Web版 有鄰

477平成19年8月10日発行

[座談会]城山三郎—気骨ある文学と人生

評論家・佐高 信
文芸評論家・藤田昌司
文筆業・金田浩一呂
有隣堂社長・松信 裕

右から、金田浩一呂・藤田昌司・佐高 信の各氏と松信 裕

右から、金田浩一呂・藤田昌司・佐高 信の各氏と松信 裕

はじめに

平成13年11月21日 ホテル・ニューグランドで

平成13年11月21日 ホテル・ニューグランドで

松信平成19年3月22日、作家の城山三郎さんが茅ヶ崎の病院で79歳で亡くなられ、5月21日に、「お別れの会」が都内のホテルでおこなわれました。

城山三郎さんは昭和2年に名古屋市でお生まれになりました。昭和30年に文学に本腰を入れることを決意され、筆名を当時住んでおられた地名から「城山三郎」とされ、お住まいも茅ヶ崎市に移されました。以後、お亡くなりになるまでの48年の間に、経済小説、伝記文学、戦争文学など、大変幅の広い作品をお書きになられました。

本紙にも、昭和53年1月に「城山文学に生きる呂宋助左衛門」、昭和59年2月に「二宮尊徳と現代」、平成11年10月「今、歴史に学ぶこと」、平成14年1月には「城山三郎と戦争文学」の4回の座談会にご登場いただきました。

本日は、城山さんと親しくおつき合いをされていた佐高信さん、藤田昌司さん、金田浩一呂さんの3人にお集まりいただきました。

佐高さんはご著書『城山三郎の昭和』の中で、「城山さんは、いわゆる文壇で正当な評価を受けてきたとは言い難い」と書かれていますが、城山さんの文学やお人柄などについて、さまざまな角度からお聞かせいただければと思います。

17歳での軍隊経験が城山文学の根幹に

松信まず、金田さんは城山さんとどんなおつき合いだったんでしょうか。

金田私は平塚に住んでいますので、隣町というぐらいの縁なんですが、奥さんを亡くされてから、やっぱりお寂しかったんじゃないかと思うんです。しばしば平塚においでになって、そばが好きだったんですね。駅の近くにちょっと古風な手打ちのそば屋があって、あるとき城山さんから「あのそば、うまいよ」と言われて私もそこに行き始めて、時々ご一緒しました。

それから、古い喫茶店がお好きで、クラシック音楽が流れているような店が平塚に1軒ありまして、私も時々行っていたので、そこでもお会いしたことがあります。つくねんと一人でいらっしゃるときが多かったですね。

そんなこんなで時々会ってお話を聞きました。「今、何を読んでいるか」とか「どうだった」とか、いろいろ聞かれましたね。

松信お仕事では。

金田インタビューですね。私が、産経新聞の文化部にいるころですから、30年から20数年前ですかね。何を聞いたか忘れましたが、とにかくまじめな方という印象でした。

『輸出』で文學界新人賞、『総会屋錦城』で直木賞を受賞

経済小説から

経済小説から

松信藤田さんは、時事通信の文化部にいらっしゃる頃からですか。

藤田知り合ったのは昭和32年に、『輸出』で文學界新人賞を受賞されたときだったと思います。ああ、なかなかいい作家が出てきたなと思った。その直後に『総会屋錦城』で直木賞をもらったので、随分幅の広い作家だと思った。つまり、文學界新人賞は純文学、直木賞は大衆文学ですからね。

その後も30数年、作品を読んだり、会って話を聞いたり、一緒に酒を飲んだりしましたけれど、一言で言うと、城山さんはどこから切っても同じ人ですね。ほんとにまじめそのもの。

たしか尾崎秀樹さんが言ったと思うんだけれど、城山さんという人は女が書けない人だと。エッチなところもないしね(笑)。だけど、そんなことは必要ないんですね。その根幹にあるのは、やはり戦争体験ですね。

ご存じのように、城山さんは17歳で海軍特別幹部練習生になって、5か月くらい軍隊経験を持った。たったそれだけの経験だけれども、それが城山さんの文学の核心になっていると思います。文学だけでなくて人生そのものの核心ですね。とにかくまじめな人です。死んでもまじめな人です。

