Web版 有鄰

474平成19年5月10日発行

[座談会]鎌倉の廃寺を語る−中世都市の栄枯盛衰−

鶴見大学文学部教授・岩橋春樹
神奈川県立金沢文庫学芸課長・西岡芳文
鎌倉市教育委員会 史跡永福寺跡調査研究員・福田 誠

左から、福田誠・岩橋春樹・西岡芳文の各氏

左から、福田 誠・岩橋春樹・西岡芳文の各氏

はじめに

仏法寺跡(手前)と鎌倉市街

仏法寺跡(手前)と鎌倉市街
鎌倉市教育委員会提供

編集部12世紀後半、源頼朝によって幕府が開かれた鎌倉には、数多くの寺院が建立されました。しかし、頼朝が創建した勝長寿院[しょうちょうじゅいん]や永福寺[ようふくじ]などの壮麗な寺院も、長い年月を経て、次第に衰微し、滅亡していきました。廃寺となった鎌倉の寺の数は、250を超えると言われています。

本日は、鎌倉に本拠を置いた源氏や北条氏、あるいは足利氏などによって創建され、滅んでいった寺院について、その歴史や寺のあった場所、発掘調査による考古学的な成果、さらに、わずかに残されている遺品をご紹介いただきたいと存じます。また、古文書調査から廃寺の新しい例も見つかっているようですので、それらについてもお教えいただきたいと存じます。

ご出席いただきました岩橋春樹さんは、鶴見大学文学部教授で、日本美術史をご専攻でいらっしゃいます。鎌倉国宝館副館長などを歴任され、鎌倉の廃寺に関する展覧会を開催されたご経験もお持ちです。

西岡芳文さんは、神奈川県立金沢文庫学芸課長でいらっしゃいます。中世史がご専攻で、金沢文庫には鎌倉北条氏ゆかりの古文書が多数残されており、それらの調査も担当しておられます。

福田誠さんは、鎌倉市教育委員会が永福寺跡でおこなっている発掘調査の調査研究員でいらっしゃいます。近年の鎌倉の考古学的成果は大変興味深いものがあり、それらをご紹介いただきたいと思います。

源氏の菩提所・勝長寿院と鎮魂の寺・永福寺

勝長寿院の碑

勝長寿院の碑

編集部源頼朝が、鎌倉で一番最初に開創した寺は勝長寿院ですね。

岩橋勝長寿院は、元暦元年(1184年)に頼朝が父の義朝の菩提を弔うという趣旨で建てた寺で、源氏の菩提所的な性格を持っている。

永福寺はちょっと違って、義経とか奥州藤原氏の鎮魂という形で、文治5年(1189年)に数万の怨霊をなだめるために建てられる。そうした性格の違いがあります。

福田永福寺は『保暦間記[ほうりゃくかんき]』には、池禅尼の追善のためと出てきます。池禅尼は平治の乱のとき、幼かった頼朝の命を助けていますので、なかなか意味のあることかなという気がします。

編集部勝長寿院は今はどうなっているんですか。

福田滑川[なめりかわ]を大御堂[おおみどう]橋で渡ったところに大御堂ヶ谷という谷戸があり、その中だろうということはわかっているんですけれども、住宅地で家が込み合っていますので、細かい建物の配置とかは、今の段階では無理だと思います。

岩橋石碑が立っていますね。平場があって、お寺の跡は確認できるんですが、具体的にどこにどういう伽藍配置であったかというのは正確にはわからないですね。

永福寺跡からは3つの建物跡と浄土庭園が出土

永福寺の伽藍配置図

永福寺の伽藍配置図
鎌倉市教育委員会提供

岩橋それに対して永福寺はある程度把握されつつあるというか。

福田ほとんど掘り尽くしたというか(笑)。永福寺の跡は、幸い史跡指定が早かったおかげで、勝長寿院のように宅地化の波にのみ込まれなかったのが一番の大きなことかなという気がします。

たしか昭和56年から確認調査が始まって、本格的には昭和58年から平成8年まで、14年間ほど調査が継続され、指定地内の12,000平方メートルぐらいの調査が大体終わっております。

頼朝ゆかりの大寺院とされていて、記録はたくさんあるけれども実態がわからない、幻の寺などと言われていたんです。調査によって、頼朝のつくったころから始めて、寺の中の移り変わりをかなりとらえられたことが一番大きな成果だと思います。

