Web版 有鄰

471平成19年2月10日発行

[座談会]人物でみる江戸時代の神奈川

相模原市市史編纂室特別顧問/神崎彰利
神奈川県立金沢文庫長/鈴木良明
東海大学学園史資料センター/馬場弘臣
有隣堂社長/松信 裕

左から馬場弘臣・神崎彰利・鈴木良明の各氏と松信 裕

左から馬場弘臣・神崎彰利・鈴木良明の各氏と松信 裕

はじめに

広重「東海道七 藤沢宿」

広重「東海道七 藤沢宿」
神奈川県立歴史博物館蔵

松信神奈川県では1970年に『神奈川県史』の刊行が開始され、またその後、県域の各市町村によって行われた、いわゆる自治体史の編纂によって、膨大な量の歴史資料が記録、収集されてきました。その結果、これまで明らかでなかった神奈川県下の歴史や、さまざまな人びとの活躍の跡が浮かび上がってきました。

当社では、こうした自治体によって蓄積された成果を活用しながら『江戸時代・神奈川の100人』を近く刊行させていただくことになりました。この本は、江戸時代に活躍した有名無名、さまざまな階層の人物の中から100人を選んで、神奈川県域の主要な市町村の研究者の方々にご執筆いただき、人物を通して神奈川の近世の具体的な姿を明らかにしようとするものです。本日は、さまざまな階層の人びとについて、地域も考慮に入れながら、ご紹介いただきたいと思っております。

ご出席いただきました神崎彰利先生は『神奈川県史』執筆委員、相模原市立博物館長を務められ、現在は相模原市市史編纂室特別顧問でいらっしゃいます。

鈴木良明先生は神奈川県立金沢文庫長でいらっしゃいます。鎌倉市史、海老名市史、寒川町史などの編纂に参画され、『江戸時代・神奈川の100人』の総括責任者をお願いしております。

馬場弘臣先生は東海大学学園史資料センターに勤務されております。小田原市史、大磯町史、横須賀市史の編纂に参画され、『江戸時代・神奈川の100人』では厚木市や平塚市などの人物をご執筆いただきました。

小田原藩領のほかは旗本領が中心

神崎県史を始めた当初、江戸時代の神奈川は、幕領と小田原藩領が中心だというのが一般的な考え方で、旗本領や寺社領もありますけれど、現実にはどの程度、確認されているかも全然わかっていませんでした。ところが実際に調査してみて、神奈川県域は西のほうの小田原藩領を除いて、旗本領が中心であることがわかってきました。

神奈川県域の所領構成の基本形態は天正18年(1590年)に、徳川家康が関東に入ったときの知行割で展開します。

郡単位で見ると、近世の神奈川県域は相模国九郡、武蔵国三郡で成り立っています。相模国で最も明確なのは足柄上郡・足柄下郡で、旗本五名の八か村の旗本領以外はすべて小田原藩大久保領です。

淘綾[よろぎ]郡は徳川氏直轄地が中心、大住郡・高座郡は旗本領中心、鎌倉郡・愛甲郡は直轄領中心、そして最北端の津久井領と最南端で海付きの三浦郡は直轄領が最も広範に設定されています。

武蔵国三郡では、久良岐郡は直轄領が最も多く、橘樹郡がこれに次ぎ、都筑郡は旗本領中心です。全体としてこの時期の県域は、小田原藩領以外は徳川氏直轄地が中心ですが、これが三代将軍家光の寛永年間と、五代将軍綱吉の元禄年間の二度の地方直しにより、小田原藩領の足柄上郡・足柄下郡と、津久井領・三浦郡以外の相武の八郡は旗本領が中心となり、村々も、広範な分給村落、つまり、一つの村を複数の領主が分割して支配する状況が成立し、この所領構成が幕末まで続きます。

将軍のおひざ元に近い神奈川県下には、幕領をもしのぐほどの旗本領が設定されたということです。

幕府直轄領を支配した代官の彦坂元正や長谷川長綱

松信家康が江戸に入り、幕府の直轄領を統括するために置かれたのが代官ですね。

鈴木近世初期に代官頭として活躍した人物に彦坂元正や長谷川長綱がいます。また向井政綱という徳川水軍を統括した人がいまして、ちょうど江戸湾を守るような三崎に陣屋を設定している。

長谷川長綱が創建した海宝院

長谷川長綱が創建した海宝院
逗子市

彦坂元正は駿河国の生まれで、相模国の東部や中央部の村々を支配し、横浜市戸塚区の岡津に陣屋がありました。長谷川長綱は浦賀に陣屋があり、菩提寺は東逗子の海宝院です。向井の菩提寺は三浦の見桃寺です。

