Web版 有鄰

480平成19年11月10日発行

[座談会]世界文学をどう読むか
—河出書房新社『世界文学全集』刊行にちなんで— – 1面

作家 詩人・池澤夏樹
フリーライター・永江 朗
河出書房新社『世界文学全集』編集長・木村由美子
有隣堂社長・松信 裕

右から、木村由美子・池澤夏樹・永江 朗の各氏と松信 裕
右から、木村由美子・池澤夏樹・永江 朗の各氏と松信 裕

はじめに

松信日本では、世界のさまざまな国々の文学作品が翻訳され、出版されております。それらは教養として、またエンターテインメントとして、日本人の生活の中に定着をしてきたと言えます。

その中で、「世界文学全集」というものは、単行本とは異なって、「全集」という広がりによって、より多くの作品を紹介する役割を果たしてきました。この11月、世界文学全集としては18年ぶりとなる河出書房新社『世界文学全集』が発刊されることとなりました。

本日は、この全集の刊行にちなんで、日本における「世界文学」「世界文学全集」、あるいは海外文学の翻訳にかかわるお話などをお聞かせいただきたいと思っております。

ご出席いただきました池澤夏樹さんは、作家・詩人として多くの作品を発表されています。海外文学にもお詳しく、書評や翻訳も手がけられるなど、幅広い執筆活動を続けていらっしゃいます。また、今回の『世界文学全集』では、個人編集に取り組まれました。

永江朗さんは、フリーライターとして、さまざまなジャンルの書評を初め、広い分野で執筆をされております。なかでも出版社や書店の事情に精通され、本をめぐる問題についても数多くのご発言がございます。

木村由美子さんは、河出書房新社で多くの海外文学を紹介され、また、『須賀敦子全集』も担当されました。今回の世界文学全集では編集長を務めていらっしゃいます。

言葉の境界をこえる普遍的な深さをもつ作品

池澤夏樹さん
池澤夏樹さん

松信私たちは普通に「世界文学全集」と言っていますが、そもそも「世界文学」とは、どのようなものなのでしょうか。

池澤簡単な話、「世界文学」というのは、翻訳に頼る文学なんですね。文学はある言葉で書かれて、その言葉の範囲内で読まれるのが普通ですが、ある種の作品は、翻訳されてほかの言葉の領域に入っていってもなお値打ちがある。国境や言葉の境界をこえる普遍的な深さをもっている。それは単にいいものというのとは違うと思うんです。そういう作品があって、それをつないでいくと、全体として翻訳による世界共和国みたいなものができる。それを具体的に並べたのが「世界文学」だろうと思います。

この言葉は、最初はたしかゲーテが言い出したんです。あのころ、ドイツ語の文学とイタリア語の文学、フランス語の文学は、イギリスも含めて、みんな教養があるから多分相互に読んでいたんだろうけれど、とても意識するようになったんじゃないか。シェイクスピアは誰それの訳でドイツ語に訳されて上演するとか、そういうことがだんだん広がってきた。国々が並んでいるから、やっぱりヨーロッパからですよね。

永江英語では何と言うんですか。

池澤ワールド・リテラチャーと言います。「エブリマンズ・ライブラリー」はイギリスか。アメリカにも古典を入れた叢書がありますね。例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を英語で読むことも当然あって、その場合はワールド・リテラチャーとして認識されているんだろうと思います。

永江ペンギン・ブックスの背中の黒い本はクラシックスですから古典ですが、あんなイメージでしょうか。

池澤そうですね。多分イギリスは、今はいろいろ翻訳が出ているけど、やはり古典にならないと翻訳しないというところもあったかもしれない。「世界文学」は、評価の定まったものという印象も確かにありますね。

日本では教養主義的な姿勢が80年代まで続く

永江朗さん
永江 朗さん

永江何か月か前に国立国会図書館の倉庫を見学しました。明治期に翻訳されたものを見たら、児童書などは、全部、人名が日本人の名前になっている。

100年前の人たちはこうやって苦労しながら、海外の文学を日本語に置きかえて紹介しなければいけないという使命感を持っていたんだなという感じがしましたね。単純に今の私たちがエルメスやヴィトンにあこがれるのとは全く違って、なんとかして日本人にわかるように伝えなければというのは、今読むと滑稽でもあるし、勘違いもいろいろしているんだろうけれども、ほろりとするような意気を感じますね。

