Web版 有鄰

474平成19年5月10日発行

昭和20年5月29日の鬼門山 – 2面

佐藤さとる

戸塚区矢部町の自宅で粟粒[ぞくりゅう]結核の疑いで療養中

横浜に投弾するB29(1945年5月29日)

横浜に投弾するB29(1945年5月29日)
米空軍図書館蔵・横浜市史資料室提供

鬼門山というのは、昭和13年から同40年まで、私たち家族の家があった小山の名前だ。横浜市の南西方面になる戸塚区の、そのまた南西に寄った矢部町の端にある。このあたりの字名を谷矢部[やとやべ]といい、この小山が谷矢部集落の鬼門に当たるために、古くからそんな名で呼ばれていたらしい。てっぺんには、鬼押えの神を祀った小さなほこらがあった。

私の家は、その鬼門山の斜面を削った平地に載っていた。また裏手の山地にもわずかな畑をひらき、薩摩芋などを作っていた。家の横から杣道のような急坂を上がるだけでいい。家族では単に「裏山」と呼んでいた。

昭和20年の5月29日、その年関東学院中学に進んだ弟が、いつものように7時ごろ出掛けていき、私はなにもする気がなくてぼんやりしていた。朝からときどき歯が痛み、たいしたことはなかったのだが、どうせひまを持て余している身だったので、歯医者にいこうか、などと考えていた。

大戦末期の非常時に、17歳の若い者がなぜそんなにぐたぐたしていたのか、というのは、少々説明が必要かと思う。私はその年の3月に旧制中学(5年)を卒業したが、4月のはじめ、ある事情のもとに海軍病院で精密検診を受けさせられた。その結果『肺浸潤 粟粒結核ノ疑ヒ有リ 療養ヲ要ス』という、とんでもない診断書をもらってしまった。

肺浸潤はともかく、粟粒結核というのは恢復見込みなしの死病といっていい。そのくらいは私も知っていたから、本来ならもっと落ち込んでもいいはずが、若いというのは強い。どうせ元気でいたって、いずれは――それも遠からず――戦争で死ぬだろうから、たいした違いはなかろう。それに、診断書も「疑ヒ有リ」というだけで、はっきり宣告されたわけではないし、自覚症状もまったくない、というわけで、わりと落着いていた。

高い黒煙の隙間からちろり、ちろり、と光る赤い炎

炎上する横浜市街地(1945年5月29日) 左下は根岸競馬場

炎上する横浜市街地(1945年5月29日) 左下は根岸競馬場
米軍蔵・横浜市史資料室提供

さて、その5月29日、朝の8時過ぎに空襲警報のサイレンが鳴った。私はすぐに裏の鬼門山に登った。戸塚は横浜市の郊外地区で、ほとんどは田園といってよかったが軍需工場もいくつかある。こんな朝っぱらから、どこをねらってきたのか確かめるつもりだった。だいたい東京方面に向うB29爆撃機は、たいてい駿河湾あたりからはいって、戸塚の上空をいく。それを確認するために、夜間でもこの山に登るのが習慣になっていた。

登るとすぐ、西から爆音が響いてきた。いつもよりぐっと低空の4、5千メートルあたりで、かっちり編隊を組んでくる。それも10機や20機ではない。たしかよく晴れた日だったと思うが、見晴かすかぎりの空を爆撃機の編隊が覆っていた。遠くのほうはケシ粒のように見える。

私は半ばあきれて身をかくすことも忘れ、頭上をいく敵機を数えはじめた。といっても時速数百キロで通り過ぎるのだから、ひどくせわしない。編隊群と編隊群のあいだに一息いれながら、100、200と数え、ややあってまだあとがくる。300、400、やがて500を越えてようやくとぎれた。30分も経っただろうか。

いったいどこをねらっているんだ、と機影のなくなった空から目を離し、くるりと後ろを向いてぎょっとした。すぐ近くの雑木林の向こうに、生まれて初めて見る巨大な黒煙の柱が立っていた。その黒煙の高さは、首が痛くなるほどふり仰いでも見極めがつかない。黒煙全体の幅は数キロもあるだろう。

(横浜だ。横浜の市中がやられている)と、私は1人うなずく思いで判断した。これまで横浜は爆撃らしい爆撃を受けていない。そろそろやられるか、と考えてはいたのだ。

それにしても驚いたのは、そんなに思いっきり私がふり仰いで見ているというのに、その高い黒煙の隙間から、ときどき、ちろり、ちろり、と赤い炎が光ることだ。炎があんな高いところまで上がっているというのは、大火災が起こっている証拠ではないか。

(弟のやつはだめかもしれないな)と、私はごく普通に考えた。悲壮感や喪失感はまだない。なにがあっても受けいれなくてはいけないな、と考えていただけだ。あとで聞くと、母をふくめて家族みんなが同じように覚悟したという。

そのあとも、私はときどき家に報告にもどるだけで、ずっと鬼門山にいた。さすがの大火災も午後には消えて――燃えるものがなくなったのか――、黒煙も風に散っていった。それらしい臭いを嗅いだ記憶はないから、たぶん南よりの弱い風の日で、戸塚は風上だったのだろう。1日がひどく長く思われ、弟は一向に姿を見せなかった。

