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有鄰


平成15年8月10日  第429号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 関東大震災80年 (1) (2) (3)
P4 ○フランス山の風車  中武香奈美
P5 ○人と作品  清原康正と『山本周五郎のことば』        藤田昌司




フランス山の風車


中武香奈美

  中武香奈美さん
中武香奈美さん

(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。


  フランス山公園で発見された明治時代の風車の遺構

フランス山公園から出土した風車の基礎
フランス山公園から出土した風車の基礎

横浜の観光スポットのひとつ、港の見える丘公園の中にあるフランス山公園(中区山手町185番・186番)では、現在、市緑政局公園部によって本格的な再整備工事がすすめられている。来年の二月開業予定の地下鉄みなとみらい21線の「元町・中華街」駅をすぐ近くに控え、フランス山公園は、その歴史性をいかした、さらに魅力ある地区へと変貌をとげつつある。

昨年末、その工事現場からレンガ造りの基礎が掘り出された。以前からその存在が知られていたレンガ造り井戸の周囲を工事中、二基がまず発見され、揚水用風車の基礎ではないかとの期待が高まった。井戸との位置関係から、さらに二基の存在が想定され、ほぼ予想した位置から、のこり二基が掘り出された。崖側の二基は約1.2メートル四方、高さ約1.3メートルの大きさで、内側に造られた二基はこれより小ぶりであった。

横浜開港資料館がマイクロフィルムで所蔵するフランス外務省文書室ナント分館外交史料センターの保管史料を調べたところ、領事館・領事公邸建設工事史料がみつかり、市文化財課から調査を委託された吉田鋼市横浜国大教授とともに検討した結果、遺構は1896(明治29)年に建設されたフランス領事公邸の井戸と、その揚水用風車の基礎であることが判明した。


  居留地防衛のため山手に英仏軍が駐屯

そもそも、この地区が「フランス山」と呼ばれるようになったのは、いつからであろうか。その由来は幕末にまでさかのぼる。

1863(文久3)年6月末、フランスは前年におきた生麦事件などの攘夷派浪人による外国人殺傷事件が相次いだため、イギリスとともに横浜居留地に住む自国民保護と居留地防衛を目的に軍隊の駐屯を決定した。幕府も若年寄名で両国海軍提督あてに横浜防衛権委譲の書簡をおくり、これを認めた。

フランス軍は、駐屯が決まるや否や、海軍(海軍陸戦隊・海軍歩兵隊)が上海とサイゴン(現・ホーチミン)から、陸軍(アフリカ軽歩兵第三大隊分遣隊)が上海から来浜し、幕府から海軍物置所として貸与されていた山手居留地185番に駐屯を開始した。これがフランス山と呼ばれるようになった由縁である。フランス山は現在の公園のイメージからは想像もつかない軍事基地として出発したのである。

一方、イギリス軍の本格的来駐は翌1864年1月(文久3年12月)のことであった。まず香港から第二〇連隊第二大隊分遣隊が来浜し、山手居留地115番(現・港の見える丘公園)・116番(現・岩崎博物館から横浜山手聖公会教会にかけての一帯)に陣営を張った。この地域は第二〇連隊の英語音(トゥエンティー)にちなんで、「トワンテ山」と呼ばれた。

その後、英仏駐屯軍は部隊の交替を繰り返し、1875(明治8)年3月に同時撤退するまでの約12年間、フランス山とトワンテ山に兵舎などを建設し、陣営を構えた。その間のおもな軍事行動に、両海軍部隊が加わった1864(元治元)年の四カ国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関遠征と、明治維新の混乱時におこなった横浜市中警備があった。下関遠征の頃、英仏駐屯兵数はピークをむかえ、3,000人以上がいたという記録がのこっている。これに対して当時の居留欧米人総数はわずか300人ほどであった。


  駐屯軍跡地にフランス領事館・領事公邸を建設

1875年3月、英仏軍の同時撤退によってフランス山から軍隊がいなくなり、兵舎が不要になった海兵隊当局は、同年9月頃、所有するフランス山の永代借地権を駐日外交代表部に譲渡した。

横浜領事館はちょうどその頃、領事館として使用していた建物を明治政府に返還(1876年6月)し、借家での仮住まいを余儀なくされようとしていた。領事はさっそく本省へフランス山に自前の領事館建設を提案した。設計案作成がフランス人建築家、レスカスに委託され、1876年3月には設計図が提出されたが、けっきょく予算のめどが立たず、実現しなかった。