編集部確認されたのは、お堂の跡が3つですか。

福田二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の3つのお堂が中心になっていて、それが廊下でつながり、さらに前面の大きな池に向かってまた廊下が延びていく。池の真ん中に橋がかかっていた、浄土庭園と言ったりしますが、今までの鎌倉にはちょっとないお寺の形態ですね。

漆工芸品や鎌倉初期の仏像は平泉との関係が強い

岩橋永福寺は、美術工芸の面で、平泉との関係を考慮したほうがいいという考え方があります。先日、中尊寺の金色堂の修復にかかわってこられた漆工芸の中里壽克[としかつ]先生の講演があって、金色堂の四天柱の蒔絵様式から、恐らく4つの工房が存在しただろうといったお話がありました。藤原氏の滅亡後、その工房はどうなったのだろうというところまで触れられた。

中尊寺の漆工芸品と永福寺で出土した漆工芸品はどこか脈絡を感じさせる。そうした関係も問うべき課題だと思います。

成城大学の清水眞澄先生も鎌倉初期の仏像について、京都から真っすぐ鎌倉に来たというよりも、平泉経由という考え方を提唱されている。永福寺は、鎌倉の初期の美術工芸、文化万般の成立を考えるうえで重要な存在です。

勝長寿院は、文献でしかわかりませんが、南都仏師の成朝[せいちょう]が鎌倉に来たとか、京都直輸入みたいな形でいろいろな調度を整えている。それに対して永福寺は、中尊寺を相当意識しているような気がしますね。その辺に永福寺の特色があるのかなと思いますが、まだ推定の段階です。

福田今確認されているのは、焼け残ったようなものを池の中に投げ込んだみたいな形で出ているんです。弘安の火災のときの焼け残ったものかなという気がします。

岩橋螺鈿[らでん]製品は、当初のものでいいわけですね。

福田多分当初のもので、弘安3年(1280年)までは火災がないので、そのときにいろんなものが焼けてしまったのではないでしょうか。

山の上から出土した永福寺経筒は独特の造形感覚

永福寺跡出土の経筒

永福寺跡出土の経筒
鎌倉市教育委員会提供

編集部永福寺の一画から経筒が発見されましたね。

岩橋山の上から経筒が出るとは思わなかった。私も出たときに行ったんです。スラリと長い、経筒一般の姿形を想像していたら、すごくずんどうで、造形感覚が独特だなという気がしました。ドラム缶を縦につぶしたような感じですね。頭の宝珠も重厚だった。

福田高さは鎌倉で出ているほかの経筒と大差はないんです。口径が大きいので、たくさんものが入る。あれは出たときから倒れている。埋まったときに倒れたんじゃないかとよく言われるんですが、もともと寝かして甕の中に入っていて、宝珠の位置が二階堂のほうを向いている。それが何か意味があるのかなという気がします。

応永のころまでは存続し、火災でダメージを受ける

編集部永福寺はいつごろまで続いていたんですか。

福田よくわからないんですが、だんだん寺としての経営が傾いていく。最後は火災が大きなダメージを与えていると思うんです。それも、お寺が大きければ大きいほどダメージも大きい。

永福寺は応永12年(1405年)に炎上という記録があって、その後は再建の記録が出てこなくなる。ここで大打撃というか、致命傷を受けたと言えると思います。

西岡廃寺を考えるとき、伽藍とか建物とか、そういう見かけの「お寺」というハードの部分と、お寺という組織、要するにソフトウエアを分けて考えないと、いつまで続いているという議論はすれ違いになることがある。

例えば京都に、摂関時代から院政期にかけて、法勝寺とか六勝寺とか、いろんな御願寺[ごがんじ]ができます。京都の町の真ん中にものすごいお寺が建ち並んでいた。それらは伽藍は立派なんですが、お寺としての体をなしていない。上皇とか摂関が大規模な法会[ほうえ]をやるとき、その中の坊さんでは賄えないので、比叡山とか東寺とかから頭数をそろえて儀式をやる。お寺は建物だけで一種のパビリオンなんです。

鎌倉でも永福寺とか勝長寿院は、それに近かったんじゃないか。お寺としてがっちりした組織があって、トップのお坊さんの号令一下で全山が動く、現在の大本山のようなものではない。建物としては『海道記』に描写があったと思いますが、鎌倉時代の終わりまで、あるいは室町時代も、鎌倉公方の時期はそこそこ立派な伽藍の寺があった。

その後は、見聞記などはないので、具体的な状態はわかりませんが、醍醐寺では永福寺別当職[べっとうしき]とか、勝長寿院別当職という名跡が坊さんの一種の利権とか格式として伝わっていく。ただ、そういう人たちが鎌倉で宗教活動をしていたかというと、非常にあいまいです。

