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有鄰


平成11年12月10日  第385号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 今、歴史に学ぶこと (1) (2) (3)
P4 ○茅ヶ崎と小津見たまま  石坂昌三
P5 ○人と作品  山本文緒と『落花流水』        藤田昌司



茅ヶ崎と小津見たまま
長部日出雄





  小津の生きた時代 茅ヶ崎にあったのは磯の香と松籟

 ××映画研究会といった名刺を持った、いかにも”映画人のような人”の群れがやって来て、私に
「小津先生が『東京物語』を書いた宿に案内してください。」
と、意気込んで言う。
「何もありませんよ。」「珍しいものは。」私は、がっかりしないように前もって言う。

 東海道線で東京から約一時間。茅ヶ崎駅で下車して、南口に降りる。私は、一行を案内して茅ヶ崎館への 道を歩く。

旅館「茅ヶ崎館」
旅館「茅ヶ崎館」
 茅ヶ崎館への道は、往時と変わっていない。一行は、キョロキョロ目を光らせ、肩肘張ってついてくる。
「本に書いてある通りだ。」
と、したり顔の人もいる。

 松林の中の茅ヶ崎館の前に着くと、
「何だ。」とがっかりした足どり、ため息を洩らして何人かが消える。

 茅ヶ崎館には、小津の飲んだ茶碗が一個残っているだけで、小津の残した”宝物”は何一つ無い。色紙もない。

 がっかりした連中を、私は茅ヶ崎海岸に案内する。

 海岸にも、何も無い。寄せては返す、波があるだけだ。

 疲れた、損をした、という顔の連中を連れて茅ヶ崎館に戻り、小津映画のビデオを出して、写して見せる。

 小津映画には"事件も"何も無い。写っているのは、退屈な日々の日常だけである。

 そこで、私は「小津の生きた時代」「私の見た小津」を”原寸大”で話し始める。退屈な人にはお引き取り願い、 質問に一つ一つ答えてゆく。

 小津の生きた時代、戦中戦後の何もなかった頃の話である。あの頃のものは、磯の香と松籟くらいのものだろうか。

  野田高梧とのコンビで茅ヶ崎館で書かれた名作の数々

 小津と野田の「二番」の部屋も、陽当たりは良いが何もない、八畳一間の殺風景で素朴な部屋である。

 一見何の変哲もない茅ヶ崎館のこの部屋に、小津は戦後の十年間、毎年百五十日から二百日も滞在し、 シナリオを書いた。

 二人は寝巻のまま、この部屋でゴロゴロ寝転んでいた。

 脚本家野田高梧は、小津の監督デビュー作『懺悔の刃』の脚本も書いている。小津は野田を十数年も敬愛し、 尊敬していた。「箱師」のあだ名のある野田は、シナリオ協会の初代会長であった。蒲田時代、野田には 「コンスト(構成)の神様」の異名もあった。

 野田の代表作は史上空前のヒット作となった『愛染かつら』である。新橋駅でのスレ違いは、後世の語り草 になった。

 だが本当の金字塔は、戦後再び小津と組み、茅ヶ崎館で書かれた『晩春』『麦秋』『東京物語』であった。

 二人のコンビは、小津の遺作である『秋刀魚の味』まで続いた。

  寝るのも起きるのも食べるのも一緒だった野田と小津

 野田と小津の二人は、寝るのも、起きるのも、食べるのも一緒だった。

 声を掛け合う訳でもなく、どちらからともなく一緒に起き、ゆっくりと食事をし、
「ぼちぼち歩いてみましょうか」
「そうです。そうしましょう」

小津安二郎(左)と野田高梧
茅ヶ崎館「二番」の部屋での小津安二郎(左)と野田高梧(1953年頃)
 二人で宿の下駄を突っかけて海岸に出掛け、砂っ原と松の間を散歩した。
「小津ちゃん、あのシーンの前にこんなやりとりを入れましょう」
「そうですね。入れましょう」

 歩き、会話するのがそのまま仕事であった。

 二人のシナリオはストーリーの順書きで、自由に役者を当てはめ、同じような場所、同じような顔ぶれで、 同じような話を書いた。白紙のキャンバスに、小津と野田の独特な芸術が、自由に花開いていくのであった。

 茅ヶ崎海岸は、どこにでもある珍しくもない海岸である。砂浜にくだける荒波。奇岩があるわけでもない。 白いキャンバスのような浜を舞台に、二人は絵筆を走らせるようにシナリオを書き進めていった。