夕暮が近づくころ、私は家の庭に出て道をうかがっていた。すると、人の顔もはっきり見えなくなったころ、煤で全身真っ黒になった弟が庭へはいってきた。

「おう、生きていたか」と私が声をかけると、にやっと笑って答えた。

「ああ、ひでえ目にあったよ」

それだけであとはなにもいわなかった。弟は持っていった弁当も食べていなかったくせに、夕食もろくに食わず、顔を洗って着替えをすると、はやばやと布団にもぐりこんだ。そのころ私は弟と同じ部屋で枕を並べていたのだが、弟は眠れないらしく、ぽつりぽつりとその日の出来事を語った。

苗木を植えたように突きささった焼夷弾から火が吹き上がる

三春台の関東学院の下から日ノ出町方面を望む(1945年9月6日)

三春台の関東学院の下から日ノ出町方面を望む(1945年9月6日)
米国防総省蔵

三春台(横浜市南区)にある関東学院には、新1年生しかいなかった。上級生はすべて工場や勤労奉仕に出ていた。

1年生だけの朝礼が終わったころ、いきなり空襲が始まった。B29の爆音にまじって、はげしい雨の降るような音がしたが、爆発音はしない。あっというまに校庭の南側半分は、まるで苗木を植えたように焼夷弾が突きささった。その1本1本から火が吹き上がる。たちまち雨天体操場が燃えはじめ、まもなく大講堂からも火が上がった。本館にも火がはいっているかどうか、弟は確かめにいった。鉄筋コンクリートの本館は無事で、三春台のこちら側で起こっている火災の、防壁にもなっているようだった。

ただ、こんな近くに大きな火事があっては、いくら校庭をへだてていても、熱くてたまらない。

さいわい学校にはプールがあり、防火用に水をいれてあった。そちらのほうには軍の施投があって、いつもは近寄れないのだが、このときはみんなが飛びこんだ。全身ずぶ濡れになって出てきても、しばらくするとまたばりばりに乾いてしまう。また飛びこむ。こんなことを何回か繰り返したという。

「だけど、これは学校が岡の上だったからよかったんだ」と、弟はいった。

「火が消えたあと、いつものくせで黄金町駅(京急線)へ下りてみたら、駅には折重なって人が死んでいた。大岡川もちょっとのぞいてみたけど、川は死んだ人で埋まってたぞ。焼けてなんかいなかったから、あれは窒息して死んだんだな。あんなに周りが燃えちゃあ、酸素なんかなくなっちゃうもんな」

たぶんそうだろうと私も思った。だが、のちに聞くところによれば、死因はおそらく一酸化炭素中毒だろうという。なんであれ、むごい話にはちがいない。

そのあと、弟は級友と2人で死体をよけよけ保土ヶ谷駅へいった。そのまま戸塚まで歩くつもりだったが、駅員に聞いてみると、貨物線が生きていて、各駅に貨物列車を止めるから乗っていけと教えられ、友達ともども無蓋貨車に乗りこんで、なんとか戸塚へたどりついたということだった。

鬼門山で茫然と過ごしただけの私とくらべ、弟の5月29日はかけ離れたひどいものだった。

桜木町周辺で婦人会炊き出しのおにぎりをもらう

私の家内はそのとき高等女学校の4年生で、川崎の工場へ動員されていた。家は横浜市中区の山田町にあり、そこから川崎まで通っていた。当日は工場に着くとすぐ空襲警報が鳴って、みんな防空壕にはいった。まもなく横浜がやられている、という情報が伝わってきたが、空襲には慣れてしまっていたから、それほど驚かなかったという。

やがて3時過ぎ、横浜方面の火が収まったらしく、早い帰宅を許された。ほとんどの生徒は横浜市内に家があり、それぞれグループごとにかたまって工場を出たが、省線(いまのJR)は動いていない。仕方なく国道を歩いた。横浜駅の近くにくると、まだ余燼が残っていて、気味のわるい暖かい空気につつまれたそうだ。それにしても川崎から横浜市内まではかなりの距離があるはずだが、そのことは記憶にないという。

ただ、桜木町から伊勢佐木町へいく途中、婦人会の人たちが炊き出しをしていて、通る人に1個ずつ、おにぎりを配っていた。それを有り難くいただいて、山田町に着いたが、ここも丸焼けだった。しかし、隣組長さんの家の焼跡に、板切れで作った立て札があり、町内の避難先を示してあった。おかげで無事家族と合流できた。

この日の体験を昨日の出来事のようにいまでも話し合う

私たち兄弟、それに私の老妻も、なんとか今日まで生き延びてきた。そしていまでもこの日のそれぞれの体験を、まるで昨日の出来事のように話し合うことがある。ただし兄と弟では微妙に記憶の食い違うところもあるのだが、もちろんこの小文は、私が見聞きした――と思っている――記憶によっている。

佐藤さとる氏
佐藤さとる (さとう さとる)

1928年横須賀市生まれ。 児童文学作家。
著書『コロボックル物語』全6巻 講談社 各580~620円+税、『本朝奇談(にほんふしぎばなし) 天狗童子』 あかね書房 1,600円+税、『おばあさんの飛行機』 偕成社 2,000円+税、ほか多数。

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