Web版 有鄰

457平成17年12月10日発行

[座談会]明治を読み解く
『ビジュアル・ワイド 明治時代館』刊行にちなんで

前国立歴史民俗博物館長/宮地正人
小学館出版局編集長/清水芳郎
有隣堂社長/松信 裕

左から清水芳郎氏、宮地正人氏と松信 裕

左から清水芳郎氏、宮地正人氏と松信 裕

はじめに

「鉄道馬車往復京橋煉瓦造りヨリ竹河岸図」(部分)

「鉄道馬車往復京橋煉瓦造りヨリ竹河岸図」(部分)
3代歌川広重 長崎歴史文化博物館蔵

松信「明治」は日本の歴史の中で大きな転換が起こった時代であり、現代日本の基礎が築かれた時代でもあります。また、近代国家の建設など、国際社会へ向けて新しい時代を切り開いていこうとする人びとのエネルギーがあふれていた時代とも言えます。

このたび、明治時代について1冊にまとめた『ビジュアル・ワイド 明治時代館』が小学館から刊行されました。近年の新しい研究成果や、たくさんの写真・図版資料がカラフルに盛り込まれた楽しい、美しい本であると伺っております。

本日は、監修をされました宮地正人先生と、編集長の清水芳郎様にご出席いただき、「明治」とはどんな時代であったのか、その魅力やおもしろさとともに、内容につきましてご紹介いただきたいと思います。

宮地先生は、長年、東京大学史料編纂所でご研究され、同所長を経て、2001年から今年の8月まで、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の館長を務められました。明治維新を中心とする日本近代史がご専門で、幕末・明治期の錦絵や瓦版といった画像資料などについても、ご造詣が深くていらっしゃいます。

『明治時代館』の編集長を務められました清水様には、同書の構成や特色などについてもお聞かせいただければと思います。

下からの動きが維新変革の土台をつくる

松信明治という時代は、封建制が壊れ、非常に大きな変革が始まります。『明治時代館』では「創業」「建設」「展開」「変革」の4つの時代に分けて、明治維新から明治天皇の崩御までが紹介されています。

まず「創業」の時代には、新政府が欧米にならった新国家を建設しようとして、廃藩置県をはじめ多くの新制度を導入しますね。

宮地明治維新については、いろいろな意見がありますが、私は上からの文明開化論には賛成ではないのです。上がやろうとして、あの大変革が起きたのではない。勝海舟のような幕府の開明派が非常に努力して、何とか幕府を維持しながら新しい状況を乗り切ろうとしたけれど、結局それが挫折する。そこには今まで全然名もない人間、長州なら木戸孝允、薩摩なら西郷隆盛や大久保利通、あるいは関東なら新撰組みたいな連中や、いろいろなグループがさまざまに出てきた。

日本は今までのままでは保てないから何とかしなければならないと。そういう全国的な状況があり、これらの力の総結集が維新変革の土台をつくったと考えないといけないのです。

そういう動きが基本になって展開したからこそ、封建社会も幕府も壊れた。上からの近代化を進める人びとと、それとは別のものを考える人びと、その対抗関係のエネルギーがあったと思うのです。

ペリー来航から西南戦争までは激しく社会が動く

宮地ただし、多くの人間がいろいろな構想を持っていますから、壊れた後にどんな社会をつくるかというのは、そう単純にいかない。

東京遷都にも反対する人間も、賛成する人もいる。明治6年(1873年)の征韓論も大分裂になった。太政官政府が真っ二つに割れたのは、たいへんな政治的な危機なのです。西郷が分かれ、江藤新平が分かれ、板垣退助が分かれる。廃藩置県をやろうとした連中の半分は分かれてしまった。

それで、大久保利通が1人で局面を切り開かなければならない。大久保の一世一代の大仕事になるのが、明治7年(1874年)の台湾出兵をめぐっての日清交渉です。

嘉永6年(1853年)のペリー来航から明治10年(1877年)の西南戦争までは、1年後の展開が予測できないほどすさまじい動きなんです。動いている連中自身にも予想ができない。そういう状況が「創業」の時代なのです。