頼朝の法華堂と、神仏分離で廃絶した鶴岡の二十五坊

編集部頼朝関連では、法華堂もありますね。

福田今掘っても岩盤が出るので、よくわからないんですよ。

岩橋法華堂は頼朝の持仏堂で、亡くなった後、寺になったんです。

福田そういう意味では墳墓堂ですね。中尊寺の金色堂も墳墓堂です。ある意味で同じようなものなのかもしれません。

一昨年、右隣の北条義時の法華堂の調査をしました。大分荒らされていましたが、何とかお堂の大きさや位置は確認ができて、測量してみるとおもしろいんですが、建っている場所が頼朝の墓よりも1メートルぐらい低い。主人よりも高いところにはつくっていないのでしょうかね。

多少瓦が出ましたので、一応屋根をふいていたことがわかりました。全体の土が火災で焼けていた跡が出て、1回は再建したようです。

岩橋それから今の鶴岡八幡宮は元は「鶴岡八幡宮寺」という寺だった。明治初年の神仏分離で仏教関係の建物やお坊さんが一掃されますが、お宮の北西側にあった二十五坊も廃寺になります。八幡宮寺のお坊さんのいた場所で、供僧坊のなかでは、等覚院にあった弘法大師像が手広の青蓮寺に移されています。供僧坊の敷地は、一部ですが、保存されています。

時宗開創の禅興寺と北条氏最期の地・東勝寺

編集部北条氏の寺ではいかがでしょうか。

岩橋北条氏の寺では、建長寺、円覚寺をはじめ大きなお寺は健在です。廃寺では、大どころは時宗が開いた禅興寺でしょう。時頼の菩提を弔う。その前身は最明寺で、時頼は出家して最明寺入道と名乗っています。時頼の出家の際に山ノ内の邸宅の傍らに建てられたといわれていて、円覚寺境内図にそれらしいものがかかれている。

禅興寺は、五山に列せられるわけではないけれども、関東十刹の一位とか二位とか、しかるべき寺格を与えられる。建長寺と禅興寺は、時頼の「冥福を植うるの地」と中巌円月が言うように、重要な存在と認識されていた。

編集部北条氏滅亡後、すでに禅興寺は衰えていた。

岩橋禅興寺は室町時代にはかなり衰えますが、その一方、上杉憲方[のりかた]が南北朝時代末に創建した塔頭の明月院が栄えるんですね。本寺と塔頭の関係が逆転してしまう。明月院絵図を見ると、禅興寺の主要な施設が明月院の中に取り込まれてしまっている。

明月院絵図

明月院絵図
明月院蔵

私は、明月院の創建というのは、実質的には禅興寺の再興という意味に理解してよかろうと思っています。ただ、もう鎌倉御所の時代なんだから、今さら禅興寺でもあるまい、明月院の名を前面に出してしまおうといった感じの対応でしょうか。

しかし、禅興寺の名跡だけは非常に重要なんです。禅興寺の住職を経て、さらに上位の寺の住職に就任するというシステムが禅宗世界にありまして、形式論だけでも禅興寺は残るんです。江戸時代、そして明治時代の初めごろまで細々と存続します。

同じような例が大慶寺で、塔頭の方外庵を復興し本来の寺の大慶寺に名前を変えた。明月院とは逆のケースです。

西岡大きなお寺そのものはがらんどうで、その周りに院家とか坊とかが寄り集まって寺を構成している。要するに大きな木があって、その大木が倒れてしまった後、新しい芽が出て大きく育ったという状態を考えていただいたらいいんじゃないでしょうか。

明月院に伝わる禅興寺の品々

岩橋現在の明月院には、かつての禅興寺の品々が多数残っています。北条時頼像は塑像ですけれども、時頼の骨灰をまぜてつくった。骨灰をまぜるのは中国の習慣で、初期の禅宗と一緒に、そうした習慣が持ち込まれたんでしょう。

編集部禅興寺の寺地はどの辺までですか。

岩橋総門が今の横須賀線の線路のあたりです。奥に入ると谷戸ですから、狭くなっていきますが、その谷戸、谷戸にいろんな施設があった。考古学的な発掘をやれば、もっといろんなことがわかると思うんですけど。

福田禅興寺の、明月院のほうにちょっと入ったあたりで何か所か調査があったんですけれども、やっぱり水が多くて逆によくわからない。谷間ですからね。木靴の前半分が出た程度ですね。

