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平成14年11月10日 第420号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 小田原合戦 (1) (2) (3) |
P4 | ○非運と豊潤の文学—樋口一葉 松本徹 |
P5 | ○人と作品 吉住侑子と『旅にしあれば』 藤田昌司 |
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座談会 小田原合戦 (2)
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東海道からの防衛ラインは山中、韮山、足柄城 |
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篠崎 |
秀吉が攻めてくるときの防衛ラインというは?
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山口 |
中でも山中が、東海道を進んでくる軍勢に対する押さえとして一番重視される。その後方に箱根山、さらに小田原城がある。 足柄城は北条氏光、韮山城は氏規、山中城は重臣の松田康長が守っていた。箱根の山の中には二子山・屏風山などの砦があって、これらは恐らく小田原の氏直の指揮下にあったと思います。上野のほうは松井田城(群馬県松井田町)が中核で、大道寺政繁という重臣が入ります。ちなみに小田原から上野方面の指揮は不可能なので、それについては北条氏邦に任せました。 |
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永原 |
八王子城は攻められて女、子供まで皆、滝に飛び込んで死んだという悲話があるけど、肝心の城主の氏照が小田原に来てしまっている。
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山口 |
八王子は余り重視していなかったとしか言いようがないですね。
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山口 |
この時期の秀吉と北条との交渉を具体的に示す史料はほとんどないんです。後で出る天正十七年の宣戦布告状が直接的には唯一の史料です。
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永原 |
関東の大名は北条も武田も滅びましたから、家に残った文書はないけれども、中国地方の毛利文書、九州の島津文書などを見ると、これは全部そのまま近世に続いている。
それらの史料では、大名間は連絡を相互にやっている。政略、戦術にかかわる大名間のやりとりや秀吉とのやりとりなどはたくさんあったに相違ないんです。史料として有名な『太閤記』はそれなりに役には立つけれども大ざっぱなんです。
『信長公記(しんちょうこうき)』は書き方が非常にきちんとしている。
ですから、今問題になっている天正十五年ぐらいから十八年にいたる時期の政治的駆け引きは、徳川をどちらがとるかということが決め手だったので、秀吉は、母親の大政所まで岡崎の家康に人質に出して、とにかく大坂に来てくれ、とにかく臣礼をとった形にしてもらいたいと申し入れる。これは秀吉の並々ならぬ決意ですね。 北条は秀吉に対して、徳川を盾にして戦略をたてていますから、客観的には、家康が大坂に行ったらもうだめなんです。北条だけではなくて、東北の伊達政宗までを含む連合構想が一挙に全部崩れるのです。 |
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山口 |
天正十四年十月の家康の上洛は、徳川、北条、伊達も含め、外交の面からいうと画期的なことですね。
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家康を通じて北条氏を統制しようとした秀吉 |
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永原 |
秀吉は、そこからはいけると思ったでしょうね。
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篠崎 |
分岐点になったということですね。
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山口 |
それまで同盟していた北条と徳川ですが、十四年以降は、徳川を通じて北条を統制しようという動きが秀吉に出てきますからね。
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永原 |
秀吉は十一月に惣無事令を出し、十二月には太政大臣になって羽柴姓から豊臣姓を名乗る。これはものすごく重要な画期です。そこから先は、徳川がなびいたから東の心配がなくなり、九州に行って島津を討つ。九州を押さえれば、あとは関東と東北だけ。非常に合理的なんです。
秀吉のやり方は、すごい安全運転です。それから、直接血を流す戦争をやらない。その点では、ものすごい政略家だし、合戦がうまかったというのとは違う。血を流す戦争はあまりしないんです。四国で少しやったようなものだけれど、ほとんどやらないうちに長宗我部は降伏した。九州の島津も、ちょっとやったけれど、激突はしなかった。 |
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小田原攻めの直接の理由は出仕しなかったこと |
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永原 |
だから、北条も同じ方式でやるつもりだった。滅ぼす気はなかった。けれど、秀吉が口をきいて、真田と北条の取り合いの沼田領について、線を引くことをやった。秀吉も北条の存在を一たん認め、北条も出仕すると言ったのに、約束どおりに出仕しなかった。
沼田領の真田名胡桃(なぐるみ)城(群馬県月夜野町)を北条方が横取りして、小田原もそれをサポートしたんです。せめてそれを小田原が抑えつければよかったのだけれど、やらなかった。だから二重に違約をやった。つまり、出仕はしない、しかも秀吉の沼田領の仲裁を踏みにじった。 |
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岩崎 |
それは一種の口実ですね。
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山口 |
要するに、最終的に秀吉が小田原を攻める決心をした直接の理由は、出仕しないということなんです。沼田を渡すという約束を前提に、氏直は、妙音院・一鴎軒(いちおうけん)という秀吉の使者に、六月五日の段階で十二月上旬に上洛しますという証文を出すんです。