恋人に会うような思いだった初めてのインタビュー

松信佐高さんは、どんな形でおつき合いが始まったんですか。

佐高学校の先生をやめて出てきて、『VISION』という経済誌に入った。昔は組合運動でちょっと旗を振ったりしていたのが、全然畑違いのところに入って、何か企業、日本の会社批判の手がかりが欲しかったときに、城山三郎さんの小説を中心にして読んでいったわけです。

それで城山三郎論みたいなのを書いたんですが、1980年に『財界』の元編集長の伊藤肇さんの紹介で城山さんにインタビューをさせてもらった。そのときのリードは自分で書いて、まるで恋人に会うような思いで会いました。

私が「歴史・文学・組織・人間」と勝手にタイトルをつけたインタビューが残っていまして、そのときに、堅くなって入って行ったら、「まあ、余り堅くならずに」と言われた覚えがあるんです。それが城山さんが多分53歳、私は35歳ぐらいのときで、それ以来のおつき合いです。

お別れの会で憲法擁護の精神の継承を誓う

金田先日の「お別れの会」では、辻井喬さん、渡辺淳一さん、それと佐高さんの三人が弔辞を読まれた。どういうわけか文壇だけでしたね。渡辺さんが話されたあいさつが大変おもしろかった。

佐高城山さんと渡辺淳一さんとはどうしてウマが合ったんでしょうね。

金田タイプの違う人にひかれたんじゃないですか。

藤田渡辺さんも、ああいうまじめな人を好きなんですよ。

金田佐高さんが最後に、城山さんの憲法擁護の精神を継いで頑張りますというようなことを言われた。いかにも佐高さんらしいと思って聞いていたんだけど、その次に献花に移ったとき、最初に名前を呼ばれたのは中曽根康弘さんで、要するに護憲じゃないほうの筆頭です。言い出しっぺですよね。あと政治家では小泉純一郎さん、河野洋平さん、民主党の菅直人さん…。

佐高土井たか子さん、あと三木睦子さん。財界人ではソニーの大賀典雄さんがいらしてましたね。

松信護憲に話が及んだときは、佐高さんの声のトーンが高かったですね。いやぁ佐高さん、やっているなと思いましたね。

佐高勲章拒否と護憲と、余計なことを言ったわけですが、それは中曽根、小泉の両氏にぶつける思いがもちろんありました。その後で、城山さんは小泉首相には個人情報保護法でもがっかりしていたんだよというのをコラムで書いてやりました。(笑)

個人情報保護法に強硬に反対

佐高城山さんは小泉首相のとき、個人情報保護法に反対して立ち上がったわけですけれど、あのときは、ちょっと突如という感じがありませんでしたか。

金田突如ですかね、そういう方なんでしょう。そういうことには反対する方なんだろうけど、あれだけ積極的にやるとは思わなかったですね。

藤田私は、そうは思わなかったですね。ただ、個人情報保護法では城山さんは随分強硬に出てるなと思った。何かもう一つ、我々の知らないことがあるのかなと思いましたね。

佐高あれは、城山さんをこの反対運動に引き込んでくれと私が言われて、私が資料を送ったんですよ。それに対する城山さんからの返事もあるんですけれども、その資料を見て、城山さんは、いきなり小泉首相に速達を出すんです。それが2001年の4月です。

それで城山さんに、小泉さんに出した手紙の写しがあったらください、と言ったら、「ないな」と言うんです。城山さんらしい。あれば、それをまた週刊誌のネタなり何なりにして、とこっちは思うわけですね。それからまた引き込んだような感じもあって、あの後は、ちょっとハラハラしていましたが。

金田騒音の防止のことなんかでも激烈な文章を書いていましたね。やっぱり激しいところがある人だなという感じはありました。

藤田熱血漢ですね。

担当編集者の処遇に憤慨、譲らない一面も

評伝文学から(1)

評伝文学から(1)

佐高城山三郎という人をすごい人なんだなと思ったのは、新潮社の編集者の梅澤英樹さんの一件でしたね。

梅澤さんは『落日燃ゆ』の担当で、城山さんに一番近かった編集者だと言っていいと思うんです。その人が定年とともに新潮社から出される。それで飛鳥新社という出版社に行くわけですけれども、そのときに城山さんはものすごく憤慨した。私にも、新潮社に対して何か物申すようなことはできないかというようなことを言われました。

