Web版 有鄰

471平成19年2月10日発行

シーラーズが住んでいた町・横浜中華街 – 特集1

鳥居 民

横浜は北太平洋でアザラシを採る「ラッコ船」の母港

昨年11月末に私は横浜文学賞を頂いた。

横浜文芸懇話会という団体がこの文学賞の母体である。そして横浜文芸懇話会の活動をこの「有鄰」を刊行している有隣堂、さらにこれも横浜生え抜きの横浜銀行が支持し、横浜文学賞基金を支援してきていることを今回、教えられた。

さて、受賞式のあとに私は話をした。式場が中華街の料理屋であったことから、中華街の昔話をした。

その昔話をこの欄を借りて、もう一度、語ろうと思う。

いまから百数十年前、幕末から明治の初期までの30年ほどのあいだのことになる。中華街と元町のあいだの堀川にアザラシ、オットセイを採る船が四隻から五隻、停泊していた。漁獲解禁となる4月にこれらのスクーナーは堀川を出て、千島列島、アリューシャン列島の漁場まで航行し、禁漁時期となる11月には、毛皮を満載して、横浜に戻ってきたのである。

堀川沿いの製鉄所 (明治中期)

堀川沿いの製鉄所 (明治中期)
横浜開港資料館蔵

このアザラシ採りの船の母港が横浜だったという叙述は横浜の歴史の本に僅かながらある。このスクーナーをつくる造船所が堀川べりに2軒あったと出てくる。これらのスクーナーはボートを載せていたから、そんなボートもつくっていたのであろう。

そして大正時代の文筆家の思い出話のなかで「ラッコ船と称する英米蘭人が乗った帆船が、繁く横浜に入港し、マドロスという奴が、続々と上陸したものだった」と記している。

横浜を根拠地とするこの海獣採りの記録がなかなか見つからないのは、この記述からもわかるように、それらの船の船長、船員の大部分が外国人だったからである。英国人、スコットランド人、アメリカ人だった。日本人も乗っていたというのだが、いまになってはなにもわからない。

さて、船長兼船主は山手に住んでいた。住所録に載る「キャプテン」は日本郵船の外国人船長のことだったが、それより以前のキャプテンは「ラッコ船」の船長だった。船員は休漁期間のあいだ、遠い故国に帰るわけにいかず、現在の中華街に下宿屋住まいをしていた。船員といったが、アザラシ、オットセイを撲殺する粗っぽい仕事をしなければならず、かれらは皮剥ぎ職人でもあった。

大正の思い出話では「ラッコ船」といっているが、明治はじめにべーリング海まで出漁して、ラッコが採れることは殆どなかった。それでも船長も、船員もラッコを採る夢を見つづけていた。

ヨーロッパや清国の貴族・金持ちが珍重したラッコの毛皮

ラッコの話をしておこう。ラッコはヨーロッパの王族、貴族、金持ちが珍重し、清国の皇帝、貴族がことのほかラッコの毛皮コートを愛好した。イタチやテン、キツネではなく、ラッコの皮衣を身につけたほうが身分の高い者だった。そこで満洲族の貴族高官は冬ともなれば、ラッコで身を固めたのである。

こうして海獣採りのあいだでは、ラッコはソフト・ゴールドと呼ばれ、英国人、アメリカ人、ロシア人のラッコ船がカムチャツカ半島、アラスカ沿岸、千島列島、アリューシャン列島でラッコを採りまくった。

清国にラッコの毛皮を売って、大儲けをしたアメリカ人のなかには、日本と戦争をしたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの母方の一族がいる。アラスカの原住民からラム酒と鉄砲との交換で、ラッコの毛皮を手に入れる。貿易港だった広東にそれを運び、茶と交換する。アメリカ人はまだコーヒー一辺倒ではなく、だれもが茶を飲んでいた。ルーズベルトの母方の一族はこの三角貿易で大いに儲け、盛大に中国貿易をするようになる。

だが、ラッコは採り尽くされてしまった。明治になる前の年、慶応3年、ロシアはアラスカをアメリカに売りとばした。アラスカは搾り切ったオレンジだとロシア皇帝は言った。ラッコはもはや1匹もいない、ラッコのいない氷の土地は要らないということだった。

横浜のシーラーズを主題にしたキプリングの詩

さて、横浜の人は「ラッコ船」と呼んでいたが、明治初年の横浜居留地の英字新聞を読むと、「ラッコ船」はシーラーと呼ばれていたことがわかる。複数ならシーラーズであり、シーラーの乗組員もシーラー、シーラーズだった。これはオットセイとアザラシがシールと呼ばれていたからである。女性が羽織るシールのコートのシールである。なお英語ではオットセイとアザラシの区別はない。

