Web版 有鄰

481平成19年12月10日発行

井上荒野と『ベーコン』 – 人と作品

食べ物が物語の大事な要素になった9つの短編集

井上荒野氏
井上荒野

曖昧な世界を正確に書きたい

ほうとう、アイリッシュ・シチュー、カツサンド、ゆで卵のキーマカレー…。そんな食べ物が物語の大事な要素になった、9つの短編を収めている。

「私の小説は食事のシーンが多いから、食べ物をテーマに連作してみませんかと勧められて書き始めました。何か辛いことがあって食欲がなくなっても、人は、結局はまた食べ始めます。そのときまず何を食べるかは、人によって違う。面白い、不思議だなと前から思っていました」

冒頭の「ほうとう」は、妻がいる安海とつきあっている温子に、いつも通り温子の家で昼食を食べた安海が、「昨日、子供が生まれたんだ」とふいに言う話。

この話は不思議なことに、食べ物が「ほうとう」でなければ成立しない造りだ。つきあい始めて間もなくほうとうのことを話したが、押しつけがましい感じがして、温子はその食べ物を一度も安海に作らなかった。

「ほうとうは郷土色がありその人が背負っている家族のルーツと結びついた家庭的な食べ物の象徴です。特に女性が男性に対し、よほど親しくないと作らない食べ物だと思います。家族的な食べ物では例えば味噌汁もありますが、当たり前すぎてつまらないので少しひねってみました。どんなときも、自分を退屈させない作品にしたいと思っています」

1編にひとつ、9つの食べ物が出てくる。「クリスマスのミートパイ」は、木道ですれ違う女性に密かに惹かれている芳幸の妻、ゆかりが作る食べ物だ。登場人物の年代はさまざまで、「目玉焼き、トーストにのっけて」の可奈と勇二は中学生。「煮こごり」で虎に噛み殺される男は75歳で、その愛人の晴子は60代。いろんな人々がいて、その傍らに食べ物がある。

「食べ物ひとつ種類を決めると、ストーリーが浮かんできます。たとえば煮こごりは煮物を冷蔵庫に入れて一日おかないと食べられない。そういう特質から、イメージを広げました。どんな言葉を組み合わせるかによって、見えてくる景色が違う、俳句的な手法を使うことが多いです。絵を描くのにも似ている。無限にある選択肢の中から食べ物、人物、言葉を取捨選択して、ある景色、ある感情を、30枚の短編で切り取れればいいと思っていました」

基本的に、食べることは楽しいことだ。しかし、何かままならない状況にあり、その感情と結びついて記憶に残ると、形容しがたい印象の食べ物になる。

子供の視点で描かれた「父の水餃子」で、10歳の僕が食べた水餃子は、父が初めて作ってくれた皮からこねる本格的なものだった。僕は父と母との気まずい雰囲気を察し、そして翌日起きたことによって、水餃子に特別な思いを抱くようになる。

「子供の幼い意識の中では父の水餃子は、まだ“悲しい”ものではないんですよね。たぶん、“薄水色の風景”のようなものとして記憶に残っていくでしょう。そういう世界を描きたかった。私は解決策を書くのではなく、どうしようもないときに人はどうするんだろう? ということを緻密に書いていきたいと思っています。食欲がなかったけれど、いつしか食べ始めていたような、始まりでもあり終わりでもある、曖昧な世界を正確に書きたい」

父・井上光晴に対するコンプレックスが吹っ切れた

1961年、東京生まれ。成蹊大学文学部卒。89年、「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞。児童書の翻訳でも活躍し、01年、初の長編小説『もう切るわ』を発表。04年、『潤一』で第11回島清恋愛文学賞。『しかたのない水』『学園のパーシモン』など著書多数。

父は、92年に亡くなった作家の井上光晴氏。小説家として人間として強い影響を受けたことは、『ひどい感じ−父・井上光晴』に書いた。

「言葉を含めて、物事に対する父の反応を見て、“小説的”とはどういうことなのかを、日常生活の中で教わりました。当初は父の文体にそっくりで、父には絶対敵わないと思うコンプレックスがありましたが、とにかく自由にやってみようと『もう切るわ』を書いて吹っ切れました。一つずつ書きながら、脱却してきました。最近は、井上光晴の娘としてではなく、私の作品として手に取ってくれる編集者と読者が増えて、凄く嬉しい。恋愛小説を多く書くのは、この世で一番、『どうしようもない』ことだから。次は、10代を書いてみたいと構想しています」

(青木千恵)

『ベーコン』・表紙

ベーコン
井上荒野/集英社/1,400円+税

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