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平成14年11月10日 第420号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 小田原合戦 (1) (2) (3) |
P4 | ○非運と豊潤の文学—樋口一葉 松本徹 |
P5 | ○人と作品 吉住侑子と『旅にしあれば』 藤田昌司 |
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座談会 小田原合戦 (1)
−北条氏と豊臣秀吉− |
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はじめに |
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篠崎 |
そこで本日は、小田原合戦に至った状況、秀吉・徳川家康と北条氏の関係や、小田原合戦の様子、近世へと続く歴史的意義・文化的な変化などについてお伺いしたいと思います。 本日ご出席いただきました永原慶二先生は日本経済史、とくに中世を研究されております。現在は一橋大学、和光大学名誉教授でいらっしゃいます。ご著書は『戦国時代』(小学館ライブラリー)など多数ございます。また、小田原市史編さん専門委員も務められ、そのご研究の成果をもとに、今年の一月に『富士山宝永大爆発』(集英社新書)を出版されました。 岩崎宗純先生は、箱根町湯本の正眼寺のご住職で、小田原市史編さん専門委員としてご活躍されました。ご専攻は中近世文化史です。 山口博先生は小田原市史編さん事務局の主査を務められ、『小田原市史』の戦国時代を分担して執筆されました。現在は、小田原市立図書館に勤務されております。 |
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もう一つの面は、越後の上杉、甲斐の武田、徳川、織田、豊臣、それら大勢力との外交関係なしに、北条領国を自分だけで維持するわけにはいかない。とりわけ上杉との関係が緊張しているから、徳川と北条は手を結ぼうとする。 そして徳川を介して信長、あるいは秀吉との関係をつくっていく全国戦略みたいなものを持っていたので、国政の面からも、あるいは軍事情勢の面から、戦略的に、やはり中央を強く意識していたと思います。 ただ、早く秀吉に服属するか、それとも頑張ったかは、各大名によってかなり違うわけです。 |
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秀吉は関白となり全国の大名に号令できる地位に |
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永原 |
秀吉についていえば本能寺の変(天正十年)の後でやっと従五位下になる。これは中央貴族の官職の一番下ですが、天正十三年までの、たった三年間で従一位まで駆け上がる。信じられないような超スピードです。
それは何が目的かというと秀吉は天正十三年に関白になったんです。それが重要な意味を持っていて、関白は天皇に意見を申し上げる地位なので、天皇と一体化している。 それによって自分は、全国に号令できる地位を得たという形をつくった。 |
篠崎 |
そのとき秀吉は何歳ぐらいだったんですか。
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永原 |
四十九歳です。そのときは、中国地方の毛利とはすでに連携ができてますが、それ以外の大名は、まだ秀吉の支配には入っていない。
その第一が紀伊の根来(ねごろ)、雑賀(さいか)です。これらは高野山の分かれだったんですが、一向宗になっていて、一向一揆の大勢力です。鉄砲を持っていて軍事力が強い。それを征服した。続いて四国で長宗我部(ちょうそかべ)を従え、天正十五年に九州の島津を征服する。それは関白になったからできたことです。 それで最後に残ったのが関東の北条。だから、北条攻めは秀吉にとって、最後の仕上げなんです。 その起点は、関白になって全国統治者としての形を整えたから、関東に対しても、すでに天正十四年に「関東惣無事令(そうぶじれい)」で関東の大名同士の私戦は一切禁止すると命じた。今後は一切、自分が国境を確定するというので、上野の沼田領(群馬県沼田市)での北条と真田との問題では、秀吉が二人使者を下して国境確定をやる。それが惣無事令の内容です。これは関白でなければできない。 |
攻撃を予測しながら和戦両様のかまえで対応 |
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永原 |
そういう意味での全国統一の仕上げが北条ですから、秀吉が必ず攻めてくるということは北条は予測がついていた。とくに天正十四年末から十五年にかけて攻めてくるという予測を立てる。小田原の本城も、城郭整備に領内の農民までを動員するし、各地にいる家臣の侍たちに軍役の準備、兵員・鉄砲の数を強化させたり、農民たちを農兵として動員する。
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岩崎 |
根こそぎ動員というものですね。豊臣軍は兵農分離ができていたのに対して、北条は農民も駆り出した。
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永原 |
そう。根こそぎ動員を天正十五年早々にやる。それ以降、一直線に戦争になるわけではなくて、天正十八年三月までは時間があった。でも、情勢としてはいつ攻撃されてもおかしくないという構えを北条も持っていた。
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山口 | 天正十五年暮れから十六年にかけても臨戦態勢がとられており、かなりの数の陣触などが残されています。それで家康は、北条一族から誰か出仕しなさいと勧める。それが十六年五月。それで同年八月、四代氏政の弟で韮山(にらやま)城(静岡県韮山町)にいた氏規(うじのり)が上洛する。惣無事令が出されて以降、北条は和戦両様できましたが、十六年八月の段階で、北条は一応服属の意思表明をしたとみてよいのではないかと思います。
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