東京遷都とか廃藩置県や文明開化とだけ言うと、あまりおもしろい議論にはならないし、西郷隆盛も位置づけられない。維新変革の第一の功績者は西郷で、木戸でも、大久保でもないのです。西郷が、なぜ西南戦争で死なざるを得なかったかということも含めて維新変革を考えることは、今度の本でもできていると思います。

新政府の地位を高めた駐屯軍の撤退

松信明治の国家は非常に華々しく登場してきますね。

宮地一番の基本は外国に屈しないという独立の問題だと思います。ですから不平士族がいくら言っても、明治政府が俺たちが正しいと威信を確立したのは、明治8年、横浜のイギリスとフランスの駐屯軍を撤退させたときです。

幕末から事件のあるたびに駐屯兵が増え、明治元年から岩倉具視は、国家の体面に係わるから兵隊を引き揚げてくれ、とイギリス公使のパークスにも繰り返し言っている。しかし、日本の治安が信用できないということで駐屯が続く。これが外交交渉の大きな問題だったのです。

政府が一番弱いのは、外国の圧力に屈して、外国の兵隊を日本に置いているではないかという攻撃なのです。幕末から一貫してそうです。

松信文久2年(1862年)に起きた生麦事件を端緒にして、横浜の山手一帯にイギリスとフランスが、居留地の外国人の治安を守るということで軍隊を駐屯させる。

宮地不平等条約が明治32年(1899年)に撤廃されることもありますが、まず駐屯軍を撤退させたというのは日本の国際的な地位を上昇させ、しかも、国内に対する明治政府の地位も高まって、不平士族の攻撃ができなくなった。これは国家としてとても大事なことなのです。

尊皇攘夷運動とは、基本的には外国の圧力に屈せず日本が独立し、対等に対応するということです。これ以外、何にもない。幕府はそれに対応できなかった。生麦事件も、下関でアメリカの商船を砲撃した問題も、薩英戦争も、一つ一つ譲歩した。これが国内の反幕勢力が共同してまとまる原因となった。

これに対抗するには、日本の国家と民族を独立した形にするしかない。明治以降は、尊皇攘夷という言葉ではなく万国対峙と言いますが、それは日本が欧米の国家と同じような国家として認められるということなのです。

大久保利通

大久保利通
国立国会図書館蔵

今はかなり雰囲気が違っているようですが、普通の国家論で一番大事なのは、外国の軍隊を国内におかないということ。すごく単純明解な話なのです。これを岩倉具視と大久保利通が実現したのは、たいしたことだと思います。

文明国家としてのモデル地域だった横浜と東京

松信そういう意味では横浜というのは大変なところですね。

宮地横浜を見ていれば、大体幕末から明治初年の話がおもしろく議論できる。

文明開化にはいろいろな要素があるけれども、国家の独立という問題と対応し、結びついて初めて文明開化がでてくるということなのです。文化史的にだけ議論してもあまり歴史学的にはおもしろくない。

なぜ文明開化をやったかというと、政府の考えとしてはヨーロッパやアメリカと同じような形で我々日本人も社会生活ができるのだ。あなた方と同じような文明的な民族であり、国民であるということを示すためで、文明開化そのものが自己目的では全くないと思いますよ。

横浜と東京はモデル地域にされたから、公衆便所を造ろうとか立ち小便禁止とか、裸で出歩いてはいけないとか、うるさく警察が取り締まったわけでしょう。田舎ではやらない。

外国人は国内をまだ自由に旅行はできないけれども、東京と横浜はかなり広範に動いているから、外国人の目の前で野蛮人的な振る舞いをするな。そんなことをやったら条約改正ができなくなるじゃないか。そういうことだったのです。

お雇い外国人は国や県だけでなく個人とも契約

宮地そういう形でヨーロッパに即応した社会体制をつくるためには、お雇い外国人は非常に大切な問題で、よくもあれだけ高い給料を出したと思うほどですよ。

松信大臣に匹敵するくらい高いんですね。

宮地そうですね。ただしこれは国だけじゃない。県でも雇っているし、私でも雇っている。外国人を雇う契約の主体がプライベートなものなのか、県なのか国なのかで非常に違うんです。