その横浜のシーラーズを主題にした詩がある。1892年、明治25年にラドヤード・キプリングが横浜に来た。「ジャングルブック」のキプリングである。その翌年、1893年にかれは物語詩、いわゆるバラッドを発表した。「スリー シーラーズ」の「リサーム」、「三隻のアザラシ採り船の歌」という物語詩である。

つぎのような内容だ。横浜を出港したシーラーがベーリング海にあるロシア領の島にあがって、アザラシを撲殺し、その場で皮を剥ぐ。密猟である。ロシアの監視船に捕まれば、シベリアの水銀鉱山の使役となる。

霧のなか、ロシアの監視船が近づいてくるのに気づく。剥いだばかりの毛皮を船に積み込む余裕もなく、命からがら船に乗って逃げる。つぎにまたべつの密猟船が同じ目にあう。その船の船長があれはロシアの監視船ではない、同じ密猟船だと気づく。汽笛を鳴らし、もう一隻を呼び戻し、毛皮を取り戻そうとして、鉄砲の撃ち合いとなり、怪我人が何人もでる。揚げ句の果てに双方の船長が死に、休戦となる。

私の詩の好みは藤村、白秋どまり、ましてや英語の素養がないから、この物語詩の善し悪しはまったくわからない。ところが、小泉八雲がロンドンから取り寄せた雑誌に載ったこの詩を読んで、友人に「褒める言葉も見つからない」と書いている。

ブラッド・ストリートと呼ばれた居留地185番前

山下居留地 中国人街 (165番街付近・明治中期)

山下居留地 中国人街 (165番街付近・明治中期)
左の通りが現在の中華街大通り、左手前が185番
横浜開港資料館蔵

ところで、キプリングのこの物語詩の最初の一節はつぎの通りである。「遠い日本で聞いたんだ 船乗り野郎が酔っぱらっている町 ブラッド・ストリートのジョーの店で聞いたんだ」

「ブラッド・ストリート」の文字を見たとき、私は日本に在住したアメリカ人が書いた文章を思いだした。最初に触れたとおり、中華街の一角にシーラーズのためのボーデイングハウス、賄いつきの下宿屋が何軒かあった。休猟中のシーラーズが40人から50人ほどいた。アザラシを撲殺する、ときには原住民と争う、ほかの船と鉄砲の撃ち合いもするという粗っぽい連中だったから、暇をもてあましてのことだっのであろう。皮手袋だけでボクシングをやった。鼻柱を殴られ、鼻血が歩道に飛ぶ。これがキプリングの詩に出てくるブラッド・ストリートの名の由来だった。

この海員下宿屋は185番にあった。居留地では地番で呼んで、だれでも場所の見当がついた。元町から前田橋を渡り、中華街へ向かう道と、山下公園側から中華街の大通りに向かう道がぶつかる四つ角が185番である。

関東大震災の前まではこの大通りは裏通りだった。関帝廟のある通りがメインストリートだった。そこで185番の前の大通りで昼からボクシングをやっていたのである。

この185番の界隈は、震災前までは、裁判所の用語では銘酒屋、英字新聞では下等サルーン、一般にはチャブヤと呼ばれた店が立ち並び、200人ほどの女性がいた。香港、上海から流れてきた外国人女性も少なくなかった。拳闘の試合があるとふれてまわったら、女たちが見物に来て、大いに盛り上がった。キプリングが立ち寄った「ジョーの店」の女たちも見に行ったのである。

250年にわたる海獣採りの歴史の最終幕

キプリングが「三隻のアザラシ採り船の歌」を発表してまもなく、横浜からシーラーズは消えた。漁期解禁を待つアザラシ採りの漁夫たちが横浜居留地185番前のブラッド・ストリートでボクシングをして無聊を楽しんだのは、世界史的に見れば、250年にわたる北太平洋の海獣採りの歴史の最終幕、毛皮交易の最大の会社、ハドソン湾会社がそのときにできたカナダ連邦政府に勝手に自分のものしていた土地のすべてを売り払い、同じときにロシアがアメリカにアラスカを売ってしまったあとの落日の夕焼けのなかの一風景だったのである。

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鳥居 民 (とりい たみ)

1929年東京生まれ。歴史研究家。
著書 『昭和二十年』 (第一部十一巻まで刊行)、
横浜富貴楼お倉』 1,600円+税、いずれも草思社、ほか。

※「有鄰」471号本紙では1ページに掲載されています。

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