彼らは、江戸と近接している神奈川県の政治状況をふまえたうえで、しかるべきところに配置されている。地方に明るい人間を配して、初期の政治を進めていったのでしょう。こういった人物が近世初期の支配の姿の代表ですね。

代表的な旗本には小幡景憲、大岡忠相、根岸鎮衛など

小幡景憲木像

小幡景憲木像
厚木市・蓮生寺蔵

松信旗本にも有名な人が何人もいますね。

神崎後に関東総奉行になった内藤清成や青山忠成は非常に活躍しています。東京の新宿や青山は彼らが住んでいたから内藤新宿、青山と言うんですが、本拠地は2人とも相模に置いて関東全体の幕領を支配していたんです。

鈴木2人とも改易されてしまうので、今回の本には入れなかったんです。(笑)

神崎小幡景憲は甲州武田氏の軍師だったけれども、幕初から幕末までずっといて、菩提寺は厚木の蓮生寺です。ごく最近、厚木を中心として小幡の資料が集まりました。小幡は甲州流兵学を大成した『甲陽軍鑑』を編纂した人として有名ですね。

鈴木そういう人物も徴用されるんですね。

松信大岡越前守忠相も神奈川にゆかりがありますね。

鈴木所領が茅ヶ崎です。

馬場本貫地は寒川の大曲村ですね。三河の西大平で領地をもらって一万石の大名になったときも、本貫地だけは手放さなかった。茅ヶ崎の浄見寺に大岡家歴代の立派なお墓があります。

鈴木旗本の所領が江戸の周辺に設定されて、領民を支配していくという構図も、人物を通して見えてきます。

松信津久井の根岸鎮衛も大岡忠相のような名奉行だったんですか。

鈴木相模湖町若柳村出身といわれ、町奉行や勘定奉行をつとめた人で、最近は大分顕彰されているようです。随筆『耳嚢』を残しています。津久井のような地域から奉行が出てくるのは意外性を感じますが、江戸に近い立地が、新しい領主を迎えたり、地元からそういう人物を出していくという関係が見えてくる。それが神奈川県の近世の一つの特色でもあると思います。

大久保忠世・忠隣と稲葉正則が小田原藩を確立

大久保忠世像

大久保忠世像
小田原城天守閣蔵

松信西には藩が設けられますね。

馬場小田原は天正18年(1590年)に入った大久保忠世・忠隣によって近世化が進められる。検地や酒匂川の治水をやって、西相模方面を支配します。

西に向けては小田原城だけが大きな備えで、その先が駿府になりますから、江戸を守るという観点では、小田原にかかる比重が大きいと思います。

その後、大久保忠隣は改易になり、一時、阿部正次が入った後、家光の小姓だった稲葉正勝が小田原に入ります。正勝は若くして亡くなりますが、跡を継いだ稲葉正則も春日局の関係で取り立てられ、小田原の町場や藩領の基礎をつくった。ですから、小田原藩政を確立した人物を考えると、大久保氏2人と稲葉正則が重要ですね。その後、稲葉氏が転封して、大久保忠朝が戻ってくる。

その後、小田原は富士山の噴火でかなりの被害を受け、領地の一部が幕領に編入されたりしますので、それをどのように復興させるかが大きな問題になりました。それがずうっと財政問題と絡んで尾をひいて、なかなか復興がかなわなかったんですが、それを最終的に立て直そうとしたのが十三代藩主の大久保忠真です。小田原藩の藩主の中でも重要な人物だと思います。

六浦藩は浦賀の押さえ、荻野山中藩は矢倉沢往還の守り

松信厚木の荻野山中藩や金沢区六浦にも藩があった。

馬場享保5年(1720年)に下田から浦賀に奉行所が移されますから、六浦藩(金沢藩)陣屋の設置は、その押さえとして考えた方がいいと思います。荻野山中藩の陣屋は天明3年(1783年)に移ってきますが、同じ享保期に相模国内に所領をもらいます。

また、厚木には小田原藩の支藩である下野烏山藩が、やはり享保期に陣屋を設けますから、結局、相模中央部から西相模にかけては、小田原藩関係が東海道沿いと、矢倉沢往還から甲州道沿いを守るという形になるんです。相模国は江戸中期にも一定の編成替えがあったと考えなければいけないと思っています。