松信横浜に水道を引いたパーマーは県雇ですね。

宮地お雇い外国人は国が雇ったとのイメージがあるけれど、慶応義塾のような学校の場合は自分たちの力で教師を雇ってますから、政府が金を出したわけではない。これは外国人の知識を借りながら、できるだけ早く日本を西洋化したいという欲求のあらわれで、政府が外国人を雇ったから近代化したといった単純な話ではないのです。

学んだ技術をすぐにとりいれる好奇心と技術

「東京往来車尽」 一孟斎芳虎 明治3年

「東京往来車尽」 一孟斎芳虎 明治3年
大森敬豪氏蔵

宮地その一方で、鉄道でも何でも向こうの技術を学んだら、今度はできるだけ自分たちでつくってしまう。蒸気機関車は、まだ輸入ですけれども、木造の客車なんか、彼らの指導を受けながら自分たちで製造してしまう。テクニカル・トランスファーが非常に速く進む。日本の職人たちの技術と、外国人が持っているヨーロッパの近代的な技術の結合ですね。

松信蒸気機関車はペリーが持ってきて、横浜でミニチュアを走らせますが、明治になってイギリスから車両を輸入して外国人を雇い、新橋−横浜間に走らせるための指導を受けて建設していく。鉄道にしろ何にしろ日本人には西洋文明に対応する受け皿があったんですね。

宮地需要もあるし、受け皿もあるし、それから好奇心が旺盛なんですよ。ペリーの蒸気機関車に乗って喜んでいる侍がいるというのは、あれは中国では起こり得ない。

艦隊員が持ってきたピストルなども、鍛冶屋に頼んで複製をつくるんじゃないかと思うほど本当にきれいに模写している。ただのデッサンじゃないです。帆船も、帆の張り方、マストのたて方、綱の張り方をものすごくリアルに全部写しとっている。

これは日本独特の現象で、中国は阿片戦争から西洋文明と接触していますが、その時代の中国人と日本人とでは、受けとめかたが全然違う。

松信まねる能力や技術ではなくて、意識の問題なんでしょうか。

宮地その民衆が持っている関心が、ちょっとずれていたんだと思う。ペリーが来た第一次と第二次の横浜の見聞録は全国にありますね。どういうものを食べていて、どういう贈り物があったか、蒸気機関車はどんなものだったかという情報を共有している。

松信黒船来航を描いた絵巻がたくさんありますね。

宮地全国にそういう絵巻があって、条件があれば自分たちでつくってしまう。ペリーが来たときに米艦に乗り込んだ浦賀奉行所与力の中島三郎助たちは、実際に浦賀で軍艦をつくってますからね。これも、幕末から明治初期に起こった、日本社会全体のエネルギー、活力だと思う。そういう好奇心や意欲を、幕府の枠組みでは結局、処理できなかったのですね。

人口増加の条件をつくり出した明治国家

松信民衆の暮らしには、どのような変化があったんでしょうか。

宮地明治時代には人口が飛躍的にふえるんです。3,000万人だったのが、大体明治の末で5,000万人ぐらいになる。それだけの人口増加は社会や国家が変わらないと起こらないんです。そういう条件を明治国家、明治の社会がつくり出した。

江戸時代は最初の人口は大体1,500万人ぐらいですが、17世紀に民衆の生活の質が非常に上がるのです。

戦乱のない時代で、単婚小家族と学問的には言うんですが、人が労働した富が蓄積され、家が自立する。この時代に人口が3,000万人になる。江戸時代の前期ですね。

江戸時代の後期は非常におもしろい時代なんですが、人口はほとんど変わらない。幕末まで、3,000万人で停滞しているんです。

松信江戸末期には、3,000万人を養えていたということですね。

宮地養えていたというより、3,000万人以上は養えなかったのです。

松信食糧の生産量が飛躍的に増えて食べられるようになったんですか。

宮地そうですね。何はともあれそれは大したものだと思いますよ。質の問題を問うと、貧乏人が多かったとか言われるけれども、それだけ食べられるようになった。

種痘の普及や伝染病予防で子供が死ななくなる

宮地もう一つは病気の問題なのです。病気に対して国がどう関与するかというのは国家機能の非常に大事なポイントで、幕末から明治初年に民衆の支持を得ようとしたのは種痘なのです。

