Web版 有鄰

456平成17年11月10日発行

[座談会]戦争の虚しさを描く 長崎源之助の児童文学

児童文学作家/長崎源之助
児童文学評論家/小西正保
有隣堂社長/松信 裕

右から、小西正保氏、長崎源之助氏と松信 裕

右から、小西正保氏、長崎源之助氏と松信 裕

<資料写真は長崎源之助氏提供>

はじめに

長崎源之助氏が主催する「豆の木文庫」の看板

長崎源之助氏が主催する「豆の木文庫」の看板

松信ことしは戦後60年目に当たり、戦争を知らない世代が増えるとともに、戦争の記憶も徐々に薄れていくように思われます。

児童文学界の重鎮として、今なお精力的に創作活動を続けておられる長崎源之助先生は、その戦争の悲惨さを今の子どもたちに伝えたい、忘れてはいけないと、兵士としてのご自身の体験や、庶民の戦争体験をもとに、戦争の時代を生きた人々や、その時代の子どもたちを一貫して描き続けてこられました。その中には、横浜で生まれ育たれた先生の子ども時代の遊びや、下町の情景を描いたもの、横浜を舞台にしたものも多く、これまでに書かれた作品は100冊以上に上っています。

また、昭和45年から、ご自宅を開放して「豆の木文庫」を開設され、地域の子どもたちに深い愛情を注いでおられます。

そこで本日は、長崎源之助先生と、児童文学の出版に長年携わってこられた小西正保様にご出席いただき、長崎先生の作品への思いや児童文学作家になられたきっかけ、横浜への思い・愛着などを伺いながら、作品の魅力についてご紹介いただければと存じます。

小西正保様は、子どもの本の出版社として知られる岩崎書店で、長崎先生の作品をはじめ、数多くの児童書の編集を手がけられ、同社社長、会長を歴任されました。また、「石井桃子論」によって、日本児童文学者協会新人賞を受賞されるなど、児童文学評論家として活躍されていらっしゃいます。

昭和初期の横浜下町の子どもたち

『ヒョコタンの山羊』『向こう横町のおいなりさん』『トンネル山の子どもたち』

左:『ヒョコタンの山羊』理論社
中:『向こう横町のおいなりさん』偕成社
右:『トンネル山の子どもたち』偕成社

松信長崎先生は横浜生まれ、横浜育ちで、現在もそこにお住まいです。100冊以上の作品の中の9割ぐらいが、横浜を舞台にしたもので、『ヒョコタンの山羊』や、『向こう横町のおいなりさん』『トンネル山の子どもたち』などに、先生が子どものころの横浜の下町の情景が描かれていますね。

長崎私の生まれ育った場所は、横浜と言っても当時は端っこの井土ケ谷(南区)という所です。

私が子どもだったころ、昭和の初めですが、うちの隣が屠殺場で、周りには養豚業者が大勢いて、豚小屋がいっぱい並んでいましたから、いつも豚の鳴き声や臭いがあふれていました。牛馬も飼っていたりして、家畜と隣合わせの生活でしたね。

屠殺場の裏には原っぱがあって池があって、そこでよく遊びました。近くのお稲荷さんの境内も遊び場でした。お稲荷さんの境内には、よく紙芝居屋さんがきたり、べっこう飴やしんこ細工のお菓子を売りにきたりしていました。

小西『向こう横町のおいなりさん』に当時の子どもの遊びが出てきますね。

長崎一番愛着のある、好きな作品なんです。

小西『ヒョコタンの山羊』に、「ぼくの町には、ちゃんと清水谷というりっぱな名まえがあります。それなのに、よそのもんはブタ谷といいます。」とありますが、そっくりですね。

長崎あの舞台はほとんど井土ケ谷です。

松信ヒョコタンというあだ名の、足の悪い男の子がいて、大好きなキンサンという朝鮮人のお兄さんにもらった一匹の山羊を飼っていた。

長崎ヒョコタンは創造の人物で、屠殺場を中心にした子どもたちの遊びや、朝鮮人のキンサンが軍隊での差別に耐えかねて脱走する事件がからんだ話です。

井土ケ谷というのは変な町で、養豚場があるもう一方には花街があったんです。肉を売買するときに、お酒を一杯やったり、お客さんを招待したりするためだったんですね。

松信今も町に面影は残っているんですか。

長崎屠殺場は、東洋一大きいと言われたそうですが、今はマンションが建っていて面影は全然ないですね。

小西当時、朝鮮の人が随分いらしたんですか。

長崎大勢いましたね。ボクサンとか、キンサンとか。『ヒョコタンの山羊』もそうですが、『あほうの星』にも朝鮮人が出てきます。日本人になるべく、日本人として生活するために、わざわざ兵隊に志願していった人もいる。