神崎全国から見ると神奈川県には藩が少ない。私は、「幻の深見藩」などと呼んでいますが、最近、大和市史の関係で文書が出てきました。2年ほどの短い期間ですが深見藩が成立しています。

馬場藩が少ないのは特徴的です。それがどういう意味をもったかが、大きな問題だろうと思います。

松信藩主や旗本以外の武士ではいかがですか。

馬場小田原藩でしたら、吉岡家は信正以下の三代が藩財政を担当し、忠真の改革のときには信基が、服部十郎兵衛という、二宮金次郎が家政を立て直したと言われている家老と対立して、最終的には負けますが、活躍します。

浦賀では幕末の、海防が急務なときに、小笠原甫三郎や中島三郎助、浦賀奉行の戸田氏栄などが挙げられます。

萩原連之助の剣術道場には近藤勇も訪れる

真壁氏記念碑

真壁氏記念碑
大磯町

鈴木幕末に剣術の道場がかなり開かれています。農民が武士にあこがれる。歴史の大きな変革期を庶民なり、農民なりは肌で感じて、そういうものへ傾倒していくというんでしょうか。

江戸の周辺ということもあり、危機感を感じていた人々がたくさんいたんですね。剣術の師範たちの行動から、そういった面も見えるのではないか。戸塚の萩原連之助の道場には、新撰組の近藤勇も訪れています。

馬場新撰組で有名な天然理心流は多摩が本拠地と言われていますが、厚木の高部太吉とか、平塚の真壁平左衛門とか、また最近は、厚木市史でも多数の門人帳が収録されるなど、この流派が相模国でも広まっていたことが明らかになっています。

神崎高部太吉は文武両道ですね。そういう人物が大勢います。多摩から津久井、神奈川県の中部の各地域の神社から奉納額が幾つか出てきました。縦1メートル、横2メートル程の大きさで、奉納試合をやったときの連名です。それが、中期ごろから幕末、新しいのは明治40年代までのものがあります。津久井などは八王子千人同心の関係もあって剣術が盛んですね。

馬場茅ヶ崎の萩園村の和田篤太郎は、囲碁の棋士を目指した一種の文化人ですが、その活動の一端として剣術を習っている。武具などもわざわざ江戸から取り寄せているんですね。また、剣術の先生も江戸からやってきては、在地の者ともたくさん試合をやっている。そういう土壌が相模にはかなりあった。

松信そういう人は武士ではないですよね。

馬場身分的には百姓や、あるいは郷士と呼ばれる人たちですが、腕が立つ。近藤勇的な人たちです。

神崎農民は武芸をやってはいけないと、幕府の法令が出ているんですけど、盛んにやってますね。

天明の飢饉に一揆を起こした土平治

土平治の生家

土平治の生家
藤野町

松信農民の資料はなかなか残らないんでしょうが、それを束ねている名主の文書から、例えば、土平治の一揆が起きたことなどがわかるわけですね。

神崎土平治は、天明飢饉のとき、酒屋が米を買い占めて、農民たちが一揆を起こした。そのときのリーダーです。私たちが昭和28年に研究を始めたときは、土平治は仮名だろうと思っていたんです。いろいろ調べ、お墓や生家を確認して、公的な記録にも載っているし、今は仮名だと言う人はいなくなりましたね。

鈴木社会状況、政治状況も含めて、こういう人物が出てくるのは特筆すべき現象なんでしょうね。その代表として土平治が挙げられます。土平治の生家は山梨県に近い藤野町に残っています。

福原高峯画像

福原高峯画像
藤沢市・福原新一氏蔵

藤沢の峯渡内村名主の福原高峯は『相中留恩記略』という地誌を編纂した人です。徳川家康のご恩に報いるということで、家康の事績をくまなく探索して一冊の本にまとめて、幕府に献上しています。江戸城内の紅葉山文庫にあったその本は、現在も国立公文書館に保管されています。

江戸後期には、もう一度、自分たちの原点を探究する、アイデンティティを確かめるといった動きがあるように思うんです。福原高峯はその象徴でしょう。徳川家康の事績を訪ねて、自分たちの今日の居場所を確認する。あるいは危機感を背景として、そういうところに戻る。福原の仕事は非常に文化的な事業でもありますが、この時期に行われた地誌編纂の動きと大いに連動している。そんなことを見てとれる代表格の1人だと思います。