それまでは天然痘にかかると、おまじないの紙を張って祈るだけだったのが、自分たちの子供が病気になって死ぬのは、国の責任だと民衆が思うようになった。民衆の医療要求がそれだけ高まったのだと思っています。

松信新政府に対する期待というか欲求も大きくなっていたんですね。

宮地種痘は、幕末には、蘭方医とか、漢方医でも、横浜あたりだったらやっていたかもわからない。難しい技術じゃありませんから、種さえあれば子供を集めて植えて、天然痘が予防できる。民衆にはそういう知識がありますから、医者はどうするか、あるいは県はどうするかという要求になって出てくる。すると県なり、内務省なりがそれに対応しなければならない。その種痘ネットワークを、明治初年には内務省が組織する。全国の医者に組合をつくらせて種痘をやらせる。

天然痘で子供が死ななくなったことは、きわめて大事なことだと思うのです。

それから、横浜ですとコレラがあった。ペストはちょっと特殊で、横浜で起きたときには家を焼いたりしますけれども、それほど広がらなかった。コレラは非常に大きい問題です。あと赤痢ですね。

こういう伝染病をどう管理し、伝染を防いで病気をなくすかというのが大きい問題になってくる。民衆の力、あるいは地域の医者をいかに組織していくのか。避病院に隔離されたくなくて、民衆が暴動を起こすこともあるし、スムーズにはいかないけれども、摩擦を起こしながらも、衛生の問題では国が民衆要求に対応しつつイニシアチブをとるようになる。

民衆の学習要求で小学校が定着

旧開智学校車寄せ

旧開智学校車寄せ
松本市 明治9年 重要文化財旧開智学校管理事務所蔵

宮地教育の問題もそうです。明治5年に学制が頒布されたから全国に小学校ができたというのは、あまり正しい歴史学的な説明ではない。たとえばタイも、中国も、学制が頒布されたら小学校ができたかといったら、必ずしもそうでもないでしょう。やはり民衆の学習要求との対応で初めて小学校ができる。

とくに小学校は税金で建てたわけではなかった。学資金としてみんなが金を出して、それで小学校を建てるのです。集めた学資金の利息などで、教科書を買ったり、教師を雇う。政府が考えているカリキュラム以前に、自分たちの子弟の教育をやろうという運動や要求があったところに、初めて小学校が定着する。

ほかの国はともかく、幕末から維新の日本は、民衆の知的要求や医療要求が強いことが一番大きい問題だったのです。そういう要求に、国家が対応を迫られ、江戸幕府は結局それに対応できなかった。

新しい国家は、それにきちんと対応しなければ、またひっくり返されてしまう。旧幕の轍を踏むとつぶれるという危機意識があった。これは西郷にも、木戸にも、大久保にも最初からあるんです。因循苟且の轍を踏むなというのが彼らの座右銘です。その側面を見ないと、本当に明治初年の、とくに創業期の動きはわからないと思います。

国家が民衆をどう引きつけるか、という問題もある。国家の機能とは何か。普通は、すぐ軍隊と警察と言うのだけど、明治国家の場合はもっと幅広く見なければいけないのです。

文明開化の話も、レンガ造の建物がいつできたかとかいう話以前に、民衆の生活全体に明治国家がどう関与したか、民衆要求と国家の対応如何ということを考える必要があるのです。

人びとの生活が明るく色鮮やかに

大隈重信邸の台所

大隈重信邸の台所
村井弦斎『食道楽 春の巻』(明治36年刊)から 吉田淑子氏蔵。
ガス・電気・水道・調理器具など近代的台所のひとつの規範とされた。

宮地柳田国男が『明治大正史世相篇』の中で言っているんですが、明治時代は、一つは家が明るくなった。それから、ものすごく色が鮮やかになった。そのあたり、彼は本当にセンスがいい人だと思うのですが、私も含めて文献で考える歴史学の人間とは違うところで明治を見ている。

