Web版 有鄰

478平成19年9月10日発行

横浜の関東大震災を調べる – 2面

今井清一

東京は大火災、横浜は大地震

1995年(平成7年)1月に阪神・淡路大震災が起こったとき、1923年(大正12年)の関東大震災下の東京は引き合いに出されたが、横浜が比較の対象にされることはなかった。大阪といえば東京、神戸といえば横浜を対応させるのが普通だ。

地震の性格は違うが、阪神・淡路大震災の神戸と、関東大震災の横浜とは、密集した市街地での激震と大火、鉄道・橋・道路の破壊による孤立、港湾の役割など共通する問題も多い。それなのに横浜が対比されなかったのは、横浜の関東大震災の研究が乏しく、はっきりしたイメージが浮かんでこなかったためだろう。

横浜市域

横浜市域
(アミの部分が関東大震災当時の市域)

関東大震災は「東京は大火災、横浜は大地震」とよく言われる。東京では地震よりもそれで起こった大火災が大きな被害を出した。荒れ狂った火が避難民の逃げ道を奪い、3万8千余人が焼死した被服廠跡をはじめ、各所で多数の人々を焼き殺した。

「横浜は大地震」というのは火災が激しくなかったわけではない。横浜では地震が激烈なだけ、火元も一層多く、火足も早く、倒れた家の下敷になった人々が助けを呼びながら焼死する様があちこちに見られた。ただ都市が東京ほど広くなく、家屋の少ない地域も多いので、東京ほど延々と燃え続けることはなかった。

当時は東京も横浜も大規模な市域拡張の前で、比較的市域は狭く、面積は、東京市が横浜市の2倍強だったが、人口と世帯数は東京市が226万人と48万戸、横浜市が44万6千人と10万戸足らずと、東京は横浜のほぼ5倍で、密集市街地で埋まっていた。

東京市は実に30万戸が焼失、全半壊が1万戸で、4割近くが残ったが、横浜市は焼失6万戸、全半壊は2万戸前後で2割足らずの家しか残らず、避難先もなかった。東京市の死者・行方不明者は10万人を超えるといわれたが、最近の研究では7万人を欠ける程度とされる。横浜の死者は2万3千人ほどであるが、人口に対する死者の比率は東京より高い。

東京の被害は下町に集中した。当時の15区のうち焼失世帯は、隅田川を挟む本所、浅草、深川、下谷、京橋、日本橋、神田の7区に9割以上が集中し、死者は4分の3ほどを占める本所と、深川・浅草の3区で9割を越す。この7区は、22年後の1945年3月10日の東京大空襲の目標地域でもある。だが山手の被害は軽かった。

加賀町・伊勢佐木町署管内に死者が集中

倒壊した横浜税関付近から大桟橋を望む

倒壊した横浜税関付近から大桟橋を望む
横浜開港資料館蔵

横浜市にはまだ区がなかったので区別の数字はない。地域別の被害としては、小池徳久著『横浜復興録』に市内7警察署管内別の罹災人口実数表があり、『震災予防調査会報告第百号甲』の中村左衛門太郎報告の中にある被害世帯表で補うと、ほぼ判る。

これで見ると、横浜市の死者は加賀町署管内7千余人、伊勢佐木町署管内1万2千余人に集中し、総数の8割を超える。両者とも、埋立地の繁華街である。関内は加賀町署管内で、関外は、いま大通公園になっている吉田川で二分され、大岡川側が伊勢佐木町署、中村川寄りが寿署管内だった。

関外の死者は伊勢佐木町署管内に集中し、寿署管内の死者は2,072人で、その他の警察署管内の死者数は、戸部署1,007人、山手本町署631人、神奈川署207人、横浜水上署309人だった。管内別の推定世帯数は抜けていて、残存世帯数は不明だ。

加賀町署、伊勢佐木町署両管内に死者が集中した理由は埋立地と繁華街で地震も火災も激しく、それに逃げるのが困難だったことだろう。私の友人の父は、関内の事務所に出勤していたまま帰らず、伊勢山皇大神宮に近い宮崎町の自宅も焼失したが、母が6人の子を無事避難させたと聞いた。震災の被害統計には、現場中心の警察調と、国勢調査にならった住所本位の統計があるので、両者を比較すると加賀町署管内には昼間人口の死者が2,500人ほど含まれているらしい。

一般に建物の倒壊率は、地盤の弱い埋立地で高く、地盤の固い丘陵地では低いが、埋立地の中でも相違はあるようだし、丘陵地でも盛土の上に建てられている場合は倒壊率が高い。山手の丘の学校や戸部の丘の官舎、それに各所の市営住宅などは盛土して建てられ、倒壊しやすかったようだ。

さらに丘陵部の住宅では、倒壊は免れたものの、周囲の低地からでた火が丘を取り囲むように燃え上がって、焼死の危険にさらされた。後の横浜大空襲時の警察の調査でも小丘陵地帯では、家屋の比較的密集地帯からの火炎は最大で50メートルも伸び、丘への避難者の焼死が多かったと指摘された。

関内では横浜公園、野毛方面では伊勢山皇大神宮などで多数の避難民が火に囲まれ、東京の被服廠跡と同様に焼き尽される危険に遭遇したが、いずれも危うく難を逃れた。横浜公園は水道があふれて池になって助かった、とされるが、当時は緑の濃かった樹木の役割も考慮すべきだろう。

それに横浜は、交通機関が破壊されて孤立し、救援の手はなかなか及ばなかった。残存家屋も少なく、ほとんどの罹災者が住む家もなく、せいぜい掘建て小屋を造る程度で放置され、当面は罹災者の多数に他の地域に移ってもらう「疎開」しか策はなかった。