  「極東一のすばらしい名建築」は関東大震災で倒壊

フランス領事館 (1896年)
MAE-CADN,Comptabilite ancienne du ministere (1681-1945), article 377-3/Photo A.Farsari & Co., Yokohama 1896(フランス外務省文書室ナント分館外交史料センター)蔵
1885(明治18)年、フランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出したことで、建設問題が再燃した。紆余曲折の末、1894(明治27)年にフランス人建築家のサルダによる設計・施工で領事館・領事公邸新築工事が開始され、予定よりはるかに遅れた2年後の1896(明治29)年3月、フランス山下方(山手居留地185番)に領事館が、12月、上方(同186番)に領事公邸が完成した。

領事館完成を伝える横浜領事の本省あて報告書には「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と記されている。実際、日本近代建築史においても高い評価をえている建築のひとつである。掲載写真は、報告書に添付されていたものである。落成記念式典の日の撮影であろうか、よくみると領事館全体が提灯で飾り付けられている(大きな画像はこちら拡大図)のがわかる。フランスの威信を衆目に知らしめる華麗かつ威風堂々とした名建築であった。

領事公邸も、同様に立派な建物であったことが容易に想像されるが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災でともに倒壊した。

跡地では以前から、建設に使用されたジェラール瓦などが掘り出されることがあり、今回の工事でも多数の破片が出てきた。また「RF」(フランス共和国)と彫られたメダイヨン(円形飾り)一個が現在、フランス橋(山下町とフランス山を結ぶ橋)の橋台壁面に保存展示されているが、これは領事館正面外壁に嵌めこまれていた数個のうち、からくも破損をまぬがれた唯一のものである。


  将来の水道料金節約のため自前で給水設備を建設

領事館・領事公邸新築費用は約20万フラン(7万ドル)であった。そのうちの約4,300フラン(1,500ドル)を使って井戸および風車、給水設備が建設された。

領事公邸が自前で水の確保をおこなう理由を、総領事は1895(明治28)年の建築状況報告書の中でつぎのように本省に説明している。

「この給水施設はたいへん大きな利益をもたらす。配管費を除いて横浜市に支払う水道料金は年間250ドルにものぼり、これは領事館の通常設備費のほぼ四分の一の額に相当するからである」。

領事公邸建設時、まだ上水道は山手まで敷設されていなかったが、水道料金六年間分に匹敵する額を投じてでも自前の給水設備建設に踏み切った大きな理由は、将来予想される水道料金の節約にあった。ちなみに山手への上水道敷設は1898(明治31)年のことである。

風車はその後10年ほどでその役目をおえたと思われる。1909(明治42)年4月の領事から本省あて地震(同年3月)被害状況報告書は、風車の現況について、つぎのように伝えている。

「当初、揚水用に設置された領事公邸の風車は、解体されなければならない状態にある。継手部分はすでに腐っており、以前、無理に使おうとしたが動かなかった。設備は全般的にすでに時代遅れで、ここ何年もの間メンテナンスもされていない。倒壊の恐れがあり、隣家に倒れ込む危険がある」。


  明治20~30年代山手の丘にそびえ立っていた風車

残念ながらフランス山の風車そのものの写真はのこっていないが、山手の風車二基の写真からその姿を想像することができる。

「風車の学校」として親しまれたフェリス女学校の風車は当時の写真(横浜開港資料館蔵)に、よくその姿を留めている。建設年はフランス領事館のそれより約十年も早い1887(明治20)年頃とされ、深さ53.4メートルの井戸に設置された。1900(明治33)年9月28日、最大風速33メートルを記録した台風によって、風車は地上5.5メートルの高さのところから折れてしまったと、旧居留地の英字新聞は報じている。風車はその後、再建されることはなかった。

「ヴィラ・サクソニア」の風車
「ヴィラ・サクソニア」の風車 (横浜・山手居留地) (大きな画像はこちら約50KB)
横浜開港資料館蔵


風見羽根に「ヴィラ・サクソニア」と記された風車の写真(大きな画像はこちら拡大図)ものこっている。場所は特定できないが、山手居留地である。フェリス女学校のそれに勝るとも劣らない雄姿であるが、この写真以外にてがかりはない。

横浜山手の揚水用風車は、その数ははっきりとしないが水事情の悪いこの地域の給水手段として明治20年代から30年代にかけて山手の丘にそびえ立ち、そして役目をおえた。

今回、発見、確認された井戸と揚水用風車の基礎四基は基礎二基を埋め戻し、のこり二基と井戸を現地で保存公開の予定だという。



 
中武香奈美 (なかたけ かなみ)
1956年宮崎県生れ。横浜開港資料館調査研究員。
共著『横浜英仏駐屯軍と外国人居留地』東京堂出版(品切)。





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