日本の家屋は、中世までは板戸で全部閉めますよね。蔀戸といって、今も神社仏閣にあるでしょう。閉じてしまうと中は真っ暗で、光がまったく入ってこない。ある程度光が入るのは障子ですが、これは江戸時代に、紙の大量生産と消費ができて初めて庶民のものになる。明治の中ごろには、ガラスが入ってきて、日本人の家の中がすごく明るくなるのです。

正岡子規は脊椎カリエスでずっと寝たままだけど、ガラス戸越しに、病床六尺で寝ている自分のところに明るい光が入る。あれは明治20年代から30年代の日本人の実感だと思う。今はアルミサッシのガラス戸が空気みたいに当たり前だけど、家の中が明るいということ、障子みたいに外が見えない形の明るさじゃなくて、外界が見えて光がすべて差し込む明るさは、明治を考える場合に頭に一つ置いたほうがいいでしょうね。

カラフルというのは、外国の花が来る。コスモスはメキシコ原産でヨーロッパには早く入るんだけれども、日本に来るのは明治ですね。

衣食住が西洋化して庶民生活が変わる

松信人びとの生活も急速に変化していくわけですね。

宮地生活様式が洋風化するのは、食べ物を見るとよくわかるんです。今、当たり前に食べているサツマイモとジャガイモは、どちらもアメリカからのもので、サツマイモは一番早く入ってきた。熱帯の食物だから日本でも栽培しやすい。ジャガイモが日本の社会になかなか入らないのは寒冷地栽培植物という特殊性だけではなく、洋風の食事があって初めて食べるようになる。それからトマト。落花生は和食には合わなくて、江戸期は中華式の食べ物と一緒に長崎で食べられていた。生活が庶民レベルも含めて洋風化して、それらが入り始める状況になってくる。

単なる文明開化というよりは、庶民レベルを含めた衣食住が西洋化して生活が変わってくるということなのです。

松信横浜では牛乳とかビール、西洋野菜などが、洋風化とともに生活の中に入ってくる。

宮地豚肉は幕末から横浜での需要が強い。養豚は横浜周辺でもやっていたようですが、千葉県で幕末から豚肉の資料が出てくる。居留地での需要が相当あったのでしょうね。

松信居留地の建設に房総の鋸山の石がたくさん使われたのだそうで、東京湾を渡って船で物資を運ぶのはかなりさかんだったようですね。

「一身にして二世を見た」福沢諭吉

福沢諭吉

福沢諭吉
慶應義塾図書館蔵

松信明治の創業の時期は確かに明るいイメージがあるんですが、すごくエネルギッシュな時代だったんですね。

宮地明治前半のエネルギーは、福沢諭吉の言葉を、丸山眞男さんがうまく引用していて、「一身にして二世を見る」、自分自身が江戸時代と明治を見るという、人間の幅の広さみたいなのはあると思うのです。

福沢諭吉は幕末に蘭学をやって、横浜に来て英学をやらなければいけないと悟ったら、すぐ英語をやる。封建的じゃないんですよ。幕末においても彼はものすごく近代的な人間だと思います。咸臨丸でアメリカに行って、向こうの女の子と自慢げに写真を撮っているでしょう。武士はあんなことは絶対しない。(笑)

松信ちょんまげでね。

宮地初めて行ったサンフランシスコの写真館で女の子と写真を撮るような人間なのですよ。彼も、ヨーロッパやアメリカで、これは日本と違うと直観的に感じたのだと思う。ただし、彼は中津藩出身のエリートですから、民衆との接点がない。

彼は、非常にセンスのいい人なのに、長州征伐に大賛成で、幕府が絶対主義になるのがいいと思っていた。『福翁自伝』を見ても、廃藩置県が起こるとは夢にも考えていないのです。自分が暗殺されると思って、人が来ると道をよける。福沢諭吉ですらそんなように考えていた。しかし、彼にとっては突然だった廃藩置県で、暗殺の危険はなくなった。非常に気が楽になって『学問のすすめ』を書く。

