Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。


平成16年5月10日  第438号  P1

○座談会 P1   横浜・山手公園を語る (1) (2) (3)
進士五十八
鳴海正泰堀勇良松信裕
○特集 P4   海から生まれた神奈川   藤岡換太郎
○人と作品 P5   垣根涼介と「ワイルド・ソウル」


座談会

横浜・山手公園を語る (1)
窶披€剥早u名勝」の指定にちなんで窶披€鐀

東京農業大学学長   進士五十八
横浜山手・テニス発祥記念館館長、関東学院大学名誉教授   鳴海正泰
文化庁建造物課   堀勇良
 有隣堂社長    松信裕
 
山手公園に集まったイギリス第10連隊の軍楽隊
山手公園に集まったイギリス第10連隊の軍楽隊
『ファー・イースト』 1871年7月
(横浜開港資料館蔵 大きな画像はこちら約130KB)

(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。

右から堀勇良氏、進士五十八氏、鳴海正泰氏と松信裕
右から堀勇良氏、進士五十八氏、鳴海正泰氏と松信裕


    はじめに
 
松信  

昨年11月、横浜市中区にある山手公園が文化財保護法による国の「名勝」に指定されたと報道されました。 山手公園は、横浜に居留する外国人によってつくられた日本最初の洋式公園であり、また、外国人によって日本で初めてテニスが行われた場所でもあります。

本日は、山手公園が「名勝」に指定されたことにちなんで、開園以来130年余りに及ぶ公園の歩み、また、山手に始まり現在も多くの人々に楽しまれているテニスについて、あるいは公園の景観と一体になっているヒマラヤスギについて、お話を伺いたいと思います。

ご出席いただきました進士五十八先生は東京農業大学教授、現在は同大学学長、また日本都市計画学会会長でいらっしゃいます。 これまでに日本造園学会会長なども務められ、分化がすすむ農学を実学に向けるため新たに日本総合農学会を設立しようと準備中と伺っております。

鳴海正泰先生は、山手公園にあります横浜山手・テニス発祥記念館館長で、関東学院大学名誉教授でいらっしゃいます。 このたび、当社の有隣新書の1冊として、『横浜山手公園物語』を出版されました。

堀勇良先生は文化庁建造物課にお勤めで、近代日本建築史がご専門でいらっしゃいます。 長年、横浜開港資料館の調査研究員をお務めでしたので、居留地の歴史や山手の洋館にもお詳しくていらっしゃいます。
 


  ◇日本最初の洋式公園として1870年に開園
 
松信  

まず、山手公園が名勝に指定されたのはどういう理由からですか。
 

鳴海  

私は、昭和40年ごろから山手公園でテニスをやっていまして、山手公園とは長いつき合いなんですが、残念なことに、横浜市民にとっては、あまりなじみのある公園ではないと思います。

それが、昨年4月に突然、文化財の名勝の指定の候補地として、文化財審議会の専門委員や神奈川県庁、横浜市役所の人たちが視察に見えたので、びっくりしたんです。

文化庁が名勝の候補地に選んだ理由の第一は、1870年に開園した日本最初の洋式公園であり、第二に日本の公園制度が始まる明治6年(1873年)の太政官布達第十六号に先行して、その趣旨が生かされた形で都市美に貢献している。 第三に景観や地割りなど当初のものがほぼそのまま残っている。 第四が日本のテニスの発祥地であること。 五つ目がヒマラヤスギが初めてここに播種された。 その五つを挙げています。

それともう一つ、日本の軍楽隊の発祥地でもあります。
 


    名勝は県内で四番目近代の公園としては全国初の指定
 
松信  

名勝というのはどういうものなんですか。
 

 

いわゆる文化財の中には、建築物などの有形文化財や、無形文化財と並んで「記念物」というくくりがあります。 「記念物」は、史跡と名勝と天然記念物の三つで、名勝の中に、いわゆる風景的なものや、公園、庭園があるんです。 ですから山手公園は名勝として指定されたということです。

名勝指定の基準は、我が国のすぐれた国土美として欠くことができないものであり、庭園、公園は人文的なものですから、これらにおいては芸術的、あるいは学術的価値が高いものとなっています。

今まで神奈川県では名勝は三つしかなくて、みんな庭園です。 鎌倉の、建長寺庭園と円覚寺庭園、瑞泉寺庭園で、今回四つ目です。 けれども、いわゆる公園としては、県内では最初のものですね。

全国で見ますと、公園で指定されているのは、京都の円山公園、奈良の奈良公園、広島の鞆[とも]公園、香川県の琴弾[きんだん]公園の四つです。 ですから近代の公園としては、最初に名勝として指定されたことになると思います。 ただ、山手公園は、鳴海先生のお話からしても、名勝というよりむしろ史跡に近いのではないかという印象を私は持ちましたけれど。
 


    日比谷公園よりはるかに開園が早い歴史的な価値
 
進士  

名勝は、すぐれた風景地、美しい空間のことで、美保の松原のような風景や庭園がベースなんです。

だから、山手公園は、美しい風景としてよりは、歴史的公園としての指定だと思ったほうがいい。 日比谷公園は明治36年(1903年)の開設で、日本で最初の洋風公園と言われていますが、それは本格的な大きな公園という意味で、実は山手公園のほうがずっと先輩なんですね。

日本初の洋風公園という歴史的価値ですね。 日本と西洋の文化が重なり合ったところでできた。 市民はそれを「花屋敷」と呼んだ。 これは江戸の名残です。 江戸と近代に外国人がつくった、つなぎ目とか、成立の背景も面白い。