池澤巌窟王』のエドモン・ダンテスが団友太郎とか、けなげですよね。

永江はい。

池澤教養主義というか、勉強をしなくてはというのが最初の姿勢で、旧制高校的教養主義が末端にまでだんだん浸透して、案外長く、戦後ずうっと80年代まで何となく続いていた。

全集という形は松花堂弁当的な日本独自のスタイル

松信全集と叢書はどう違うんですか。

池澤叢書はオープンエンドなんです。全集は尻尾が閉じている。このセット感が大事なのね。「ほかの国にはこういう全集がありますか」とよく聞かれますが、僕が知る限りないんですよ。

個人全集はありますよ。でも、多くの作家のはないんです。日本的なセットの思想、松花堂弁当的なものがどこかにあるから、みんな好きなんだろうと思う。最初にリストを公開して、2年間で1冊ずつ毎月出していきます。一括して予約もできます。そうするとおたくの本棚のここからここまではこの全集で埋まります。そういう売り方が日本では効くのかな。

松信池澤さんは以前、インテリアという位置づけとおっしゃっていましたね。

池澤そう。ちょっと皮肉な言い方をすれば、それもありましてね。つまり、戦後貧しかったけど、ようやく家もできて書斎や客間もできた。本棚があるといい。本棚には何か本が並んでなきゃいけない。まず百科事典が売れました。それから文学全集。その段階で買った、家を建てた親の世代は読まなかったかもしれない。だけど、子供たちは読むんです。そこから始まるんですよね。百科事典だって平凡社は60万セットとか売ったでしょう。家電並みの売れ方ですね。そういう時代だった。それは教養主義だったと思うし、一種の知的先行投資だったと思うし、効果があったと思う。

永江私は1958年生まれですが、父親が買った『世界文学全集』が本棚にありました。父は小学校の教員でしたけれども、実家にあった全集は、どうも父が読んだ形跡はありませんでしたね。やっぱりあれは子供たちが読むんですよ。それを中学生ぐらいから背伸びして読み始めるのが、私にとっても、文学を本格的に読むことになる最初のきっかけだったと思います。

池澤夏樹の個人編集による全24巻・36作品

松信『世界文学全集』を読んで、読者も書き手も育ってきたんですね。

池澤そうだと思います。ただ、「それぐらい読んでおかなきゃ、おまえ恥ずかしいよ」みたいな言い方で外から言われてそろえていたのが、「もういいんだよ、勝手にしても」という個人の判断が立つようになったでしょう。みんなわがままにしてもいいんだ。自分のお金だから何を買ったっていいじゃないかと、そっちのほうが前に出てきて、その辺で多分、教養主義的な考えは一たん消えたんじゃないかと思いますね。

永江80年代のポストモダン的状況の中で、そういうものは一たんチャラにしようよとか、そういうものは恥ずかしいというふうになってしまい、焼け跡にペンペン草も生えないような状態がこの十何年か続いていた。今回の全集は、そこにまた種をまくんだという感じがします。

池澤焼き畑農業ですか(笑)。自分の欲望に忠実でいいんだよというと、軽くて読みやすい本ばかりが前へ、前へと出てくる。つまり骨のある魚は食べないで、切り身ばかり、その次はフィレ・オ・フィッシュになっちゃう。時にちゃんと尾頭つきを一匹で出したいというのが今回の全集なんです。

永江版元としては思い切りましたね。古本屋を歩くと文学全集の値段の落ち方はすさまじい。全集と大百科事典が敬遠されがちな状況の中で全24巻で出すのは大きな挑戦ですよ。

木村一つは、昨年創立120周年を迎え、1940年から刊行してきた世界文学全集の伝統を、今にふさわしい形で集大成したものを出したいという社の意向がありました。一方、編集部では、翻訳書のおもしろさを伝える形を模索していて、ふたつが一致したのです。

私どもは、これまでも『海外小説選』などいろいろな形で新しい世界の文学を紹介してきました。それがこのところ文芸書、とくに翻訳小説は余り売れないということで、優れた作品もすぐに市場から消えてしまう。私は個人的にもすごく海外文学が好きなので、それがとてももったいないと思っていたんです。

永江最初に聞いたときは興奮しました。一つは『世界文学全集』という一まとまりのものが今、新世紀に出るということの興奮ですし、もう一つは、池澤夏樹個人編集ということですね。