明治14年政変で福沢の門下生も官界から追放される

宮地慶應義塾という、イギリス的なパブリック・スクール、民衆の力を結集した学校をつくり、そこで人材を育てないかぎりは社会はもたないと考えた。市民社会のセンスがそこにある。このセンスと国家論が結びつくのが明治8年(1875年)ころでしょう。

福沢は、明治8年の『文明論之概略』で、攘夷主義とか幕末の変動をそれなりに積極的に評価するようになり、国民のナショナリズムがあの運動になったのだと、初めて言う。その後、神奈川県も含めて民権運動に協力する。

明治8年当時、慶應義塾は一番整った学校制度とお雇い外国人、優秀な学生を持っていた学校なのです。政府も福沢を文部大臣候補にするほどだったし、福沢も幕末を体験し、社会をどう変えたらいいかという志を持って明治の初年から10年代まで来た。明治政府も幅が広くて、慶應系の知識人が政府に入ってリベラルな国家をつくる可能性が十分にあった。ところが明治14年政変で、明治政府が彼を仲間に入れずに薩長藩閥でやってしまう。国会開設の請願運動が高まって、国会の即時開設を説いた大隈重信が罷免され、福沢の門下生も官界から追放される。

松信そのあたりから、明治の国家体制がかたまって、ちょっと暗いイメージになってくるんですね。

明治10年代後半が一つのターニングポイント

宮地明治17年(1884年)の徴兵令改正で、慶應義塾みたいなところでも学生に徴兵免除の特権がなくなってしまう。日本の高等教育のやり方が明治10年の後半から徐々に変わったことは、暗い明るいは別として、日本国家自身が一つのターニングポイントに立っていたのです。

明治19年に帝国大学令が出て、帝国大学を中心に日本の教育制度をつくる。帝大を出た者は官僚になるけれども、そうではない大学は認めないという差別化が始まる。

このあたりから徐々に国家の形が変わってきたのでしょう。効率主義から言えば、そのほうが費用は少なくて優秀な人間を試験で集められる。それで高文試験で官僚を採用する。効率主義的な形の方向に国のあり方を明治10年代の後半から変えてしまう。この問題は、日本の近代を考える場合には非常に大事な話になってくる。

松信国の形が教育制度にあらわれているんですね。

宮地効率主義の話でいいますと、日本には工学部がありますね。工学部という学部は日本の大学制度が初めてつくったのです。

というのは、工科大学というのは本来はヨーロッパの大学制度には入らないのです。ケンブリッジもオックスフォードも、神学部から出発していますよね。大学というのはヒューマニティ、人文研究なんです。工学は職人の技術ですから、イギリスでも、フランスでも全然別のところから出てくる。

日本でも、最初は工部省に工部大学校という工科大学をつくる。これはヨーロッパのまねなのです。原敬も入っていた司法省の法学校もそうです。司法省が持っていた学生養成機関だった。しかしこれでは効率が悪い。国家財政が豊かじゃない場合にはどこかを統合しなきゃいけない。

効率主義によって大学の工学部が陸海軍の技術を担う

宮地そこには軍の問題もかかわってきます。外国ではロシアも含めて軍そのものが大学を持っているわけです。砲兵学校とか、軍事技術の学校ですね。日本の軍隊もそうしようとしたけれども、金がないから、明治20年代には帝国大学を工科大学、法科大学、文科大学の三つにして、工科大学に軍高級技術者の養成をやらせる。

東京帝国大学

東京帝国大学
明治37年頃『東京大学の百年1877-1977』から。
明治9年に東京医学校と病院が本郷元富士町の旧加賀藩邸に移り、10年に東京大学が誕生。
17年以降に法・文・理学部が移転した。

今、東大工学部の精密機械とか言っているのは、戦前は造兵学科です。軍関係では造兵と火薬が一番大事な技術です。士官学校を出た人たちが委託学生として工科大学に来て勉強する。あるいは工科大学の先生が軍に入る。例えば平賀譲という東大の総長になった、戦艦陸奥や長門をつくった人は海軍中将になるでしょう。