それをもとに七月下旬の段階で、今言われた沼田領の三分の二を北条方に渡して、残る三分の一は真田に据え置くという裁定を実施するんです。
当時の記録の『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』に、氏政自身が来ないで使いを寄こしたから、秀吉がかなり怒ったということが出てくるんです。だから、上洛の約束は確かに十二月の上旬だけれど、秀吉としては、沼田領の措置が終わったから、なるべく早くお礼に上がってこいと当然伝えていたと思う。でも上洛しなかった。それが一番大きな原因なんです。 それに加えて、十一月初めに、先ほどの名胡桃城の奪取事件があったということですね。 |
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軍役の動員と兵糧の配置を指示した秀吉の軍事動員令 |
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永原 |
名胡桃城を奪取したのは十一月二十四日です。
ところが、秀吉の軍事動員令があるでしょう。『小田原市史』の資料編に載っている二つの秀吉の条書です(豊臣秀吉条書写)。一つは兵糧、一つは軍役の数に関するものです。九州を除いて四国から中国、山陰、北陸、すべての大名に一定の軍役を動員している。割り当ては地域によって遠いほど兵隊を出す数が軽いんです。徳川の東海には一番多く出させている。そういう軍役の割り付けが十月十日に出されている。 同時にそのときに長束正家を兵糧奉行に任命して、黄金一万枚を出して兵糧の買い付けをやり、それを伊勢(三重県)のほうから東海道にかけて、行く先々に送っておく。二十万以上の軍隊が行くと、通った所はイナゴの大軍が食い荒らしたみたいになってしまう。それをやったら人民は逃げてしまう。人がいなくなったら労役に使えない。兵糧はそれぞれの所に配置するわけで、港ごとに蔵をつくって配置せよと言うわけです。秀吉は戦地での略奪や人身売買などを極力行わなかった。 そういうことを言いだしたのはどちらも十月十日です。 |
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氏政の上洛が秀吉と北条の交渉の主眼 |
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永原 |
名胡桃城事件が起こり、出仕もしない。十一月になって秀吉がついに癇癪を起こして宣戦布告状を出したと言いますが、私は、その前から秀吉はとっくに腹を決めていて、十月には基礎的な動員の準備をやっていた。そこにさらに上洛しなかったという口実ができたので、宣戦布告状になったと思うんです。ですから戦争に入る状況が確定的になってくるのは、十月より早かったと思うんです。
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山口 |
通常では、秀吉が北条を攻めた直接の動機は名胡桃城奪取だと言われていますが、あれは主じゃなくて従です。当時の古文書を見ると、名胡桃奪取後もしばらくの間は、とにかく上洛が豊臣と北条の交渉の主眼なんです。
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永原 |
秀吉は箇条書に書いています。一つに出仕のことがあって、その次の一つに、沼田要害のことで「即ち罷(まか)り上るべきと思(おぼ)し召被(めさ)れ候ところ、真田相拘(あいかか)え候なくるミの城を取り、表裏仕(つかまつ)り候」とある。
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永原 |
北条は外交下手だったという面もありますが、出仕・臣従することに躊躇していたことは間違いないと思います。東北の伊達政宗がやはりそうだった。北条と伊達は対秀吉で連合していたから、伊達もなかなか出てこない。それを浅野長政が
伊達に、出仕したほうがいいと忠告している。最後になって秀吉が小田原の一夜城に入って、小田原城を見ているところで、伊達は来たんです。政宗は腹を切らされる覚悟をして来たんですが、秀吉は政略家だから許した。
だから、氏直か氏政が早く秀吉のもとへ行けば、多分、大名の中で北条だけをつぶすはずはないと思います。北条は関東一円を握っていたから過剰な自信を持っていた。 外交の駆け引きの読みを誤ったと見るか。さらには、北条も日本国の中の一定の地位を持っていまから、天皇は認めても秀吉という成り上がりの男を、そのまま天下人としては認めないということだったのか。 |
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山口 |
家康の娘を妻にしている氏直や、秀吉との取次ぎをやってきた氏規は、どちらかというと、家康と一緒に臣従してしまおうという立場だったと思います。だけど氏政は、いや、臣従はできないぞという気持ちがあったような感じなんですね。
ですから、当初の天正十六年の段階で氏規が一応京都に行って、臣礼したときには、氏直、氏規派のほうが主導的になったんですが、十七年の段階の後になって、それがちょっと破綻してきたみたいな感じですね。 |
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北条氏は必ず自分も救われると判断すべきだった |
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永原 |
どちらも総力戦をやったけれども、金の力にしても、立場にしても差がついていましたからね。だから北条は、秀吉のやってきたことを見ていれば、情勢判断としては必ず自分も救われると判断すべきだったと思うんです。島津ですら助けられたんですからね。家康が一生懸命北条のために口をきいてくれていたんだから。自爆したようなものです。
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「ことに関東において雅意に任せて狼藉(ろうぜき)の条、是非に及ばず」。だから、関東において、わがまま勝手に狼藉をやり続けているので是非に及ばず。続けて、本当はそこでつぶすはずだったけれど、氏規が来たので許した。
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山口 |
家康の娘が氏直の妻なので、氏直から見ると家康は義父になるわけです。その時は家康の執り成しで氏規の上洛が実現した。
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永原 |
その後、いかに背信行為をやったかということを挙げていて、これは天道にそむくものだというのが最後の決めつけになるわけです。
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