個人編集のほうがわがままが言えて印象もつよくなる

松信個人編集というのが最初からのお考えですか。

木村せっかく新しく企画するのだったら、画期的なものにしたいと思いました。そこでまず、従来の文学全集の枠組みをすべてはずして、今の時代に相応しい形は何かと考えたとき、池澤さんが編者を引き受けてくださるなら個人編集でと思ったのです。

池澤さんは、もちろん作家であると同時に評論家でもいらっしゃいます。海外文学はよくご存じで書評集をたくさん出されているし、広い知識もお持ちです。正統的なカノン(必読書リスト)とご自身の偏愛とのバランスもお考えくださるだろうと思いました。

松信池澤さんがお断りになられたときは、どうしようと思われましたか。

木村そうしたら複数の編者かなと思っていました。

池澤僕自身も、仲間を集ってやるとしたらと思ったんです。するとどうしても選択が甘くなる。ぬるい印象になるでしょう。

昔は、英知を集結したんです。しかし各国文学の専門家たちにずらっと並んでもらうと、どこか権威主義的になるんです。研究者が悪いというのではないんだけど、良質の文学を提供するみたいになってしまう。僕はある意味もっといいかげんというか、かえって一人のほうがわがままが言えておもしろいし、印象が強くなると思ったんです。

小さな架空の島国から大国としての日本を見返すような眼差し

永江池澤さんがおっしゃるように、本は単独で存在するんじゃなくて、個人の中でさまざまなほかの本とつながっている。そのつながりが読者に提示される。あくまで池澤夏樹個人編集の世界文学の形なんだと思います。これは池澤さんが東京に住んでいないことと関係がありますか。

池澤僕は世界各地に関心が強くて、ずっとあっちこっち旅をしてきて、それも途上国が多かった。今はフランスに住んでいますけど、興味があるから行ってみようと思う先は、大体が今は栄えていない国、あるいはこれから栄えるよと言われて、本当かなと思っている国だった。

そちらからの見方、それはまさに僕の中のカノンに明らかに反映している。日本を見るにしても、アメリカから見るのではなくて、太平洋の小さな架空の島国から、強烈な圧力をかけてくる大国としての日本を見返すということをやってみるわけです。それが今回も歴然と出たという気はしますね。

永江東京の出版業界の中にいる眼差しとは違う。どこが違うかと言われると困るんですけど、何か微妙なずれみたいなのを感じて、そこがおもしろい。東京にいて、東京の大学で教えている研究者が選んだら、こうはならないだろうと思います。

木村池澤さんの書評もそうですよね。長くやっていらした書評で取り上げられる本とか、書き方でもそういう感じを私は受けるんです。

『オン・ザ・ロード』から『ブリキの太鼓』まで

ジャック・ケルアック

ジャック・ケルアック
河出書房新社提供

永江ケルアックの『オン・ザ・ロード』が1巻目というのがすごい。

池澤『オン・ザ・ロード』は、戦争が終わって価値観が変わり始めて、あのころアメリカ製の30分のテレビドラマが教えてくれた、中流として堅実に生きていくのが幸せなんだというのを蹴飛ばして、全然違うやり方をする。若い連中が上の世代に反抗して「知らないよ。僕らこうやっちゃうんだよ」と、どんどん行ってしまうという大きな変化ね。サブカルチャー的大変化の旗印だった。全然生産的でない。だから、20世紀後半という時代の象徴として最初に出すのにはとてもいいと思ったわけです。

もう一つは、20世紀はアメリカの世紀ですよ。暮らし方も、車と道路とか、すべての価値観において世界全体がアメリカ化した。だから、その意味でもこの時代を象徴している。その意味ではとてもうまくいったと思っているんですけどね。

永江それで最後はグラスの『ブリキの太鼓』ですからね。これはでき過ぎというくらいうまいまとめ方ですね。

ギュンター・グラス

ギュンター・グラス
河出書房新社提供

全世界的なカノンの見直しにそった作品選び

ブルース・チャトウィン

ブルース・チャトウィン
河出書房新社提供

永江チャトウィンの『パタゴニア』の存在も、とてもきいています。

池澤『パタゴニア』にするか『ソングライン』にするか、楽しく迷いましたね。チャトウィンは日本には定着しなかった。僕はすごく好きだし、おもしろいと思うんだけれども、結局、受け入れられなかったので、もう一遍仕掛けたいという気持ちがありましてね。