 小津映画は、「シナリオが出来上がれば、映画は八割方出来たのと同じ」だった。

 茅ヶ崎館のいい所は、誰にも干渉されないこと。声を掛けなければ、放っておいてもらえることであった。 三度の食事も、寝起きも、風呂のタイミングも、泊まり客に合わせてくれた。気の向くままに自由に仕事が できる場であった。万年床に転がって、好きな時間に書けばよかった。静かで、大船に近いことも二人には 便利であった。二番の部屋はいつも布団を敷きっぱなしで、覗くと寝巻姿の大の男がいつも寝ていた。
「いつ仕事をするのか」
だらしないように見えても、約束の期日には枚数をピッタリ間に合わせた。

 昼寝をして、皆が寝静まった夜更けに二人は仕事をするのであった。

  シーンや会話を書いた紙を畳に並べ構成を練った二人

 小津は落書帳のような大型ノートに絵入りの走り書きをし、野田は撮影所の二百字詰め原稿用紙の裏の白紙に 走り書きをする。

 シーンや会話を書き込んだ葉書大の紙を畳に並べ、二人は構成を練りに練った。

 これでいい、となってようやく書き始める。書き出すと早く、初稿が決定稿。それを、野田の長女・玲子 (脚本家の立原りゅう)が取りに来て、鎌倉の家に持ち帰って清書し、また届けにきた。

 これを、大船撮影所内の印刷所にまわす。

 二人の走り書きは、見事な「台本」となって再び小津と野田の部屋へ戻ってくるのであった。

 小津達にとって、仕事の楽屋裏、演出ノートを覗かせるのは野暮で、愚の骨頂だった。
「いつ書き上げたのだろう」

 周囲は驚き、呆気に取られた。

 誰も知らない間に、いつの間にか出来上がっているのが、二人の粋な「プロの仕事」なのだった。

 小津と野田にとって、波の音しか聞こえない茅ヶ崎館の二番の部屋は、理想の仕事場だったのである。

  部屋にコンロを持ち込み調理した名残りが天井に

 ところで、私は実際に二番の部屋で横になってみて大発見をした。天井が黒く油焼けしているのである。 これは小津が部屋にコンロを持ち込み、調理した名残りの跡であった。「小津コック長」のアダ名の由来で あった。女将のつねから、
「ウチの料理では、先生のお口に合わないかもしれませんから、お部屋でご自由に調理されても構いません。 もちろん、これまで通り宿のほうでもお料理はお出しします。」
との特別の許可を得て、道具を揃え、女中のおゆうさんに毎日調達してもらった材料で、七輪と火鉢の両方を 使って「目玉焼き」「ベーコンエッグ」などをつくり、畳鰯を焼き、南部鉄瓶で酒の燗をつけた。

  小津コック長の特製メニューはカレーすき焼き

 そして特製メニューとして有名な「カレーすき焼き」などを、ゲスト(女優さん達お客)のためにこしらえた。 松坂で育った小津にとってはすき焼きは自称「本場仕込み」でお手の物だったが、味付けは酒と醤油と砂糖を 気前良く入れた下町風の、甘く、相当しつこい代物で、皆水を何杯もお代わりした。

 それでも、ゲストの田中絹代などは、
「こんなにオイシイすき焼き食べたの生まれて初めて」
と感激し、有り難がって頂いた。正直者の池部良からは、後日、
「砂糖菓子みたいなすき焼きなんて」
と酷評されて、
「何で食べないんだ、こんなうまいものを」
と、渋々以後つくるのをやめたエピソードが残っている。

 小津コック長の献立には、他に、豚鍋、豚ビール煮、豚バター焼き、鶏鍋、鶏スープ、ねぎま、あんこう鍋、 湯豆腐、トンカツ、かきフライ、かき雑炊、ハンバーグ、メンチボール、シチュー、天麩羅、鮭茶漬、鳥のたたき、 「東興園」直伝と称する中華ソバ(現在のようなインスタント中華めんなどもちろんまだ無かった)なども レパートリーに入っていた。

 赤黒く油光りする天井は、小津コック長の調理を現在に伝える名残であった。

  見たまま、聞いたままを書いた『小津安二郎と茅ヶ崎館』

 小津は昭和三十年『早春』の脚本を茅ヶ崎館で書いたのを最後に、野田が実兄の九浦画伯から譲り受けた 蓼科の山荘を”仕事場”にして、茅ヶ崎へ再び戻ることはなかった。

 私の『小津安二郎と茅ヶ崎館』は、茅ヶ崎で生まれ育ち、映画担当の新聞記者であった私が見たり聞いたり した小津安二郎を、見たまま聞いたままに一歩一歩歩いて行くように調べて、足元を固めながら書き進めて いった本なのである。

 面白い、作り話は一つもない。新聞記者としての”仕事”をしたまでである。





 いしざか しょうぞう
 一九三二年茅ヶ崎生れ。
 映画評論家。
 著書『象の旅』新潮社、『巨匠たちの伝説』正・続 三一書房、
 『小津安二郎と茅ヶ崎館』新潮社(いずれも品切)。





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