小西『ヒョコタンの山羊』のキンサンも、朝鮮人とバカにされている両親のために日本人として軍隊に志願する。でも、そこでも同じように日本人から差別され、暴行を受けつづけて、ついに脱走してしまう。時代は昭和11年ころの設定ですか。

長崎そうです。ちょうど日中戦争が始まる直前です。

家業の左官を継ぐつもりで浅野中学へ

松信昭和11年に井土ケ谷尋常小学校を卒業され、浅野綜合中学(現・浅野高校)に入学される。

長崎おやじが左官だったので、当然、家業を継ぐつもりだった。それで、浅野セメントの浅野総一郎が創立した浅野中学を選んだんです。当時、コンクリート科というのがあったんです。病気しなかったら継いでましたね。

松信昭和16年に太平洋戦争が勃発しますが、そのころ体を悪くされたのですね。

長崎体が弱いのに、くそまじめというか、無遅刻無欠席で通っていたのが、4年の終了式が終わった途端に病気になって3か月間入院しました。その後、復学したんですが、軍事教練が過酷で、みんなが演習をしている間、病気で見学していても、気を付けをしてずっと立っていなければいけない。それが辛くて学校をやめちゃったんです。

小西そのころにいろいろな本を読まれたんですね。

長崎うちの左官屋には、住み込みの小僧さんが数人いたんですが、入院したときに小僧の喜ちゃんが文庫本をお見舞いに持ってきてくれた。

当時は文庫と言ったら岩波文庫だったんです。安いし軽いし、病人が読むには適当だと思って、自分は本屋になんか行ったことないのに、有隣堂に行って「岩波文庫を下さい。」と言ったんだって。「岩波文庫と言ってもたくさんあるんですよ。どれでしょう。」と店員さんに言われ、棚を見てびっくりした。それで「中学生が読むようなのをみつくろっておくれ。」と言ったら、『クオレ』と『あしながおじさん』を選んでくれたんだそうです。病気のおかげで文学の楽しみを知ったんです。

軍隊での体験をもとにした『あほうの星』

松信ご病気をされたのに、20歳で召集されるんですね。

長崎召集というか、現役です。20歳で兵隊検査を受けるんです。昭和19年12月1日でした。そこで、「おまえ、病気をしたことがあるか。」と聞かれ、「ありませんっ!」と答えたら合格になっちゃった。胸なんか洗濯板みたいにあばら骨が浮き出てて、一目で病人だとわかるのにね。

小西兵隊が足りなくなっていたから、多少体が弱くても、みんな取られたんですね。

長崎隣町に俳人の大野林火さんが住んでいて、友だちと句会へ行ってたんですが、入隊のとき、先生が送別句会を催して下さった。そのときの句は忘れましたが、下関で船に乗るときに「しかとにぎる銃のつめたさや祖国去る」という句をつくりました。

陸軍二等兵として中国・山東省に派遣される

長崎陸軍二等兵として川崎の溝ノ口に入隊し、1週間後に華北へ派遣されました。下関まで列車で行き、関釜連絡船で釜山に上陸して、そこから貨車につめこまれた。窓のない牛馬を運ぶような列車で、寝ワラなんかがあるだけでした。

配属されたのは虚弱な兵隊を集めた特別訓練隊で、山東省の泰山という山の中腹の、天外村という所でした。

小西そこで戦闘を体験されたんですか。

長崎そこでは戦闘はなかったんです。戦争の体験は敗戦してからで、中国の蒋介石政府(国民政府軍)の捕虜という名目で、そのまま中共軍(八路軍)の警備につかされたんですが、中共軍が武器を目当てに攻めてきて、うちの中隊は降参したんです。