北条氏とともに栄え、五山に次ぐ存在に

岩橋禅興寺が最も繁栄していたのは北条氏が盛んな頃でしょう。貞時、高時の時代。その証明としてよく引用されるのが『北条貞時十三年忌供養記』です。元享3年(1323年)の貞時十三年忌の記録ですが、仏事の一環として建長寺や円覚寺の伽藍整備もおこなわれる。このときに初めて円覚寺に法堂ができて、その落慶に参列したお坊さんの人数が寺ごとに記されていまし。本寺の円覚寺が350人、建長寺がトップで388人、それで禅興寺は92人で、第5位なんです。参加した人数をもって、直ちに寺の規模に結びつけていいかは疑問もありますが、五山に次ぐほどの存在であったろうということですね。

東勝寺跡の調査で礎石建物が火災層の下から出土

東勝寺跡

東勝寺跡
鎌倉市教育委員会提供

編集部東勝寺は、30年ほど前から発掘調査もおこなわれて、遺構がいろいろ見つかっていますね。

福田場所は滑川の葛西ヶ谷で、谷の中が、真ん中に入ってくるのと左右に分かれるような形で、三つぐらいに構成されています。その中で今は市の放置自転車の置き場になっている場所が、昭和50年に調査された区域です。それと道をはさんで反対側、中央の支谷で腹切やぐらのちょうど前のところで、最近調査がおこなわれました。腹切やぐらの真下のところで、礎石建物が火災層の下で見つかったんです。

この火災層が新田義貞が鎌倉を攻めた元弘3年(1333年)に当たるのかどうか。考古学的に、遺物や遺物の編年から見て、多分その辺でいいと思うんですが、お寺の全体像がまだ全然わからない。

岩橋『太平記』の講談的な合戦物語と、客観的な事実がごっちゃになっている。鎌倉にはそういう傾向が多々あるんですが、東勝寺は、客観的にきちっと事実だけを押さえていくという調査を、改めてしなければならないんじゃないかと思っております。

編集部北条高時一党が東勝寺に立てこもる。

西岡それで袋のネズミになっちゃうんです。あの跡地は、本当に追い詰められて、どうにも逃げ場がなくなるという状態の悲惨な遺跡と言えば遺跡なんですね。

たしか発掘説明会では、事件のあった後、かなりきれいに整備されてしまった形跡があるというお話でした。ああいうまがまがしいことがあった場所は、きれいにして、丁重に供養するんじゃないかという気もしますね。

福田それは町の中でもそうなんですけれども、火災の後の整備はみんな1回リセットするような格好で、新たに土を持ってきて、造成し、整地して建物を建てる。

岩橋鎌倉は常にそうですね。ならして、土を乗せて、だんだん持ち上がっていっちゃう。

編集部870人がそこで死んだことになっていて、そういう遺骨も掃除してしまったということですね。

岩橋あそこで大勢の人が亡くなったんでしょうけれども、逃げのびた者も相当いるんじゃないでしょうか。私が鎌倉国宝館に勤務していた頃に、作家の新田次郎さんから電話がかかってきて、そのような趣旨の質問をされたことがあるんです。例えば、夢窓疎石が瑞泉寺の裏山から尾根伝いに落武者を逃がしたといった伝えがあるが、あなたはどう思うかというわけです。十分考えられることだと返答した覚えがあります。

一般に、あそこで全員華々しく自害したという、悲劇の地にしたいようだけれど、そうとばかりは言えないんじゃないでしょうかね。

東栄寺、無量寿院など、大きく活躍した律の寺

編集部北条氏の時代に律宗関係の僧が奈良から来て活躍しますね。

西岡宗派別というのは、どうしても視野が狭くなってしまうところがあります。律宗の寺は、律だけの寺ではないというのがまず第一なんです。北条氏の建てた寺に律が入り込む。北条氏の前の時代ですと安達氏ですね。

つまり、律の寺という以前に密教の寺で、それは真言に限らず天台でも何でもある。その中に律僧のグループが入り込んでコロニーをつくっている。律宗は現代で言えば一種の労働組合みたいなものです。1つの寺が企業だとすると、その中に労組に入っている僧がいて、寺を超えた横の連携をしているというのが律の組織なんです。