松信今もご子孫がいらっしゃるんですね。

鈴木長屋門も残されており、たいへん立派な屋敷構えの堂々たる、名主さんらしいお住まいです。

領主の神尾家の御家騒動を解決した高橋治右衛門

鈴木海老名の名主で、高橋治右衛門という人物がいます。領主の神尾家では妾の加与の悪辣な行動に端を発して御家騒動が起こります。領主である神尾家の荒廃ぶりと窮状を知った治右衛門を始めとする領民はその改善に乗り出すんです。

江戸の神尾家の門前に領民らが集結して訴状を貼り付けたりするんですが、かえって主家の逆鱗に触れ、町奉行に身柄を拘束されて折檻を受けることになってしまう。結局は神尾家の当主は隠居、加与は永の暇を取ることになって御家騒動は解決するんですが、こういう事件をうまく調停していくのが名主で、領主と名主の関係が、この騒動の中によく出ていると思います。

松信名主のほうの資料から、領主との関係がわかるということですね。

神崎古い時期ですけれども、津久井では、代官頭の彦坂元正の後、在地の農民が代官に登用されているんです。守屋行広・行吉が慶長から元和、寛文直前まで、二代でやる。守屋氏は小田原北条氏の旧家臣で、いったん土着し、徳川氏に召し抱えられ、津久井全村と足柄のほうと、武蔵の府中領、それ全体が幕領支配になる。その間に自分の勢力範囲のところで婚姻関係を結んでいるんですね。

在地と代官の関係は非常に密接だった。家康自体が在地の勢力を考えて在地の人間を登用したのかもしれません。妥協政策だとは簡単に言えませんが、そういう面も見えないではない。

馬場旗本領は、御用達として名主が財政をあずかったりしますので密着度がすごく高いんです。小田原藩では、二宮金次郎は別ですが、そういう人物が出てこない。

神崎財政を握られてしまいますからね。(笑)

鈴木城山町を知行した旗本の藤沢次謙と名主の八木家の場合も同じようで、そういう関係も明治維新後まで続くんでしょう。領主と名主が一体の関係にあることが、人物を通すとわかりますね。

二宮金次郎は大久保忠真に取り立てられ農村を復興

二宮尊徳像

二宮尊徳像
報徳博物館蔵

松信農民で有名なのは、二宮金次郎ですね。金次郎は子供のころに酒匂川の反乱による洪水で苦しみますが、あれは富士山の宝永噴火(1707年)で降った火山灰の影響なんですね。

馬場はい。先ほどもお話に出ましたが、河川が安定しないので、小田原藩は自力での復興を一時あきらめて、被害がひどかった地域を幕府に返地するのですが、それが最終的に藩に返ってきたのは延享4年(1747年)です。

金次郎は、文政元年(1818年)に大久保忠真に見い出され、大久保家の分家である旗本の宇津家の領地がある下野国桜町、今の栃木県の農村を立て直して、それが認められた。

ただ、金次郎が考案した報仕法というのは、基本的には資金をどのように運用するかというのが核となると思いますが、小田原地方では結構いろんな形でお金が運用されていて、それが当たり前のようになっていたようなんです。ですから、それ以前にも何か似たような、あるいは参考となるような運用の仕方があって、金次郎はそれらをうまく体系化したんじゃないかと思っています。

ということは、相模というか、神奈川そのものは割と経済的に豊かな側面があって、豊かというと語弊があるかもしれませんが、要するに、お金が回る地域だったということです。街道もあるし、江戸にも近いということで、そうした中で金次郎も出てくるということを考えなければいけないのかなと思っています。

「運慶末流」を名乗って対抗した鎌倉仏師

松信職人について、お寺が多い鎌倉などではどうでしょうか。

鈴木鎌倉は、中世から伝統的な寺社が多いので、そこで活躍する職人たちもたくさんいたと思うんです。しかし、近世に入りますと、寺社のスポンサーがいなくなりますので、経済的に非常に落ち込んでいく。寺社に付属していた職人集団も当然、生活が苦しくなって、新興の都市・江戸へ移っていく。需要と供給のバランスで言えば、江戸に職人が多く集まり、逆に江戸の職人たちが相模へ進出してくる傾向があると思います。

そこで、鎌倉あたりを根拠にしていた伝統的な職人集団が、新しい動きをする。鎌倉の長谷寺の十一面観音の修理をする際に、仏師の三橋靱負[ゆきえ]は鎌倉時代の有名な仏師である「運慶の末流」であるという言い方をして、鎌倉仏師という伝統的な肩書を掲げて江戸の新興の仏師たちに対抗していくんです。

