に『窓ぎわのトットちゃん』が出るまでの超ベストセラーだった。これは本当にひらめきなんです。

藤田もう一つの説は、誠文堂新光社の編集長が、敗戦に朝日新聞、読売新聞、博報堂、出版社も数社入っています。今、朝日新聞や読売新聞が株主という出版社は他にないと思いますよ。

創立直後、業界の共通の業界誌がなくて、『出版ニュース』が共通の業界誌だった。新刊の案内の記事があるんです。それで昭和24年というと、活字がよく読まれる時代ですから、図書館や一般読書人からの要望があって、『出版ニュース』を市販することになります。また、戦前は東京堂が出していた『出版年鑑』は業界共通の資料だからということで、出版ニュース社が出すことになったという経緯があるんです。直後に吉川英治に執筆を依頼しに行ったら、まだ書く気はないと言われた。その帰り道に米軍と日本人がペラペラやっているのを聞き、これからは日米会話の時代だというので企画したという説。

塩澤同じように、敗戦直後に出た森正蔵の『旋風二十年』。これも、鱒書房の増永善吉さんが、終戦になって、今まで日本は無謬神話を教えられ、一般国民は真実を全く知らされていなかった、その裏をひっくり返せと、毎日新聞の森正蔵に昭和の裏面史の原稿を依頼した。それで森正蔵が毎日新聞社の旧東亜部のメンバーに手分けして書かせたんです。

インフレがすごい時代で、暮に出した上巻が4円80銭だったのが、翌年の春の下巻は9円80銭と、倍以上の値段になっている。両方で100万部ぐらい売れたそうです。

尾崎秀実の評価が一変した書簡集『愛情はふる星のごとく』

塩澤尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』もよく売れた。彼はゾルゲ・スパイ事件に連座して死刑になり、敗戦まで売国奴と言われていたのが、獄中から妻子に送った書簡集のこの本で、1年後には日本を戦争から守ろうとした民族の英雄という評価に変わる。読んでみると、本当にしっかりしたことを書いています。タイトルもよかった。

昭和26、7年は『アンネの日記』もそうですが、戦争中にふたをされていたものが出てきてますね。

光文社は、30年代になるとベストセラーづくりに狂奔しますが、20年代はそうじゃなく、読みたいなという感じのものを出している。それと目のつけどころが早い。永井隆の『この子を残して』は長崎の原爆のことでしょう。

藤田戦後、作家がくびきを解かれて一斉に書き始め、石川達三とか、注目される小説が出てきましたね。

塩澤セックス物がバンと出るんです。たとえばヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』。

藤田あれはベストセラーにはなってない。

塩澤『チャタレイ夫人の恋人』が25年。今読むと何で発禁になったのか、と思うくらい大したことない。

紙不足のなかのカストリ雑誌ブームと占領軍の検閲

清田戦前は、国あるいは軍部による言論統制が厳しいなかで、いろんな形で表現をしてきた。それが、敗戦によって自由に書けるような雰囲気になったけど、紙が入らない。それで仙花紙を使ったカストリ雑誌が出てくる。昭和21、2年までカストリ雑誌ブームで、仙花紙を使った粗末な紙の出版物がたくさん出るわけです。

一方で、占領軍の検閲が始まり、大体、24年ころまで規制されます。昭和初期の戦争に入る前のエロ・グロと戦後のエロ・グロは、同じエロ・グロでも戦後は解放的なものであった。そういう背景があって、終戦直後はいろんなものが出てきた。

昭和25年に朝鮮戦争が始まって、日本の経済が急速に復興していく過程でマス・プロ、マス・セールの時代に入っていく。24、5年のベストセラーも、それこそ何十万部という数が出ますが、次第に印刷技術や製本技術が保証されてくる中で、戦後のベストセラーを生んでいった背景がある。

時代小説を復活させた村上元三の『佐々木小次郎』

藤田占領軍の規制も大きかったですね。GHQが一番嫌ったのは日本の武士道なんです。武士道が復活されては困るということで、チャンバラならまだしも、時代小説を全部禁止した。最初に時代小説を復活させたのが村上元三の『佐々木小次郎』です。昭和24年12月1日に朝日新聞夕刊が復活して、それの連載小説です。

塩澤みんな待っていた。

藤田佐々木小次郎は物干しざおの剣ですが、抜かなきゃしようがないわけです。それで何日目かに佐々木小次郎は剣を抜く。そしたら、朝日の編集局が「やあ、抜いた、抜いた」と言ってどよめいたと言う。侍が剣を抜くことがずっと禁止されていましたからね。そういうことで時代小説が復活してくる。

