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有鄰


平成12年8月10日  第393号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 かながわの学徒勤労動員 (1) (2) (3)
P4 ○忘れえぬ名言  半藤一利
P5 ○人と作品  黒井千次と『羽根と翼』        藤田昌司



忘れえぬ名言
半藤一利





戦争を辞せざる強国へと曲がっていった時代


 わたくしは今年七十歳になった。杜甫の詩句にいう「人生七十古来稀なり」で、よくも今日まで生き永らえて きたことかと、ひとの恵みのかたじけなさにいささかの感慨を覚えている。

 一九三〇年(昭和五)東京向島生まれ、昭和の風雪のほとんどをくぐってきたことになる。当然いろいろな 体験をしてきた。今にして思えば生まれた翌年から昭和史は大転回をはじめている。三一年の満州事変、三二年の 満州国の建国、「話せばわかる」の五・一五事件、三三年の国際連盟脱退「栄光ある孤立」と国家の舵とりは、 どんどんと戦争を辞せざる誇り高き強国へと曲がっていった。

 そのころのことは、まだ幼くて、わずかに満州国を英語では「マンチウクオ」というと覚えさせられたことくらい。 軍部が政治への発言権を増大し、国をおかしくしはじめているなど、とんと存じなかった。記憶というのに 値する記憶といえば、雪の日の二・二六事件(一九三六年)ということになる。終日ラジオが反乱軍によびかけていた 叫びが思いだされる。

  「今からでも決して遅くない」

 抵抗をやめて軍旗の下に復帰せよ、と中村茂アナウンサーの声は悲痛をきわめていた。兵隊さんという存在は 街でみかけたから知っていたが、それが集団となってグンタイという途轍もない大きな力になることをそのとき 確かに学習した。もっとも、この事件の歴史的重大さをよそに、下町の悪ガキは事件が終息するとさっそく今からでも 遅くない、直ちに勉強をやめて外に出てこい」と、秀才の家の前でガナッタリしていたが……。

 あくる年、小学校の一年坊主になったとたん、「盧溝橋の一発」で日中戦争が起る。「兵隊さんよ、ありがとう」で、 出征兵士を送り白い布で包まれた遺骨を出迎える日日。軍歌と万歳と旗の波と提灯行列のうちに、戦争が進展 していく。政府は声明を発し、軍事行動の目的を明確にする。「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を 促す為なり」。このときから軍部作成の標語が合言葉になる。

  「暴支膺懲」

 ガキ大将のわたくしなんかも、いがみ合っている隣町の悪童どもを「一発、ヨーチョーしてやろうぜ」と ばかり、仲間と語らって遠征して喧嘩を売りにいったものである。

 間もなく「国民精神総動員」が叫ばれ、万葉集が流行しだした。「海行かば水漬くかばね」、そして「撃ちてしやまむ」である。 戦時下の国民生活を刷新しなければならぬ、ということで、ネオンの全廃、中元お歳暮の贈答廃止、男子学生の 長髪禁制くりくり坊主などと一緒に、時局にふさわしくないと、女性のパーマネント廃止となる。

 われら腕白どもは隊伍を組んで町を闊歩しながら、いま思うと実にくだらない替え歌「パーマネントに火が ついて/見る見るうちに禿げ頭/禿げた頭に毛が三本/ああ、恥かしや恥かしや/パーマネントはやめましょう」を 歌って、パーマの麗人を立ち往生させた。何とも育ちの悪いことであったと、ひどくきまり悪く思っている。

 一九四〇年(昭和十五)、「バスに乗り遅れるな」の国民こぞっての大合唱とともに、戦前日本の名言中の名言、

  「ぜいたくは敵だ」

が大いに叫ばれだした。しかし、あんなものすごい時代でも、ユーモラスな反抗精神の持ち主がいて、立て看板の 「敵」の上に「素」の字を書き込んで「ぜいたくは素敵だ」とやった奴がいた。お巡りさんがカンカンになっていたのを目撃している。

 こんな回想にふけっていることは、楽しいが無駄のような気がする。やがて大戦へ。「必勝の信念」だけで 戦争に勝てるはずもなかった。戦陣訓にいう「生きて虜囚の辱を受けず」の精神で日本の将兵は、肉体をアメリカの 軍艦や戦車の鋼鉄に叩きつけたが、すべては夢まぼろし。

 わが家も焼かれ、猛火に追われて河に飛び込み、やっとの思いで生命を拾った。絶対に勝つ、絶対に滅びない、 絶対に正しい、絶対に焼けない。すべてがいかに空虚な、実体のない念仏であったことか。