蒙古襲来以後、律の寺は鎌倉で大きな活動をするので、金沢文庫の史料にあるお寺にも、律寺に当たるものはかなりあったと思うんです。その中で重要とされるのが東栄寺[とうようじ]です。東陽寺と書くこともあります。それから、真言系だと言われるけれど、律の寺という側面のあるところもあって、安達氏関係では甘縄の無量寿院と、最近、福島金治さんが脚光を当てた松谷の寺、これが正法蔵寺という寺号であることが確定されました。その辺が特に重要ですね。

編集部東栄寺はどこにあったんですか。

西岡名越です。奥書で弘安元年(1278年)に「鎌倉東栄律院」とあるので律の寺であることは確かですね。

理智光寺跡出土の水晶舎利容器

理智光寺跡出土の水晶舎利容器
鎌倉国宝館蔵

律と密の絡みでは、納冨常天さんが紹介された一種の律宗の系譜図では、東栄寺とか理智光寺[りちこうじ]、無量寿院がまず最初にできる。その次の段階で称名寺、覚園寺、厚木飯山の清浄金剛寺などが出てくる。

東栄寺、大塔宮の墓の南西の谷にあったといわれる理智光寺、無量寿院などは滅んでしまいます。称名寺は、北条氏とうまく関係が続いたということがあるんじゃないかと思うんですね。

金沢文庫文書から安達氏の観世音寺があったことが判明

編集部無量寿院は甘縄にあったといわれていますね。

西岡無量寺ヶ谷は、鎌倉市役所の北のほうの奥にあります。『沙石集』を書いた無住の『雑談集[ぞうだんしゅう]』という書物の中に、無量寿院の裏山が崩れて坊さんが生き埋めになったとき、熱心にお経の勉強をしていた人だけ、その功徳で助かったというエピソードを書いていますので、相当山の崖際まで展開していた寺であることは間違いない。

無量寺ヶ谷が本当に甘縄無量寿院の跡だとしますと、最近、金沢文庫の史料で、無量寿院と、安達の屋敷と、もう1つ観世音寺という寺があったことがわかりましたので、そんなに広くない谷戸の中に邸宅と、お寺2つがあったことになります。しかるべき広い場所を想定せざるを得ないというところですかね。

編集部寿福寺の南側の谷戸という感じにですか。

西岡そこから山を越えた向こう側に松谷の寺が開けていて、安達氏がかかわっているわけです。

諸社寺勧進帳写

諸社寺勧進帳写
称名寺聖教
神奈川県立金沢文庫保管

金沢文庫の史料から、勧進帳が出てきました。律の極楽寺と称名寺のゆかりのお坊さんが、永仁の初めころに書いた、複数の勧進帳を集めたもので、まず鎌倉の八幡宮の戌亥の方にあった5つの神社が壊れたので復興したいというもの。次が甘縄の観世音寺、3つ目が三浦の城ヶ島の薬師堂、4つ目は遠く離れて、熊野本宮の祓殿王子社の別当の阿弥陀寺の勧進帳です。

それで、無量寿院の隣に観世音寺という寺があったことがわかりました。安達氏は歴代秋田城介を名乗り、出羽に所領があったんですが、秋田城にあった四天王寺をそっくりそのまま鎌倉に写した。この四天王寺は聖徳太子ゆかりの救世観音を模した観音菩薩を本尊としていたことがわかって、東北の歴史を考える上でも画期的だったんです。

これらの史料がなぜ1つにまとめられたのか。推定年次が、永仁2年(1294年)ぐらいなんです。弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱が、今度は反対に永仁元年に滅ぼされる。そこで安達氏の関係の寺とか神社がどんどん復興してくる。それに合わせてつくられた勧進帳だったんです。安達の時代にリバイバルする。そういうことが神社やお寺でも起きている。

観世音寺は今までは書物の奥書が1つ出ただけで、場所もよくわからなかったんですが、鎌倉市役所のあたりにあったらしい。鎌倉というと、源氏と北条氏ばかりが脚光を浴びますけれども、安達氏の息のかかった寺、この重要性はもうちょっと考える必要があるのかなと思いますね。

多宝寺は極楽寺と並ぶ大きな規模だった

多宝寺跡(手前が覚賢塔)

多宝寺跡(手前が覚賢塔)

編集部律宗の廃寺では、多宝寺は以前発掘調査もされて、場所がわかりますね。

西岡恐らく多宝寺は称名寺よりはるかに大きな規模だった。極楽寺とほぼ同じぐらいに考えていいでしょう。

福田多宝寺があったのは泉ヶ谷で、昭和46年の調査で、律宗の僧侶が修行のとき、壇を築いて授戒を受けた跡が見つかっています。大三輪龍彦先生の話では、谷の奥から永福寺で使われた瓦が出てくるということでした。