それは難しいんじゃないでしょうかと言ったんですが、城山さんはその前に『小説新潮』に『わしの眼は十年先が見える』という大原孫三郎の評伝を連載されていた。それを新潮社から出さずに、梅澤さんが行った飛鳥新社から出したんです。

それは新潮社にとっては仰天の出来事でして、正直言って飛鳥新社はそんなに大きな出版社ではないわけです。新潮社から出したほうがずうっと売れる。でも、そういうものを超えても大事にしなければならないものがある。城山さんというのは、そういう人なんです。

藤田それがあの人の気骨ですよ。

佐高ええ。それは私もびっくりした一件でしたね。結果的には、文庫版は新潮社から出ましたけれども。新潮社の編集者が城山さんのところに駆けつけても、城山さんの気持は変わることはないわけです。好奇心が強くて、かなり寛容な面もあるけれど、一たん「ノー」となったら絶対譲らない。それは後の勲章拒否の話なんかにもかかわってくるかもしれませんね。

藤田純粋なんですね。

自分からは群れない「人見知りの人間好き」

昭和53年

昭和53年

金田城山さんは文壇の仲間というのは余りいなかったんでしょう。

佐高いないでしょうね。小林秀雄と話をしたとか、大岡昇平とはゴルフを始めてからですね。それまではほとんどない。

金田自分から群れるのがいやだったんでしょうね。

佐高息子さんが「お別れの会」の最後のあいさつの中で「人見知りの人間好き」と言っていましたね。

本当にまじめな人ですけれども、渡辺淳一みたいな人とも変にウマが合う。女性が好きでいろいろする人も許すみたいなね。自分はできないけれども、否定はしない。そういうところがあるんですね。絶対に形の崩れない男と、城山三郎のことを伊藤肇さんは言っていた。城山さんはそんなことはないと一生懸命言っていたけれど、やっぱり崩れないんですね。

作家の中で、一橋大学を出ているというのがかなり特異な位置ですね。もうひとり石原慎太郎がいるわけで、城山さんのほうが先輩ですが、意外に触れ合っていた。石原慎太郎も城山さんを大事に思っていたようで、『わが人生の時の人々』に城山さんが出てくるんですよ。

山歩きに誘ったとき見せたやさしい人柄

金田駒場の近代文学館で何か催しがあった時のことですが、帰りに駅へ行くバスを待っていたんです。そうしたら城山さんが出てきて、スタスタ、スタスタ歩いて行く。「どこに行くんですか」と聞いたら、「駅へ行く、これぐらい平気だ」とスタスタ歩いて行くんです。

足の丈夫な人だなと思って山歩きに誘ったことがあるんです。2千メートルちょっとぐらいの山だったと思うんだけれど、近藤信行という人がいるでしょう。

藤田中央公論社にいた方でしょう。

金田そうそう。彼がリーダーで登ったんです。それで頂上に着いたら、私はヘトヘトになりまして、いきなり座り込んだんです。しんどいなと思って横目で見たら、近藤さんは元気だから、昼飯の支度をしているわけです。彼のほうがちょっと年上だから、先輩が飯の支度をしているのにまずいなと思っていたら、近藤さんが「だらしがないな」というようなことを言うんですよ。まいったな、そろそろ行かなきゃならないなと思ったら、そのとき城山さんがフワッと隣に座って、「あんなこと言ったって疲れたらしようがないよね」と言ってくれた。

藤田やさしいんだよね。

金田そう。やさしいんだよね。その後城山さんに、また山に行きませんかと言ったら、「いや、あれでこりた」と言っていました。山は嫌なんですね。ゴルフみたいに、平地は平気なんですよ。

佐高ゴルフは、不眠症を治すために、丹羽文雄さんに勧められて始めたんですね。上手じゃなかったようですけれども。

文学の師はいないが大岡昇平には傾倒

佐高城山さんは自分には文学的な師匠というのは余りいないんだというような話をしていましたけれど、大岡昇平には随分傾倒しましたね。大岡昇平と、私は横光利一だと思うんです。横光利一、大岡昇平の系譜に城山さんがいる。

