Web版 有鄰

523平成24年11月8日発行

横浜・三溪園の建築 臨春閣の謎を解く – 1面

西 和夫

原富太郎の自邸と庭を公開した三溪園

横浜の本牧三之谷にある三溪園は、原富太郎(号・三溪)の自邸と自邸の庭である。養祖父善三郎(明治32年・1899没)からこの土地を引き継ぎ、以後、昭和14年(1939)に没するまで、ここに住んだ。

三溪とは3つの谷という意味だが、谷と、大きな池を囲んだ緑の丘があって、四季折々の景色が素晴らしい。庭のあちこちに配された建物は、まるで建築博物館のようだと評され、国の重要文化財10棟、横浜市指定有形文化財3棟を始めとする優れた建築が庭と一体になって展開する。

この庭と建物は、三溪没後に移築された2棟を除き、三溪がみずから計画し、指揮して造り上げたものである。三溪は建築が好きだと書いている。建築好きの三溪の作品、それを今、我々は見ている。

大池と旧燈明寺三重塔

大池と旧燈明寺三重塔

三溪は早くから自邸の庭の公開を考えていた。庭は内苑と外苑に分かれるが、明治39年(1906)、外苑を公開した(内苑は昭和33年)。開園100年が過ぎた今、由緒などがはっきりしない建物もでてきた。せっかく三溪が苦労して移築した建物なのに、あいまいなままでは残念だ。そう思って調べてみた。調べてもわからない点も多いが、いくつか新たに判明したこともある。ここではその中から、臨春閣についての知見を御紹介しよう。

内苑の池に面して立つ臨春閣は、第1屋から第3屋まで3棟が雁行型に接して建ち、数寄屋風書院の名品として知られている。三溪園での新築ではなく、大阪の春日出新田(現在の此花区春日出南1丁目)にあった会所の建物を明治38年(1905)ころに購入し、関西線と東海道線を使って横浜に運んだものだ。運搬は翌39年に入ってからかもしれない。

春日出新田では八州軒と呼ばれた。今、三溪園臨春閣に台所はないが、当時は台所があった。移築の際、台所を「取毀」し、登記所で「取り消」した上で横浜に運んだ。

台所があったことは従来知られていなかった。そもそも会所の建物だったことも、ほとんど知られていなかった。新田とは新しい田圃、つまり新たに開発した土地で、その新田を維持管理する施設が会所である。現在、大阪に会所の実物(遺構)が2件残っている。会所については後で述べるとして、臨春閣の来歴に関する従来の説を先に紹介しておこう。

秀吉ゆかりの「桃山御殿」説と、紀州藩の別荘「巌出御殿」説

実は従来の説にも2通りがある。三溪がこの建物を入手しようとしたときは、豊臣秀吉ゆかりのものだと考えられていた。三溪は「桃山御殿」と呼んでいる。明治36年発行の『大阪府誌』にこの説がすでに載っている。三溪が購入するより前のものだ。それによると、この新田は元禄11年(1698)、雑賀九兵衛の開発になり、20年後に泉佐野の食家の手に渡り、享保年中に紀州藩から拝領した「伏見桃山北殿の材料を移して建築」したのが八州軒で、天保年間に清海家の所有に移ったというのが最初の説であった。今、これを桃山御殿説と呼んでおこう。

臨春閣 右から第1・第2・第3屋

臨春閣
右から第1・第2・第3屋

昭和30年から35年に、戦火で損傷した臨春閣の修理が行われた。工事監督を勤めた藤岡通夫氏(建築史)は、この桃山御殿説を否定する。理由は、臨春閣は秀吉の建物の聚楽第や伏見城とは結びつかないこと、食家が建てたとすると享保7年以降のはずだが秀吉時代から100年以上経っており、秀吉の建物が残っていたとしても腐朽するし、その所伝もないこと、紀州家が春日出新田の食家の建物に参勤交代の折に宿泊したとも言われているがその可能性はまずないこと、臨春閣が聚楽第の建物だとすると創築は天正末年となるが、建物の様式も障壁画もその可能性はまずないこと、の四点で、だから桃山御殿説はありえないとした。

ただし、桃山御殿説を否定した上で、聚楽第や伏見城に結びつけるのは単に立派な建物という形容詞にすぎないと考えれば、食家が紀州藩から何らかの建物を賜って春日出新田に移築したことはありうるのではないか、そして紀州藩の紀の川沿いの別荘、巌出御殿がそれだろうと提案した。これを巌出御殿説と呼んでおこう。従来の説のふたつ目である。

以後、この巌出御殿説がほぼ認められて今日まで来ている。たとえば建築史家の鈴木嘉吉氏は『神奈川県文化財図鑑』(昭和46年)で、同じく建築史家の平井聖氏は『三溪園』(平成5年)で、ともにこの説を認めてよいとされた。