小西八路軍はゲリラみたいなものですからね。

長崎それで翌年、武装解除されて、半年の収容所生活の後、日本に帰れたんです。

戦場の中でもがき、悩む二等兵たちの物語

『あほうの星』・表紙

『あほうの星』
理論社

小西そのときの体験がそっくり『あほうの星』に生かされているわけですね。

『あほうの星』は、「八つぁん」「ハエ」「ハトの笛」からなる短編集で、いずれも中国に配属された二等兵を主人公にした物語です。

二等兵の「私」は軍隊に入ったとたん、バカで、のろまで、意気地なしになり、班長の村にいる「八ッつぁん」という愚かな男に似ていると、軽蔑を込めて「八つぁん」とよばれ、「あほう」扱いされるうちに、自信も気力も失くして、「八ッつぁん」そっくりの男に変わっていく。その班長が復員途中、匪賊に殺されてしまい、「私」は遺品を班長の家に届ける……というのが「八つぁん」ですが、モデルがいたんですか。

長崎八つぁんは創作ですが、僕の戦友に一人、バカでないのにバカのふりをしていたのがいて、おまえはバカだから戦争に行かなくてもいいと言われた。

小西「ハトの笛」の上田二等兵に似ていますね。みずからバカ、のろま、あほうを演技して生き延びようとするけれど、祖国を前に病気で死んでしまう。

ハエが伝染病の媒介をするのを恐れた隊長にハエとり競争をさせられる「ハエ」という話は……。

長崎ハエとり競争はほんとの体験なんです。ばかばかしい話ですよ。私たち初年兵は、1日50匹取れなかったときのビンタが強烈でこわかったので、必死でハエを追い回した。

私は中国に行って何をしたかというと、ハエを何百匹か殺しただけなんです。鉄砲も一回も撃ったことがないし、撃たれたこともない。ハエを盗もうとして撃たれて死んだ小川二等兵というのはフィクションですが。

兵隊の体験は人生で一番強烈な出来事

小西『あほうの星』の「はじめに」に、「ここにおさめた三つの作品は、どれも、おろかな男の物語です。(中略)三つとも、戦場の中での、無力な人間の生き方を描いてみました。」、「この『あほうの星』は、ぼくの『ああ、おれは兵隊だった』物語です。三つの話の主人公たちは、あの戦争の中で、もがき、なやみ、そして、かすかな夢(希望)にすがりついていた、ぼくの心の擬人化といっていいでしょう。」と書かれていますね。ほかにも、「自分の文学の原点は戦争にある」と、随分書かれている。

長崎兵隊の体験は、僕の人生で一番強烈な出来事でした。だから、人生とか生き方を考えるとき、戦争をとおして考えてしまうんです。あの戦争は何だったのか。あのとき自分はどう生きたか、どう生きねばならなかったかと。

あるとき、「長崎さんは戦争児童文学を専門に書こうと思っているんですか。」と言われて、考えてみたら、それまで戦争児童文学を書こうと意識したことはなくて、ただ書きたいものを書いたら、自分の戦争体験を背景にしていたことに気がついたんです。

小西そんなに意識的ではなかったわけですね。

長崎ええ。でもそれからは意識的に戦争を子どもたちに伝えたいと思って書き出したんです。

戦死はムダな死と伝えたかった『忘れられた島へ』

『忘れられた島へ』

『忘れられた島へ』
偕成社

松信先生は、鉄砲を撃ったことがないとおっしゃいましたが、それでも、戦争がいかに悲惨で、人の死がいかに理不尽なものであるかということを感じられた。

小西『忘れられた島へ』という作品のことを話された講演会で、「戦死はムダな死でした。犬死でした。そのことが、この作品でわかっていただければ。」と結んで壇をおりられたそうですね。公の席ではなかなか言えないことだと思うんですよ。

松信昭和55年に野間児童文芸賞を受賞された作品ですね。

長崎はい。これは、母に「お父さんは特攻隊員として敵艦に体当たりして、立派に戦死した」と言われ続けて育った息子が、成人して、父の衣服の切れ端が流れついたという黒島を訪れ、父は鹿児島の基地に戻ろうとして、その島の上空を飛んで墜落したことを知る。それで、父は、特攻隊員としての規律を破ってまでも家族のもとに帰りたかったに違いないと信じる、という物語です。

松信心の中ではそう思っていても、なかなか言えませんよね。言うことが大事なんでしょうが。

長崎名誉の戦死なんてあり得ない。

小西ほんとにそうだと思います。当時、私は子どもでわからなかったけれど、いやだと思いながら戦争に行ったんだと思うんです。

佐世保に復員して知った横浜大空襲

松信昭和21年2月に佐世保に復員されて、しばらく長崎におられたんですね。

長崎泰山から青島まで、雪の中を400km歩いたことは、忘れられないつらい体験でしたが、それで痔を悪くしたんです。佐世保の引揚援護局に1週間ほどいる間に横浜大空襲のことを知ったので、軍隊にいるうちに治して、健康になって横浜に帰ろうと思ったんです。うちでは心配していたのにね。それで大村の海軍病院(現・国立長崎病院)に入院したんです。

