Web版 有鄰

553平成29年11月10日発行

相鉄100年――武蔵国と相模鉄道 – 2面

岡田 直

「相模鉄道」誕生から今日に至るまで

神奈川県には複数の大手私鉄の線路が走っている。そのうち相模鉄道は大手私鉄の仲間入りをしたのが平成になってからと最も遅く、規模も最小である。だが唯一、県内に本社を置き、横浜や神奈川の歴史と深く関わってきた。路線網は横浜市と大和・海老名・藤沢の各市にまたがる。では、なぜ「相模鉄道」という名称になったのか。横浜市内の瀬谷・泉区と市外3市は社名の通り旧相模国に属するものの、横浜駅や主要区間のある西・保土ケ谷・旭区はそもそも武蔵国である。

今年で創立から1世紀の節目を迎えるに際し、この鉄道がどのように誕生して今日に至るのか、少し整理をしてみたい。

正確には、今からちょうど100年前の1917年(大正6)、神中鉄道と相模鉄道という2つの鉄道会社がそれぞれ別個に創立された。どちらも当時まだ鉄道の走っていなかった神奈川県の中央部と、国有鉄道の東海道本線とを結ぶことが大きな目的だった。前者は横浜近郊(保土ヶ谷)を起点に厚木街道(旧道)に沿って進み、後者は茅ヶ崎を起点として相模川の左岸を北上する鉄道の建設を計画した。

「神中」とは神奈川県の中央部を意味する。神中鉄道の路線は、東海道本線・程ヶ谷(現保土ヶ谷)駅から現在の左近山団地付近を経由し二俣川、厚木へ至るルートにいったん確定したが、着工の直前に関東大震災が発生(1923年)。翌年に終点の厚木側から着工されるものの、震災を機にルートの一部を変更、横浜駅に起点を置き帷子川沿いを走ることになった。1926年(大正15)、まず二俣川・厚木間で営業を開始し、起点側へ延伸を重ねて1929年(昭和4)に西横浜まで開通。1933年(昭和8)には横浜駅への乗り入れが完成し、横浜・厚木間が全通した。

一方、相模鉄道は同じく茅ヶ崎駅から、1921年(大正10)にまず寒川まで開通。順次延伸し、1926年(大正15)には厚木まで開通した。そして1931年(昭和6)、横浜線の橋本駅へ接続し、計画の路線を全通させる。横浜線を介して東海道本線と中央本線の2大幹線を結ぶことも可能になった。「相模」の社名はもちろん沿線の旧国名に由来する。

この2つの鉄道は厚木駅で接続することになった。ただし、その所在地は海老名村(当時)である。厚木町(当時)は県中央部の中心都市であり、本来はその市街地の至近に駅を設けたかったはずだが、相模川への架橋を避けたのか、駅名のみ「厚木」として対岸の同村に駅が設置された。

そして、いずれも単線の蒸気鉄道(蒸気機関車が貨客車をけん引)である。昭和初期から旅客用の気動車を導入し、神中鉄道は横浜の郊外鉄道として、相模鉄道は湘南海岸への遊覧鉄道(主に海水浴)としての役割も担うが、最も重要な事業は相模川で採取した砂利の運搬だった。コンクリートの材料などとしてその需要は高く、創業以来、両社の経営を大きく支えた。

厚木付近の戦前(上)/戦後(下)

それぞれ20万分1地勢図「東京(部分)」(1934年)/同(1959年)に加筆。
 
Aは神中鉄道/相模鉄道、Bは相模鉄道/国鉄相模線、Cは小田原急行鉄道/小田急電鉄を示す。
小田原急行鉄道は1927年に開通し、相模川の左岸に河原口(現厚木)駅、右岸に相模厚木(現本厚木)駅を設けた。