もう一つ、戦時中は探偵小説が禁止されていたので、横溝正史などは、郷里に帰って『八つ墓村』のような怪奇小説を書いていた。それで、戦後になって、また探偵小説も書くようになった。でもまだ市民権を得ていなかった。

高度経済成長――気軽に読む新書判など多様な出版
(昭和30年代)

みなと祭りのパレード

みなと祭りのパレード
(『横浜思い出のアルバム』から)

ベストセラー化を狙った本づくりを始めた光文社

塩澤「もはや戦後ではない」といわれた31年、その前後に石原慎太郎の『太陽の季節』が出て、時代は高度成長になり、光文社のカッパ・ブックスがベストセラー化を狙った本づくりを始める。

藤田「創作出版」と言っていましたね。

塩澤一つのアイデアを出して共同作業を行う。編集者はプロデューサーで、ここをこう直せとか言い出した。ゴーストライターの土壌もそういうところにあったと思うんです。昭和30年から40年のベストセラーを見ると、光文社は1年に3点も、4点も入ってきます。

この時代は新書判とか重くない本が多い。ベストセラーはある程度の軽さが必要で、重厚長大なものでベストセラーはなかなか出ない。このころ『性生活の知恵』はミリオンセラーになりますが、これを見ると女性が3、4割も読むようになっている。

藤田『愛と死をみつめて』もこのころですね。やはり女性の読者でしょうね。

塩澤そうです。それから39年の『英語に強くなる本』は100万部売れたと言いますが、調べてみると、100万部に持っていくためにいろいろな工作をしている。後から火の粉をかぶるんですけどね。

藤田時代の転換期というのは英語に関する本が出るんです。

社会派推理ブームを巻き起こした松本清張『点と線』

藤田松本清張の『点と線』はどうですか。

塩澤『点と線』は昭和31、2年ごろ、『旅』という雑誌に連載された。最初は大したことはなかったそうです。とにかく原稿が遅れて、「清張待ち」といって、活版印刷のそのページだけが白紙で待っていた。担当者はノイローゼになり、あるとき、まなじりを決して帰ってきて、「清張を殺して俺も死ぬ」と叫んだ。そうしたら戸塚文子さんが、「殺人は小説の上だけで結構よ」(笑)と言ったそうです。『点と線』は光文社から出版されて、推理小説ブームの発火点になるのですが、松本清張は、カッパ・ブックスの光文社と結びついて大飛躍しています。

藤田それまでは探偵小説といって、単なる謎解きに過ぎなかったものが、松本清張の『点と線』以来、社会派推理といって、犯罪の社会的な背景に重点を置いて謎解きをやる。そこがブームを巻き起こしたゆえんだと思います。だから、水上勉も有馬頼義もみんな社会派ブームになって書いた。

清田戦後、光文社のカッパ・ブックス、そして岩波新書も結構売れて、ベストセラーの上位を見ると30年代まで光文社と岩波新書が多い。

藤田双璧でしたね。

清田両方とも新書判で気軽に読める。それが高度経済成長までずっと続いていく。ですから、30年代は本当にいろんな意味で多様な出版物が自由に出せた。

藤田新しい価値観を生み出してきた時代ですね。

高度成長を支える経営者たちに読まれた『徳川家康』

藤田『徳川家康』は山岡荘八が最初、北海道新聞に書き始めた。その後、中部日本新聞、西日本新聞と三紙連合で連載を始めたのですが、最初のうちは全く話題にならなかったそうですね。昭和28年に1巻が出たんですが、話題にもならないから新聞広告もできない。それが、ぼちぼち売れ始めて、5、6巻ぐらいのとき『週刊文春』が火をつけた。

塩澤昭和37年3月26日号の『週刊文春』が、「経営者はクビをきらなくなった—社長さんの虎の巻は、いまや『徳川家康』だ」と特集を組んだんです。これは見事な特集で、ちょうど三一書房の五味川純平の『人間の條件』が朝日新聞の特集で売れだしたのと同じように、爆発的に売れるんです。

藤田それまで経営者が読むテキストはアメリカ流で、合理化して労働者のクビを切ることばかりやっていた。ところが、これでみんな失敗した。それで日本には徳川家康がいるじゃないかと。そういうねらいで書いたのではないのに、日本の有名な経営者たちが『徳川家康』を読み始め、それが日本の高度成長の支えになった。

