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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成12年8月10日  第393号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 かながわの学徒勤労動員 (1) (2) (3)
P4 ○忘れえぬ名言  半藤一利
P5 ○人と作品  黒井千次と『羽根と翼』        藤田昌司

 座談会

かながわの学徒勤労動員 (1)

  元 (株)京王プラザホテル常務取締役(静岡県立豆陽中学校)   石垣 肇  
  元 東京水産大学教授(逗子開成中学校)   大塚 一志  
  主婦(共立女学校)   広田 和江  
   神奈川県立綾瀬西高校教諭・神奈川の学徒勤労動員を記録する会   笹谷 幸司  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
動員先の森永製菓での作業
動員先の森永製菓で作業をする
神奈川県立横浜第一高等女学校の
生徒 
−横浜の空襲を記録する会提供−
第二次大戦末期に、国内の労働力不足を補うために、現在の中学生・高校生に当たる旧制中学・高等女学校等の生徒が「学徒勤労動員」として、軍需工場や軍事施設で働くことになりました。

京浜工業地帯や、軍の施設が集中している神奈川県では、県内はもちろん、東北や東京、関東近県の学校からも多くの学徒が動員され、その実態は、昨年、『学徒勤労動員の記録・戦争の中の少年・少女たち』(高文研刊)として、神奈川の学徒勤労動員を記録する会によって初めてまとめられております。そこで本日は、当時、勤労動員を体験された方々にお集まりいただき、お話を伺うことにいたしました。

石垣肇様は静岡県立豆陽(とうよう)中学校(現静岡県立下田北高校)四年生で、寒川町の相模海軍工廠に動員されました。

大塚一志様は逗子開成中学校の一年生で、横須賀海軍軍需部に動員されました。

広田和江様は共立女学校(現横浜共立学園)の四年生で、川崎の東芝富士見町工場に動員されました。

笹谷幸司さんは神奈川の学徒勤労動員を記録する会会員で、神奈川県立綾瀬西高校教諭でいらっしゃいます。『学徒勤労動員の記録』を中心になってまとめられ、現在もその調査を進めておられます。

私は、神奈川県立横浜第一高等女学校(現神奈川県立横浜平沼高校)の三年生で、金沢八景にありました 海軍航空技術廠支廠に動員され、終戦の日まで仕事をしました。

きょうは体験者の一人として、お話に参加させていただきたいと思います。


勤労奉仕や行軍が多くなり授業は徐々に減少

篠崎 勤労動員が始まる前は皆さんはどのような学校生活を送っていらしたのでしょうか。

石垣
座談会出席者
左から笹谷幸司氏・広田和江さん・
石垣肇氏・大塚一志氏と篠崎孝子
私が下田の豆陽中学に入ったのは昭和十六年でしたので、一年のときにはある程度落ちついて勉強ができましたが、二年になると、勤労奉仕などの野外の活動が多くなった。例えば洪水があったときには、切れた堤防の修理の手伝いに行かされたりとか。

それから二、三年生になると「修練」もだんだんにふえてきた。遠足も、夜行軍といって、夜八時ごろから朝の五時ごろまで、一晩中歩くという訓練をさせられました。夜中に八~十里(三十二~四十キロ)も歩くわけです。また学校には寄宿舎があったので、そこに泊まって、みんなで一晩を過ごすという体験もさせられました。

篠崎 終戦のときは何年生だったんですか。

石垣 もう卒業していました。昭和二十年三月に四年生で繰り上げ卒業になり、五年生はなかったんです。

広田 私も昭和十六年に共立女学校に入学しまして、通年動員の前は割合と落ちついた女学校生活を楽しんでいました。でも、防空訓練とか行軍はよくしました。学校は横浜の山手にあったのですが、そこから弘明寺の方まで行って戻ってくるとか、山下公園まで行って戻ってくるとか、よくやりましたね。耐寒行軍とか耐暑行軍とかいって。

 