転機が訪れるのは戦時中である。神中鉄道は1941年(昭和16)、旅客用の終点を新設の海老名駅へ移し、ここで小田急電鉄に接続。相模川を渡って相模厚木(現本厚木)駅まで乗り入れた。だが、その経営は依然として芳しくなく、関係を深めていた東京急行電鉄を介し1943年(昭和18)、相模鉄道に統合される。横浜・海老名間の線路は相模鉄道神中線となった。しかし、その翌年、軍事輸送の強化をはかる国策により、相模鉄道の本線(茅ヶ崎・橋本間など)の部分が切り離されて国有化、国鉄相模線(現JR相模線)となる。

つまり、相模鉄道は創業時の路線を失い、後に併合した神中線だけを有する会社となった。神中鉄道として建設された鉄道が、相模鉄道という名で今日まで受け継がれていくのである。

戦後、積極的に展開した沿線開発の成功

相模鉄道は、終戦前後の混乱期に東京急行電鉄に鉄道の経営を委託し(その間に横浜・海老名間の電車直通運転が実現するなどした)、1947年(昭和22)に自立した鉄道会社として事業を再開する。戦後は沿線開発を積極的に展開した。その嚆矢となったのは、1948年(昭和23)の希望ヶ丘駅の新設である。駅周辺で住宅地の分譲と学校の誘致を行った。高度経済成長期に入ると、二俣川駅南方の万騎が原(1958年分譲開始)を筆頭に、楽老峰(三ツ境)・瀬谷・えびな国分寺台などの住宅地開発を手がけ、スーパーマーケットの相鉄ストア(現相鉄ローゼン)が三ツ境駅前を1号店(1963年)として沿線の各地に開店した。また、保土ケ谷・旭区の丘陵地は、左近山団地を始め、住宅公団(現UR)や県・市の公社・公営による集合住宅団地も多数建設され、「ダンチ」の集中地帯となった。

沿線人口は大きく増加し、鉄道の利用客の急増に対応するため、設備やサービスの改良が重ねられた。1950年代から線路の複線化に順次着手し、電車の長編成化と運転本数の増発を続けた。駅舎も鶴ヶ峰駅(1962年)を皮切りに橋上駅化が進められた。1970年代までに相模鉄道は横浜の都市高速電車へと完全に変貌を遂げたのである。国鉄となった相模線が、戦後は相模川の砂利の採取が禁止されたこともあり、単線非電化のローカル線のまま長らく残されたのと対照的である。

だが、この鉄道会社が横浜の都市のかたちを変えた、最大のプロジェクトは横浜駅西口の開発であろう。戦前よりホームを置く西口側の駅裏は油槽所の跡地が広がり、終戦後も資材の置き場などになっていた。相模鉄道はこの土地を払い受け、1956年(昭和31)以降、商店街の「名品街」と百貨店や映画館を含む一大繁華街(横浜センター)を建設していった。その成功が端緒となり、横浜駅周辺はそれまでの伊勢佐木町に代わる横浜の中心商業地へと発展するのである。

そして1976年(昭和51)、相模鉄道に新しく支線が生まれた。二俣川で分岐するいずみ野線である(1999年に湘南台まで延伸)。高度成長の終わった1980年代以降、開発の主力はその沿線に移り、緑園都市を始めニュータウンが整備された。さらに現在は、新横浜駅を経由して東京方面へ直通できる神奈川東部方面線の工事が進行中である。

「相模」の名を受け継いだ鉄道会社は、相模はもとより、「武蔵」の領域に含まれる沿線の歴史と深く関わってきた。そして、それは今後も続いていくであろう。横浜、あるいは県名の由来となった神奈川という地名はそもそも旧武蔵国に属していたはずだが、その社名が「相模」であってももはや何の違和感もない。

<参考文献>
『相鉄七十年史』相模鉄道(1987年)
野田正穂・原田勝正・青木栄一・老川慶喜:編『神奈川の鉄道』日本経済評論社(1996年)
『週刊朝日百科・歴史でめぐる鉄道全路線・大手私鉄7東京急行電鉄2相模鉄道』朝日新聞出版(2010年)

岡田 直  (おかだ なおし)

1967年滋賀県生まれ。横浜都市発展記念館調査研究員。
監修『京急沿線の不思議と謎』(じっぴコンパクト新書) 850円+税ほか。

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