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有鄰


平成12年1月1日  第386号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ことばと文化 (1) (2) (3)
P4 ○石坂文学再評価への期待  長部日出雄
P5 ○人と作品  湖島克弘と『阿片試食官』        藤田昌司



石坂文学再評価への期待
生誕100年を迎えて
長部日出雄





  吉永小百合さんと一緒にうたった『青い山脈』

 吉永小百合さんと一緒に、歌をうたったことがある。

 ただし、いうまでもあるまいが、二人だけで歌ったわけではない。

 いまから四年前、石坂さんの没後十年を記念し、故郷弘前の市民会館で開催された「いつまでも青春−石坂洋次郎の文学と映画」で、 ゲストに招かれた吉永小百合さん、および会場を埋めた満員のファンとともに、『青い山脈』を合唱したのだ。

 ちなみに小生は、戦後日本の新しい出発を歌ったこの名曲が大好きで、ずっと以前から、これを第二国歌にしたらどうだろう、という意見を、長年の持説としてきた。

 全盛時代の石坂文学の人気と影響力が、どれほどのものであったか、年配の読者には、あらためて説明するまでもあるまい。

 だが、もっと若い世代のために、生誕百年を迎えたのを好機として、どんなに巨大な存在であったかを、まず映画の面から振り返ってみよう。

  文芸映画という新しいジャンルを誕生させた石坂作品

 石坂洋次郎は日本映画全盛時代を盛り上げた原動力の一人であった。映画化された原作数は、じつに七十六本。昭和八年から「三田文学」に発表され、昭和十二年に刊行されるとたちまち大ベストセラーになった『若い人』は、その年のうちに映画化されて、ますます話題を集め、文芸映画という新しいジャンルを誕生させるほどの成功を収めた。

 戦後の解放感のなかで、石坂洋次郎を「百万人の作家」と呼ばせることになった『青い山脈』は、今井正監督で映画化され、西条八十作詩、服部良一作曲の主題歌とともに、国民的な人気を呼び、かつ「キネマ旬報」のベストテンでも二位に選ばれる鮮やかな成功作となった。以後、藤本真澄プロデューサーによって続続と映画化される石坂作品は、明るく軽快で健康な東宝カラーの基調を形づくる。

  爽やかで快活な好青年の主人公が裕次郎にぴったり

 それだけでなく、昭和三十年代には、日活全盛時代の一翼も担う。わが国の映画観客動員数が、史上最高を記録したのは、前年にデビューした石原裕次郎の主演作が、四本も興行成績のベストテンに入った昭和三十三年だが、そのなかでもトップは、石坂原作の『陽のあたる坂道』であった。

 スキー場で大怪我をしたあとの復帰第一作で大ヒットした『あいつと私』も石坂の原作。裕次郎といえばアクション映画というのが常識だが、全出演作の興行成績における一位と二位は、ともに石坂原作の青春映画が占めている。不幸な境遇に置かれていても、見るからに育ちのよさそうな爽やかさと快活さを失わない好青年、という石坂作品の主人公の役柄は、裕次郎にぴったりだった。

 昭和三十八年にも、吉永小百合主演で石坂原作の『光る海』と『青い山脈』が、興行成績のベストテン入りを果たす。

 若い男女の絶大な支持に支えられた石坂作品は、新潮文庫に『若い人』全二冊『青い山脈』 『石中先生行状記』全四冊『山のかなたに』『丘は花ざかり』『わが日わが夢』『霧の中の少女』 『草を刈る娘』『陽のあたる坂道』『あいつと私』『光る海』など計十六作二十冊が収められていた。

  石坂文学の本質はフェミニズム、リベラリズム、エロティシズムの肯定

 現在の若い人たちに、石坂文学の読者は、そう多くはあるまい。文学離れの傾向と相俟って、読まれなくなったのは、石坂作品にかぎった話ではないが、それにしても、かつてあれほど圧倒的な人気を博していたのに、どうして手に取られなくなったのだろう。時代遅れと化して、古臭くなってしまったのか……。

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改造社刊
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八雲書店刊
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新潮社刊
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改造社刊
 弘前市民会館で開かれた前記の催しに出席するまえ、『若い人』を読み返し、中平康監督の『あいつと私』と西河克己監督の『青い山脈』をビデオで見直した。いずれも古臭いどころか、いまなお新鮮でみずみずしく、今日の作品よりもっと生き生きとした活力と生命力に溢れている。それなのに、若い読者が少なくなったのは、一体なぜなんだろう。

 穏健で常識的な作風とおもわれがちだが、戦前の『若い人』は不敬罪と軍人誣告罪で右翼から検事局に告訴され、戦後はまた『石中先生行状記』で猥褻罪容疑に問われた。

 わが国の文学界で、敗戦を境に激変した二つの時代において、ともに官憲から睨まれた作家は、石坂洋次郎のほかにはいない。

 石坂文学の本質であるフェミニズムとリベラリズム、そしてエロティシズムの肯定は、戦前戦後を通じて少しも変わることがなく、そのように一貫した立場から、時代に距離をおく批判者でありつづけたことが、二度の受難を招いたのだ。見かけによらぬ抵抗と反俗の精神の持主であるのは、この事実だけでも明白であろう。

