Web版 有鄰

552平成29年9月10日発行

山本周五郎と横浜 – 海辺の創造力

清原康正

今年は山本周五郎の没後50年にあたり、9月30日から11月26日まで、県立神奈川近代文学館で「没後50年山本周五郎展」が開催される。

山本周五郎が横浜市中区間門町の旅館・間門園の別棟の仕事場で亡くなったのは、1967年(昭和42)2月14日朝のことであった。

1903年(明治36)6月22日に山梨県北都留郡初狩村(現・大月市初狩町)に生まれた山本周五郎(本名・清水三十六)は、1946年2月に東京・馬込から横浜市中区本牧元町に移り住んだ。以来21年、横浜が終焉の地となった。

だが、周五郎が横浜に住んだ期間はこれだけではない。小学生時代を横浜で過ごしているからである。1910年に東京から横浜市中区久保町に移り住み、西前小学校卒業後に東京の質店に住み込みで働くこととなった1916年(大正5)までの6年間である。周五郎にとって横浜は、第2の故郷ともいうべき地であった。

小学3年生の時に作文の文才を認めた担任から「君は小説家になれ」と勧められて作家を志望するようになった、と後に回想している。東京の質店では、店主の山本周五郎が英語学校や簿記学校に通わせ、読書と創作を勧めてくれた。その恩義に報いるために店主名を筆名にしたという。

1923年9月の関東大震災後、4か月ほど神戸市須磨区に住んだ。この須磨時代の体験に材を得た短編「須磨寺附近」が1926年の『文藝春秋』4月号に掲載され、作家デビューを果たした。1928年に『青べか物語』の舞台となる千葉県の浦安町(現・浦安市)に転居した。勤めていた出版社を解雇され、どん底の貧乏生活を送る苦難苦闘の時代であったが、ひたすら文学修業に励んで習作を続けた。

1930年11月、土生きよい(きよえ説もある)と結婚して神奈川県の片瀬に新居を定める。翌年1月に東京府の馬込村に転居。少年少女雑誌に作品を発表し、1932年の『キング』5月号に発表した短編「だゝら団兵衛」で大衆小説に転じて以降、作家としての地歩を固めた。1943年の第17回直木賞に『小説日本婦道記』が推されたが、辞退した。以後も、文学賞はすべて辞退してきた。

1945年5月に妻が病没し、空襲の激化と物資欠乏の窮状下で『日本婦道記』シリーズを書き継いでいった。

1946年1月に吉村きんと再婚して横浜に転居し、翌年3月から間門園を仕事場として戦後の代表作を発表していった。横浜を舞台にしたとされる『季節のない街』は、エッセイ「季節のない街舞台再訪」で「横浜市の、ある場末の町」と記されていた。

他にも横浜に触れたエッセイがある。戦後に西前小学校の「40年の風雪に削られた」石垣を見た時の感慨、裏町の細い道など3つの散歩ルート、横浜の街頭で見聞きしたことなどを綴ったエッセイから、周五郎が創作のヒントを得ていたことが分かる。

人間存在のぎりぎりのポイント、人の心の奥底を、理屈としてではなく実感させてくれる周五郎作品は、時空を超越して現代人の心の奥底にしみ入ってくる。

(文芸評論家)

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