Web版 有鄰

591令和6年3月10日発行

[特別寄稿]わが青春の横浜 – 1面

北方謙三

北方謙三

波止場の街

子供のころの私にとって、大都会とは東京でも大阪でもなく、横浜であった。小学生のころ私が暮らしていたのは、九州の小さな村で、しかし玄界灘に面してい、豪快な海は自慢であった。

私は、年に数度、母に連れられて横浜へ行った。妹も一緒であった。昔の寝台車は、普通の車輌の間に一輌連結されている、というものであった。寝台車の話をすると、友だちは羨ましがったものだ。列車に乗ったことがないという子供が多かったので、自慢たらたら喋る私は、相当にいやなやつであったに違いない。 

なぜ横浜に行ったかというと、親父の船が入ってくるからであった。親父は外国航路の船員で、ふだんは家におらず、入港時が数少ない会えるチャンスだったのだ。

昔の大型の貨物船は、運んできた荷を降ろし、新しい荷を積みこむまで、人力に頼むことが多かったので、1週間ほどかかったのである。その荷役の間、私は横浜に滞在した。時によって泊る場所が違っていたが、山下公園の前のホテルなどになると、浮かれたものだった。ホテルを喜んだというより、近くに中華街があり、二度ぐらいはそこでの夕食になったからだ。中華料理を食する、唯一の機会であった。親父は中華街を違う呼称で呼んでいて、それは亡くなるまで変えようとしなかった。私はちょっと洒落て、チャイナタウンと呼んだ。

東京から来ているとおぼしき声の大きな集団などがいると、東京の田舎者がと吐き捨てたりしたものだ。後年、学生のころ友人と横浜をうろついていると、おい東京の田舎者、と地元の不良っぽい連中に言われたりした。

私が親父を思い出して笑ってしまったりしたので、喧嘩にはならなかった。

小学生のころの私の横浜の印象は、街が2つに分かれているというものだった。九州から乗ってきた東海道本線を降りる横浜と、そこから電車で2駅ぐらいの桜木町や関内などは、違う街としか思えなかった。その間に高島町というところがあり、車窓からも林立しているクレーンが見えた。

大工業地帯に見えたそれは、広大な造船所であった。やがてその造船所は取り壊され、海まで続く平地になり、そして続々とビルが建ちはじめた。いわゆる、みなとみらい地区である。私は、近代的になっていく街の名が気に入らなかった。全部が平仮名であることも、みらい、という地名にはそぐわないと私が感じる言葉も、好きになれなかった。横浜だけでなく、全国で平仮名地名が出現して、そのたびに私は憤慨している。どうして、文化や歴史を毀すようなことをあえてするのだ。

それにしても、2つに分かれたような街だった横浜が、その新興大都市によって繋がれたかたちになったと思う。

私は昔もいまも、横浜駅がある方ではなく、関内側の方に親しんできた。それは多分、親父の船がそちら側に着いていたからであろう。

子供ながらに、新港埠頭とか大桟橋とかサンパン小屋などという言葉を普通に出すようになった。いまは大観光地にもなってしまっているが、私が子供のころは、波止場という雰囲気が色濃かった。新港埠頭など、長く行くことはなかったが、レンガ倉庫がある場所である。そこからさらに海側に行ったところに、海上保安庁の基地があり、私は自分の船で浦賀水道航路内を突っ走り、スピード違反を問われて出頭した。海面に線が引かれているわけではなく、航路内という認識が私にはなかったのだ。しかしそんな言い逃れのようなことはせず、素直に謝った。すると割りに簡単に許して貰い、防災基地の中の見学までさせてくれた。

しかし、新港埠頭は、立派な街に様変りしていた。昔の波止場の雰囲気は、捜しても見つからなくなっている。

サンパン小屋とダルマ船

沖泊りの船もいるようだから、サンパン小屋と呼ばれる通船待合所はあるのだろうか。沖泊りの船に人を運ぶランチを、船員言葉ではサンパンと言った。私は親父の船について行く時、よくそれに乗った。港の別れの情景など、そんなところで見られたりしたのだ。屋根だけの建物で、裸電球が二つぶらさがっていたが、船員を見送りに来ている女性の姿もしばしばあった。

船で言うと、ダルマ船はあたり前のように港内を行き交っていた。荷役に遣われるので、かなり大きい。荷を満載していると、沈みかかっているのではないか、と思えたほどだ。いまはコンテナなどが主流だから、ダルマ船の姿は少なくなっているだろう。