西岡覚賢塔は、3メートル以上もある五輪塔ですが、それができたときのお披露目の文書が金沢文庫で出てきました。今まではすでに発見された舎利容器の年代で考えられていたんですが、石塔そのものの開眼供養の文書があったんです。あれがお寺の創建ということでしょうね。

岩橋嘉元4年(1306年)入滅。多宝寺長老の覚賢の墓塔ですね。

西岡一周忌に建てたという表白文で、石塔の落成式のスピーチのようなものです。そういう文献史料があるのは珍しい事例じゃないですか。

池の跡から大量の柿経が出土した仏法寺

編集部仏法寺はいかがでしょうか。

福田仏法寺は「極楽寺境内絵図」の中にも出てきますが、石井進先生が、仏法寺と霊山寺[りょうせんじ]は一緒でいい、霊山崎にある寺だから、霊山寺と言っていたのではないだろうかとおっしゃっていたような気がします。そこの調査では、絵図のかかれている場所で礎石の大きな建物は山際のほうへ入っていて、危険なので全部は掘れなかったんです。

それと、池の中から帯状に堆積した柿経[こけらきょう]がたくさん出てきました。この池は、忍性が雨乞いをやったという池だろうということで、出てきたものを見たら、全部法華経なんです。全体の5分の1も掘っていないと思うんですが、残りはまだそのままの場所に埋めてあります。

前に、建長寺の玉雲庵でしたか、鎌倉学園の体育館の建築のときに、やはり柿経が出てきました。そのときにつくったデータを使って、仏法寺のものの何字かを入れて調べると、第何巻とかがわかるんです。池の下のほうと、真ん中辺とで上下2つ層をなしていて、2セットぐらいは入っているだろうというのがわかってきました。

忍性と日蓮の雨乞い合戦は実際にあったのか

西岡やはり雨乞いをするような場所ですから、竜の住んでいるような、水があるところじゃないと困るわけですね。何かもともと信仰があるとは思うんですけどね。

以前、日蓮と忍性の雨乞い合戦の話を、私は後世につくられた伝説かもしれないと言いましたら、日蓮宗のお坊さんから、日蓮の伝記の中では大変なハイライトなので、それが架空のことでは困るんだけどと言われました。(笑)

忍性なら、有力者とつき合いがある人ですから、雨乞いを頼まれることはあるだろうけれども、日蓮に頼むということが、その当時の政治的環境の中であり得るんだろうかと考えたんですが、雨乞いのメカニズムがよくわからなくて、何とも言えないなと思っていたんです。

最近、称名寺から江戸時代に流れた古文書を集めた本の写本を見ていましたら、幕府か北条氏かはわからないんですが、今度雨乞いをやってくれと頼んだ文書が入っていました。それで、なるほどそういうことは実際にあり得るのか。対象が、本当に名も知られないお坊さんかどうかは別として、幕府か北条氏が主催する雨乞いはあったんだなということはわかりました。

フランチャイズ系の寺、新清涼寺・新善光寺・新長谷寺

清涼寺式釈迦如来像(釈迦堂旧蔵)

清涼寺式釈迦如来像(釈迦堂旧蔵)
目黒区・大円寺蔵

編集部忍性の師にあたる叡尊[えいそん]が招かれて、釈迦堂ヶ谷の釈迦堂に入ります。そのお堂も廃寺になっていますね。

岩橋目黒区の大円寺の清涼寺式釈迦如来像があったわけでしょう。新清涼寺とか、いろいろ考え方がある。清涼寺ヶ谷も平らで、まさに寺の跡ですね。今は民家が建っていますけれども、結構広い面積です。

西岡去年の秋に金沢文庫で「霊験仏」の展覧会をやりまして、担当の瀬谷貴之さんが長谷観音の研究もしています。その中で、善光寺や清涼寺、長谷寺、清水寺などが、新長谷寺、新善光寺というように同じ名前で同じ本尊を祀った寺が鎌倉にできてくる。それらを何と概念化したらいいかと聞かれ、「フランチャイズ系」という言葉を出したんです。要するにコピー寺院ですね。そういうお寺は、そんなに規模は大きくないんでしょうけれども、鎌倉の町の中に相当あったんだと思います。さきほどの観世音寺もそうでしょうね。