大工には鎌倉の河内九右衛門や大山の手中明王太郎

鈴木大工もそうです。河内家は建長寺に付属していた職人集団ですが、大規模な寺社の建築がありませんから、鎌倉建長寺大工というブランドを下げて、地域の小さな祠とか社の修復とかの建築に携わっていくんです。ブランドを活用した生き方を見つけていくわけです。そんな特色が見え隠れする。特に、鎌倉地方を中心とした職人集団の中には、そういう側面を持って生きていった人たちがいた。職人たちの動きが、経済状況を非常によく反映しているんです。

松信大山に宮大工の棟梁がいますね。

鈴木手中明王太郎家は大山寺(阿夫利神社)の造営を中心に、神社、仏閣の建築にたずさわった家柄です。代々の明王太郎は伝統的な技術を伝承するなかで、その技術を時代の要請に応じ、うまく展開していく。

これは実現しなかったようですが、ペリー来航とともに江戸幕府が軍艦建造を計画する状況を見てとって、手中は船の設計図をかいているんです。技術を持っている人たちが、時代を見て、自分たちは何ができるか。時代に即応した生き方をしたことがわかります。

馬場小田原には、北条氏の時代から続いている小田原鋳物師がいますね。

鶴見の石工・飯島吉六は作品で活動範囲が判明

鈴木横浜の鶴見村の石工の飯島吉六が戸塚の富塚八幡宮の狛犬をつくったりしてますね。狛犬がどの辺に分布しているか、つくった作品で活動範囲がかなり明らかにされていると思うんですけれど、技術を持った職人は、需要があってこそ成長していくものですから、そういうものを需要する人たちがすでに庶民の間に成長していた。その反対の側面で、技術が拡張されていったんでしょうね。

松信職人は、資料が少ないんでしょうか。

馬場本当の職人は江戸などの城下町にいますからね。日常の用途に必要な人たちはたくさんいたのでしょうけれども。

鈴木人々が日常的に消費するものは、江戸に中心があるかもしれませんね。流通の問題から言うと、江戸の経済圏の中におさまってしまう。ただ、鍛冶屋などは在地でもいたと思います。

回船をもつことが商人の大きなステータス

不動丸の図

不動丸の図
茅ヶ崎市・藤間雄蔵氏蔵

松信商人ではどんな人がいますか。

馬場座間の大矢弥市が知られています。それから浦賀の商人は、全体が回船持ちですからかなり大きい。まず、船を持っていることが商人の大きなステータスになりますので、神奈川湊、浦賀湊の商人たち。それから片瀬、平塚の須賀、真鶴の回船問屋などがあげられますが、大磯の川崎屋孫右衛門などは野田の高梨家、これはキッコーマンの茂木一族と一緒になったそうですが、そこに小麦を出している。相州小麦は質がいいということで、近世後期にはすごいブランド品になっているんです。

神奈川では、米穀商がいろいろな意味で重要だと思うんです。つまり、米や麦が生産品や消費財として非常に大きな意味を持っている。神奈川は観光地化も進んでいて、いろいろな人が動きますから、大量の米も消費しますし、生産もしている。米穀商の力が強いことが非常に特徴的なのではないかと思います。

松信川崎屋孫右衛門は打ちこわしに遭っている。

馬場天保の飢饉で米が高くなった中で、天保7年(1836年)に川崎屋を中心に7軒が打ちこわしに遭った。原因は、米が少なくて高いときに米を供出しなかったからと言われていて、彼も牢に入れられる。普通は、打ちこわしを受けた側は牢に入らない。珍しい例ですね。8か月以上代官所の牢に入れられ、出牢して、店を畳もうと思ったところで二宮金次郎に出会って改心し、報徳仕法を導入し、大磯宿を立て直す。

そのきっかけは、今も老舗の茶商として有名な伊勢原の「茶加藤」の加藤宗兵衛で、彼は、報徳仕法に傾倒していて、川崎屋とは縁戚関係にあったんです。

その後、大磯が小田原藩になるときに、各町ごとに名主を推薦するんですが、川崎屋は名主に推薦される。打ちこわされた7軒のうちの4軒が大磯の役人になるんです。

大磯の川崎屋は浦賀商人や福住九蔵とネットワーク

馬場川崎屋を突き詰めていくと、「茶加藤」につながり、浦賀商人の宮原屋一族につながる。また、箱根の旅館の福住九蔵(正兄)にもつながるという、全体的なネットワークがあって、それがまた二宮金次郎の報徳仕法につながっていく。

大矢弥市は、二宮金次郎にはつながりませんが、小田原藩の有力な金貸し商人なんです。小田原藩は、それ以外にも江戸の住友や大坂の鴻池といった豪商とも貸借の取り引きをしている。