塩澤佐藤栄作が「この本には政治、軍略、経済から宗教まですべての問題が網羅されている」とちょうちんを持つんです。

藤田山岡荘八は、日本が敗戦から立ち直るためにはどうすればいいかと考えた。そのためには日本は世界連邦を目指すしかないということなんです。家康は日本で初めて日本全国に覇権を確立した人だから、家康に学ばなければならないということで、大長編に取り組んだ。

塩澤新聞連載回数4725回、連載期間17年間、原稿枚数にして17482枚、積んでみると山岡の背丈に及ぶ分量だったそうです。

藤田部数はたしか3,000万部ぐらいにいっていました。

塩澤講談社で中里介山の『大菩薩峠』を枚数で超えたと。高度成長にうまく乗ったんですね。

「不確実性」の時代――複合汚染、恍惚の人は時代の言葉に
(昭和40〜60年代)

大型団地の誕生<野庭団地>

大型団地の誕生<野庭団地>
(横浜市広報センター提供)

テレセラーのはしりは海音寺潮五郎の『天と地と』

塩澤40年代に入って、テレビがほぼ日本の一般家庭にもいきわたり、影響を持ち始める。それで、海音寺潮五郎の『天と地と』がテレビの大河ドラマの原作になって、ものすごく売れ出す。ベストセラーに対して“テレセラー”という言葉もつくられた。ところが海音寺は「文学がテレビの力を借りなければ読まれないというのは嘆かわしい」と激怒して現役引退を発表した。テレビの影響はその辺から大きくなってきた。

藤田朝日新聞の1,000万円懸賞小説に入賞した三浦綾子の『氷点』もそうですね。

塩澤これもテレビでも映画でもやり、超ベストセラーになりましたね。

多湖輝の『頭の体操』は今でも続いていますね。

藤田これがなぜ売れたかと言うと、高度成長の時代に入ってきて、日本の企業を刷新するためには発想の切りかえが必要だったこととうまくフィットしたんです。

それから、経済成長の中で「管理社会」という言葉が出てくる。効率よい経営、効率よく生きるためにはどうするか。そういう議論が60年代後半から起こってきて、究極が大学紛争、まさに政治の季節が来るわけです。

その中で、70年代に光文社の争議が起こり、ベストセラーの中から光文社のカッパ・ブックスが消え去り、それにかわって、KKベストセラーズ、祥伝社、青春出版、ごま書房などが出てくる。

塩澤全部カッパの亜流ですね。

清田それはその後もずっと続いていますね。カッパ・ブックスの大ヒットはそんなにないですものね。

塩澤40年〜50年になってくると有吉佐和子の『恍惚の人』『複合汚染』が時代の言葉になっていく。ベストセラーが時代の言葉をつくった。僕は、ベストセラーにはタイトル・テーマ・タイミングの3つのTが不可欠だと言ってるんです。有吉佐和子はすごいストーリーテラーですが、タイトルも見事でした。ガルブレイスの『不確実性の時代』もズバリのタイトルでうまかった。

転換期におけるリーダーのあり方で司馬遼太郎ブーム

藤田70年安保という時代はどうですか。

清田それまで文庫というと新潮社と岩波文庫で、そこに角川文庫が加わり、この3つの文庫が中心だったんですが、そのなかに、71年に講談社文庫が参入してくる。その影響を一番受けそうなのが角川文庫だった。それで、いかに講談社を迎え撃つかということで出てきたのが、横溝正史の『八つ墓村』を文庫でリバイバルさせ、さらには映画もつくり、音楽をつくるという角川商法を打ち出した。これが角川書店のメディアミックスによる本の売り方につながっていく。

ですから、講談社文庫の創刊は、その後の文庫ブームに影響を与えた。文庫を出してない出版社が企業防衛として文庫を創刊する。戦後第二次の文庫ブームになり、文庫の銘柄も急速に増えます。そうすると、当然、文庫本の質に変化がおこるわけで、文庫はエンターテインメントが中心で消費財的になっていく。

塩澤書き下ろしも出た。

藤田司馬遼太郎ブームもありましたね。

塩澤これもテレビと実にうまく連動している。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』。

藤田司馬史観というのが非常に現代人受けしました。これは、転換期における人間の能力の発揮の仕方なんですよ。高度成長期から暗雲がただよい始めた転換期に、日本人のリーダーはどういうふうに能力を発揮すべきかということで、非常に読まれた。

