Web版 有鄰

478平成19年9月10日発行

有鄰らいぶらりい

ひとり旅』 吉村 昭:著/文藝春秋:刊/1,300円+税

昨年7月、自ら点滴の管を引き抜いて亡くなった著者最後の随筆集。

表題は、「研究家の書いた著書も、公的な文書もそのまま参考にせず、一人で現地に赴いた執念」と、「余計なフィクションを加えずあくまで事実こそ小説であるという創作姿勢が全篇に漲っている」という理由からそう名づけたと、夫人である津村節子氏が「序」に書いている。

長編『桜田門外ノ変』のとき、巨大な彗星が現われた現象を凶事の前兆として冒頭に書いたが、時代的に早すぎるとして破棄。続いて水戸藩の海岸線が長いのを考えなかったため、尊皇攘夷に対する解釈がありきたりになったとして252枚も書いていた原稿を庭で焼却、津村さんを唖然とさせている。

『生麦事件』のときは、定説通り、薩摩藩士が英国人を肩先から斬り下げた、と書いた翌朝、背の高いアラブ馬に乗っているのを、下から斬り下げられるものか、と気になり、その日のうちに鹿児島に飛ぶ。そして奈良原喜左衛門という藩士が「六尺豊かな大男」であり、彼の剣法で使った太刀が普通の刀よりはるかに長くて幅も広いと分かり、帰京して「野太刀自顕流の長大—長くて大きな刀で脇腹を払い、肩から切り下げた」と書く。たった2行のためにと編集者は笑ったという。内剛外柔の人柄が良く出たエッセー集である。

夜明けの街で』 東野圭吾:著/角川書店:刊/1,600円+税

『夜明けの街で』・表紙

『夜明けの街で』
角川書店:刊

不倫は文化、などという言葉がまかり通っている今、不倫を扱った小説も多い。しかし、その多くは、話のいわば添え物としての不倫であり、しかも特殊な状況下の恋愛という形のものが多い。

殺人事件を扱ったこのミステリーも例外ではない。しかし「不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた」という書き出しで始まるこの小説では、普通の男が、不倫にのめりこんでいく過程と心理が、実に自然に描かれており、肝心の謎解きより興趣をそそる。

情事を描いて人気のある評判の某大物作家が、若い女と別れる中年男に、「女を社会に帰してやる」といった偽善的なセリフを吐かせる小説があった。その点、「ちょっとした出来心でつまみ食いをして、せっかく築き上げた家庭を壊してしまうなんて愚の骨頂」と思っていた男の不倫には、愛人との間でバランスを取る男のずるさや弱さをちゃんととらえている。

男に心理的負担をかけまいと、懸命に振る舞っていた女が、いったん封印を解いたときのずうずうしいともいえる大胆さも見逃さない。女は、ある殺人事件の容疑者でもあり、その時効を迎えた日、彼女の語る話によって、事件も不倫も思わぬ結果となる。それまでの話にリアリティがあるだけに、まさにどんでん返しを食った思いがする。

もの忘れの達人たち
トム・フリードマン:著/集英社:刊/1,400円+税

この本によると、英国の首相だったウインストン・チャーチルは、記憶に無い相手から「私を覚えていますか」と訊かれると、いつも「どうして覚えていなければいけないんです?」と答えたという。

しかし、チャーチルほど偉くない凡人としては、切符でも小切手でも、何でもなくしてしまうアインシュタイン、自分のコンサートを忘れ、友人と散歩していたトスカニーニ、ティーポットにトーストを入れたアダム・スミスなど偉人賢人の物忘れやうっかりぶりは大きな慰めになろう。

ほとんどが著名人の挿話で228話を収めているが中にはこういう話もある。

1984年、オックスフォード大学図書館クラブの引退したメンバーの集まりで、人々は、ゲストの「老年、もの忘れ、元気でいること」というスピーチを楽しみにしていた。しかしゲストは来るのを忘れてしまった。

この本に何回も登場する英国の作家チェスタトンは、ある日、たいへん重要な約束の時間に遅れそうだと急いで歩いていた。ところが、途中でのどが渇いたので子どものころよく行った小さな店で牛乳を飲み、次に前から欲しかった拳銃を買った。それからようやく自分が急いでいる約束を思い出した。自分の結婚式である。

鐘声
イヨルゴス・セオトカス:著/講談社サービスセンター/1,400円+税

人間の内奥の心理を描いた近ごろ珍しい作品。全体は2部構成で、中心に患者の話を取材した大学教授がいる。

第1話は、アテネ出身の銀行家コスロチス・フイロマチスの体験が、一人称で語られる。彼は腕一本で世界的に有名な銀行家にまでのし上がったやり手。常時はアテネに滞在するが、海外に出かけることも多い。“鐘声”とはニューヨーク滞在中の事件だ。

<突如、夜の中、またしても、水晶のように透き通った、簡素な、子供の遊戯のような、あの鐘の声。わたしは少しの間、眠りと目覚めのあわいにそれを辿っていた。わたしはベッドで起き上がると、灯りを点け、耳をそばだてた。…>

<50を過ぎた人間であれば、何か歪んだところや、自動車修理工場の用語でいわれる、ある種の部品がくたびれたものも出てくるものでしょう。わたしがどうしてもわからないのは、すべての診察に否定的な結果が出ているのに、果たしてこれが弱点なのか、という一事だ。…>

すべて抜群ですといわれながら、わたしの異常はどんどん進んでいく。人間の正常の中にひそむ闇について考えさせられるテーマだ。第2部は「スナック博士とは何者か」。別の面から心の闇が照射される。やや難解だがじっくり読む秋に適した一点。

(K・F)

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