また、江戸や上方では、これらの商人を対象とした大規模な無尽講、いわゆる大名無尽、武家講を運営しています。もちろん領内でもやっていて、これには大矢弥市や韮山の江川代官所もかかわっている。

そうやって広げていくと、相模というか、神奈川を突き抜けていく。相模の人間関係はものすごく複雑に入り組んでいますね。

茅ヶ崎の回船問屋・藤間柳庵は文化的活動も展開

松信茅ヶ崎に藤間柳庵という回船問屋がいますね。

鈴木藤間柳庵は、相模川河口の柳島という、非常にいい立地に本拠地を置いて営業を展開したんですが、同時に文化的な活動をしていく。当時の事件などを記録した著作もあります。名主や本陣の人たちもそうですが、近世後期あたりの人物は、何か文化的な活動をするんですね。藤間柳庵もその代表格です。

馬場相模川との関係も大きいですね。水運と海運とが接続するところが平塚の須賀とか茅ヶ崎の柳島あたりで、その辺りが情報の一つの中心になる。柳庵もそうした情報を書きとめていて、それが非常に興味深いですね。

神崎旗本領では、村の中に小歩という役職があるんです。地元と江戸を往復して、江戸の文化や情報、例えば、江戸の米相場は今こうだと伝える。江戸で出された浮世絵などもすぐ買ってきて、地元では、それを見て、そういうものにあこがれるというのもありますね。これは幕領などはやりません。極言すると、幕領などより、旗本領はそういう文化の流入が案外早かったんじゃないかという気がしますね。

宿場に置かれた本陣は地域の利益を守り外来文化を摂取

文命東堤の碑

文命東堤の碑
南足柄市

松信神奈川県は東海道と甲州道中が通っています。街道には本陣が置かれますが、有名なのは川崎宿の本陣の田中休愚ですね。

鈴木『民間省要』という本も書いていますし、地方にに精通している。近世中期から後期にかけて幕府財政が逼迫する中、この人は、年の豊凶にかかわらず定額を徴収しようという年貢の定免制を早くから提唱しています。地元にいて、そういう感覚を身につけているところがあるんじゃないでしょうか。また、多摩川や酒匂川の改修も行っており、南足柄市には治水の安定を願った文命堤の碑が残っています。

戸塚の本陣の澤邊宗三は、戸塚宿ができるとき、特に藤沢側から戸塚宿の成立を阻止しようという動きがあるんですが、地域の利益を守る代表として活動する。

神奈川宿の石井本陣のお宅の記録を見ますと、本陣が文化を導入する接点になっている。地域文化を代表する、あるいは外来文化を摂取する、そんな媒介をしているのが、こういった立場の人だったんじゃないか。本陣の名主たちは地域の中心人物としていろいろな役割を果たしていたんだと思います。

馬場神奈川は、各宿に本陣の資料がけっこう残っていて、宿ごとの特色がある程度わかりますね。名主や商人と同じように、領主と結びついて、領主のいろいろな活動を手伝ったり、支えたり、本陣は特にそういった側面が強いと言えるような気がします。

大坂落城後、東慶寺に入った天秀尼

天秀尼像

天秀尼像
東慶寺蔵

松信江戸時代は女性の資料があまり残っていないと言われますが、天秀尼は有名な人ですね。

鈴木天秀尼は豊臣秀頼の娘で、大坂城落城のときに一命を助けられ、縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺の住職になった人です。そのときに、中世から続く縁切りの寺法を守ることを家康に嘆願して、それが許されたという逸話のある人物なんです。

中世の伝統的な寺社は、俗権が入り込めないものであったと言われています。東慶寺は、そこへ女性が駆け込めば自由に離婚ができるという制度を保ったわけですが、普通、権力はそういうことは許さないと思うんです。犯人が寺や神社に入れば、権力が及ばないというのは大変なことで、権力はなるべくそういうものを排除していく。近世はそういう時代に移っていくのですが、天秀尼という女性が入ったことによって、中世の聖なる世界が温存され、江戸時代を通じて残されたんです。

江戸へ出て田原藩主の側女となった早川村お銀

渡辺崋山 『游相日記』の挿絵

渡辺崋山 『游相日記』の挿絵

松信渡辺崋山の『游相日記』の中に、早川村のお銀さんのことが出てきますね。

馬場お町という娘が江戸に奉公に出て、お銀という名で田原藩主の側女になったりするんですが、母親が急死したために、結局、お町は実家に帰る。20年ほど後、そこに渡辺崋山が訪ねて行くんですが、それが『游相日記』として、相模を紹介するようなものになったんですね。