だから産学共同というのは日本が一番進むのです。ヨーロッパとアメリカの先端技術をどこで効率的に教育するか。どう軍と結びつくのか。日本だけなのです。帝国大学の工学部が日本の陸海軍の技術を担ってしまう。

後発国でできるだけ早く欧米にキャッチアップしようとして、日本の文部行政、学術行政がきわめて効率的な形をつくり出すのです。ですから工学部の成立という問題は、非常におもしろい。この日本の工学部を今度は世界がまねる。遅れていた日本が、一番効率的な体制をつくってしまう。

松信そういうのは日本人のうまいところですか。

宮地うまいというのか、ヨーロッパの学問体系とはちょっと違うところで近代化をしたのだと思います。

効率主義というものが出てきて工学部が出発したということも、明治10年代から20年代を考える場合におもしろい。これは現在の日本社会にもつながっている。不要なものはつぶしてしまうのです。

明治のエネルギーを生き生きと表現

『ビジュアル・ワイド 明治時代館』

『ビジュアル・ワイド 明治時代館』

松信4つの時代区分は、どういう意図なんですか。

清水「創業」「建設」「展開」「変質」の4つが時代区分の軸ですが、「創業」と「建設」は、大久保が暗殺されるその日に、側近にふと漏らしたといわれている言葉からとったところもあるんです。最初の10年は創業の時代で、これからは建設の時代だと。

創業の時代は大づかみにしますと、非常に若若しい政府という印象ですけれども、明治も最後のほうになると老害が出てくる。それが変質の時代というところになって、帝国主義的なニュアンスが出てくるんだと思うんです。その前には帝国議会からポーツマス条約までの展開の時代がある。

今につながる社会制度の大もとをたどっていきますと、やはり明治政府とか、明治期の人びとがやったことにたどり着くんですね。

宮地明治を議論をする場合には、明治の活力という問題と、明治末期における変質という問題をいつも頭に置かないと、大正から昭和の日本の歴史はわからない。4つの時期に分けて、それぞれの特徴を一つにまとめて、しかもイントロダクションは理屈じゃなくて、社会の変化のところから入っている。かなり大胆な出し方なんですが、まずくはないと思います。

結論ではなく自分で考える手がかりを提供

松信下からのエネルギーが時代をつくっていった。そういう資料を図版であらわすのは大変なお仕事ですね。

清水人びとの生活を描いた図版はたくさんありますが、それをどう見せるかということが、私ども編集者の仕事でした。宮地先生に一番最初にご相談したときに、とにかく新しいビジュアルを探せと言われたんです。ビジュアルな時代だからビジュアルを探す。私もそういう本をつくりたかったので、原稿に沿ってとにかく探しました。

民衆のエネルギーみたいなものは、たとえば京橋の風景の、全体を見たときには感じられなくても、ある特定のところをこまかく見てみると、洋服の人や着物の人、和洋ごちゃまぜのいろいろな人間がいて、生き生きとした姿が見えてくる。

見慣れた風景だと思うものを切りとって、今までにないような文脈に置くことによって、もう一回ハッとさせることが編集者の仕事の一つかなということで、今回それぞれの編集者は努力しましたけれども、とりもなおさず、最初に宮地先生に「とにかくビジュアルだぞ」と言われたことが、非常に叱咤激励されたと思いまして、必死にやったのが正直なところです。

宮地複雑なものをストレートにビジュアルで表現するのはなかなか難しいのだけれども、例えば明治10年の西南戦争の錦絵のコレクションは非常に多いんです。私が見た中では鹿児島の黎明館と鹿児島県立図書館がいいものを持っている。あれをどう読むか。政府の宣伝として読むのか。田原坂の戦いとか、熊本の籠城戦とか、具体的な戦いの絵を見て、当時の時代状況を読み取る。

今回の本では、結論ではなくて、自分で考える手がかりを皆さんに与えることができたと思います。

初登場のものを含め2,000点の図版を掲載

松信2,000点という写真図版は膨大な量ですが、今回の本で、初めて登場したものはありますか。

清水大日本帝国憲法のページには、憲法発布の日の晩餐会(「豊明殿御陪食之図」)が非常に克明に出ています。これは「憲法発布式之図」とともに宮内庁所蔵のもので、今まで出ていなかったものです。