昔の文学全集と比べると、リースの『サルガッソーの広い海』などがいい例だけれども、全世界的にカノン、基準の見直しというのがあるでしょう。つまり、男性白人優位の世界観から女性の側へシフトする。それから植民地の側にシフトする。少数民族の側にシフトする。それを20世紀後半から今までだったら、ある程度反映できるという気持ちもありましたね。だからフォークナーは入れるけど、ヘミングウェイは要らないということになるんです。

永江なるほどそうか、そうですね。これも入れればよかったなというものはありますか。

池澤それはありますよ。最初はこの倍ぐらいのリストで、いろいろな理由で落としていった。惜しいのはあるし、文学的な尺度とは違う理由で落ちたのもあります。でも、「これだけです」と言って出すところに全集の意味があるので、何が落ちたかは言わないことにします。異論はあるでしょう(笑)。あって当然なんです。それはみんなで議論してほしい。

永江本好きが数人で酒を飲めば、もし文学全集をつくるなら、みたいな話になる。パンフレットを見て「これが入っているの、すごいな」とか、「俺だったらこれを入れるのに」って言うのを楽しみにしている。ブックリストの喜びってありますね。

池澤そう、ありますね。

今の世界を見るには欧米以外の地域や国からの視点が必要

松信今回は、欧米以外の地域や国の作家を意図的に取り上げたのでしょうか。

池澤そうですね。それは意図的だと思います。小説は基本的には、大体が18世紀ぐらいからヨーロッパと、その少し後で、アメリカで中流の市民たちを相手につくられたものですね。そのまねをしながら、例えば日本文学というのができてきた。それから大分遅れて南米やアフリカやアジアの文学ができた。インドネシア文学もヴェトナム文学もそうです。だから、18世紀から20世紀前半までで選ぶと、欧米のものが多くなる。どうしてもそっちに比重がいく。それに対して別の地域の別のことも言っている。僕はそれを読みたいと思いましたね。

バオ・ニン

バオ・ニン
河出書房新社提供

この中で典型的なのは、バオ・ニンかな。ヴェトナム戦争についての小説は、アメリカ側でたくさん書かれた。それをもってヴェトナム戦争を表現することもできるんだけれども、僕はヴェトナムの側からここに一票投じたかったのね。『戦争の悲しみ』はすごくいいんですよ。

ヴェトナム戦争は、ヴェトナムが勝って、大変だったけど偉かったね。僕らも応援していたよというふうな単純な視点になってしまって、実際の話、アメリカの兵隊が苦労した話はいっぱいあるけれども、ヴェトナムの側がどんなに大変だったかというのは見えてないでしょう。それを知るためと言ってしまうと、余りにも歴史的、政治的な選択に見えるけれど、それはそれとしてこの作品はいいんですよ。そういう理由が重なったら選ぶ。

それから『老いぼれグリンゴ』のフエンテス、メキシコもやっぱりいい。メキシコを視野に入れておかないと、今の世界はなかなか見えない。映画がそうですよね。ちょっと目の肥えた連中が、「『バベル』は見た? イニャリトゥ監督ってすごいね。」という話をするのと同じ感じだと思いますね。

20世紀という時代を世界文学はどう書いてきたか

永江今回の場合、これは20世紀文学ですね。だから「20世紀世界文学全集」と言ってもいいのかなと思うんですが。

池澤そうですね。なぜこういうリストになったか。なぜこれを選んだか。僕はあんまり理詰めで決めたわけではないんだけれども、最初に考えたのが、80年代までの評価の定まった古典を並べるんだったら、リストはもうできている。中身を少し変えるとかではなくて、何か違うんだなと思って、最初にざあっと自分の勝手な思いをそのままリストにしてみたんです。そのうち順番が違うんだと気がついた。つまり、ふつうはまず古代に飛ぶんです。それで拾ったり捨てたりしながら今に近づいて来る。ぼくはそれを逆に辿っていた。

今自分たちは、21世紀が始まってこの地点にいる。もっと言えば9・11の後にいる。この世界を文学はどう説くのか、今のあり方を説明するために文学は何を読めばいいかというのが、僕の中に多分あったんだと思います。

第二次大戦が終わって、まずは植民地が独立して宗主国から離れて、それから冷戦があり、ヴェトナム戦争があったけれども、とりあえずは仮に平和が続いて、そしてソ連がなくなって、9・11があって今にきた。その間を、世界文学はどう書いてきたかという視点だったんです、気がついたら。最初にそう思ったんじゃないんだけれど、リストづくりのときに僕の頭で選んでいたのは、そういうものだった。