横光利一に『家族会議』という小説があるんです。これは経済小説のある種の先駆と言えるんですが、株屋さんの話です。その後書きに横光さんが、日本の知性というのは利息の計算を知らない知性だ。ヨーロッパの知性は利息の計算を知っていると書いているんです。

そういう利息の計算を知った知性というのを、城山さんは書こうとしたんだと思うんです。利息の計算を知らないのは文学少年という感じで、日本はそれが主流だった。そういうときに大岡さんも『酸素』という自分が勤めた会社の帝国酸素を題材に経済小説を書いているわけです。そういう位置づけであるんじゃないかなと思うんです。

金田城山さん自身も言っているけれども、社会的視野のある幅の広い小説を書きたい。だから経済小説家と言われることには、ある程度反発があったんじゃないかという感じはありますね。

佐高ええ。

国や政府からのご褒美は一切もらわない

藤田性格的にも大岡昇平とは非常に共通するものがありましたね。一つ例を挙げれば、国からのご褒美は一切もらわなかったですね。紫綬褒章を断っている。それから芸術院会員を断っていますね。これは共通しているんです。文壇、いわゆる出版社、そういうところからもらうご褒美は読者の代表ですね。そういうのはもらうけれども、政府や国からは一切もらわないというところが、城山さん、大岡昇平さんで共通するところですね。

そこには戦争体験がある。大岡昇平はフィリピンでの戦争体験で、城山さんの場合は少年兵という違いはありますけれどね。潔癖な人だったと思いますね。

佐高大岡昇平さんから女性問題をとった人が、城山さんですよね。(笑)

藤田なるほど、それも言える。

佐高城山さんが大岡さんを書こうとした時期があったんです。新潮社の梅澤さんは大岡さんの担当者であり、城山さんの担当者ですが、「城山さんには無理です」と、むげに言っていました(笑)。『花影』とか『武蔵野夫人』とかの世界は城山さんにはわからないなんて。

城山さんが『風雲に乗る』で書いている日本信販の山田光成さんは、城山さんの小学校の大先輩で、私もお会いして、可愛がってもらったんですが、やはり「城山君にはオンナはわからん」って言っていましたね。

最後まで奥さんを愛しぬいた人

松信とすると、小山容子さんと昭和29年に結婚されますが、これはお見合いですか。

佐高いえいえ、恋愛なんです。あるとき図書館に行ったら休館で、手持ちぶさたにしている人に城山さんが多分粉かけたんだ。一世一代の粉かもしれないです。

当時としては、女の人が男と歩くというのは大変な問題だった。それで小山家では大問題になって、電話もとりついでもらえない。それでしばらく離れていて、城山さんが大学を卒業して名古屋に帰って、友人とダンスホールに行ったときに、偶然、そこで再会するんですよ。

藤田それは知らなかったですね。

金田私も知らなかった。

佐高それで松坂屋の秘書課に勤めていた奥さんから職場の電話番号を書いた紙を渡されるんです。やることはやっているんです。(笑)

藤田私も奥さんには会ったことがあるけれど、いい人でしたね。城山さんは最後の最後まで奥さんを愛し抜いたんだね。

金田そうでしょうね。亡くなられたとき、あれだけガクッときていたものね。

直木賞の選考委員は1回だけで辞退

金田城山さんが直木賞の選考委員をやったのは1回だけでしたね。胡桃沢耕史さんが『黒パン俘虜記』で受賞したときに反対してやめちゃった。

藤田あのとき、城山さんに会ったら、「あなたに話したいことがある」と言われて、翌日電話したら、直木賞の選考委員をやめると言うんですよ。

金田理由は言わなかったんですか。

藤田結局、胡桃沢耕史の文章が気に入らないと。

金田私は、胡桃沢さんも昔から知っていたし、直木賞はこれまでの実績と、これからも書けるかどうかを基準に選ぶんだから、あの作品でもよかったんじゃないかと、城山さんに言ったことがあるんです。そしたら城山さんはぽつりと「だって僕はそんなこと知らないんだもの」と言われた。文壇づきあいがあまりなかったんですね。