相模の女性は江戸に奉公に出ることが多いんです。それで、俗に相模女という言われ方があって、非常に情が深いけれど好色であると、これは『広辞苑』にも出ています。街道がありますから、飯盛女とか、そういった問題もあるかもしれませんが、とにかく江戸で噂になる。

神崎相模の出女なんて言われて、神奈川に住んでいる私はいやなんですけどね。

馬場奉公に上がるためには学がなくてはいけないんです。一般に武家には武家、商家には商家の勉強があって、その素養がなくてはいけない。調査に行ったお宅で、先祖はどこそこに奉公に上がったという話をたまに聞きますが、お銀さんもそんな1人だったんでしょうね。

神崎人別帳なんかを見ると、旗本のところに行儀見習の奉公に行っているのが大勢いますね。そこからまた商家に奉公に行っていたりするんです。

馬場余談ですが、お銀が生んで、江戸に残してきた田原藩主の子供は、長じて三宅友信と名乗り、蘭学者として知られるようになります。

自由奔放に生き、夫と対等に争った上溝村のとみ

鈴木江戸時代の封建制下の女性というと、一面では従順で慎み深いといったイメージがあるんですが、相模原の上溝村の百姓の女房のとみさんなんかは、なかなか自由奔放な生き方をしていますね。夜になっても帰宅せず、夫と対等に夫婦喧嘩をしたあげくに、家を飛び出している。

当時、相模原一帯では養蚕が広範に行われており、糸取り、機織りなどの現金稼ぎを女性が担い、家計を支えていたと言われています。生活レベルでは、かなり強い女性たちがどこにでもいたのかなと思われますね。

松信女性たちだけ連れだって旅行に出かけたりもしていますね。

神崎時には、十数名のおかみさんたちが集まって、お伊勢参りや日光見物に出かけているんです。その間、亭主は自分で飯を炊いて食べている。現実に村から村を乗り越えて、自由にのびのびと暮らしていた。そういう面が、当時の女性全部ではありませんが、一部に見られますね。

鎌倉大仏を復興した養国上人など

松信お坊さんの活動はいかがでしょうか。

鈴木鎌倉大仏を江戸時代に復興していく中心者に、養国上人がいます。大仏は鎌倉時代に建てられた立派な仏像ですが、お寺は、江戸時代には非常に零落して、それをどう保存し復興していくかが大仏さんの住職の一つの課題だった。

江戸幕府から助成金をもらったり、助成策にあずかれるような寺格じゃないので、結局、自分の力で復興を遂げていかなければならない。その活路をどこに見出したかというと、江戸なんです。大都市・江戸の人びとの喜捨を当てにして復興を計画していく。神奈川のお寺は、そんなふうに江戸の人たちに支えられている側面があるのではないか。

それから、時宗の他阿尊任というたいへん人気のあった遊行僧は、全国各地を歩いて回るんですね。「賦算」といって、お札を配って信者との結びつきを強めていく。もう一つ尊任に課せられた仕事は時宗自体の引き締めです。江戸時代になると仏教の各派がそうですが、緩みが出てきて、昔に帰ろうという動きがでてくる。

円覚寺の誠拙周樗も、そういう旗頭になる人物です。円覚寺は禅宗の、大変厳しい座禅修行で知られていますが、やはりこの時代に引き締めが必要になってきた。

高麗寺の慧歓は寺を改革、江の島の真乙は集客に努める

広重「相州江之島辨才天開帳参詣群集之図」

広重「相州江之島辨才天開帳参詣群集之図」
神奈川県立歴史博物館蔵

馬場大磯では高麗寺ですね。天明の飢饉は、いつも一つの画期になるんですけれども、そのときに慧歓というお坊さんが高麗寺を立て直していく。年貢とか土地のことも全部含めて改革をやっています。

それから家康の命令で大山の八大坊で慶長の山内改革をやった実雄という平塚八幡社の別当等覚院のお坊さんがいます。

相模の場合、神社・仏閣が観光地になっているという特徴がありますから、いろいろな努力をした人物が結構いるのではないかと思います。

鈴木江の島には岩本院の別当で真乙という、俗人であるしお坊さんでもあるというような人がいます。元禄ぐらいから活躍をする人ですが、弁財天の開帳や祭礼の整備など、懸命に江の島の宣伝をする。それが集客にもつながっていくということで、江の島を売り出して、弁天信仰を興隆させていくんです。