今の世界を解くものを探そうとするとせいぜい第二次大戦後までです。ただ、ものによっては、今にまでビンビン響いているぞという、フォークナーとヴァージニア・ウルフ、E・M・フォースターなどは20世紀前半のものだけど入れるということにした。

若い読み手たちに何を手渡すか。いろんな国や言語の中で人々はいろんなことをして今世界はこうなったけれど、それはこのあたりを読むと少しわかるよ。もちろん文学そのものへの関心だけれど、それがどこかで今の世界につながっているというのが動機だったみたいです。

9・11以後、突然、政治的に小田実的になった

永江私が思い浮かべたのは、大学の3年か4年のときの、この間亡くなった小田実さんの「世界文芸思潮」という講義なんです。前期はジョン・オカダの『ノー・ノー・ボーイ』、後期はガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』を読んだ。

こういう作品を、70年代の終わりから80年代の頭に読むのは、辺境で書かれたマイナー文学を通じて世界を素手でつかみとるような、とてもアクチュアルなことだったと思うんです。それに小田さんですから「きょうはパレスチナから友人を連れてきたから、講義を休みにして彼の話を聞こう」みたいなことがよくある授業だった。20歳前後のうぶな青年としては「これが世界文学なんだ」って思いました。池澤さんのこのリストからも共通したものが響いてきましたね。

池澤本当にそのとおりだと思います。僕だって例えばこの仕事を1999年にやっていたらこうはならなかったと思う。僕はそんなに政治的人間じゃない(笑)。本来なら冷やかに高見の見物をしていたんですよ。

永江でも、池澤さんのメルマガを読むと、決してそうは思わない。

池澤あれは9・11から始まった。あの前は、例えば、『週刊朝日』のコラムで沖縄を論じるときは、なるべく中央を追い詰めようという気があったけど、それも数回に1回もない。大体生活がらみの小さな話ですよ。それが9・11ショックで、何か自分の中に言いたいことがいっぱいあることに気づいた。あの直後の評論家たちの言っていることは全部見当違いで、腹が立ってしようがない。それでメルマガを始めて、その延長でイラクに行ったりした。あそこから僕は突然、小田実的になっちゃったんです。(笑)

だって、小田さんとたまたまどこかで会って話が合ったもん(笑)。それまでは、大学時代は学生運動はしていないし、ベ平連も見ていただけだし、今になってベ平連の活動はとても興味がありますけどね。何かいつもおくればせに気がつく。よくわからないで選んだけれど、振り返って動機づけをするとそういうことなんですよ。

今の時代に合わせた新訳・改訳も

ウィリアム・フォークナー

ウィリアム・フォークナー
河出書房新社提供

松信今回は新訳や改訳も多いようですね。翻訳者は池澤さんが決められるのですか。

木村そうです。例えばこれは新訳にしたいとか改訳していただきたいとか、あるいは既訳が何冊もあるものは池澤さんがすべてに目を通されて、この方の訳にしてほしいなど。その辺は全部池澤さんがなさいました。

永江36作品の中で、池澤さんがご自身で翻訳されるのは、アップダイクの『クーデタ』だけなんですね。例えばフォークナーなどは、池澤さんが新訳されてもよかったんじゃないかと思いますが……。

池澤1年ぐらい他の仕事を捨ててそれだけやっていられたらいいですけれどね。

永江アブサロム、アブサロム!』は40年くらいたっていますか。

池澤そうですね。ただ、篠田一士訳はいいんですよ。作品によっては、風俗的なものが前に出てきた小説だと、訳し直さないとその点でずれが生じる。例えばアメリカの生活についての僕らの知識の量はすごく増えているから、クリネックスまで説明されると、もうイライラする。だけど、フォークナーの世界は無時間なんですよ。そういう意味で古びることはない。だから、これは新訳を立てなくていいと思ったんです。

永江一点、一点、これはこの訳でいくかとか、細かく検討なさったんですね。

池澤そうです。入れる以上は、既訳のものではだめと言ったのもありますしね。

木村新訳でないと外しますとおっしゃったのもあります。既訳の場合も、訳者の方が手を入れたいとおっしゃる場合が多く、全面改訳が続々です。別の方の新訳もいいんですが、ご本人が何十年かたって、その時期と今とは。