城山さんは、3か月に1回ですか、愛知学芸大学で教鞭をとっていた時代の仲間と、集まって文学論をやっていたんですよね。

佐高「クレトス」の読書会ですね。

金田何をやってるんですかと聞いたら、その年の芥川賞の作品も読む、と。最後まで文学青年だったんですね。

大学の恩師を描いた『花失せては面白からず』

評伝文学から(2)

評伝文学から(2)

佐高城山さんの先生が、またすごいんです。『花失せては面白からず』の山田雄三という東京商科大学の先生との、たった2人の勉強会ですね。それが何十年も続いていた。あるとき、もう高齢になったからってテーマを決めずにしゃべったら、後で「この間は世間話でおもしろくなかった」と。城山さん以上ですよね。

金田やっぱり先生もそういう人だったですね。

佐高そのとき先生は多分90歳を越しているはずなんです。それで世間話でおもしろくなかったと言われた。

松信山田雄三先生というのは、理論経済学を専攻していた城山さんがゼミをやめたいと言ったときに、長い手紙を書かれた方ですね。

佐高ええ。城山さんはマルクス経済学にどこか引かれていたんだと思うんですけれども、どっちに進むかというときに、有名な『近代経済学の解明』を書いた、マルクス経済学と、理論経済学の両方にかけるような杉本栄一という先生がいたんです。

城山さんはそっちに入りたかったのかもしれないけれども、そこに相談に行ったら、山田という先生を紹介されてゼミに入った。けれども、社会に余りかかわりのないような学問だと城山さんは思ったんですね。それでやめると言ったら、それは基本的には関係があるんだみたいな長い手紙をもらった。それで『花失せては面白からず』という1冊ができ上がるんですね。

英語は戦後すぐポケットブックスを読みあさって勉強

松信城山さんは『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』の翻訳もされていますが、英語はいつごろ勉強されたのでしょうか。

佐高戦後すぐに、アメリカ兵が置いていった『ポケット・ブックス』というんですか、あれを読みあさったとは言っていましたね。

金田留学じゃないけれど、アメリカにも行っていますね。旅行ですかね。

佐高5か月に及ぶアメリカ1周のバス旅行ですね。

藤田とにかくあの人は1日24時間のうち20時間は勉強している人です。本当によく勉強した人ですね。

松信それと、前に城山さんに伺ったんですが、新聞の朝刊とかテレビはあまり見ない。正確な情報がきちんと取れればいいと話されていた。

佐高「早さよりも正確さを」というのが第一、「情報は腐らせよ」というがの第二の原則です。城山さんは、新聞は早いことは確かだけれども、誤報の場合もあるし、調べてみると、実際と違う場合も多い。そういう情報に振り回され、腹を立てたり悩んだりしても、損だと言われていた。だから、送られてくる雑誌なども、後で読む。

藤田むだな勉強はしないんですよ。

佐高テレビはNHKの国際ニュースとか、語学講座とかでしたね。テレビ神奈川の英語のニュースは、世界のニュースから始まって日本のニュースに入るので、センセーショナルに報道することはない。グローバルな視点で日本の出来事がとらえられると言っておられましたね。

晩年は物語よりテーマ性が前面に

金田佐高さんに聞きたいなと思ったんですが、晩年、城山さんの作品は、物語性より、言いたいテーマとかモチーフが中心になって、それが前面に出てきているんじゃないか。それがいいとか、悪いではなくて、これだけは言っておかなければ死ねない。そこまで思ったかどうか知らないけど、モチーフとか、テーマ性が、晩年になるにしたがって出ているなということを思いましたが。

佐高晩年は、憂国というか、いろんな人に託して指導者像というのをすごく強く出しましたね。私も城山さんにあるとき、今までの城山さんの小説は無名の人が主人公だった。それが有名の人に重心移動したんじゃないかとストレートに聞いたことがあったんです。そしたら城山さんは「ウーン」とうなって、答えはもらえなかった。