 一九四五年(昭和二十)三月十日朝、焼け跡に立ち、蕭条たる焼け野原を見渡しながら痛感したことは、 この世に絶対なんてことはない、という痛烈にして蕭然たる敗北感である。生きている限り、これからは「絶対」と いう言葉は使わないぞ、と焼け跡で思ったことをはっきりと覚えている。そしてそれを今日まで執念深く実行 している。

 同じ年の八月十五日に、軍国日本は降伏した。ラジオから流れ出た昭和天皇の「終戦の詔書」朗読の声は、 全体はもあもあーとしてよく聞こえなかったなかで、この部分だけははっきりと聞こえた。

  「忍び難きを忍び耐え難きを耐え」

 おそらくは昭和日本を象徴するような名言といっていいのではあるまいか。いや、二十世紀の世界における 「政治的に人びとを大きく動かした」名言中の名言である。

 敗戦国日本はこの象徴的な言葉どおりに、あらゆる困難を耐え忍び、一所懸命に新しい国づくりに励んできた。 平和と自由と平等と民主と、それらの理想をもとめて、わたくしたちは力をあわせてきた。

 文化国家を建設するのが目標であったのが、どこでどうひん曲がったのかよく分らないけれど、世界に冠たる 経済大国をつくり上げた。どうやら「もはや戦後ではない」(一九五六年)といわれだしたときに、文化から 経済へ方針の大いなる転回点があったような覚えがある。

記憶に残る戦後の「名言ベスト3」


 時代の滔々たる動きというものは、個人の力なんかではどうにもならないという気がする。それはこの長い間の 激動に翻弄され、くたびれて、いまはもうひたすら平穏を求めている老骨の、ひそかな感慨にすぎないであろうか。

 とはいえ、その過程においては精一杯頑張って生きてきた。壊したり作ったりで楽しいことばかり。といったら、 ちかごろの体制完備、万事において閉鎖され窒息寸前状態の若者たちには叱られるかもしれないが。

 そんな戦後の歩みから、記憶に残ることを「名言ベスト3」として選んでみれば・・。

  (1)戦後を象徴する名文句

  ・「一億総懺悔」(一九四五年)。戦後最初の首相東久邇宮の記者会見での言葉。戦争責任は国民すべてに あり、というわけである。
・「人間は生き、人間は堕ちる」。坂口安吾『堕落論』の発表は一九四六年。虚飾や仮面を捨て人間の本然を みつめよ、と彼は説く。
・「女子学生亡国論」。暉峻康隆・池田弥三郎が口を揃えて慨嘆したのは一九六二年。いまは男子学生亡国論の 時代になっている。

  (2)映画テレビの中から

   ・「勝ったのは百姓たちだ」(一九五四年)。黒澤明監督の『七人の侍』は敗戦国だって傑作は作れるんだと、 大そう興奮した。
・「私は貝になりたい」(一九五八年)。テレビで清水豊松に扮したフランキー堺が叫んだ戦争憎悪の言葉。 悲痛の極みであった。
・「それを言っちゃおしめえよ」。ご存じ、柴又の寅さん映画第一作の公開は一九六九年。


  (3)スポーツを彩る

・「蛙を食って泳いだ」(一九四九年)。全米選手権での古橋広之進と橋爪四郎の大活躍は日本人ここにありと、 勇気づけられた。
・「おれについてこい」(一九六四年)。東京オリンピックでの日本女子バレー監督大松博文の力強い指導ぶり。 男らしい最後の男。
・「巨人軍は永久に不滅です」。長嶋茂雄の引退の日は一九七四年、もう三十年に近い昔の話になる。歳月は 逝く河の水のごとしか。

 と、こうした言葉を思い出しつつ、わが戦後の記憶を重ねてみると、自分のこれまでの人生がくっきりと浮びあがる。 一つ一つの言葉にぬくもりが感じられてくる。

  殺伐として心に残る名言がないここ十年の日本

 そこでこんど、名言を手掛かりに今世紀を俯瞰するという試みで『21世紀への伝言・名言にみる「日本と世界」の一〇〇年』(文藝春秋刊)と いう本を上梓したのであるが、千をこえる項目を書き終えてかなり疲労を感じている。一つには、ここ十年ほどの 日本は殺伐として、何と心に残る名言のないことよ、それでガックリしたこともある……。名言のない時代と いうのは国民が精気とやる気とを失っているからに違いない。そう思えてならない。

 わたくしが“古稀”まで生きてきて少々疲れたように、日本もいま疲れたのであろうか。しかし、日本よ、 その長い歳月にえてきた知恵をもって、ふたたび永遠に、元気溌剌たる国となれ。それを心から願う。





はんどう かずとし
一九三〇年東京生れ。
作家。
著書『21世紀への伝言』文藝春秋2,900円(5%税込)、
『日本のいちばん長い日〈決定版〉』同1,650円(5%税込)、
『漱石先生大いに笑う』筑摩書房735円(5%税込)ほか多数。





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