  日本人の恋愛観、青春観にもっとも大きな影響を与える

 世の中が急速に右傾化していく戦前、地方の県立中学の教師をしながら、女学校の作文に「私は男を知りたい。その男を通して私の父を感じたい。父の肌を、父の血の匂いを、父の口臭を、父の欲情を──」「私の名は、ハツ私生児・江波恵子!」と書く危険で奔放な美少女を造型するのは、あとの時代から考えるほど容易なことではなかったに違いない。

 見合い結婚のほうが多数派で、「恋愛」は世間の規範を紊す不道徳で猥らな振舞だと考える人が少なくなかった当時から、それは人間の自然な感情の発露で、しかも性の本能と分かちがたく結びついており、だからこそ生命力の源泉であるのだと、石坂文学は果敢に主張しつづけてきた。

 戦後は『青い山脈』で、まだ封建制が色濃く残る地方の風土を舞台に、素直な男女の交際を認めたくない旧道徳の側に立つ人人を戯画化して、青春は明るく謳歌されるべきものだと、爽やかに描いた。

 頭の固い人たちから「エロ」と顰蹙される『石中先生行状記』を書いたのも、性の大らかな肯定者で、好奇心の赴く方向へ自由に進む作家としては、自然の成行であった。

 いまや石坂流の考え方に疑問をもつ人は、ほとんど皆無に近くなっているだろう。

 日本人の恋愛観、青春観は、半世紀のあいだに百八十度といっていいほどの転換を遂げた。この間に、多数の読者と観客を相手にする新聞小説と映画を通じて、もっとも大きな影響を、わが国の津津浦浦にまでおよぼしたのが、石坂洋次郎である。

 その「コペルニクス的転回」が、あまりにも鮮やかに実現されたために、若者には石坂文学を繙く必要がなくなった。ちょうど、いまではだれ一人疑う者がいない地動説を是認したために、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイについて知ろうとする人が、ごく僅かしかいないのとおなじように……。

  日本には珍しい思想小説、議論小説の作者

 しかし、石坂洋次郎は忘れられていい作家では、決してない。

 青春小説、風俗小説の名手として知られた巨匠を、じつはわが国に珍しい思想小説、議論小説の作者であるといったら、奇嬌の言とおもわれるだろうか。

 だが『若い人』『麦死なず』『青い山脈』といった代表作を読み直してみれば、主要な箇所はおおむね、 主人公たちのディスカッション場面であるのに気づかれるだろう。

 『若い人』の江波恵子、橋本先生、間崎慎太郎は、それぞれ自分の生き方と考え方を明確に論理化し、ユーモアと機知をまじえ、かつ節度を保ちながら、たがいに正面きって激しく渡り合う。こういう議論の習慣を、現実の日本人は、いまもって身につけていない。

 昭和初期に知識階級を根こそぎ揺るがせたマルキシズムの強烈な影響を、東北の小さな町に住むインテリがどんな風に受け止めたか、その動揺と苦悩を、『麦死なず』ほど生生しく痛切に描き出した小説はない。

 『青い山脈』のクライマックスは、有名な父兄理事会のユーモラスな討論場面で、われわれの社会と文化は、あそこから先へ進むより、逆に後退してしまったのではないだろうか。石坂さんは、ずいぶん先を歩いていたのだ。

 読者には圧倒的に支持されたが、文壇内の評価はかならずしも高いとはいえず、文学史もさほどのページをさくとはおもえない。

 戦前戦後を通じて、わが国には稀な本物のリベラリストであるとともに、かつての堅苦しい文学好きには認められにくい健康な生とエロティシズムの肯定者、文壇のストレンジャー(よそ者、異人)としても一貫していた。

  戦前は抵抗精神、戦後は大衆の解放感を生き生きと表現

 けれども文学好きや知識階級だけにとどまらない広汎な日本人全体の精神史、思想史という観点からすれば、第一級の影響力を発揮した作家であった。

 戦前は文学的で柔軟な抵抗精神を堅持し、戦後は一般大衆の解放感を、だれよりも明るく生き生きと表現することによって、他の分野にもじつに多様な開花と実りをもたらした。

 大ヒット作のかげに隠れて忘れられた観がある初期の短篇は、きわめて詩的で質が高く、日本文学の珠玉 といえる。

 生誕百年を機に、石坂文学再評価の気運が生まれることを、強く期待したい。





おさべ ひでお
一九三四年青森県生れ。
作 家。
著書『反時代的教養主義のすすめ』新潮社1,995円(5%税込)、『辻音楽師の唄』文藝春秋1,700円(5%税込) 
ほか多数。





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