小西広島、長崎の原爆の情報は入っていたんですか。

長崎原爆ということではなくて、大型特殊爆弾が落とされたという話は中国にいるときに聞いてました。

小西その病院に被爆した子どもがいっぱい入院していたわけですか。

長崎そうなんです。あの子たちのことを思うと胸が痛みますね。

復員後『童話』に出会い、童話を書き始める

やまびこ子供会(昭和24年4月27日)

やまびこ子供会(昭和24年4月27日)
後藤楢根氏、倉澤栄吉氏、(前列右から)を迎えて。
後列左端・佐藤さとる氏、中列右端・長崎源之助氏

松信横浜へ戻られたのはいつですか。

長崎昭和21年の3月の末です。

小西横浜は5月29日の大空襲で市街地のほとんどが焼けてしまいましたが、ご自宅はどうだったんですか。

長崎井土ケ谷は半分焼けましたが、うちは幸いに残っていました。横浜一の繁華街だった伊勢佐木町をはじめ、市の中心部の大部分は焼けて、その後は米軍に接収されてしまった。

それで野毛が日本人の町で、そこに、板子一枚の上に本を並べている本屋があって、ポルノ雑誌が1冊ずつ並べてあった。その極彩色のポルノ雑誌の中に1冊だけ、日本童話会の後藤楢根さんがつくった『童話』の創刊号があったんです。坪田譲治とか、波多野完治とか、滑川道夫とか、僕でも知っている名前が並んでいた。そういう人が書いている雑誌だから早速買ったんです。そして、それを見て初めて、童話を書こうと思ったんです。それが昭和21年です。

小西それで日本童話会にお入りになった。

長崎はい。佐藤さとる君も、同じ『童話』を銀座で見つけて買って、彼はすぐ投稿している。5号に『大男と小男』というのが積木築というペンネームで載っている。僕は「そかい」という詩が6号に載ったんです。それがうれしくてね。

松信佐藤さとるさんとは長いお付き合いですね。

長崎昭和22年に地元の小学校の先生と「やまびこ子供会」をつくったんですが、その集いに彼が参加した。それが初対面でした。

商売よりも童話のことで頭の中がいっぱいに

松信童話を書こうと思われてから、児童文学に専念されるまで、いくつかお仕事を変わられたそうですね。

長崎精米業、古本屋、文房具店、化粧品店、写真屋、日用雑貨店……。

松信いろいろなさったんですね。古本屋をなさろうと思われたのはどうしてですか。

長崎「ながさき書房」は、古本屋をやっていた友だちにすすめられて始めたんですが、新刊本が余り出ないし、古本のほうがいい本が多かったんです。戦後すぐは、ほんとにざら紙みたいなものに印刷してましたね。

松信古本屋さんは儲かりましたか。

長崎いや、儲からない。これは素人がやるものじゃないです。古本屋は競り市で本を仕入れるんです。

松信横浜駅の西口のあたりにあったそうですね。

長崎そうなんです。当時の西口は石炭置き場や製材工場が掘割の岸にあっただけのうら寂しい所でね。

ふり手といわれる親父が、10冊とか20冊とか同じ系統の本を重ねて、「さあ、いくら」と言って競るんです。でも激しい競りの中で声を出すのは難しくてね。「あっ、あっ」といってるうちにほかの人に競り落とされてしまう。

小西古本屋もそうですが先生は商人には向かなかった(笑)。頭の中は童話を書くことばかりで、どれも商売に身が入らなかったんじゃないですか。

長崎そうですね。

昭和25年同人誌『豆の木』を創刊

『豆の木』創刊号(復刻版)

『豆の木』創刊号(復刻版)
(昭和25年3月19日発行)
表紙挿画・池田仙三郎

小西平塚武二さんに会われたのはいつ頃ですか。

長崎日本童話会で佐藤さとる君とか何人かで研究会をやっていたんです。その研究会で「平塚武二論」をやることになって、佐藤さとる君と一緒に磯子の間坂にある平塚さんのお宅を訪ねたんです。昭和24年です。それで翌年、平塚さんのすすめで同人誌の『豆の木』を、佐藤さとる、神戸淳吉、いぬいとみこの4人でつくった。ですから4人とも一応、平塚さんの弟子になったわけです。