  昭和十六年に帰国した外国人の先生

篠崎 共立女学校はミッションスクールですが、外国人の宣教師の先生方はどうだったんですか。

広田 宣教師で英語の先生だったミス・バレンタインは国際情勢の悪化で昭和十六年十月に帰られました。

篠崎 英語の授業はいつまでありました?
広田 昭和十七年、二年生の夏までです。それまでは週五、六時間、割合しっかりやったんです。十七年の夏から英語の授業が、英語科と家庭科に分かれて、希望によってどちらかを選んだのですが、英語科に行ったにしても、授業時間は非常に少なくなりましたね。

 

  逗子開成中学校では軍隊式に一年三組は第一中隊第三小隊

大塚 私は昭和十九年四月に逗子開成中学校に入学したのですが、もうかなり戦争がひどくなっていた。終戦のとき二年生ですから、学校でちゃんと授業があったのは一年の一学期ぐらいでしょうか。滑空部(グライダー部)に入ったのですが一年生はゴムのロープを引っ張る役ばかりでした(笑)。それを夕方に砂浜でやった記憶があります。そのうちに上級生は工場に動員になって……。

篠崎 逗子開成中学校は、自由な気風が結構残っていた学校じゃないんですか。

大塚 いや、校長は元海兵団長の鹿江(かのえ)三郎という人で、かなり軍隊式でした。一年生は第一中隊で、組は小隊と言っていましたから、私は第一中隊第三小隊でした。一年三組ということです。教員室に入るときは、それを名乗って入らないといけなかった。校庭で、隊列行進などが結構おこなわれていたころですね。

篠崎 私も似たり寄ったりでしたね。私たちは英語の授業は一年生の昭和十八年だけでした。あとは手旗信号とか、農業の時間が正科で、下肥をやったり、肥おけを担いだりとか。

それから校庭の端に二十五メートルのプールを掘りました。シャベルとつるはしで掘って、もっこを担いで土を捨てて、つくったんです。それと競歩ですね。あんなに歩いたのは、後にも先にも恐らくあのときだけでしょうね。やはりすさまじかったですね。

それから、空襲の直前には朝、必ず警戒警報が鳴る。警戒警報が鳴ると学校に行かなくてもよかったんです。もう鳴るのがわかっているから、朝起きないんだけど、何にも食べるものがないので、おなかが空いていられたものじゃないんですよ。それで家の書棚にあった世界・日本文学全集を端から読んだ。あのころが一番本を読みましたね。

 

  昭和十九年四月から「通年動員」が始まる

篠崎 学徒勤労動員はどういう経緯で始まったのでしょうか。

笹谷
勤労作業をする共立女学校の生徒
勤労作業をする共立女学校の生徒
(昭和17年)−横浜共立学園提供−
神奈川県で動員らしいものが始まったのは昭和十七年ぐらいで、一か月以内ぐらいの動員です。横須賀の海軍工廠や三菱ドック、あと、陸軍最大の弾薬工場があった長津田の田奈部隊。その跡地は、現在「こどもの国」になっていますが、そこが出てくるのが十七年ぐらいで、四十校ぐらいが行っています。

昭和十八年になると、アメリカ軍の反撃が強まり、政府は航空戦力の拡充に努めることになる。それで、いよいよ勤労動員の体制をつくろうと法律的な整備が進みます。そして昭和十九年三月に「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、四月から本格的な動員、「通年動員」が始まります。それ以前の動員は、むしろ勤労奉仕という考え方に近く、その辺が学徒勤労動員の一つの大きな節目になっています。

「学徒勤労令」勅令がでたのは十九年八月ですが、実際は十九年の四月ごろから動員されている学校もあります。それも一斉に動員が始まったわけではなく、だんだんと動員が広がっていく。神奈川ではY校(横浜商業学校・現市立横浜商業高校)から始まって少しずつふえ、十九年の夏休みごろから本格的になり、学校に戻らなくなっていく。まず四、五年生が動員され、早い学校は十九年の秋から二年生も動員されています。


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