私は『望郷のとき−侍・イン・メキシコ』が好きなんです。支倉常長に従ってメキシコに行った仙台藩士百余名が日本のキリシタン禁制令で帰国できなくなり、そこで朽ち果てた。その侍たちを書いた作品で、まさに無名の人たちですね。それが、金田さんが言われたように、『落日燃ゆ』では広田弘毅という有名な人になっていますね。

藤田呂宋助左衛門を書いた『黄金の日日』はその後ですか。

松信『落日燃ゆ』は昭和49年、『黄金の日日』は53年ですね。

金田もちろん、共感できる人を書いたんでしょうが、無名か有名かという範疇でも言えるわけですね。例えば、『雄気堂々』で渋沢栄一の評伝を書いた。渋沢は資本主義にはモラルが必要だということを説いたという。だから、渋沢を出したほうが今の銀行人にはこたえるのではないかという意図もあったのかもしれませんね。

『小説日本銀行』は山崎豊子や高杉良の作品に影響

『粗にして野だが卑ではない』・表紙

『粗にして野だが卑ではない』
文藝春秋:刊

藤田私があまり印象に残らないのは『小説日本銀行』なんですよ。

佐高それは藤田さんのテリトリーではないのかもしれない。例えば、山崎豊子さんの『華麗なる一族』は、『小説日本銀行』が下敷きといか、すごい影響を受けているんです。

高杉良さんの『小説日本興業銀行』もそうです。あれは、『エコノミスト』に連載されているときに、当時の日銀副総裁の佐々木直を中心としたすごい圧力があって、『エコノミスト』の編集長は飛ばされてしまう。そういうすさまじい圧力というか、受難をこうむった小説なんです。藤田さんから見るとちょっとまだるこしいようでも、あの中では大変な抵抗だったんですよ。

藤田財界人の評伝では、私が読んでおもしろいなと思ったのは、『粗にして野だが卑ではない』です。あれは石田禮助という、三井物産から国鉄総裁になって、国鉄を改革した人の評伝ですね。

佐高勲章を拒否した人ですね。

藤田そうです。

無名な人物とは結局、城山三郎自身のこと

昭和59年

昭和59年

松信城山さんの仕事の中で、無名な人物は経済戦士ということなんでしょうか。

藤田無名な戦士ということでは、最初の『輸出』でしょう。南米でミシンを売って売りまくった輸出戦士みたいな、商社の外国駐在員の虚しい生活を書いた。

その後、日本の経済史の中では有名であっても、名前はあまり知られていないという人間にだんだん焦点を当てるようになった。

それが米騒動の『鼠−鈴木商店焼打ち事件』だと思う。米騒動というのはみんな知っている。しかし、あの主人公がこんな人間だったのかというのは知らなかった。それを城山さんが浮き彫りにして、初めて有名にした小説じゃないですか。

佐高結局、無名な人間というのは城山さん自身なんです。戦争のときの17歳の少年、それがリーダーのでたらめによって自分の運命を狂わせられる。それだから無名の人間を描いていったけれど、有名な人間によって自分たちの運命を狂わせられる。有名な人がしゃきっとしなければ困る、ということでずうっと移っていった。

金田そうですね。リーダーがちゃんとしなきゃ困るということですね。

忘れられない作品『一歩の距離』『落日燃ゆ』など

戦争文学から

戦争文学から

藤田軍隊経験のこともいろいろ書いていますが、忘れられないのは、『大義の末』と『一歩の距離』ですね。城山さんは17歳で軍隊に入った。何も知らない純粋な少年兵として入って、そこで目をつぶれ、これから一歩前に出る人間は特攻兵として志願するんだという『一歩の距離』。

それから軍隊に入る前の杉本五郎中佐の『大義』という本、当時それが大変なベストセラーになった。私は城山さんと3つしか違わないんだけど、読まなかったんですが、それが日本の青少年に決定的な影響を与えたんだということを書いているわけです。それがずうっと晩年まで城山さんの『一歩の距離』の大きさであり、『大義の末』の大きさであったと思いますね。

佐高城山さんは、自分は志願したと思ったけれども、あれは志願ではなかった。言論の自由のない当時の社会や国家に強制されたんだということで、特攻隊は志願というふうに美しく言うけれども、全然違うということを繰り返し言われましたね。

