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有鄰


平成13年1月1日  第398号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜公園とスタジアム (1) (2) (3)
P4 ○古文書にみる相模野の女たち  長田かな子
P5 ○人と作品  北方謙三と『水滸伝』        藤田昌司



古文書にみる相模野の女たち
長田かな子





  古文書から聞こえる農民の呟き

 昭和三十七年から『相模原市史』の編集に携わり、全七巻刊行後も相模原市立図書館古文書室で、古文書一筋の三十数年を 過ごしてきた。塵埃や鼠の糞や蜘蛛の巣などにまみれた古文書の整理分類、目録作成は、決して楽な作業ではなかったが、 約二万点の一点一点をていねいに手がけただけに、まさに手塩にかけたという思いである。

 古文書にもいろいろあり、殿様からの年貢の割付や御用金・前納金のお達し、検地帳などは、かなり達筆で書かれて いて読みやすいが、村方で作成した文書は、勝手な崩し方でミミズがのたくったような字のものが多い。『古文書解読辞典』と 首っ引きで、カンと推理を働かせ、苦心惨憺して解読に取り組んだ古文書には、ひとしお愛着が深まる。

 とりわけ、村方の困窮ぶりを縷々と述べた年貢減免や、助郷免除の願書、さまざまな出来事の届、訴訟の文書などを 読み解いていると、何だか耳元で農民がブツブツ呟(つぶや)く声やため息が聞こえるような気がしたものである。そして私は、 当たり前の女たちの声を聞きたい、暮らしを知りたい、と思うようになった。

 江戸時代の農村の古文書はほとんど旧名主家に残っていたものなので公文書的性格が強く、女の名前の出てくる ことは少ないが、宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)・人別送(にんべつおく)り状(じょう)・離縁状・奉公人請状(うけじょう)などの事務的書類、また事件の届や訴訟の過程で 作成された書類に女の名前が記されている。古文書の中に女名前を見出すと、私は二百年、三百年の時を越えて、 旧知に出会ったような懐かしさで心が和んだ。

  たくましく生き生きしていた農村の女たち

 はじめ、私が描いた江戸時代の農村女性のイメージは、男尊女卑の封建社会の底辺におかれて、田畑での労働に 明け暮れ、忍従の歳月を過ごす暗い姿であった。

 ところが古文書にみる相模原の女たちは、予想を裏切ってたくましく、おおらかで、生き生きしていたのである。

 相模原市域は江戸近郊の平凡な農村で、広大な台地が広がり、水田がきわめて少ない畑作地帯である。「土性劣り 水利不便」な地で、作物の実りが悪く、農民の暮らしは決して豊かではなかった。ただ、近世中期ごろから養蚕が 盛んで、村の状況を書き上げた村鏡や村明細帳には、「村中にて女の稼ぎに飼蚕(かいこ)仕り……」という文言が必ず見られる。

「かかあ天下」で有名な上州と同様に養蚕が盛んな地域ゆえ、重要な働き手、稼ぎ手として女の評価が高かったのだろうか、 意外に男女平等、時には奔放といえる生き方をしている姿に、魅力と親しみを感じる。このたび『相模野に生きた女たち−古文書にみる 江戸時代の農村』を有隣堂から上梓することになったが、たくさんの事例の中から、いくつかを紹介する。

  おっかさん五人連れ三十一日の大旅行

 江戸時代、庶民の私用旅行は容易なことではなかった。まず、名主の許可が必要で、関所手形・往来手形を発行 してもらう。交通費はあまりかからないが、宿泊費・食費がかかるのでかなりの路銀がいる。一日に十里(四十キロ) も歩くので疲労も甚だしく、往来手形に「もし途中病気頓死仕り候はば……」とあるように、死を覚悟しての旅で あった。

 物見遊山の旅は許可されないから、社寺参詣の名目である。女の旅はさらに抑圧され、「慶安のお触書(おふれがき)」にも 「物まいり遊山好きする女房は離別すべし」という箇条がある。しかし相模原の女は堂々と旅に出た。往来手形が六通 残っており、夫婦やグループの連名もあるので延べ十人だが、過半数の六人が女で、「年来心願」の諸国神社仏閣拝礼に 出かけている。

 具体的な記録が残るのは淵野辺(ふちのべ)村のおっかさんたち五人連れの秩父観音札所巡礼の旅で、「泊日記覚帳」ほか 餞別帳・御朱印帳・秩父絵図により、三十泊三十一日の足取りがわかった。

 天保十四年(一八四三)二月二十二日出発。農閑期を選んだのだろう。彼女たちは欲張って、秩父だけでなく 坂東札所の岩殿観音・吉見観音などにも詣でながら、五日目に秩父に入り、初日は一〜五番、翌日は六〜二十一番を巡拝。 大体お寺は山の上に多いが、坂や石段を上がったり下ったり、一気に十六か寺も回ったとは元気なことである。二十二〜三十番、 三十一〜三十二番、三十三〜三十四番と巡拝し、満願になったのは出発後九日目だった。