関西府県連合ほか海からの救援

阪神・淡路大震災が起こったとき、私がまず思い出したのは、海からの救援である。陸上の交通機関は地震で破壊されても、海の道は残っている。関東大震災では、大阪と神戸からは9月2日の昼過ぎに救援船が送り出され、競い合うように横浜に向かい、東京からの最初の救援隊より半日遅れただけで、3日午後9時半には横浜港に到着した。

大阪府を中心とした関西府県連合は、全滅状態になった横浜に全面的な救援に乗り出した。横浜には労働力もないので、大阪で一切の材料を加工し、技師、大工、機具、食糧など建築用具と生活用品のすべてをチャーターしたアルタイ丸に積み込み、9月17日、横浜に入港した。緊急の事業なので全力で材料を揚陸し、中村町の揮発物貯蔵庫跡に患者1千人を収容できる仮病院が、26日に工事を完了し、10月1日に開院した。破壊された横浜の病院に代わって医療を行なうので、震災による以外の傷病の治療にも応じるとの「お知らせ」が市町村に配られた。兵庫県・神戸市も工夫をこらして救援に当たった。

だが、ここまで来るのは大変だった。横浜に着いた救援船はすぐに救援に当たろうとしたが、市内が混乱して治安を維持できないとの理由で上陸を許されず、救援物資の陸揚げも拒否された。翌4日に上陸しようと、いったん港内の避難民救助船ぱりい丸に移ったところ、多数の傷病者がいたので、船内で救療を行ない、一班は5日、他の班は6日に上陸し、15日まで東神奈川の神奈川高等女学校で救療にあたった。

3日の夜から5日までという市民が困窮のどん底にあった緊急の2日余り、救援物資を積み、救護班を乗せた救援船を留めたままで救護班の上陸も、救援物資の陸揚げも、なぜさせなかったのか。武装した市民による凶行が続いたのか、飢えた市民による略奪のおそれがあったのか。秩序維持だけを重視して民衆の生活は軽視したのか。いろいろと考えられるが、この点は追究する必要がある。

そうした不穏な事態が収まって後も、救援物資の陸揚げ等は進まなかった。大阪府佐野理事官の9月7日の報告に「横浜市は戒厳令を布かれたるも、東京市の如く陸海軍を以て救護品の陸揚配給に従事せざるため、輸送するも目下陸揚げ不能なり。右御諒察の上輸送するとせば、艀、曳船人夫等を付属せしむるの外なし。その惨状見るに忍びざるも救援方法なし」とある。

その後の報告でも、直接救援事業に従事した陸海軍各司令部、震災救護事務局、神奈川県、横浜市役所等の諸官庁が相互に連絡統一整備を欠く状況なので、大阪府が自ら積極的に、さまざまの困難を押して事業を進めたとある。

「住むに家なき者」10万3千人

上記の疎開も9月7日に鉄道が開通するまでは船によるしかなかった。これには日本の救援船のほか、横浜に寄港した外国商船、それに日本海軍の軍艦、さらに外国から救援にきた軍艦も加わって輸送が行なわれた。外国商船にも欧米人ばかりでなく中国人も日本人も乗り込んだ。海路による避難者は、日本郵船2万余人、大阪商船約1万人、軍艦輸送2万余人等、計5万8,589人に達したという。

鉄道が開通すると、無賃乗車が認められ、横浜駅には多数の避難民が押しかけた。列車は、身動きもできない超満員の状況で、垂れ流しの悪臭が立ち込めた。その後は無蓋貨車が用いられたが、超満員と惨状は変わらなかった。9月末日までに横浜から無賃輸送された人員は28万3,684人に達したとされる。おそらく海路の避難者も入っているのだろう。最大時には横浜から28万人が疎開し、残留者は16万人だったと言われる。だが疎開先での生活も容易ではなく、一休みして帰ってくる人も多かったようだ。

西坂勝人神奈川県警察部高等課長が震災後の神奈川県からの報告を集めた「震災状況報告」を改めて見直すと、10月中旬の「横浜市の罹災民の移動状況」があった。

横浜市には罹災民が戻って人口が漸次増加の傾向にあるが、10月16日の調査では、戸数6万1,910戸、人口27万2,287人で、震災前より16万6千余人の減である。その居住状況を警察署管内別に分類している。「現在家屋に居住する者」は残存世帯に当たるので、世帯数で管内別に多い順にあげると、神奈川7,940戸、山手本町4,280戸、寿3,084戸、戸部2,571戸、伊勢佐木町1,869、横浜水上508艘、加賀町2戸、全体で2万戸ほどで、農村地帯を含むところほど多い。

あと「住むに家なき者」とされるのは、県と市や自分で造ったバラック以外の、他人の家に同居、校舎寺院等、自己の掘建て小屋、その他に住む者、で、合せて2万4,240戸10万2,849人で、全体の4割にのぼる。16万人減ったうえ、4割が住む家がない。これが震災後1か月半の横浜市民の窮境だった。これには各署管内別の数字があるので、精査すると市内各地域の罹災者の生活状況と復興の様子が追えそうである。

私は近く『横浜の関東大震災』を有隣堂から刊行するが、書きたかった狙いと書き終えて気付いた点を、ここに書き留めてみた。

今井清一氏
今井清一 (いまい せいいち)

1924年群馬県生れ。横浜市立大学名誉教授。
著書『震災にゆらぐ』(記録現代史 日本の百年 5) 筑摩書房(品切)、『横浜の関東大震災』有隣堂 2,300円+税、ほか多数。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.