松信同人誌の『豆の木』はどうやってつくっておられたのですか。

長崎大抵うちの店のすみで編集会議をやったんです。佐藤君は戸塚ですし、いぬいさんも神戸さんも東京から来た。幸か不幸か、うちの店はあんまりはやらなかったから(笑)、昼間やってました。

松信それは何屋さんのころですか。

長崎「ながさき文具店」のころです。同人に謄写版屋さんがいて、ただでやってくれた。それを佐藤君が講談社に送ったんです。

小西やっぱり商売には身が入っていない。『豆の木』という名前は平塚さんがおつけになったんでしょう。

長崎ええ。豆の木とでもつければと口からでまかせに言ったんです(笑)。それで創刊号にお祝いの言葉をもらえと言うので、児童文学作家全部に葉書を出したら、ほとんどの人がくれた。北畠八穂さんは「豆の木 豆の木 づうっとのびろ カラスつゝいたら なおのびろ……」という歌をくれました。

厳しかった文学の師・平塚武二

平塚武二(昭和23年頃)

平塚武二(昭和23年頃)
撮影:山本静夫

松信平塚先生の添削は厳しかったそうですね。

長崎ええ。添削と言っても「削」だけなんです。「添」はない。(笑)

最初から、「ここは一行要らないよ」と言って、「その次もむだだね」「こっちも削ったほうがいい」……と。そうすると、一枚がほとんどなくなっちゃう。それで、「おまえ、これつまらなかったよ」って。(笑)

毎回そんなふうに言われるから、原稿を見せるのをやめちゃうと、「書いていますか。書いたら見せてください」なんて言うんです。それもすごく丁寧な言葉で、「元気ですか」のかわりに「書いていますか」と。何度も言われるので、いやいや持っていくと、また同じことの繰り返しなんです。佐藤さとる君も、いぬいとみこさんも、みんな同じ目にあっています。

小西それがまさに平塚流ですね。平塚さんは鈴木三重吉の『赤い鳥』出身ですが、鈴木三重吉という人も、原稿の添削はものすごかったらしいですから、それが平塚武二に伝わって、先生の所までおりてきたんですね。

わがままで風変わりだけれど憎めない人

長崎平塚さんは変な人で「おまえ、幾らか持っていたら貸してくれないか」と言うので貸すでしょう。「先生、この間お貸ししたお金は返していただけますか」と言ったら、「あれはくれたんじゃないのか」って。

それから「今度結婚するので、前ご用立てしたお金を返していただけませんか」とおそるおそる言うと、「えー、おまえ結婚するのか。いつ、結婚式は?」と。でも返してくれない。それで、結婚式場で、「やあ、おめでとう。これ、この前借りていた金だ」って、むき出しで金を返してくれる。「それから、こっちはきょうのお祝いだ」って。大勢いる前でやるんです。

小西夜中にタクシー代を払わせられたとか。

長崎結婚してすぐの、写真屋をやってたころです。店を閉めたあと、雨戸をドンドンたたく音がするんです。急いであけると、平塚さんが立っていて、「奥さん、早くタクシー代払ってきて、早く」といって、東京から乗ってきたタクシーを待たせてあるんです(笑)。それで、急いで買いに行ったお酒を、「奥さん、そういっちゃなんだけど源之助は文章が下手でね。なんで、こう下手なんだろう」なんて僕の悪口をサカナに飲んでるんですよ。挙げ句の果てに、家まで帰るタクシー代まで借りていっちゃう。

小西昭和39年に横浜文化賞をもらわれたときも、賞金はすぐに飲んでしまったのに、それでヨーロッパに行くからと言って、みんなからお餞別を集めて、しばらくどこかに隠れていた。

長崎あのときは僕も本気にしちゃって。能因法師よろしく、しばらく人前に出てこなかったんです。それでヨーロッパに行ったふりをして、どこどこの空港で食ったホットドッグがうまかったとか。

小西私は岩崎書店で「日本の幼年童話」シリーズをつくっていたとき、平塚さんに何回かお会いしてるんです。

今でもありありと覚えていますが、喫茶店で待ち合わせをしたら、開口一番、「僕は出版社と契約したら、印税は前払いしてもらうことに決めてるんだ。」と大きな声で言われるんですよ。(笑)