『頬焼[ほほやき]阿弥陀縁起絵巻』に出てくる町の局[つぼね]のように、特に御家人でもない、町の裕福なおばさんが寺をポンと1つ建ててしまう。そういうことが随分あったんじゃないか。すると、中世の鎌倉を考えるときに、権力者の寺だけを考えていると、まだ見えてこない寺があるのかなという感じがします。

岩橋フランチャイズ系というのはわかりやすい。(笑)有名な寺の「新版」という言い方もされていますね。

西岡そういう寺は、例えば新善光寺なら、長野の善光寺が本山でその末寺かというとそういうわけじゃない。ただ仏様がありがたいから祀るので、宗旨は禅宗でも念仏でも構わない。密教でもいいという感じです。

足利氏ゆかりの尼寺・太平寺と祈願寺・永安寺

青磁酒会壺(太平寺旧蔵)

青磁酒会壺(太平寺旧蔵)
別願寺蔵

編集部鎌倉幕府滅亡後、足利氏の寺はどうでしょうか。

岩橋太平寺は尼五山第一と言われている、足利基氏にゆかりの女性が中興した尼寺です。大町の別願寺に伝わる、太平寺跡出土の青磁酒会壺[しゅかいこ]はいいですね。円覚寺の青磁の香炉とか、称名寺にも酒会壺があるけれども、私は太平寺の透き通ったブルーが、色は一番好きです。

太平寺の本尊は東慶寺に移された聖観音菩薩像です。そして仏殿は円覚寺に移され、国宝の舎利殿になっている。寺のあった場所は西御門の来迎寺の近くです。

太平寺の廃絶は、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入り、住職で足利義明の娘だった青岳尼を連れ帰って還俗させ、自分の妻にしたため、小田原の北条氏康の怒りを買ったことが原因と言われています。

編集部永安寺[ようあんじ]についてはいかがでしょうか。

岩橋永安寺の跡は瑞泉寺の入口の手前、少し右の谷戸です。足利氏満の菩提を弔うために建てられましたが、寺の跡ははっきりしない。

そういう意味では勝長寿院以上にわからない。文献的にはある程度把握されていますから、きちっとした発掘調査とのつき合わせが必要になると思います。「結城合戦絵巻」に鎌倉御所の足利持氏が永安寺で自刃する場面がありますが、これはフィクション画面で、参考にならない。

足利氏の寺という言い方をすると、円覚寺も、浄光明寺も、路線変更で足利氏の寺になったんですよ。廃寺じゃないですけどね。

西岡鎌倉府の祈願寺という感じでしょうね。

南北朝から室町の禅宗文化の中心だった報恩寺

地蔵菩薩像(報恩寺旧蔵)

地蔵菩薩像(報恩寺旧蔵)
来迎寺蔵

編集部鎌倉公方の関連ですと、上杉能憲[よしのり]が開いたという報恩寺ですか。

岩橋報恩寺は発掘もおこなわれ、ある程度把握されている。特に遺品が残っていますね。寺地は第二中学校です。

本尊と言われている地蔵菩薩は永徳4年(1384年)に宅間浄宏[じょうこう]がつくったもので、現在は来迎寺に移っていますが、あの時代としてはとても出来がいい。重厚な像で、着衣の裏側部分に盛り上げ彩色が残っているんです。宅間派と言われる人たちの仕事は、余り具体的に残っていないんですが、彫刻と絵画の両方の仕事を手がけていて、彫刻にも独特な装飾感がある。

粱牌[りょうはい]といって、仏殿の天井に掲げてあった銘札も瑞泉寺に残っています。何より義堂周信が、人の出入りなどの細かい日記を残していて、それで私などはイメージが広がるというところがありますね。

ある意味で、南北朝から室町にかけての禅宗文化の1つの中心になったのが報恩寺なんです。水墨画家の玉畹梵芳も一時ここにおります。

覚園寺の朝祐作の十二神将像は東光寺の像がモデル

十二神将像の内(辻薬師堂旧蔵)

十二神将像の内(辻薬師堂旧蔵)
鎌倉国宝館蔵

編集部二階堂氏ゆかりの東光寺があったのは、現在の鎌倉宮の場所ですね。

岩橋東光寺は、一説に、二階堂行光が承元3年(1209年)に永福寺の傍らに建立したといっています。ただ、これが金沢区の東光寺に転じたことになっていて、畠山重忠の念持仏であったと伝える鎌倉時代初期とみられる薬師如来像がある。この像は運慶一派の作品とみられています。東光寺がいつごろまで鎌倉にあったか、はっきりはわかりません。