永江勉強が進んだ。

木村それもあるし、時代に合わせた言葉があるとか、著者本人が訂正を入れるというのもあるんです。時間がたって、かつて原書として使ったものではなくて、改訂版を使ってくれという希望が著者から出るものもあります。

永江青山南さんは会う人ごとに『オン・ザ・ロード』の訳は終わったかと聞かれて(笑)「俺はそんなに仕事が遅い、だらしない人間だと思われているのか」って言っていましたけど。

一番親しい感じの文章で読めるのが翻訳の強み

松信池澤さんは、イギリス人はシェイクスピアを難しい、古い言葉で読まなくてはいけないけれど、外国人はそのときの言葉で読むことができるとおっしゃってますね。翻訳にはそういった効用というか、意味がありますか。

池澤翻訳は、新しくできる。それは悪い訳をよくするというのではなくて、本来のものを伝えるのに、よりいい言葉が選べるということなんですね。

日本語の文章そのものが変わることもあるけれど、今の日本人は、50年前の日本人と中身が全然違うんですよ。風俗も生活習慣も変わっている。原作の文章は同じでも、今の我々が一番親しく感じられる文章で読むことができるというのは、とても強いと思うんですね。

シェイクスピアの芝居を舞台にのせるとき、イギリス人はやっぱり現代語訳はしないですね。日本でいえば歌舞伎と同じです。歌舞伎も能も古い言葉そのままでしょう。歌舞伎は解説がつくけれど、文体は変えないですよね。

永江現代英語訳シェイクスピアというのは、本としては存在するんですか。

池澤読むものとしてはある。舞台ではないようです。

永江ギリシアはどうですか。例えばエウリピデスを現代ギリシア語にするとか。

池澤国立劇場は現代語でやってますね。古典ギリシア語はあまりに遠いから。

永江来年『源氏物語』が千年ですが、現代語訳はたくさんのバージョンが出ていますね。

池澤源氏はうまい現代語訳で広まったから、日本のやり方のほうがいいかもしれないですね。

名作は不親切、どう読むとおもしろいかを紹介

永江今、新刊ガイドの仕事などで、純文学中心に、毎月10冊、20冊と、比較的若手の新作を読むんですが、正直に言ってしまえば、つまらないわけです。ガツンとくるのがない。身の回り半径3メートルぐらいの話をチマチマと書いた、アメリカで80年代にはやったミニマル小説みたいなものの日本版が今、主流なんですね。そういうのばかり読んでいて、たまに古典とか、名作とかを読むと全然違う。

この間デュ・モーリエの『レベッカ』の新訳が出て、『レベッカ』なんて大っきらいだったんだけど、読んでみたらやっぱりおもしろい。あと、ここ数年は年にワンテーマ決めていて、毎日ちょっとずつ読む。去年は『ユリシーズ』だったんです。ああいうものは、同時代の半径3メートルを書いた小説とは明らかに違う読書体験で、それは何年たっても残る。その快感をどうやって伝えるかというのは難しいですね。

池澤難しいです。この先の僕の仕事は、毎月の月報にちょっとした文章を書く。翻訳者の方は、解説をつけられる。それは、極めて学術的に正確で、作者の全容を景観するようなものになることが多いであろう。僕はただただイントロダクションとして、これをどう読むとおもしろいかとか、大体どういう話で、勘どころは何であるかというのをそれらしく書く。

1冊読み終えた達成感で読書の癖をつける

池澤読み始めても、慣れてないとつまずくんですよ。名作は不親切だからそんなにわかりやすくできていないんです。名前はみんな片仮名だから覚えにくいし、風俗もわからないことが多い。そこを手を引いて、読者が自力で動けるところまで連れて行く。そういう文章を書こうと思っているんです。

まず『オン・ザ・ロード』を読んでおもしろかった。じゃ次も読んでみようと思わせるように、何とかつなぎのところを手伝おうとは思っています。

『オン・ザ・ロード』・表紙

『オン・ザ・ロード』
帯写真/藤原新也
河出書房新社提供

木村例えば『オン・ザ・ロード』(旧題『路上』)も、タイトルは知っている人は多いと思いますが、長い作品ですし、最後まで読み通していない方もいらっしゃると思います。今回の青山さんの新訳はすごくスピード感もあるし注なども詳しくつけてくださったので、最後まで楽しく読める。それで池澤さんの丁寧な月報がつく。