そのダルマ船が、ずらりと並んでいる場所があった。それは、船ではなく、家だったのだ。多分、内部は改装されていたのだろう。弱そうな部分など、コンクリートでかためられたりしていた。大岡川のほとりである。

そのダルマ船が、動いて再び荷役の船になるとは思えなかった。窓が作ってあり、ガラスの内側は色褪せた障子だったりするのを見た。甲板に人の姿があり、盛大に洗濯物が干されて風に靡いていた。それは生活の旗のように見えた。

ある時、それが取り払われた。見事なぐらい、一掃されてしまったのだ。私が、高校生のころだったと思う。

1964年に、第1回の東京オリンピックが開かれた。外国人客も多く来日するというので、見てくれが悪いということだったらしい。住んでいた人たちは、どこかに移ったのだろう。酒場などになっている船も多くあったらしく、大岡川にせり出した恰好で、2階建ての横に長いコンクリートの建物が作られた。それがハーモニカの吹き口のように見えたので、ハーモニカハウスと呼ばれている。都橋商店街という名で、それはいまもあり、狭く区切られた一軒一軒は、すべて酒場である。私はよく、そこへ行って酒を飲むが、治安が悪いという傾向は一切出てこなかったので、いまはやや観光地色が出てきている。

川の対岸の吉田町あたりでめしを食い、都橋を渡ってハーモニカハウスで飲むのが、いくつかある私の横浜コースのひとつであった。野毛を飲み歩くこともあれば、馬車道あたりの店に行くこともある。どこにも、昔の面影は希薄だがある。

米兵の姿はずいぶんと少なくなった。横浜市内には、まだ米軍が専有している岸壁があって、そこは瑞穂埠頭という。そこだけはアメリカである。瑞穂橋の袂にドルで飲むことができる外人バーと呼ばれる酒場があるが、もう観光名所か撮影用の店という感じだろう。それに関内側からは港の対岸になり、かなり遠い。そして外人バーは、街からはいくらか離れている、という記憶がある。

ちなみに、瑞穂埠頭のことをノースピアと言い、大桟橋をサウスピアと呼ぶらしい。するとセンターピアがウエストか。横浜港にはイーストピアだけがないのですよ、とその名の酒場のマスターが言った。幻なのです。

幻のイーストピアとは、それだけで小説的な感じがある。ちょっと世間からはずれた男が、飲んでいそうだ。

元町の思い出

海際もいまはきれいになっているが、山手の元町など昔からきれいであった。私が学生のころであるから50数年前の話になるが、元町の洋品店でジャケットを見つけた。そのジャケットは、私に着てくれと言っているようだった。

金は持っていなかったが、私は引きこまれるように店に入り、そのジャケットの前に立った。救いなのは、店の人は離れたところで見ているだけで、近づいて声をかけてきたりしないことだった。薄い財布の私だから声をかけてこないのではなく、それが元町の接客のやり方だと後に知った。合図をすると、にこやかに近づいてくるのだ。

私は、ジャケットに一度だけ指さきで触れ、慌ててひっこめた。自分のものでなければ、触れてはいけないのだ、と思った。

いまでこそわかるが、小粋なレジメンタルタイを締め、白いシャツだった。そこに、私の首だけ載せてしまいたいという、衝動に似たものさえ感じた。

どれほどの時間、ジャケットとむかい合っていただろう。私は店を飛び出し駈けに駈けて、港湾労働の手配師がいるところへ行った。そこで2週間労働すれば、買える。

結構な、労働の日々がはじまった。日給で貰ったが、安い食いものを買う以外、一切遣わなかった。

2週間経ち、私は坂を駈けあがり、店へ飛びこんだ。しかし、ジャケットはなかったのだ。うなだれ、肩を落とした。握りしめたお札が、手の中でむなしく消えてしまった感じだった。私は、どんな顔をしていたのだろうか。肩を落としたまま店を出ようとした私に、声がかけられた。店の隅に立っていた初老とおぼしき人だった。これですね、お探しなのは。なんと、その男性の手に、ジャケットがあったのだ。お気に入られたようなので、取り置かせていただいていました。ほんとうに涙が溢れ出ててきた。男性は、にっこり笑って、私に試着させてくれた。それから丁寧に畳んで袋に入れ、ネクタイも包まれた。私は手で制した。ネクタイ分の金はない。いいんです、サービスです。

これも、私の横浜の思い出である。

北方謙三(きたかた けんぞう)

1947年唐津市生まれ。作家。著書『武王の門(上・下)』中公文庫、『チンギス紀』(全17巻)『楊令伝』(全15巻)『水滸伝』(全19巻)集英社、『三国志』(全13巻)角川春樹事務所ほか多数。

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