それとは別に、辻の薬師堂の薬師如来と十二神将も、もともとは東光寺関連の像ではないかと思います。中尊の薬師は平安仏、十二神将は鎌倉、一部が室町の補作です。それが名越長善寺に移り、さらに長善寺が大町に転じたらしい。

編集部横須賀線の踏切の際にお堂がある場所ですね。

岩橋室町時代の鎌倉仏師の朝祐が、応永年間、長期にわたって覚園寺の十二神将をつくりますが、これは辻の薬師の像がモデルなんです。朝祐は恐らく、覚園寺の中に仏所を構えていて、近くの東光寺、今の辻の薬師の十二神将像を参考にしたのではないか。併せて、その補作と修理もおこなった。そんなふうに私は推測しています。

ほかの寺に移されているものとしては、明月院の本尊の聖観音菩薩像は、大町花ヶ谷慈恩寺の観音殿の本尊で、修理したときに解体して銘が確認されました。慈恩寺の詩板は円覚寺伝宗庵に移されて遺っています。はるかに富士を望む風光をもって知られた慈恩寺からの景色を京都の五山の僧たちが詠んだ詩が刻まれています。

それから、建長寺の向かいの円応寺には初江王像などがあります。材木座海岸にあった荒居閻魔堂が、元禄16年(1703年)に起きた大地震と津波が原因で現在の場所に移ったものですね。

所領を失ったことが「廃寺」の原因

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鎌倉の廃寺(画像をクリックして拡大)
①勝長寿院 ②永福寺 ③法華堂 ④鶴岡八幡宮寺 ⑤禅興寺
⑥東勝寺 ⑦理智光寺 ⑧無量寿院 ⑨松谷正法蔵寺 ⑩多宝寺
⑪仏法寺 ⑫釈迦堂 ⑬新善光寺 ⑭新清涼寺 ⑮太平寺
⑯永安寺 ⑰報恩寺 ⑱東光寺 ⑲慈恩寺 ⑳荒居閻魔堂

編集部なぜ鎌倉は廃寺が多いのでしょうか。

岩橋現在、鎌倉の寺はたしか120ぐらいあります。かつてどれぐらいあったのか。時期によっても違うでしょうが2~300、個人的な持仏堂を含めたらもっとあるでしょう。私事ですが、私の自宅の裏庭に、やぐらがありまして、あの前だって小さなお堂があったかもしれない。個々のお宅に設けたものまで含めたら、400とか500になるかもしれませんね。

西岡要するに所領を失うと、金の切れ目が縁の切れ目ということで、お寺を経営するためのファンドがなくなったところは根っこのない木になってしまう。

平泉の毛越寺[もうつうじ]が、大伽藍がなくなってもなぜ生き残っているのか。それは、六十六部といわれる廻国聖[かいこくひじり]の霊場だからなんです。廻国聖は日本じゅうの霊地に置かれた、一昔前の郵便ポストみたいなものに、法華経を写経したものを納めていく。毛越寺はそういう存在だったんです。

恐らく永福寺にもそういう傾向があったんじゃないか。というのは、六十六部という廻国聖は、元祖が頼朝の法華堂なんです。『太平記』にも出てくるんですが、頼朝があるとき、自分の前世は廻国聖で、大江広元と北条時政の2人を供に従えて日本じゅうを回ったという夢のお告げを得て、調べさせてみたら、各地の霊場から報告があって、確かに平安時代の終わりに、そういう人が奉納した法華経があった。それが頼朝の法華堂の縁起として語り継がれたらしいんです。

頼朝の法華堂や永福寺も、毛越寺と同じようなことがあったのかなという気もするんですが、一種の巡礼の場所となったところが残る。おさい銭でかせげるお寺なんです。そのような形で残ったお寺が後まで続いていくという言い方ができる。

編集部権門の御願寺のような寺院は滅んでいかざるを得なかった。

西岡鎌倉府滅亡とともに根っこが切られたと考えていいんでしょうね。

岩橋最後に、きょう申し上げた鎌倉の廃寺はほんの一部で、貫達人先生が以前『鎌倉廃寺事典』として有隣堂さんから出版された本には、もっとたくさんの廃寺が詳しく紹介されています。現在手に入りませんが、ぜひ増刷するとか新しくつくっていただけるとありがたいですね。

編集部本日は、どうもありがとうございました。

岩橋春樹 (いわはし はるき)

1946年 名古屋生まれ。

西岡芳文 (にしおか よしふみ)

1957年 東京生まれ。

福田誠 (ふくだ まこと)

1957年 長野生まれ。

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