「うちは本ができてからお支払いすることになっていますので」と言うと、「俺はそういうのはだめなんだ」と言われて、それで、翌月あたりにいくらかお送りしたんですが、その1か月後に平塚さんが亡くなられた。

長崎亡くなられたのは昭和46年です。

平塚武二の文章術を見事に引き継いだ長崎文学

松信平塚先生のことをご存じの方も少なくなってきましたが、『ヨコハマのサギ山』とか、横浜を舞台にした作品を随分書かれてますね。

長崎お父さんは平塚組という大きな土建屋さんで、横浜の中心部から元町の山手トンネルを掘って、本牧まで路面電車の線路を敷設した人です。それで平塚さんが小学2年のころ、三渓園のそばの、海が見える大きな家に引っ越した。平塚さんは、ばあやから「いい子ぼっちゃま」と呼ばれていたそうで、ほんとかどうか知らないけれど。(笑)

それで、ばあやが「いい子ぼっちゃま、きょうは海がきれいですよ」なんて言う。いい子ぼっちゃまが見ると、あるときは新しいブリキのようにかがやき、あるときはインクのように黒ずみ、と思うとガラスのかけらのみどり色に見える、というようなことが「動物のいない動物園」という作品に書いてあります。

小西平塚さんはそういうフィクションの天才だったんですね。『玉虫厨子の物語』にしても『馬ぬすびと』にしても、フィクションですけれど、ほんとうにあったようにうまく書いてある。そういう意味では私生活でも天才だったんでしょうね。

反発された部分もあったんでしょうけれども、平塚さんの文学を一番受け継いだのは長崎先生だと思うんです。随分お読みになったでしょう。

長崎そうですね。僕は平塚さんを「作家としては」尊敬していましたからね。ほんとに立派な童話作家だと思うし、童話はすばらしい。

小西先ほどお話に出ました『トンネル山の子どもたち』を読むと、平塚さんの文章術が長崎さんに見事に受け継がれているのがよくわかりますね。

長崎あれも井土ケ谷の商店街が舞台ですが、平塚流に古い店を書こうと思った。

「がき大将のダイちゃんちは、馬力屋である。……ダイチャンちのとなりは、炭屋のタンちゃんちだ。入り口の両わきにまきが山と積まれているので、……」と。

小西平塚さんの「月」は「横浜のごみごみしたまずしい町で、私は生まれた。私の家の左どなりは炭屋、右どなりは菓子屋、前には、そば屋があった。炭屋のとなりは紙くず屋……」。時代は大分違いますけどね。

戦争の体験、空襲や疎開のことを次の世代に

『ゲンのいた谷』・表紙

『ゲンのいた谷』
実業之日本社

『つりばしわたれ』・表紙

『つりばしわたれ』
岩崎書店

小西昭和31年に『日本児童文学』に発表した「チャコべエ」「トコトンヤレ」が日本児童文学者協会新人賞を受賞して作家として認められ、昭和43年に『ヒョコタンの山羊』で日本児童文学者協会賞を受賞されて児童文学に専念されるわけですね。

長崎はい。勢いでそういうふうになっちゃったんですが、当時は児童書が割と売れ出した時期で、編集者が「次はこんなものを」と言ってきたんです。

小西昭和40年前後は、児童書がようやく息を吹き返して、活気を呈した時期で、課題図書などもだんだん売れるようになった時代です。課題図書には数回入られてますよね。

長崎7回入りました。

小西一番最初が『ゲンのいた谷』ですね。

長崎はい。学童疎開の少年たちを扱った、作家に専念して最初に書いた作品です。

小西『小さな小さなキツネ』『つりばしわたれ』『ゆきごんのおくりもの』『雪はちくたく』も課題図書になってますね。

長崎あと『とざんでんしゃとモンシロチョウ』『ボク、ただいまレンタル中』。鈴木義治さんの絵が多いんです。

松信小西先生は岩崎書店で長崎先生の絵本を何冊か編集されてますね。

小西ええ。『おかあさんの紙びな』『つりばしわたれ』『にげだした学者犬』『ゆきのこうま』……。

長崎『つりばしわたれ』は、数社の小学校の国語の教科書に掲載されたので、僕の作品の中で、一番読まれているようです。

小西一番印象に残っているのは、山中冬児さんが絵を描かれた『おかあさんの紙びな』ですね。これは戦争中、疎開して、自分が持っていたおひな様がいつの間にかなくなってしまった。大切なものまでお米に替えなければならなかった時代だったんです。だだをこねる子どもに、おかあさんが紙を折っておひな様をつくってあげたという短い話で、ロングセラーです。