また木食僧の弾誓は、廃寺同然だった箱根の阿弥陀寺を復興し、民衆を救済していきます。

江戸時代の宗教界、特に仏教界では、これは神奈川県だけではないようですが、引き締めとか、復興というキーワードでくくれるところがあるんじゃないかと思います。

支配する「士」と被支配者層の「農工商」

松信江戸時代は身分に士農工商という区分があったと言われていますが、身分制度の実態は、どうだったのでしょうか。

馬場一般的に江戸時代の身分制は、士農工商の四つを基本にしていると言われています。実際、史料上でもそういう文言を見かけるのですが、どちらかというと、それは身分的な序列を表わすスローガン的な意味合いが強いと言った方がいいんじゃないでしょうか。

江戸時代にはまず、支配する領主層の「士」と、「農工商」という被支配層との身分がはっきり分かれていて(兵農分離)、それぞれの関係は基本的には土地を媒介にしています。村にいて耕作地からあがる年貢を上納していれば「百姓」、城下町にいて家の間口を基準にした間口銀などの地子を納入していれば「町人」ということになります。また、職人などは別にその職能に応じた「国役」とよばれる役を勤めることによって職人として編成されています。

これを人別支配の側面でみれば、代官などの地方役人の支配下にあれば百姓、町奉行の支配下にあれば町人となっていて、いずれにしても支配される側は百姓と町人の二つが名称的にも実態も身分制の基本となっている。

おおざっぱに言えばそういうことになるかと思います。ただ、宿場町などは、普通は代官の支配下にあって年貢を納め、「百姓」として把握されてますが、宿は「町」という単位に編成されていて間口銀を収めるわけですから、そうした両属的な関係のものが多いのも事実ですね。

士農工商というのも、それ自体はわかりやすい区分ですが、農民と漁民・山民、あるいは商人や職人との関係、さらには武士への身分上昇といった問題を含めて考えれば、実態は非常にシームレスであって、これと区分けできないような多様な側面をもっていることの方が多いですね。

下層の武士が上層の町人に身分を移動することができた一方で、百姓から武士になっていく者もいた。小田原藩でもみかけます。一つ一つを見ていけば、逆に、当時の社会の多様性が浮かび上がってきて、それが面白いのではないでしょうか。

当時の社会状況や文化の様相を人物を通して理解

松信いま、各市町村史の編纂の中で、いろいろな人物が掘り起こされていますね。

馬場自治体史をやっていくということは、これまでの人物の再評価とともに、そうした新しい人物を発掘していく楽しみがあります。

鈴木そういう人たちが、神奈川県の近世を語るときには、欠くことができないのだろうと思いますし、そういった人物に視点を当てると、政治状況、あるいは社会がわかるということになる。この本の企画は、もともとたくさんの人物の中から百人に限定して選んだわけで、本来は載るべき人がまだたくさんいるはずだろうと思います。

ただ、それも限りのあることですので厳選し、そういった人たちの代表として、百人を象徴して取り上げ、その人の事績、過去を取り上げてみる。これは、あくまでも象徴的に取り上げて、その人たちの事績を見ていくということで、当時の社会、政治の状況あるいは文化の様相といったものが人を通してわかってくるのではないか。

普通の歴史書ですと、そういう人物を介しての紹介はなかなかできないと思うんですが、この本では、人物を通して見た結果、これまでとは違った視点、違った切り口で、神奈川の近世の地域性や特色が描けるのではないか、というところからスタートしました。そんな意図が隠れておりますので、ぜひ読んでいただきたいと思っております。

それから多くの執筆者にかかわっていただいています。最近、自治体史がたくさん刊行されておりまして、それに携わったような方々に執筆していただきました。

神崎これだけ選ぶのは大変だったでしょう。さきほどのお銀さんの関係で駿河屋彦八とか、寒川の豪商・豪農の入沢家、幕末に清兵衛新田を開発した原清兵衛、海老名の大谷村の生まれで刑死した鈴木三太夫など、まだまだたくさんいますね。

松信多彩な人物がいたんですね。どうもありがとうございました。

神崎彰利 (かんざき あきとし)

1930年厚木市生まれ。
共著 『鎌倉・横浜と東海道』 吉川弘文館 2,500円+税ほか。

鈴木良明 (すずき よしあき)

1946年藤沢市生まれ。
著書 『近世仏教と勧化』 岩田書院 7,900円+税。

馬場弘臣 (ばば ひろおみ)

1958年福岡県生まれ。

※「有鄰」471号本紙では2~4ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.