そういう観点から、小さな公園ではあるけれども、大きな意味があると評価されたのでしょう。 歴史的な価値の流れでとらえるほうが、私も正しいと思います。
 


  ◇1866年に外国人のための公園設置が条文化
 
松信  

山手公園はどんないきさつで誕生したんですか。
 

 
PUBLIC GARDENと妙香寺
PUBLIC GARDENと妙香寺
(「新鐫 横浜全図 Map of Yokohama」 部分 明治3年 横浜開港資料館蔵 大きな画像はこちら約180KB)
 

慶応2年(1866年)に横浜で大火があって、その年の末に「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれます。 その約書の一条目には、横浜公園をつくることが出てきますし、十条の中には、山手に、100坪について6ドルの地税で公の遊園として外国人民のために公園を設けるということが書かれているんです。

恐らく根岸競馬場とか、あの辺りを結ぶ外国人遊歩道を設けることに関連して公園がほしいというのが、以前から居留民の間にあって、それが慶応2年のこの約書に条文化されたんだと思います。

最初に予定されたのは、山手の東側のワシン坂の先あたりらしいんですが、約書を結んでから3か月以内に願い出るべしというような条項に対して出願がなかったようで、いったんこの条項は消えた形になります。

そして、その2年後ぐらいに、再びこの条約にのっとって、外国人居留民が約6,000坪の公園地を山手において要求してきた。 最終的には、現在の山手230番地の公園地券を、明治4年5月4日付で6,718坪、403ドル8セントで貸与したということです。
 


    山手公園が開園したのは1870年6月4日
 
鳴海  

今まで山手公園の開設は、横浜の歴史のいろいろな本の中では1871年(明治4年)となっていた。 横浜市緑政局や公園部の資料も全部明治4年開設となっている。 ところが、『ファー・イースト』とか『ジャパン・ウィクリー・メール』などの新聞では、1870年6月4日、陰暦で5月6日に開園されたと書いている。 写真とか、どういう行事が行われたかということも出ています。

明治4年という説が多かったのは、この年に神奈川県知事が地券を発行したからなんです。 地券とは、地代の徴収令書、課税令書です。 行政の方は、それを根拠に明治4年を開園の年としているわけですが、明治6年が正しい。
 

 

そういう例はいっぱいあります。 横浜公園の明治9年開園というのも、日本大通りが明治12年の開通といわれているのも、公的な日付であって、それ以前からいろいろ使われていたんですね。
 


    緑が多かった江戸、「公園」という名称がなかっただけ
 
松信  

江戸時代には、公園はなかったんですか。
 

進士  

江戸幕府は、緑の行政をうまくやっていた。 江戸のように人口が稠密な巨大都市には、物見遊山は絶対必要です。 花見などでストレス解消をさせないと革命が起きますから、そのための緑地を実際に幕府がつくっていた。 これは、今風に言えば公園なんです。

その管理は、たとえば花見の名所になった品川の御殿山は沢庵和尚の東海寺に、飛鳥山は王子権現に任せた。 中野の桃園は地元、蒲田や亀戸天神の梅林、向島百花園は、民営でした。 言ってみればアウトソーシングですね。

それ以外に、町の中には広小路のような延焼防止地帯としての緑地があった。 そして一番大きいのは、社寺境内地です。 お寺の土地は江戸の土地利用の三割ぐらいで、合計すると、現代の東京よりよっぽど緑地が多い。 ヒートアイランド現象なんか全然なかったのです。

江戸は、全体としては田園都市、美しい緑が多かった。 ただ、「公園」という名前がついていなかった。
 


    太政官布達は税金をかける場所を明確にするためか
 
松信  

公園という制度は、明治になってからですね。
 

進士  

制度として「公園」という言葉を行政的に使ったのは、明治3年の太政官布達第十六号です。 その中身はというと、江戸時代の行楽地をそのまま公園と呼ぶことにするという、読みかえです。 これは、歴史家によって解釈が違うと思いますが、私は、土地の税金問題、そして江戸幕府、徳川家、あるいは徳川家ゆかりの財産の後始末をどうするかということがあったと思います。

お寺は江戸時代は税金をかけない場所、高外除地[じょち]だったのです。 代表的なのは、江戸では徳川家の菩提寺の上野寛永寺、芝増上寺。 浅草寺は大衆的なお寺です。 それから深川の富岡八幡社、これは江戸三大祭りの江戸っ子の神社ですね。

明治新政府としては、敵だった徳川家ゆかりのお寺を、そのまま安堵してはまずいでしょう。 かといって没収すると、またいろいろ言われますから、これをどう処分するか悩んだと思います。 どういう理由で、どこを無税にするかという判断が必要だった。

無税にするには大義名分が要ります。 太政官布達では、これまで群衆が遊覧していたような場所は、図面を添えて大蔵省に届けなさいと。 そして公園として認めたら、税金はかけないよと言ったわけです。
 

 

山手公園も元は本牧山妙香寺というお寺の境内地ですからね。
 


    妙香寺境内の半分が公園にされたのは徳川家との関係か
 
鳴海  

文化庁から、横浜で「公園」という言葉が初めて使われたのはいつか、文書に残っているかという問い合わせがあったんですが、明治3年の「新鐫[しんせん]横浜全図」に「PUBLIC GARDEN」、そして日本語で「公園」と書いてある。 それが一番古いんではないかと思うんです。

妙香寺は、1672年に復興された日蓮宗のお寺です。 この境内の約半分を明治政府が取り上げて公園にする。

なぜ妙香寺なのか。 もちろん、山手にあったからなんですけれども、妙香寺は徳川家と親密な関係にあって、三十石の扶持をもらっていたんです。 最初はワシン坂のほうに公園の予定地が決められましたが、そこがだめになったとき、急遽どこにしようかということになって、妙香寺に土地を出すようにと言ったんだろうと思います。
 

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