戦争が風化していく今こそ読んでもらいたい

『どろんこさぶ』・表紙

『どろんこさぶ』
偕成社

松信長崎先生の文学の特徴というのは何でしょう。

小西一つは、兵隊として体験された戦争、それから横浜の空襲とか子どもの疎開とか、直接、間接の戦争体験を次の世代に伝えようというのが原点というか、中心じゃないかと私は思うんです。

終始、庶民の目を保ちながら戦争を描き、被害者としての庶民を描き続けてきた。戦争と直接は関係のない、たとえばお父様のお仕事だった左官職人のことを書かれた『どろんこさぶ』などでも、息子が戦死したり、横浜の空襲のことや朝鮮人の差別の問題なども出てきますね。どこかに戦争が尾を引いているというか、戦争を背負った児童文学だと言えるのではないでしょうか。それはものすごく貴重なことだと思うんです。

戦後60年たって、戦争そのものが風化してしまい、今の子どもが、そんなことがあったということも知らない時代になってきた。そういうなかで、長崎児童文学の原点ともいえる『あほうの星』のようないい作品があるのに、それを読んでくれる子どもがいなくなってしまった。本当にもったいないと思うんですよ。

松信「あほうの星」は「戦争と平和」子ども文学館シリーズ(日本図書センター)の3巻に、8巻には「えんぴつびな」「ガラスの花嫁さん」、10巻には「大もりいっちょう」、20巻には「焼けあとの白鳥」が収録されてますが、全集をはじめ、長崎先生のこういった作品のほとんどが今、手に入らないのが残念ですね。大人が読んでも考えさせられる。こういう作品は絶やしたくないですね。

大人が読んでも感動できるのが本来の童話

松信そういう意味で、大人向けの文学と童話の境はどの辺りにあるんでしょうか。

小西だんだん境がなくなってきたという感じですね。児童文学で書けないものはあると思うんです。だけど、そんなに厳密に区別する必要もないかなという気もします。

長崎ないですね。最近、児童文学を書いていた人たちで、大人の小説を書いている人がいますね。大人の本として出したほうが売れるんじゃないですか。

小西宮澤賢治なんか、童話ですけれど、読んでいるのは大人ですね。しかも大人が読んでそうだと思うことが書かれている。本来の童話というのは、そういうものだろうと思います。だから、大人が読んで感動したって、別におかしくはないと思う。『あほうの星』なんか、大人が読んだほうがむしろ感動するでしょうね。特に、戦争体験のある人たちは。

愛しい横浜の歴史を子どもの目で見る

『私のよこはま物語』

『私のよこはま物語』
偕成社

松信先生は、『私のよこはま物語』や『ひばりのいた町』『人魚とトランペット』などで、横浜開港のころの話とか、お生まれになった下町の周辺のこと以外にも、横浜について、たくさん書いておられますね。先生は、横浜をどういうふうに感じてらっしゃるんですか。

長崎横浜生まれで、横浜育ちなものだから、理屈でなく横浜がすごく愛しいというか、愛らしいですね。

横浜に関することを調べたとき、それを子どもの目で見たらどうかと考えたんです。歴史というのは、だいたい大人の、しかも、偉い人の記録でしょう。その歴史を、子どもの目で見たらどうだろうかと。

偉い人が高殿に上って、たくさん上がっている苫屋の竈の煙を見て、ああ、われ富めりというのじゃなくて、その苫屋の煙を燃やしているかあちゃんの立場や、そのかあちゃんに言いつかって、薪を拾いに駆けずり回っている子どもたちの立場から世の中を見たらば、どうだろうかなというのが児童文学です。言い換えると、児童に象徴される庶民の文学だと思います。

希薄になった横浜の下町の人情が作品の中に

小西今言われたように、もう一つの長崎先生の文学の特徴は、横浜の下町の人情ですね。誰さんの隣は何屋さんで、その隣は何屋でという、人と人とのつながり。今、マンションの隣に誰がいるかもわからないような時代になって、そういうものが、現代の子どもたちの暮らしの中ではだんだん希薄になっていますよね。そんな中で、長崎文学はこれからも貴重なものだと思うんです。