障壁画の「浪華十景和歌色紙」は大阪で建物に入れられた

しかし、美術史の鈴木広之氏が臨春閣の障壁画を調査し、次のような重要な指摘をされた(「三溪園臨春閣の障壁画の復元的考察」『美術研究』339、昭和62年)。障壁画は屏風を改装したものがほとんどで、臨春閣のために絵筆が揮われたのは補作壁面と補筆箇所だけである。屏風以外に既存の障壁画を切り刻んで使ったところもあり、転用した屏風はかなり使い込まれたものである。浪華の間の「浪華十景和歌色紙」は、建物が大阪にあってはじめて意味がある(つまり大阪で建物に入れられた)。

これは大変重要な指摘である。巌出御殿説は、色紙に名のある人物は高貴な人物で、いくら財力があっても食家が依頼して書いてもらうのは無理で、紀州藩主の依頼としか考えられない。だから紀州藩の巌出御殿に違いない、と考えたのだが、建物のために描かせたのではなく、作品を購入して建物に貼り込んだとしたら、財力のある食家なら大いにありうることだし、大阪の風景を描く絵は確かに大阪の建物にふさわしい。

紀州藩の建物だとする根拠がなくなってしまった。探幽などの落款をもつ障壁画も、屏風を、しかも使い込んだ屏風を切り刻んで貼り込んだに過ぎないとなれば、これまた食家が購入して貼り込んだと考えて矛盾しない。

紀州藩から拝領したという話はどうなるのだ、そういう指摘が出るかもしれない。紀州藩と食家が何等かの関係、たとえば食家が紀州藩に大名貸しをしていて、その関係で何か拝領したというような話が、話だけ大きくなったのかもしれない。しかし無理にそれを詮索する必要もあるまい。

紀州藩との関係を考えないでよいとすると、つまり巌出御殿説ではないとすると、では臨春閣の前身建物は何だったのか。

前身建物は八州軒と呼ばれた春日出新田会所

前身建物は新田の会所だった。会所以外の何物でもなかった、そう考えるのが自然である。それを裏付ける第1の資料は、「摂州阿治川春日出新田掛屋敷図」(「歴史館いずみさの」所蔵)である。掛屋敷とは会所のことだが、図の作者も年代も不明で、平井聖氏、桜井敏夫・松岡敏郎氏がこの図を取り上げているが、描写内容が不可解だとして低い評価しか与えられていない。

しかし、ここに描かれた建物こそ、食家が所蔵していた時代の春日出新田会所だと判断される。池に臨んで建っていたこともわかるし、臨春閣の『修理工事報告書』が載せる八州軒時代の古写真等と合わせて、八州軒時代の様子を知る上に役立つ。

すでに鈴木嘉吉氏が指摘されたが、八州軒の姿は今の臨春閣とは相当に異なり、「かなり重々しくどっしりしたもの」だった。その様子を知る上に参考になるのが大阪にふたつ残る会所の建物、加賀屋新田会所(大阪市住之江区南加賀屋)と鴻池新田会所(東大阪市鴻池元町)である。前者は、建物が池に臨んで建ち、数寄屋風の風雅な建物で、障壁画もある。後者は、民家風のどっしりした建物で、座敷もしっかりしている。ともに水路を通じて物資を運び出した。臨春閣前身建物の八州軒と共通する点が多い。

桃山御殿説も巌出御殿説も、前身が会所であることをまったく意識していなかった。会所を念頭に置き障壁画の実態を知った上で検討すれば、臨春閣の前身は春日出新田の会所だったことが納得される。

今、臨春閣について紀の川の岸に建っていた紀州藩の別荘で、だから池に面して建ててあるのだと説明されると、なるほどと思う人が多い。しかし実はこの説明自体矛盾がある。

池は三溪が掘ったものである。三溪は毎日庭に出て工事を指揮し、桃山御殿の前に池を掘らせたと矢代幸雄が書いている。ただし三溪は巌出御殿説を知らない。三溪の没後に出された説だからだ。つまり紀の川の岸にあったから今も池に面して建ててあるのではない。ではなぜ三溪は池を掘ったか。それは八州軒が池に面していたからである。三溪はそれを知っていた。

巌出御殿説の藤岡通夫氏は私の恩師である。師の説に異を唱えるのは気が引けるが、同じく藤岡門下の平井聖氏にこのことをお話しすると、「いやあ、かまわないよ」との言葉をいただき、ややほっとした。鈴木嘉吉氏にもお話ししたところ、『巌出御殿説は無理があると思っていたよ』とのことで、これまたほっとした。

このたび有隣堂から『三溪園の建築と原三溪』を上梓し、右のような新しく判明したことを盛り込んだ。臨春閣は秀吉や紀州藩と結びつかないことになったが、たとえそうでも、建物の価値はいささかもゆらぐことはないことを強調しておきたい。

西和夫氏
西 和夫 (にし かずお)

1938年東京生まれ。神奈川大学名誉教授。
著書『三溪園の建築と原三溪』有隣堂 1,000円+税、『二畳で豊かに住む』集英社 720円+税、ほか。

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