マリオ・バルガス=リョサ

マリオ・バルガス=リョサ
河出書房新社提供

今回の全集に『楽園への道』が入っているバルガス=リョサなども、大部な著作が多い作家ですが、彼の物語の世界にいったん引き込まれると、すごくおもしろくてやめられません。

1冊大きいものを読み終えた達成感は、それだけにすごく大きいものです。読者にはそういう体験をしてもらえるととてもうれしいし、何か新しい娯楽の道が開けると思うんです。

松信知り合いの女子大の講師が、授業で、1年間で3冊の本を読んで書評を書かせるんだそうです。途中でだらけてくるのを、何とか励まして、文字だけの何百ページもある本を読ませると、最後にはすごく感激するというんですね。おもしろかったという味わいを持たせるのが秘訣じゃないでしょうか。

木村池澤さんのおっしゃる読書癖というか、読書の習慣をつけるといいんですね。

名前をメモすると海外文学は読みやすくなる

永江池澤さん、海外の文学を読むのときのコツってありますか。読み慣れない人へのアドバイスは。

池澤面倒くさいようだけど、人の名前をメモするといいんですよ。人の名前と人の関係がわかると途端に話が広がるから。何をしていたやつかなって、自分でちょっとずつ書いていく。作家は誰かを出したら、その人を記憶してくれるように姿にしても、しゃべり方にしても、何かそこに修飾をしています。名前を見るたびに、あいつだなとわかるような工夫はしているんです。だから、ちょっとメモったらいいですね。

電車の中はそうはいかないかもしれないけど、勉強とは違って鉛筆をわきに置いておくのは悪くない。ぐっときたところにちょっとマークするだけでもいいんですよ。

永江なるほど。名前を暗記すれば、海外文学は攻略できる。名前のメモですね。

松信少しの努力と工夫で、大部な本でも読むのが楽しくなるということですね。

池澤せっかくだから、楽しむためには、自分から積極的に一歩踏み込むのもいいと思います。今回も入っているフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』なんか人名のメモがないととても無理ですよ。

木村そういう意味では、ガイドとなるような仕掛けというか、出版社もいろいろな形で努力していかなければいけないのでしょう。ハードルを何とか低くして楽しみに持っていく。読者と書物とのかけ橋をどうつくれるか。そのような工夫も必要だと思います。

バブルのころから日本人は外に対して閉じてしまった

永江私が学生だった70年代の終わりから、80年代の初めは、気のきいたやつはみんな海外文学を読んでいたという感じがしますね。教養主義とは違う、海外文学は格好いいんだという気分もあったけど、いつごろから同時代の海外文学は余り読まれなくなったんでしょう。

池澤バブルがあったせいでしょうかね。どこかで日本人が外に対して閉じてしまったんだと思う。関心を持たなくなった。アメリカ文化だけを、あるいはフランスならブランドものだけを見ていたかもしれない。だけど、日本以外のところへの興味というものがスーッと引いちゃったような気がしましたね。

旅行の仕方にしても、貧乏旅行という伝統は細々とずうっとあったけれども、あるときから格好悪いことになったでしょう。「何でも見てやろう」じゃなくなった。それで細々と続いた人たちは、むしろマニアックに、ディープになって、インドならインドだけを極めるとかいうほうへ行ってしまって、何か本当に閉じたという気がした。

永江ピンチョンの『ヴァインランド』なんか、内容は日本も出てくる荒唐無稽なおもしろい話で、80年代の頭とか、70年代だったらもっと話題沸騰で、ワーッとみんな飛びついたのになという感じがした。

期待通りに満足できるのは本当の読書じゃない

池澤その後は今度はアメリカで仕掛けられたベストセラーのたぐいがそのまま売れる。一番いい例が、この間のダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』、あの手のものは仕掛ければ売れる。でもあれは世界文学じゃないですよね。(笑)

永江版元も世界文学とは言わずに海外エンターテインメントと言っている。(笑)

松信このところ、書店の店頭では、例えば、泣けるか泣けないか、そういうことが価値判断の基準になっているといったことが続いていますよね。

永江私は“自動販売機”小説と呼んでいますが、きょうは泣きたいなと思ったら、「泣ける」というボタンを押して、期待どおりに泣いて満足しました、笑いたかったら「笑える」を押す。でも期待したものがそのまま出てきてそれで「よかった」というのは、本当の読書じゃない。