藤田そうですね。だから言論の自由が束縛されることに非常な危機感を持った。

「戦争に行かなきゃならん人」と三島由紀夫を批判

藤田城山さんは最初のころから一貫していますね。あの人は作家になる前に詩を書いています。「旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため」、旗を振られてとんがるような、そういうことをしてはいかん。そこからスタートしている。あの精神は結局、最後までずうっと貫き通したと思いますね。純粋な人です。

佐高だから、三島由紀夫という旗振った者に対する批判は、すごく強かったですね。「あの人は本当は戦争に行かなきゃならん人だね」とひとこと言いました。それでばっさり切っています。三島は城山さんより2つ年上で、徴兵検査では虚弱体質で第二乙種となった。最後に入隊検査は受けたんですが、当日は風邪を引いて高熱だったために帰郷を命じられ、結局、戦争に行かなかった。

角川書店の『昭和の戦争文学』も、岩波書店の『伝記文学選』のときもそうでしたけれども、城山さんと対談をやっていて18歳年下の私が往生するほど純粋でしたね。つまり、太宰はだめだと言うんですよ。「死ぬ、死ぬ」と言いながら死なない。私が、そんな純粋に生きられない人もいるでしょうと言うと、「それは俺には関係ない」と。それで『二十歳のエチュード』と言うんです。太宰だって、それなりに苦しんでいるでしょうと言うと、「俺は知らない」と言う。

金田そこら辺は三島と一緒じゃないですか。

佐高藤田さんが言われるように、正直言って、17歳か18歳でそのまま時間がとまった感じの人ですね。(笑)

『落日燃ゆ』は広田弘毅がのり移ったような気持で書く

『落日燃ゆ』・表紙

『落日燃ゆ』
新潮社:刊

松信金田さんは、何を推薦されますか。

金田私は、短編がうまいんでびっくりしたんだけど、佐高さんが解説を書いている『イースト・リバーの蟹』はおもしろかった。ただ、1冊と言われると、やはり『落日燃ゆ』です。

松信『落日燃ゆ』は言うまでもなく、東京裁判で文官では唯一、A級戦犯として絞首刑になった広田弘毅が主人公ですね。

藤田『落日燃ゆ』は、日本の戦争の歴史を知る上でも必読の本だと思いますね。これは城山さんでなければ書けなかった。

佐高城山さんは伊藤肇さんに宛てた年賀状に、広田弘毅が自分にほとんどのり移っているみたいなことを書いたらしいですね。

それと、大岡昇平さんの尽力で広田さんの遺族を取材できたことがものすごく大きいですね。それまで一切取材には応じていなかった。広田の長男の弘雄さんと大岡さんが幼なじみで、城山なら信頼できるからと説得してくれて、広田の秘書をやっていた三男の正雄さんも取材できた。

だからあの中ですごいエピソードというか、びっくりするような天皇の話があるんですね。天皇は広田が首相になったときに「名門をくずすことのないように」と言った。広田は石屋の伜なんです。それから海軍と陸軍の今年の予算は大体このぐらいだということを天皇が言ったというのが書いてあるんです。

金田あそこはぎょっとしましたね。

佐高すさまじい話ですよね。本当に爆弾が入っているんです。

金田あと、『毎日が日曜日』も読み直したけど、おもしろいですよ。帰国子女の問題が出てくるんですが、これを取り上げたのは城山さんが初めてだと、解説で常盤新平さんが書いている。そういう先見性もあった。

最初と最後の特攻隊員を書いた『指揮官たちの特攻』

平成11年

平成11年

佐高私は『真昼のワンマン・オフィス』とか、先ほど言いました『望郷のとき』とかありますが、『落日燃ゆ』も落とせない。『粗にして野だが卑ではない』もいい。

あとは一番最後の作品になった『指揮官たちの特攻』ですね。これは特別攻撃隊の第一号になった人と、8月15日の玉音放送の後で飛び立った最後の特攻隊員の2人を軸にした話です。

城山さんは、最後の特攻隊員になった中津留達雄さんの母親に話を聞くんです。月夜の晩に海岸に出る。息子が泳ぎが得意で、もちろん戦死した。亡くなったのは聞いているわけですけれども、万一泳いでくるかもしれないと岸壁の母みたいな話を聞いたときに書けると思ったと、城山さんは言っています。

