Web版 有鄰

478平成19年9月10日発行

深谷忠記と『傷』 – 人と作品

強姦未遂と放火殺人事件の謎を解くミステリー

fujaya_san
深谷忠記

人間社会の新しい驚きを描く

驚きの結末は、ミステリーの醍醐味である。

「僕が小説を書いている一番の動機は人を驚かせたいからかも知れない。いたずら坊主みたいなものです」

深谷忠記さんの書き下ろし『傷』は、“フィナーレで終らない協奏曲(ミステリー)”(帯より)。強姦未遂と放火殺人――。そして続く事件の謎が解かれ、さらなる驚きの結末が待ち構えている。

物語は、女性弁護士の香月佳美[かづきよしみ]が失意の中にいる場面で始まる。佳美は、深夜の路上で襲われ、強姦魔を刺殺した女性を弁護していたが、「正当防衛」が退けられ、実刑判決が下された。強姦事件が報道されるたび、佳美は20年前に自殺した姉・礼子のことを思う。強姦の被害者になり傷ついた姉に心ない態度をとったことを悔いている。

「礼子の自殺は、妹の佳美らに心の傷を残しました。当初は、礼子の死で傷を負った人々を主役にして書き始めましたが、書く中で出てきた人物に興味を抱き、その人物に物語の重心を移しました。初めの構想とまるで違う話になっていきました」

一方、レストランチェーンを経営する白井弘昭は、礼子の幼なじみで、やはり20年前の礼子の死を引きずっていた。白井の義弟、針生田耕介は、陽華女子大教授で国際社会福祉学者として活躍しているが、タイ人留学生のヤンにセクシャルハラスメントで告訴される。不起訴になったがヤンとフェミニズム研究会の桧山満枝らは治まらず、民事訴訟を起こす。針生田の事件をめぐり、佳美と白井は再会し、強姦未遂と放火殺人というかけ離れたふたつの事件の接点に迫っていく。

「人間は、誰もが善悪さまざまな感情を持っていて、それが表に出るか出ないかです。一見穏やかそうで、言っていることは立派だが、見えないところで人を傷つけている人間が、世の中には少なくないと思う。不況だから心が荒むというより、欺瞞的な人間は人間社会が続く限り、普遍的にいる。僕が一番書きたいのは、そんな人間社会の様相です。今63歳ですが、50歳を過ぎて見えてきたことがいろいろあります。ミステリーとして、整然と謎が解かれる話を書くことが前提ですが、推理小説でありつつ、人間と人間社会の本質的なことを浮かび上がらせたい。トリックだけでない人間社会について新しい驚きを書けたものでなければ、編集者に渡したくないんです」

前作『毒』では、病院を舞台に、ドメスティック・バイオレンスや親族間殺人を扱った。看護師の目を通し、<つい社会的な地位や肩書きで人間を見てしまう。人間、病気になり、さらには死に直面すると、そうしたものが剥ぎ取られた裸の姿が顕れることが少なくない>と書いた。社会に対する目が鋭い。『傷』では、何食わぬ顔で人を利用する人物がいる。

「別の長編、『Pの迷宮』では、記憶の謎を扱いましたが、人間は複雑です。人間は一面ではわからないということが、50歳を過ぎてわかってきたのかもしれない。本を読み、メモをして、何となくもやもやとある事柄を結末を決めずに書いていくと、人物が自然に動き出し、物語ができてきます。結末を幾通りも考え、書き終わっても、ほかの展開はなかったか、考えていますね」

理科系の思考で推理小説を書き始める

1943年、東京に生まれ、千葉県に育つ。東京大学理学部卒。学習塾の経営などをしながら小説を書き、82年、「ハーメルンの笛を聴け」が江戸川乱歩賞の候補になり、85年、「殺人ウイルスを追え」でサントリーミステリー大賞佳作受賞。近著に『審判』『目撃』『佐渡・密室島の殺人』などがある。

「家庭教師のアルバイトをしながら“何か書きたい”と思ったのが始まり。新日本文学会の同人のひとりに“おまえの作品は松本清張のよう”と言われ、僕の理科系の思考と合うかもしれないなと、推理小説を書き始めました」

現在、朝から夕方までパソコンに向かう毎日。その後ひと泳ぎしてきて、夕食後は読書にあてている。

「ずっとひとりで書く生活が、僕は苦にならないんですね。“これだ”と手ごたえを得て書き進むときは楽しいですが、次の展開が出てこないときは楽しくない。生活をしていると、いろいろなテーマがアンテナに引っかかってきますが、謎があざやかに解かれるミステリーに、問題意識を結びつけて書くのは難しいことです。でも、それが好きでやっています」

(青木千恵)

『傷』・表紙


深谷忠記/徳間書店/1,700円+税

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