 ところが、彼女たちは帰途につかず、西へ向かう。五泊後に長野の善光寺。さらに旅は続き、進路を東にとり、 十二泊の後(途中水沢観音や出流(いずる)観音などにも参詣)日光東照宮参拝。ようやくUターンし、大谷観音や慈恩寺にも詣でて、 淵野辺に戻ったのは三月二十二日だった。

 現在でも主婦の長旅は、家族に歓迎されないと思うが、江戸時代の相模原の夫や息子は妻や母を快く旅に出した。 一か月も家を空ける上に、旅費もかなりかかったはずである。かくも長き不在と出費が許されたのは、彼女たちの 日頃の働きのお返しかと思われるのである。

  夫と対等に大喧嘩をした若妻

 持高一石余の貧しい農民の若妻は、舅姑や小姑が他家に住込奉公に出ているので、夫と二人暮らしの、気ままな身分。 ある日、他出していた夫が夜になって帰宅したが妻は不在。やがて帰ってきた妻に「どこへ行ってた?」と詰問すると、 妻は素直に弁明すればいいものを、「どこへ行こうと私の勝手」と答えたことから、取っ組み合いの大喧嘩になった。

 騒ぎを聞きつけた五人組が仲裁に駆けつけたのをふりきって妻は戸外に飛び出し、捜索のあげく、堰場で入水して いるのが見つかったから村中大騒ぎとなった。顛末は「彦左衛門一条控」という厚い帳面に詳しいが、女性の荒い鼻息が 感じられる事件だった。

  不義密通はご法度の時代の不倫の結末

 江戸時代は男尊女卑の儒教が社会道徳の基本だったから不義密通はご法度で、『御定書百箇条』には「四十七、 密通お仕置の事」という箇条があり、密通の妻も相手の男も死罪となっている。密通の男女を夫が殺した場合、夫は 何の罪にもならない。ただし密通は親告罪なので、訴え出なければ処罰されず、相模原では、ほとんど話し合いで 解決したようだ。

 しかし、上溝(かみみぞ)村組頭の家で孫嫁が下男と密会中を夫にみつかり、その場で二人とも殺されてしまった時には、 殺した夫は「お構いなし」の無罪だったが、殺された二人は弔い禁止、死骸は取り捨てよと地頭所から命じられた。 死してなお罰せられたのである。

 下溝(しもみぞ)村の人妻は、九歳の男の子を置いて、同じ村の男と駆け落ち蒸発した。男にも十歳の息子がいた。中年の恋は わが子への愛を上回ったらしい。

 新戸(しんど)村の不良青年にひっかかった人妻もいた。二人は駆け落ちしたが、親類・五人組の捜索で見つけ出され、女は 周囲の説得を受け、夫のもとに戻った。青年は出奔して二〜三年後に村に戻ったが、またもや、別の人妻と駆け落ち した。青年の噂は村中に知れ渡っていただろうに、崩れた魅力が女心を誘ったのだろうか。二人はそれきり蒸発して しまった。

 小山(おやま)村では妻子ある中年男が人妻と駆け落ちしたが、捜し出されて人妻は夫のもとへ帰り、男は三年間自宅謹慎に なったいきさつを、男の伜(せがれ)が村役人に届け出ている。

 また下溝村の青年は、人妻と密会中を夫に見つけられ、訴え出るといわれた。死罪になってはかなわないと、元名主の ご隠居様に頼み込んで、女は夫の元に「形よく」返すことに話をつけてもらい、自分は村外追放の罰に従っている。

 上溝村の辻堂に住み着いた僧に、よろめいた人妻があった。馬喰町無宿というあやしげな僧だが、よほど美男子だったのか。 二人の仲はエスカレートし、僧は駆け落ちを持ちかける。女は「十七歳の娘がいるから」とことわるが、僧は「娘も連れて…」と 熱烈である。狭い村のこと、たちまち村中の噂になり、怒った夫は離縁を言い渡す。仲人は取りあえず女を江戸に隠し、立退料を 僧に出して村外に出て行ってもらう。しかし、その後も僧はたびたび仲人宅にきて女の居所を尋ねるが「知らない」と 隠していたのに、老母が口をすべらせたことから、怒った僧は仲人宅に放火し、火附盗賊改に捕らえられた。 関係者一同取り調べをうけたが、夫は供述の最後に、「不義の噂に怒って離縁といってしまったが、不義が事実だったかどうかは知らない」 と歯切れの悪いことをいう。「許すから帰って来いよ」とほのめかしているようだ。

 とすると、七件の不倫のうち、二人とも殺された悲劇的結末が一件、蒸発二件、夫のもとへ戻ったのが四件という 結果で、奔放な浮気妻も意外に夫の寛容に許されていたようである。




 

おさだ かなこ
一九二四年京城生まれ。
元相模原市史料調査専門員。
著書『母たちの時代』昭和出版1,575円(5%税込)、『ひたむきの年輪』相模経済新聞社2,625円(5%税込)、
『相模野に生きた女たち』有隣堂1,050円(5%税込)





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