ですから、もっともっといろいろな長崎先生の作品が復刻されて、今の子どもたちにも読まれてほしい。

松信時代が変わっても変わることのない文学ということでしょうか。

小西そうですね。本当の話だと思っていると、すごいフィクションが入っている。そういう意味では今の子どもに非常に読みやすく工夫をされてますね。しかも、そこには戦争や人の心の問題、人情というものが一貫してある。これは変わっていかないと思うんです。「不易流行」の文学ということでしょうか。そういうもので長崎文学は形成されていると思うんです。

「豆の木文庫」は本のある遊び場

自宅を開放した「豆の木文庫」で

自宅を開放した「豆の木文庫」で

松信先生は昭和45年から、現在も「豆の木文庫」をなさってますね。どんな動機で始められたのですか。

長崎出版社から寄贈されたり、友人の作家から送られてきた本がたまったので、本だって一人に読まれるより大勢の人に読まれたほうがうれしいだろうと思ったんです。

小西小さい子は今はどんな本が好きなんですか。

長崎松谷みよ子さんのおばけシリーズみたいな、小さな本をよく借りていきますね。

松信文庫は先生のご自宅を開放されているんですか。

長崎初めはうちの一間を使っていたんですが、子どもが大勢来て、危険だから庭に増設したんです。

小西もう二代目ですか。最初に読みに来た子がお母さんになって、その子どもが。

長崎そのころの子どもたちの親が今、おばあさんになって孫を連れてくる。お母さんも「豆の木文庫」のお世話になったのよと言って。手伝ってくれるボランティアさんの中にも、大学生のときに来ていて、子育てを終えて、まだ続いている人もいます。

小西35年もたてば、そうなりますね。

子どもと子ども、子どもと大人が触れ合うところ

長崎隣町の六ッ川に神奈川県立こども医療センターがあるんですが、図書館がない頃、重度身障児の施設の看護婦さんが二人、うちへ本を借りにきてくれていたんです。その看護婦さんが、「自分一人では座れないような重度の子どもたちを私のひざに乗せて絵本を広げて読んであげると、理解しているかどうかわからないけれど、体を震わせて、ほんとに喜んでいるのがはっきりわかるんです。その振動が私の肌にじかに伝わってくるし、顔面神経を歪めたり、伸ばしたりしながら喜びを表現するんです。それがうれしくて、子どもたちに本を読んでやるんです」と言ったんです。それを聞いて、僕はすごく感動しました。読書の原点はそれなんだと思いましたね。

ですから僕は、文庫は読書も大切ですが、本を仲立ちにして、子どもと子ども、子どもと大人が触れ合うところ、「本のある遊び場」だと思っています。

今後も、子どもの日常を通じて戦争の虚しさを

松信今後、どういうものをお書きになりたいか、お聞かせいただけますか。

小西もっとたくさん書いていただきたいですね。今こそ伝えなきゃならないものがたくさんある。

松信今の子どもたちは戦争を知らないけれど、ゲームの世界にはバーチャルな殺し合いがあふれている。実体験に基づいていないぶん、かえって怖い気がしますね。

小西下手をすると、もう一回戦争をやろう、などという時代になってきましたからね。ですから、戦争の記憶というのは、もっともっと語り継がれていかなければいけないと思うんです。

子どもの読書がほんとに大切なのは、本を読んで自分で考えるということなんですね。ただ、おもしろおかしい話を聞かせて、幼年時代を楽しく過ごさせてやろうということじゃなくて、そこに書かれていることをよく考えて、自分でものを考えるという子どもが育っていかないといけない。そうしないと、もう一度、戦争の時代が来るのではないかと思うんです。ですから、そういう意味でも、長崎先生の作品も、また文庫活動も大切なんです。

長崎これからは『えんぴつびな』や『おかあさんの紙びな』のような短い作品で、子どもの日常を通じて戦争の虚しさみたいなものを書いていきたいと思っています。

松信いいお話をありがとうございました。

長崎源之助(ながさき げんのすけ)

1924年横浜生まれ。

小西正保(こにし まさやす)

1930年東京生まれ。
著書 『児童文学の伝統と創造』 ハッピーオウル社(絶版)、『わたしの出会った作家と作品-児童文学論集』 創風社 2,800円+税、ほか。

※「有鄰」456号本紙では1~3ページに掲載されています。

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