池澤一言で言えば、それは消費なんですよ。消費にすぎない。だから、一晩泣いたらその本はもうおしまいになっちゃう。でも世界文学はしつこいんですよ。(笑)

永江そう、何が出てくるかわからないびっくり箱ですね。

畏怖の念をもって読んだ作品を選ぶ

永江この全24巻は現代の日本人の作家、とりわけ若手の作家への痛烈な批判になるんじゃないですか。君たち、これだけの世界を知って、今小説を書いているのかというのを突きつける。

池澤僕はもっと心がやさしいですからね、僕としてはこれは支援キットですよ。作家を目指すんだったら、わきに置いておくと勇気づけられますよ。挫折するかもしれないけど(笑)、どっちにしても一つの物差しとして、世界水準はこのぐらいになっているんだというつもりはありますね。きりっとした短編を書くんだったら、カルヴィーノを読んでごらんよって。

昔だったら一通り読んでから書いたんですよ。時には、僕なんかそうでしたが、一通り以上に読み過ぎて、こんなものは俺に書けるはずがないと思って、いつになっても書くのを始めなかった。最初から位負けして、ずうっとぐずぐずしていた。それもまた問題です。ただ、文学にどれぐらいの底力があるかを知らないまま書いて、それで書いたつもりになって小さくまとまってしまう。世界全部を見てきたような顔をしているけどご町内を一周してきただけというのでは、すぐ書くことがなくなっちゃうんですよ。あるいはミニマリズムの小さなスパイラルに入ってしまう。

だから、少し重厚長大なものを自分の近くにドンと置いておいて、負けないぞ。ここまでは行けないにしても、ともかく世界にはこんな文学もあるんだということを、どこかで意識してくれるといいなと思うんです。どうせ嘘ならでかい嘘の方がいい。

永江これを読んだら日本の現代作家はみんな失業するんじゃないかな(笑)、という感じもしますね。

池澤「スゲエ!」と思ってほしいですね。すごい作品は、作家として見れば、どうしてこんなものが書けたんだろうと畏怖の念をもって読むわけです。どうして一人の人間の頭からこんなものが生まれるんだろうと、舌を巻く。僕がそういう視点で選んだものなんです。

小説を読むことは別世界にいける短い旅

松信パンフレットには池澤さんの「世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。それを体験してほしい」という一文がありますね。

池澤これ、いいコピーでしょう(笑)。やっぱりそうだと思います。いろんな生き方があるし、いろんな人がいて、いろんな物語がある。俗に言えば、喜びも悲しみも非常に深い。それを全部書けるのが文学だと思いますね。

今の日本は、下流の人はいても、下層はいないといわれていますよね。みんなそこそこ食べていけて、適当に遊び回って、戦後しばらくのあのすさまじい貧乏もないし何となく楽に暮らせる。だから、少し強烈な話も突きつけてみたいと思いました。

永江そうですね。若者もですけれど、中高年もまた読んで思い出してほしいという気もします。私自身、若いころ読んで楽しかったけど、中年になってから読む文学は格別だなと思いますから。出世ももう関係ないし、女の子にもてようとかいうのもなくなって、純粋に本と向かい合って読めるようになったら、ほんと楽しいですよね。

池澤「足元を見ていた視線を上げて、遠くを見てください」に尽きますね。いろんな国、いろんな人、いろんな文化がある。言葉もある。これは、格安チケットで海外に出るよりも更に安いですからね。(笑)

松信旅ですか。

池澤そうですね。小説を読むというのは短い旅でしょう。読んでいる間は別世界に行っているんですよ。それで帰ってくる。そういう意味ではまさに旅です。実際の旅を随分した僕が言うんだから、これはいい旅なんです。

松信長時間ありがとうございました。

池澤夏樹 (いけざわ なつき)

1945年北海道生れ。
著書『虹の彼方に(池澤夏樹の同時代コラム)』講談社 1,600円+税、『静かな大地』朝日文庫 1,000円+税、ほか多数。

永江 朗 (ながえ あきら)

1958年北海道生れ。
著書『新・批評の事情(不良のための論壇案内)』原書房 1,500円+税、『ブックショップはワンダーランド』六耀社 1,600円+税、ほか多数。

木村由美子 (きむら ゆみこ)

1949年神奈川県出身。

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