しかし、今、「司馬遼」ブームではなくなってしまったところに、日本の闇の深さがあるような気がします。

タレント本は誰が書いたかでなく誰の本かが重要

塩澤このころから『プロ野球を10倍楽しく見る方法』などの、いわゆるタレント本といわれるものが出てくる。これらの多くは、ゴースト・ライターによって書かれている。でも、そのことは出版界の暗黙の秘密になっていた。それをNHKの「出版界最前線—ベストセラーをねらえ」でほのめかしたんです。それに対してKKベストセラーズの社長は「誰が書いたか書かないかでなく、誰の本ということが重要だ」と。そしたら新聞の投書に、今まで一生懸命読んでいたけれど、ほかの人が書いたのか。これから読むときに考えなきゃと。

昭和の終わりごろには『サラダ記念日』(俵万智)、『ノルウェイの森』(村上春樹)が出ます。この読者は若い女性です。それで「ベストセラーの陰に若い女性あり」というテーゼができ、これが「吉本ばななブーム」につながっていく。

バブル崩壊――既成概念を打破したものがベストセラーに
(平成時代)

みなとみらい・コスモクロック

みなとみらい・コスモクロック

「ご苦労だったな」と肩をたたいてくれる藤沢周平の文学

塩澤平成に入ると、「55年体制」が崩壊し、バブルが崩壊し、出版の流れが1996、7年をピークに落ちていきます。今までと明らかに違ったものは、吉本ばななみたいな人がポンと出てきて、1年に4点も、5点もベストセラーになっていく。バブル崩壊で、中野孝次の『清貧の思想』、これも世の中にうまく対応している。

それから、オウム真理教のサリン事件や阪神大震災は世紀末に当たる。こういうときに、『脳内革命』『大往生』とか、アッと驚くようなものが出てくる。人前では読めない『失楽園』が超ベストセラーになる。

藤田そういう時代に藤沢周平が読まれた。癒しの文学です。それまでの時代小説は全部スーパーマンで、頑張れよという小説。それに対していや、ご苦労だったなと言って肩をたたくんです。

さまざまな話題づくりでビッグセラーが誕生

ベストセラー2

塩澤戦後、日本株式会社と言われバブル景気に酔っていた。その株式会社が倒産の危機にある。そのときにすごいものが出てきます。『五体不満足』(乙武洋匡)、『だから、あなたも生きぬいて』(大平光代)というような、全く無名の若者の本が超ベストセラーになる。

清田バブルが崩壊しても出版界はあまり影響を受けずに右肩上がりできたのが、97年をピークに落ちていく。景気の悪さが身にしみて買い控えたり、パソコン、携帯、ゲームがあるなかで全体的に売れ行きが落ちていく。

そういうことを背景にして97年の『失楽園』、98年の『大河の一滴』、99年の『五体不満足』、2000年の『だから、あなたも生きぬいて』、『脳内革命』がメガヒットし、2、300万部という大部数になるわけです。

これは一昨年の『チーズはどこへ消えた?』『ハリー・ポッター……』まで含めるととにかくベストセラーでもビッグセラーになる。売れ筋がわかれば、出版社も取次も書店も積極的にそれを宣伝し、パブリシティをやる。あるいはマスコミがそれをテーマにして、話題のキャッチボールをする。相乗効果で売れる。しかし、売れないものはなかなか売れないという両極端になっていく。それが今の状況ではないでしょうか。

高齢化社会における癒しの本『生きかた上手』

ベストセラー3

藤田さらに、日野原重明の『生きかた上手』とか石原慎太郎の『老いてこそ人生』がベストセラーになっている。

清田『生きかた上手』は高齢化社会における癒しの本として読まれる。あるいは石原慎太郎を始め中高年者が書いた本は、年齢の高い人たちが読んでいると思うんです。それは厳しい状況の中でいかに生きるか、という広い意味での人生論です。藤沢周平の「たそがれ清兵衛」にしてもそうだろうと思います。

塩澤そういうものを活字で読み取っていく深さは大変大きいものだと思います。本の持つ意義は大きいし、本はそれにこたえてくれるものだと思うんです。

藤田空前のベストセラーの『ハリー・ポッター……』は少年・少女たちの心情をピタッとつかまえた。大人に反抗しながらファンタジーが展開されていくわけです。

清田子どもたちはファンタジー、大人は人生論、中高年は、日野原さんを始めとする人たちの本を読む。階層化しているという感じですね。

藤田既成概念を打破したものがベストセラーになっている。ベストセラーの意外性はそこにあるわけですね。

塩澤実信(しおざわ みのぶ)

1930年長野県生れ。著書『定本ベストセラ−昭和史』 展望社 2,200円+税、『本は死なず』 展望社 1,700円+税、ほか。

清田義昭(きよた よしあき)

1943年福岡県生れ。

※「有鄰」422号本紙では1~3ページに掲載されています。

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