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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成14年1月1日  第410号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 城山三郎と戦争文学 (1) (2) (3)
P4 ○アトムの向こうを考えよう  瀬名秀明
P5 ○人と作品  西村京太郎と『焦げた密室』        藤田昌司

 座談会

城山三郎と戦争文学 (1)

   作 家   城山 三郎  
  文芸評論家・本紙編集委員   藤田 昌司  
              

はじめに

藤田
城山三郎氏
城山三郎氏
城山三郎さんは昭和三十二年に『輸出』で文學界新人賞を受賞され、文壇に登場されました。愛知学芸大学(現愛知教育大学)で教鞭をとられながら作家活動を始められ、昭和三十三年には『総会屋錦城』で直木賞を受賞され、『小説日本銀行』『毎日が日曜日』などの経済小説、『勇気堂々』『落日燃ゆ』などの 政財界人の伝記小説を数多く発表されております。

しかし、もともと軍国少年だった世代に属する城山さんの原点は戦争文学で、その周辺の作品がたくさんあり、昨年出された『指揮官たちの特攻』も大変な反響を呼んでおります。そこで本日は「城山三郎と戦争文学」というテーマで城山三郎さんに、お話を伺いたいと思います。


戦争体験から起こった大義への不信

藤田 『指揮官たちの特攻』を読ませていただいて、久しぶりに感動を深くしたんですが、ただ、本の帯を見て非常にショックを受けたのは、「これが私の最後の作品となっても悔いはない」と書いていらっしゃる。

城山 新潮社の『波』のインタビューの中で話しているところを抜き出したんですね。

藤田 そのお気持ちは……。

城山 戦後、生き残って思ったのは、とにかくむちゃくちゃな戦争下の強いられた生き方と生活だけは書き残しておかなくてはいけないと。そのために生き残ったんだから、戦争ではこういうことが起きたということだけをきちっと書けば、どうせあのとき死のうと思っていたんだから、もう自分の人生は終わっていいと。そういう意味なんです。

 

  組織の論理と人間の幸福がテーマ

藤田 城山さんは昭和二十年三月に名古屋の生家を空襲で焼かれ、四月に愛知県立工専に入学して徴兵猶予となったのを返上して、五月に海軍特別幹部練習生に志願入隊されたんですね。まず『大義の末』が、城山さんの原点を示す作品だと思うんです。杉本五郎中佐が書いた『大義』に感動して予科練(飛行予科練習生)に入隊した少年兵が、 敗戦、戦後民主主義という価値観が激変する社会でどう生きたかを描いた作品ですが、主人公は城山さんの分身と見てよさそうですね。

城山 今、大義というのは死語ですものね。『大義の末』を書いて、まず一段済んだわけですが、いろいろ書いて大義はなくなったと思っていたら、例えば商社の社員の場合は、輸出立国という大義のために単身で外国に出され、大変な苦労をしてやっと帰れると思ったら、ドルがもったいないから、「おまえはアメリカにいるけれど、今度はブラジルに行け」と。 家族の顔もまた見られないということで発狂する人もいる。大義というのはいろんな時代にある。

変わってはいけないから大義なのに、大義はいかに変わりやすいものなのか。そのときは絶対変えられないと思っていたのに、民主主義の大義に変わっていく。だから、そういう怖さと、その中に生きる人間の葛藤は書いておきたいので、それが経済小説と言われるものになったり、政治家にかかわる小説になったりしたわけです。

ですから、原点はすべて戦争体験から起こった大義への不信ですが、そこから、組織の中で人間が生きること、特に組織の論理と、人間の幸福とはどうなるのかということをテーマにして書いてきた。それが大体一段落して、書くべきことは書いたので、悔いはないということです。

 

  戦争文学を書ける作家が少なくなった

藤田 今、こういう戦争文学を書ける作家が少なくなりましたね。戦争体験を持っている作家は、城山さんと同世代ぐらいでしょう。吉村昭さんが、最近『東京の戦争』を書かれたけれども、あの方は体が弱かったので、あくまでも東京での被災体験ですね。古山高麗雄さんも、『反時代的、反教養的、反叙情的』を書かれていますが、これは兵隊の劣等生体験。それからやや普通の兵隊を書いているのは、伊藤桂一さんですね。

城山 桂一さんはこのごろ書かれませんね。

藤田 昔、水上勉さんは輜重(しちょう)兵でしたから、その体験なども書いていましたが、最近はもう書いておられない。

戦後五十数年たったとはいうものの、戦争で厳しい体験をされた方がいる。もう一方では、バブルがはじけ、自分たちが信じていたものがいつ足元から底割れするかわからないという不安感、不信感があって、そういうものに対して生きる男の美学というか、卑怯な生き方はしたくない。それには男はどうすればいいかというとき、戦争文学から学ぶしかないと思うんです。ただ、戦争で非情な振る舞いをしたということだけでは余り、文学のテーマにはならないですね。

城山 僕としては、書きたいテーマは書いた。特に大義の問題については、書くべきことは書き尽くした。だからジョン・スチュアート・ミルの言葉じゃないけれど、「マイ・ワーク・イズ・ダン」ということです。


『指揮官たちの特攻』−対照的な二人の大尉の生きざまを描く

藤田 城山さんの作品を読んでいつも感じるんですが、取材は半端じゃないですね。

城山 僕は現場をただこつこつ歩いて回るんです。

藤田 とにかく歩かれていますね。書斎で資料を見て書くのとは違う。そういう意味でも、『指揮官たちの特攻』のトップシーンには感銘しましたね。ハワイのオアフ島の最北端に行かれて取材されたんですね。昭和十六年十二月に日本がパール・ハーバーを攻撃した時、住民たちはベランダや屋上に出て日本の攻撃を見ていたという箇所。 僕はみんな怖がって地下に潜っていたのかと思った。

城山 それほど日本の攻撃は正確だったんですね。自分たちには関係ないと、みんな出てきて見ていた。しかも無差別攻撃ではなく、軍事拠点だけを攻撃したわけです。

それでタクシーの運転手が言うには、「それでは戦意高揚にならないから、米軍機か米海軍が漁船を沈めて死者を出したり、あるいはハイウェイを走っている車をわざと撃って、日本機が襲ったというようなでっち上げをしたと言う人もいた」と。

そのくらい日本の攻撃は軍事目標に限って正確に行われたんです。

 

  現場に行ったか行かなかったかは活字に出る

藤田 真珠湾攻撃について昨年、ルーズベルト大統領は日本の奇襲を知っていたという『真珠湾の真実』が出版されましたね。これは、アメリカの退役軍人が資料を調べたり、側近にインタビューしたりして、ルーズベルトは全部知っていたということを書いていますが、それでも今のような生きた話は出てこない。

城山 資料だけで書くとそうなりますよね。

藤田 ですから、作家の目は普通の歴史家の目とは違うんでしょうね。日本人に対する敵がい心をかき立てるために、漁船を沈没させて、日本人がやったことにしているというような話が出てくる。うわさ話でも、火のない所に煙は立たないですから、こういう話が出てくるのは作家の力だと思いますね。

城山 作家は行ける所には行くべきですね。ノンフィクション賞の選考をしているときに、面白いなと思った作品でも一番肝心な場面が弱い。わかるんですよね。後でその作者に聞くと、行ってない。やっぱり行くと違うんです。活字に出てくる。行ったか行かないかというのはわかりますよ。



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