「憲法発布式之図」

「憲法発布式之図」
床次正精 宮内庁書陵部蔵

私どもも、資料のタイトルだけでは内容がわかりませんので、日本全国の博物館や資料館の方々が、克明にいろいろな研究をしてビジュアル資料を出していらっしゃるものを片っ端から見て検証しました。それをいかに集積し、一つの水準のもとに提示するか。

新発見の資料がどんどんあるわけではないのですが、今まであまり出ていないものはいくつもあると思います。

そのほかにも、モノクロでしか出ていなかったものが、今回カラーで見ていただけるものがたくさんあります。

ビジュアルから入って、歴史のイメージをつくる

清水明治がこれほど色鮮やかに再現された本は初めてだと思います。オールカラーで、いろいろな側面のものが集まっていますので、読者の方々にはまずビジュアルから入っていただきたいですね。そして、印象に残ったページをじっくり読んでいただく。さらに足りない部分は、もうちょっと専門的な本に進んでいただけばいい。

文章も非常にわかりやすく書いていただいたのですが、何げない一文の中にもそれぞれの先生方の最新の研究成果が入っております。文明開化の諸相に関しても、多面的な見方ができるようになっています。

宮地私は、小学館の歴史物では、昭和30年代に出た図説『日本文化史大系』というのが非常に印象が強くて、中学生のときに買って、とても使い勝手がいいのと、骨格がしっかりしているので、60歳になった今でもそばに置いているんです。

スタンダードで安心して使える。ただし、いかんせん当時の技術からいってカラーが少ないんです。

今回の本を見てつくづく思うのは、これだけカラフルなものができるのか。協力した私も驚くほど、まず視覚から入って歴史のイメージをつくることができる段階になったのだなというのが強い印象でした。

歴史に学ぶ意識を伝えるための一冊に

松信見やすい構成という工夫もされたようですね。

清水見開きで一つのテーマをとりあげて、キラキラ光る万華鏡のように、明治という時代を再現しました。

それぞれのご興味の持ちようによってアプローチできるような編集になっていますから、どこから広げていただいてもいい。頭からずっと読んでいただいても、興味のあるところから開いていただいても理解ができる。

時代としては、維新前夜、いわゆるペリー来航のところから描いておりますから、政治の変化、民衆の意識の変化、幕府の対応の変化などもわかるようになっております。明治初期の、一人一人が独立心を持って、自分の足元をきちんと固めていったところから、変質していく様はきちんと描き出せたかなとは思っております。

松信読者自身が明治について考える場も提供したということですね。

清水歴史に学ばない時代の不幸というものを、歴史を編集していて、ちょっと感じているところがありました。何か事があったときに、歴史の先生方の発言を求められることが少なくなった。歴史に学ばなくなったことによって日本は次の一歩が出しにくくなっているんじゃないか。そんな閉塞感といいますか、自分も含めて皆さんちょっと悩んでいるところがある。そういう今だからこそ、明治のエネルギーみたいなものを、ビジュアル資料も含めてもう一回検証できる時代になったのではないか。

どうやって歴史に学んでいくかは、個々人が歴史意識を持たないことにはしようがない。そういう歴史意識を伝えるための一冊だと思います。

宮地私は研究者として、こういうのがあればいいなという希望を言ったのですが、編集部のほうはそれを実際に本にしなければいけない。ご苦労があったと思います。

今、私が8月までいた国立歴史民俗博物館も含め、多くの施設がそれぞれの資料を国民の財産として持ち始めている。それにアクセスすれば、材料が集まり、いい本ができる状況になった。その反映としてこの本が出たんじゃないかという感じがしています。

松信ありがとうございました。

宮地正人 (みやち まさと)

1944年福岡県生れ。
著書 『幕末維新期の社会的政治史研究』岩波書店 11,000円+税、『幕末維新期の文化と情報』名著刊行会 2,621円+税、ほか多数。

清水芳郎 (しみず よしろう)

1959年東京生れ。

※「有鄰」457号本紙では1~3ページに掲載されています。

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