金田この2人は海軍兵学校の同期なんですね。

佐高残された家族たちのその後という部分もあるんです。城山さんが亡くなってから、息子さんに聞いた話ですが、若いころですか、酔っぱらって戦友たちのもとに行きたいと泣いていたと。子供にしか見せない姿なんでしょうけれども、その話は私もびっくりしました。

金田それはいつごろの話ですか。

佐高息子さんが小さいときだったようですから、結構若いころじゃないですか。つまり、死にたいということですよね。

金田そういう思いがあったんですね。

戦争を書ける作家がいなくなった

藤田戦争文学ということで言えば、城山さんが亡くなって、最後に残っているのが伊藤桂一さんだけになりました。

ただ、同じ戦争文学にしても、城山さんの場合は戦争体験というものを非常に自伝的にとらえた戦争文学であり、伊藤桂一さんの場合は、中国戦線での戦争体験を書いた文学である。戦争文学の質が全然違いますね。

そうすると、この後どういう戦争文学が出てくるのか、ちょっと見当がつかない。というか、戦争を書ける作家がもういなくなったんじゃないですか。

金田この間、阿川弘之さんとお話したんですが、40代、50代にどんどん書いてほしい。つまり、イデオロギーなしにそういう真実を見つめることを今やらないと、戦争体験者はどんどん死んじゃうから、今のうちに聞いて書いておいたほうがいいと。

佐高『落日燃ゆ』がそうなんですけれども、つまり、なぜ広田弘毅が死刑になるのか。

進駐軍は、日本にもシビリアン・コントロールというものがあると思って来るわけです。イギリスやアメリカはシビリアン・コントロールがある程度ある国だから、あると思って来るので誰か文官をという話になってしまった。

ところが、日本には、はっきり言ってそれはなかった。その辺で近衛文麿が自殺し、松岡洋右がその前に死んで、広田しかいないみたいな話になってしまった。

だから、藤田さんが言われたように、戦争そのものはいろいろ書けるかもしれないけれども、そういうシビリアン・コントロールのないみたいな日本、日本のある種の特殊事情みたいなものを書ける人は、城山さんで最後なのかなということですね。しかし、日本の場合はそれが逆にものすごく大きいですね。

金田広田さんは外相だけじゃなくて、首相をやったのがまずかったんですかね。

佐高それもそうだけれども、シビリアン・コントロールということで言うと、吉田茂なんかよりずうっと抵抗しているんです。吉田のほうがあまり平和工作をしていませんよ。ただ、最後に憲兵に捕まったから免罪符みたいになっているんですけど。

現地調査し、実際に接した人と会うのが人の心をつかむ由縁

金田佐高さんが書いていたけど、城山さんのいいところは、外地に行った日本人の人間的な弱点までちゃんと書いていますね。出世したいけど、どうとかこうとか、当たり前と言えば当たり前なんだけどね。

藤田城山さんは、単に文献を読んだり、人から話を聞いたりして書いているだけじゃなくて、現地を全部調査している。例えば真珠湾攻撃だって、ハワイに行って見てきているし、アメリカに5か月も行ったというのも現地調査なんです。そういう意味で、ただ文献と資料で書くのではなく、実際に接した人間を見てきている。それが作家として読む人の心をつかむ由縁でしょうね。

金田ただ、城山さんはうたわないんだよね。司馬遼太郎みたいに、ワーッと枝葉が広がらないというか、うたわない。だからまじめに、それこそ見たこと聞いたことを、もちろんフィクションもあるんだけど、端的に書く。

松信それではこの辺で、ありがとうございました。

佐高 信 (さたか まこと)

1945年山形県生れ。
著書『城山三郎の昭和』角川文庫 514円+税(品切)、ほか。

藤田昌司 (ふじた しょうじ)

1930年福島県生れ。
著書『作家に聞いたちょっといい話』 素朴社 1,262円+税(絶版)、ほか。

金田浩一呂 (かねだ こういちろ)

1932年宮崎県生れ。
著書『文士とっておきの話』 講談社(品切)、ほか。

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